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ほつま図表 天照神から神武天皇まで

ほつま図表 天照神から神武天皇まで
今回、地神5代と呼ばれている、ワカヒト・天照神―オシヒト・箱根神―ニニキネ・別雷神―ウツキネ・気比神―カモヒト・御祖天神―タケヒト・神武天皇の流れに絞って図表にしてみました。


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魏志倭人伝の卑弥呼(ひみこ)とはいったい誰だったのでしょう?
邪馬台国はどこだったのでしょうか。
古代遺跡・ホツマツタヱ・ミカサフミから宇宙・太陽・月・地球を読み解く


地神5代


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「ホツマ」と「ヒミコ」と「コロナ」 秀真伝と魏志倭人伝と現代の闇

ホツマエッセイ  
「ホツマ」と「ヒミコ」と「コロナ」 秀真伝と魏志倭人伝と現代の闇


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魏志倭人伝の卑弥呼(ひみこ)とはいったい誰だったのでしょう?
邪馬台国はどこだったのでしょうか。
古代遺跡・ホツマツタヱ・ミカサフミから宇宙・太陽・月・地球を読み解く



1.「ホツマ」とはホツマツタヱのこと
2. ホツマツタヱと魏志倭人伝
3.「ヒミコ」魏志倭人伝の卑弥呼という人物
3-1 魏志倭人伝に記載されている卑弥呼は
3-2 卑弥呼が登場した経緯
4 魏志倭人伝の倭国の乱れについて
4-1筑紫の乱れ
4-2 エミシ成敗
5 魏志倭人伝にある鬼道を占うについて
6. 倭国の文字について
7 卑弥呼亡き後について
8 コロナ禍


1. 「ホツマ」とはホツマツタヱのことで、正式な歴史書から葬られてしまっています。
ホツマツタヱとは、古事記・日本書紀以前にあった日本の最初の書物で、前半と後半に分かれています。
前半は、紀元前600年ごろ、神武天皇がクシミカタマ・ワニヒコにまとめさせたものです。
後半は、紀元後124年ごろ、景行天皇がミワノトミオオタタネコ・スエトシにまとめさせたものになります。

景行天皇が九州で背いたものを治めるため、6年間の歳月をかけて九州を一周して戻ってきたとき、大陸からの渡来勢力が浸透し始めていることを実感し、記録に残しておきたいと願い、帰朝次第まとめたものが、ホツマツタヱの後半部分になります。
途中、ヤツメ姫神の三根国・ミネコク(吉野ケ里)付近を足早に素通りしたことにも伺えます。
後の八女(ヤメ)地方になります。

2. ホツマツタヱと魏志倭人伝

魏志倭人伝に古代日本のことが書かれていることを多くの人は知っています。しかし、ホツマツタヱについては名前も知らず内容も知らず存在も知らない人が多いようです。魏志倭人伝の解読を困難にしているのは、古事記日本書紀以外には十分な照らし合わせが出来なかったからです。
魏志倭人伝をホツマツタヱの記述と照らし合わせてみると明確になってくることがわかってきました。

3. 「ヒミコ」魏志倭人伝の卑弥呼という人物

卑弥呼が誰のことか謎になっていましたが、個人名という思い込みを取り除き、今でいう肩書・役職名であったと見直したところ、疑いもなく一気に解明できました。
そのために、一旦、卑弥呼という難解な漢字を、カナ文字に書き直して見ます。

「卑弥呼」―「ヒミコ」―「ヒ」・「ミコ」―「ヒのミコ」であることが向こうから呼びかけています。漢文で所有格の「の」は表示していないからです。
「ヒ」とは、「日」であり「天照神」を示していることが分かります。「ミコ」とは、皇女・巫女につながります。「天照神の御霊をお守りする」ということを示しています。

3-1 魏志倭人伝に記載されている卑弥呼は

  ホツマツタヱと照らし合わせると、景行天皇の義理のお姉さんにあたるヤマト姫ヨシコであることが分かります。ヤマト姫ヨシコは御杖代(ミツエシロ)という名前も持ち合わせています。

3-2 卑弥呼が登場した経緯

  景行天皇の2代前の崇神天皇のときに、疫病がまん延して国民の半数が亡くなるという悲惨な出来事がありました。崇神天皇は神への崇(あが)め方が足りないと、娘のトヨスキ姫に天照神の御霊を笠縫に祀らせ、ヌナギ姫には大国玉の御霊を山辺の里に祀らせました。

天照神の御霊を祀っていたトヨスキ姫が103歳になったとき、11歳になったヤマト姫ヨシコが2代目の御杖代に引き継ぎます。魏志倭人伝で取り上げた卑弥呼になります。

4 魏志倭人伝の倭国の乱れについて
 
4-1筑紫の乱れ

 景行天皇が九州・筑紫(つくし)のクマソ(熊襲)が背いて、貢物せず、御狩りを乞で背いたものを治めるため、九州一周し、6年以上かけました。この間、留守を守っていた人がいます。ホツマツタヱには記載はないが、兄のイソギネ・ニシキイリヒコであり、ヤマト姫ヨシコであったかも知れません。

更に、帰国後、再びクマソが乱れ、息子のコウス皇子を派遣します。クマソタケルを討ち取り、タケルの名前を引き継ぐよう願われ、以後、コウス皇子はヤマトタケと名乗ることになります。

4-2 エミシ成敗

落ち着く間もなく、今度は酒折(山梨)のタケヒテルがエミシが荒らして困るのでと助けを求めに来ました。
コウス皇子(ヤマトタケ)は、筑紫から帰り、落ち着く間もなく、エミシ成敗に向かいます。
このとき、ヤマト姫ヨシコの元へ立ち寄り、神器を受け取り、ムラクモ剣を受け取りエミシ成敗に向かいます。
 これらの出来事を、魏志倭人伝で「倭国乱れ」という表現をしています。

5 魏志倭人伝にある鬼道を占うについて

鬼道を「キドウ」と音読みするのが、一般的ですが、当時、漢字のなかった日本では「キミチ」と訓読みされていたものを、「鬼道」という鬼という文字を当てはめていたものと考えられます。

黄道(太陽の運行の道)が、元の意味であったものと取れます。当時、太陽の運行や、天体の動きを計測していたことが、ホツマツタヱと対をなしているミカサフミの中のタカマル綾からも分かります。

景行天皇のお兄さんのイソギネ・ニシキイリヒコが日置の測量(北緯34度32分を一直線に)により、天体観測から地球の大きさを測定していたと思われます。想像を絶する正確さに驚きます。これらの宇宙観を正しく評価できなかったのではと思います。
奈良県橿原市益田山船山遺跡などでも計測していたことが分かります。

6. 倭国の文字について

 魏志倭人伝に「差錯」(ささく)という文字があると読めます。ホツマツタヱに使用していた48音の「オシデ文字」であると思われます。
漢字と違い表音文字でしたから、漢字文化から見ると発音記号のように見なしていたと推測されます。発音できても、意味が分からず、自分たちが判断した漢字を当てはめたと考えられます。
後に、渡来してきたとき漢字以外は読めずに、この「オシデ文字」に取り組まずに、自分たちの漢字を押し広めたものと考えられます。

7 卑弥呼亡き後について

卑弥呼、ヤマト姫ヨシコが108歳になったとき、14歳になったイモノメクスコに引き継ぎ、自らは引退しました。
魏志倭人伝では13歳の壱与(イヨ)を立てたとある。
後のイツキノミヤ(斎宮)というところになります。

8 コロナ禍

いつの世も、歴史は勝者の歴史です。後の権力者にとって、不都合なことが含まれていたホツマツタヱはすべて抹殺されました。

大陸から、仏教とともに渡来し、漢字文化が広がり、古事記(新羅系高官)日本書紀(百済系高官)を完成し、日本最古の文字書物になりました。ホツマツタヱの記述を抜粋し、都合の悪いところを神話化したのは、聖徳太子の時代のことと考えられ、今でも多くの人は、それ以前の昔の日本に文字はなかったと信じられています。

ホツマツタエも2千年後に、発見解読され、閉ざされていた世界が今現在、開かれています。

コロナ禍の現在、情報を受けるだけに終わってしまうと、ウラの世界の陰謀・闇の世界で行われていることは知らされず、知らないままになります。知ろうともしない人も見受けられます。

本当に知らなければならないことを、TV・新聞などのマスコミは取り上げていない。取り上げられないと思われるからです。気が付いた人が情報発信しても、消されていることも見受けられているようです。

家畜化されることの無いように気を付けていきましょう!

新しい世界が生まれ、本当のことが表に出てくる時が来るときまで!

上記は2022/4/25 ブログネーム・ジョンレノ・ホツマが、ノホホンの会に投稿しものです。
以上

トラガシワ 続 李寧熙 (い よんひ)さん 資料より

トラガシワ 続
李寧熙(い よんひ)さん 資料より
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初期からの内容です。
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魏志倭人伝の卑弥呼(ひみこ)とはいったい誰だったのでしょう?
邪馬台国はどこだったのでしょうか。
ホツマツタヱ・ミカサフミから天空図に展開しました

このブログの他に、以前、ホツマツタヱに関連したエッセイやその他の分野の読んだ本の書感を下記に載せました。ご参考までに!
https://jhonreno.exblog.jp/
ほつまつたえ (exblog.jp)



資料整理をしていたら、以前、鉄について調べていたときの当時の資料から、忘れ去っていた「鉄と虎」という李寧熙(い よんひ)さんという方のコピーが眼につきました。

コピーの方から呼びかけられたような気がしました。あわてて、読み直し、まさにトラガシワに関連する内容に驚きました。

本資料は、新日本製鉄発行の
「鉄と鉄鋼の未来がわかる本」の巻末部分にありました。
いよんひ1
以下に、
鉄と虎・・・・古代韓国から伝わったさちの象徴「鉄」の本文をコピーしてみました。
*************
 日韓文化交流を両国の言葉から紐解いている作家の李寧熙氏。「日韓 鉄の古代交流史」 はいわばライフワーク。虎がいない日本に虎舞があることに疑問を持った李氏は、フィールドワークを通じて、古代韓国から日本に鉄づくりが伝わったと考えている。

   韓国と日本の鉄の古代交流史を追究し始め、岩手県の釜石市から採れるという「餅鉄」(べんてつ・もちてつ)の存在に強く惹かれました。川原に転がっている黒く光沢のある石。焼くと脆くなり、女性のカでも簡単に砕くことができ、製鉄に使用してきたと言われています。この地域の古代製鉄では、砂鉄と並ぶ重要な原料でした。

  釜石には「虎舞」(とらまい)なる伝統芸能があります。生態的に虎のいない日本の、しかも東北地方に、なぜ虎舞があるのでしょうか?

 古代の韓民族を形成した二大部族に虎を卜―テムとする濊(エ)族と熊をトーテムとする狛(メク)族があります。虎舞は、この濊人と関連する祭儀の一種ではないでしょうか。

 狛は、かつての高句麗国や百済を建国しました。紀元前1世紀のことです。一方、濊は、鉄国または濊国と呼ばれ、新羅同様、製鉄・鍛冶でならした国です。

 ところが2世紀になると、濊国はなぜか滅びます。この残存勢力が江陵近隣の地から日本へ行ったと考えられます。対馬暖流の流れの1つに乗ると、北緯38度線に近い江陵あたりから津軽海峡に入ります。津軽海峡を抜け、太平洋を南下すると、三陸沿岸に行き着くのです。

 韓半島から先端技術を携え、日本列島にやって来た濊たちの元気旺盛な姿を表現したのが虎舞のうちの「遊び虎」、また、狛の新征服者によるその後の「退治」は、猟師による「虎狩り」こと「跳ね虎」演目に象徴され、「笹ばみ」のくだりが、製鉄と共にしぶとく生き延びてきた濊を表していると考えられます。「笹」は砂鉄を表象します。鉄は幸の象徴でした。

 カマウシの地名も、古代韓国語で読み解くことができます。ガマは「黒(黒い)」「釜」などの意。ウッシは「上質(ウ)の鉄(シ)」を指します。ガマウッシつまり「黒い上質の鉄」とは餅鉄のことでしょう。この古代韓国語が「かまいし」と転音、「釜石」という日本式訓よみによる漢字にあてはめて表記されるようになったと見なされます。

 餅鉄は幕末、橋野鉱山(磁鉄鉱山)の麓を流れる桶野川中流、金沢あたりでふんだんに採れたそうです。橋野川は、釜石湾の北、大槌湾に入ります。釜石湾に流入する甲子(かっし)川でも、餅鉄は採れていました。かっしとはガッシ、つまりガ(磨ぐ・製鉄する・鍛冶をする)シ(鉄)のこと。サ・シ・ス・セ・ソはすべて鉄を表す古代韓国語です。岩手の地名は古代韓国語で読み解くと鉄まみれです。岩手県は日本の「宝島」だったのです。

**************
読み直すと、気になり、李寧熙の「鉄と虎」をインターネットで探してみました。
以下に、李寧熙さんの詳細な資料が見つかりました。

いよんひ2
https://www.nipponsteel.com > publications > monthly-nsc > pdf
鉄と虎…… - Nippon Steel Corporation
https://www.nipponsteel.com > publications > monthly-nsc > pdf
鉄と虎…… - Nippon Steel Corporation
いよんひ3

いよんひ4


岩手県の釜石は鉄の宝庫であったことを知りました。また、餅鉄(べんてつ・もちてつ)という鉄の存在を知りました。
〇虎はいないのになぜ虎舞が残っているのか。
〇濊(エ)と釜石のつながりを虎から探る。
笹は砂鉄を表象する。
釜石=古代韓国語で「ガマウシ・黒い上質の鉄」つまり、餅鉄(べんてつ・もちてつ)のこと。

また、猿「サル」の「サ」は(鉄)・「アル」(粒)から砂鉄の当て字であることを知りました。
そのため、猿田彦は砂鉄・鉄に関連していたことが感じられました。
猿田の田は「たから」とみれば、砂鉄・鉄のあるところとも解釈できそうです。
「山田」の山のたから=金、大黒様が背中に担いでいるお米の袋を「宝・たから」というのは、「田んぼ」からとれるから「たから」ということにもつながっているようです。

以上

2022年・令和4年の干支は寅です。 ホツマツタヱに、「トラガシワ」(虎柏・虎狛という名前の武将が


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邪馬台国はどこだったのでしょうか。
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「トラガシワ」
2022年・令和4年の干支は寅です。
ホツマツタヱの記述の中に「トラ」・虎という動物は出てきませんが、「トラガシワ」(虎柏・虎狛という名前の武将が2か所に記載されています。
ホツマツタヱの39綾と40綾に登場します。紀元200年ごろの出来事と思われます。
一方、金達寿氏や荒竹清光氏の著書から、「トラガシワ」虎柏なる人物は高句麗からの渡来人であることがわかります。

年賀状より虎

1 相模でヤマトタケ(日本武尊・倭建命)に出会う(ホツマツタヱ39綾)
2 相模の館にて 虎柏(とらかしわ)鐙(あぶみ)を差し出す(ホツマツタヱ39綾-84~86)
3 トラガシワを祀る虎狛神社・虎柏神社
4 景行天皇とトラガシワの出会い
5 おほま(愛知田:熱田神宮)の宮に「ヤマトタケ」を熱田神と名付けました。
6 相模の小野の館(おとたちばな姫の実家、厚木市)へ立ち寄る
7 ここで、虎柏(とらがしわ)が景行天皇の前に現われます。
8 参考文献
8-1 日本の中の朝鮮文化1 金達寿
8-2 古代の日本と渡来文化 荒竹清光著 古代東国と渡来人 高句麗・新羅混血の深大寺より下記参照



1 相模でヤマトタケ(日本武尊・倭建命)に出会う(ホツマツタヱ39綾)

ヤマトタケ(日本武尊・倭建命)は、景行天皇の命を受け、エミシ征伐に向かいます。
途中、行く手を遮られ、火攻めに遭いますが、先に実家(相模の小野の城)にもどっていたオトタチバナ姫と無事再開できます。

大磯から上総湊(かずさ)へいくさぶね(大亀船)に乗って渡る途中、暴風雨にあい、オトタチバナ姫は荒れたれた海の龍を鎮めるため身を奉げました。(船から振り落とされたかもしれませんが、生贄になったと言っていると考えられます。当時は生贄という儀式は普通に行われていたようです)

日高見の竹水門で、武力によらない説得交渉を続け、最後には納得させることができました。
無事に使命を果たし、帰り道の相模の話になります。

2相模の館にて 虎柏(とらかしわ)鐙(あぶみ)を差し出す(ホツマツタヱ39綾-84~86)

こぞよりつゝき あめはれて むつきすえやか みゆきふり  
きみそりにめし ゆきいたる さかむのたちに いりませば 
 
昨年より引き続き天気は快晴でしたが、一月二十八日は大雪が降りました。
ヤマトへ帰る途中、君(「やまとたけ」(日本武尊・倭建命))はソリに召して(お乗りになって)
相模の館(厚木神社と考えられる)にお付きになりました。

のにかたあぶみ 
とらがしわ ひろいかんがえ あぶみさし いまたてまつる 
たまかざり ほめてたまわる むらのなも たまがわあぶみ 
みさしくに さがむのくにと もとひこに なつけたまわる くにつかみ 

虎柏なる武将が、野戦で失った君の片方の馬具の鐙(あぶみ)を拾って考えた末、榊の枝にさして、御霊飾(みたまかざり)として、君(「やまとたけ」(日本武尊・倭建命))の御前に奉りました(献上しました)。
君(「ヤマトタケ」(日本武尊・倭建命))は「トラガシワ」を誉めて、玉川あぶみ村(現厚木市)と名付けて褒賞として「トラガシワ」に賜りました。
戦歴の地をミサシ(献上:武蔵)国と命名しました。サガム(相模)国を「タチバナモトヒコ」に与え国造(国神)に取り立ました。

ここで、武蔵の語源が出てきます。
「ミサシ」が「ムサシ」になまり、「武蔵」という漢字に置き換えられたと思えます。


3 トラガシワを祀る虎狛神社・虎柏神社
50荒竹清光より

とらがしわ02
とらがしわ01





深大寺の近くにある、虎狛神社はこの「トラカシワ」という武将の名残と考えられます。ただ、現在地元では虎狛(コハク)神社と呼んでいます。

この虎狛神社付近の町名になっている佐須町や佐須街道はこの「ミサシ」の「サス」という語源から来ているものと考えられます。
虎柏神社は青梅にもあり、代々青梅の虎柏神社を管理されている方の名字が「さした」さんとおっしゃるそうです。
(高畠精二氏)

また、この「あぶみを拾った」という記述部分から、限られた人ではあるが、当時既に馬に乗っていたことも分かります。
「ムサシアブミ」(武蔵鐙)という言葉が残っているようです。

地図(図15)は荒竹清光著 古代の日本と渡来文化より
写真はホツマツタエ勉強会(3)の検証旅行(2007年1月)より


4景行天皇とトラガシワの出会い

ヤマトタケ(日本武尊・倭建命)は、帰路の途中、単独で伊吹山(鋳吹く)へ向かい、詳細な記述はないものの、タタラ操業をしている現場に行き、やけどを負ってしまいます。マキムキ日代の宮に着けず、途中の三重県で息絶えてしまい神上がりしてしまいます。
後日(10年ほど後)、景行天皇は息子の「コウス」・ヤマトタケ(日本武尊・倭建命)が平定(むけ)した国々を巡ります。

5おほま(愛知田:熱田神宮)の宮に「ヤマトタケ」を熱田神と名付けました。

みやずひめ いつきにくらべ かんぬしも みやづかさなみ

宮づ姫(「ヤマトタケ」の後の妻)は伊勢の「いつきの宮」(斎宮)に較べる位の立場で、神主も伊勢神宮並みの力がありました。

6 相模の小野の館(おとたちばな姫の実家、厚木市)へ立ち寄る

あづまぢえ ゆけばさがむに みあえなす ましてしおがみ
なき。いわく ひめほろぼして まみえゑす きみもなんだに

景行天皇が東路へ旅立ち、で接待を受けました。「さくらねまし」(左大臣、左近)、「ほつみてし」(右大臣、右近)は拝謁して泣きながら申し上げるには、姫(おとたちばな姫)を亡くしてしまいました。
景行天皇もこれを聞いて涙しました。


7ここで、虎柏(とらがしわ)が景行天皇の前に現われます。

とらがしは さかきみすがた たてまつる きみ。みたまえば
「やまとたけ」 いけるすがたに あふごとく ひとたびあひて
よくにたる かれはめぐろと そのさとを なつけたまわる
kami0211-01.jpg


虎柏は榊に「やまとたけ」の御姿の人形を献上しました。景行天皇が、これを見て「やまとたけ」がまるで生きているようによく出来ている。まるで再会したようだ。一回会っただけなのによく似ている。しかるが故に、この地を目黒と名付け、そしてこの土地を賜りました。

かみすがた おほやまみねに やしろなす 

「やまとたけ」の榊みすがたを大山の峰に社を作ってお祀りしました。

8参考文献
8-1日本の中の朝鮮文化1 金達寿

渡来人と渡来文化 金 達寿(キム タルス)著 河出書房 1990年発行 ¥2,500
古代朝鮮と日本文化-神々のふるさと- 講談社学術文庫 1986年発行 ¥680
金達寿本
(2006年本の会に投稿原稿より)
著者の金達寿(キムタルス)氏は在日韓国人で、帰化人と呼ばれていた差別用語を渡来人と呼びなおすように提唱された方でもあります。

渡来人と渡来文化

この著者のすごいのは、十数年にわたり日本中を隈なく歩きまわり、文献に出ている土地々々での遺跡・風土を確認されてきたことです。

そして、韓国人で古代の韓国語にも精通されていたからこそ、古代の韓国語の音が今の日本の地名のルーツになっていることを知らしめたことです。そして日本人では気がつかないような細かい違いまでも指摘されている点です。

滅びてしまった高句麗や百済、新羅の高官や多くの人が本国の戦争から逃れるために、新天地の日本の中に浸透し新たな国家を造り、朝廷の高官になっていたことがわかる。
それも何回にもわたって押し寄せてきたと指摘されています。
当時の文献やその土地に伝わっている地名や神社名から高句麗であったり、新羅であったり、古代韓国語の読みからたどりあげたという点に尽きると思います。
そして、「日本の古代国家は朝鮮から渡来した連中が作ったものである」という結論に至っている。

古代朝鮮と日本文化

本書の内容は渡来人と渡来文化の基になったものが多く、どちらにも記術されている内容ですが、一つの地名例だけ記載してみます。

武蔵・相模は高句麗系渡来人の中心地であった。 
相模 朝鮮語のサガ(寒河 さむが)からきている。朝鮮人の居場所。寒川はその氏神。
武蔵 モシシ からむし(韓のモシ)(麻の一種)からきた言葉
カムネサシ(宗城・主城)からきた言葉
古代の武蔵には新羅系渡来人の住んだ新羅郡があり、のちの新座郡(にいくら)になり新座市になっている。

最後に、人種と民族は別のもの。民族というのはその風土における歴史の積み重ねによって形成されるものである。と著者は述べており共感を得た。

日本の古代史をひも解くには、古代韓国語を避けていたら本当のことはわからないと思った一冊です。


8-2 古代の日本と渡来文化 荒竹清光著 古代東国と渡来人 高句麗・新羅混血の深大寺より下記参照

20荒竹清光

古代の日本と渡来文化 荒竹清光著 古代東国と渡来人 高句麗・新羅混血の深大寺より

 古代武蔵野の開拓に朝鮮半島渡来人の力があった事は今や常識といって良いであろう。
 しかし、今から十数年前、金達寿氏が 『日本の中の朝鮮文化』を発掘されはじめたころには、決してそうではなかったのである。その間、天皇中心史観と結びついた「帰化人」観は、確実に修正をせまられ 「渡来人」としての座を占めるに至った。その意味では、火つけ役の一人である金達寿氏と氏が係わっておられた初期の 「東アジアの古代文化を考える会」 や京都の朝鮮文化社の果たした役割はきわめて重要であり、再認識してしかるべきではないかと思う。

 その事は、私どもの係わる教育の現場にも着実に浸透しつつあり、毒され続けてきた中央中心史観             
の押しつけは、今や完全に反古にせねばならない時が来たのではないだろうか。しかし、一方では末だ、朝鮮人差別意識は根強く残っており、教育の業の深さを痛感せずにはおられないのである。

 以上の事をふまえて、あくまでも現代史との係わりの中で、古代朝鮮半島渡来人の役割を再評価すべきだと考える。とくに各地方史的発想から、今一歩の追求が必要ではないかと思う。そこで、古代関東、とくに都下調布市、狛江市一帯とこの地にある 「深大寺」周辺の歴史地理的側面から、ここが高句麗・新羅文化の融合地であった事を述べてみたい。

 深大寺周辺は、享保七年成立の 「深大寺仮名縁起」 の内容からして、その商にある「虎柏(狛)神社」や「布多天神」と合わせて、狛江市一帯として考える必要があろう。地理的には、武蔵野台地を樹枝状に開析して流れる野川と本流多摩川に狭まれた台地上に狛江市や調布市は位置する。その台地上の一角に深大寺がある。「ハケ道」で知られる野川とその分支流の谷戸に画し豊富な湧水と湿地を合わせ持つ地である。

 野川流域には、深大寺と密接な関係を持つ 「虎柏(狛)神社」・「虎柏(狛)山祇園寺」がある。野川がかつて重要な役割をになっていたであろう事は、武蔵野の面影を残す「ハケ道」をあるく事で、ある程度実感できる。

 古代、この地が文化の中心的地域であった事は、上流の国分寺や府中大国魂神社の存在を考えてみれば明らかになるであろう。さらにさかのぼる時代でも、相当の政治集団があった事が想定できる。

図示するように多摩川にそそぐ野川流域には、多くの古式古墳が分布している(図15)。 
たとえば、砧古墳群、野毛古墳群、亀塚古墳を中心とする狛江古墳群などである。これらの古墳群を経て多摩川に合する野川下流には、野毛大塚古墳をはじめ、御岳山、狐塚、八幡塚、天慶塚古墳と続いて出現し、分岐台地上に雄然と分布するのである。 
とすれば、野川を通して、これらの政治集団は何らかの関係があったとしても見当違いではないと考える。
 世田谷区埋蔵文化財調査員の対比地秀行氏によれば、田園調布古墳群中の蓬莱山古墳・亀甲山古墳がこの地ではもっとも早く、次いで、砧中七号填、野毛大塚古墳、御岳山古墳、狐塚古墳と続き、この頃、高句麗系副葬品を持った亀塚とその一群が出現するとされている。
 五世紀終末、突然野川と多摩川にはさまれた台地に出現した今はなき亀塚を含む数百基の古墳群は、この地に渡来し古代武蔵野の開拓にあたった高句麗の王者の一団であったことは間違いないとおもわれる。
 亀塚古墳は、最長48メートルの帆立貝式古填て、主体部は二個の木炭榔からなり、金銅製の馬具や装飾具、神人歌舞画像鏡が出土した事は有名である。とくに毛彫模様のある金銅製薄板金具の装着主が高句麗と密接な関係があろう事は早く原田淑人民や大場磐雄氏が認められている。金銅板の装飾意匠が、平安南道道賢里、三墓里等の高句麗古墳と関係があれば、もはやこの地の主を高句麗系として間違いないであろう。また、鋼板には絹布が付着していたと言う。私は、この金鋼板の装飾に道教的神仙世界と仏教渡来以前の呪術的姿を重ねている。 
というのは、同時に出土した神人歌舞の画像十一体が浮彫された「尚方作竟白有紀辞去不羊宜古市上有東王父西王母令君居陽□送多孫子兮」銘の鏡について、当時古代中国で広がっていた「不老不死」を願う神仙思想の臭いがするからである。

 漠の武帝が長生を願い神仙思想にこっていた事は良く知られているが、彼は、天上から降りて来た、右の銘文中にある「西王母」から仙桃七顆をもらったといわれている。桃の実や樹が、その生命力や香りから、呪物として貴重であった事は、『古事記』などでも語られているし、今日までその風俗は遺存しており、不死を願う民衆道教の一要素と係わっている事は間違いない事である。

 上田正昭氏は、高句麗古墳の実地踏査から、仏教と習合している道教の存在を指摘されている。高句麗人はかなり早い時期に神仙思想を中心とする道教を持っていたのである。とすれば、五世紀終末この地に渡来した高句麗王一族も神仙思想を持っていたのであろう。天馬や龍は神仙への使者である。そう考える事で、高麗郡設置以前、この地が「狛江」であり、神仙的鏡や毛彫金銅板を持つ「高句麗」的であった事が判明する。

 「深大寺仮名縁起」によれば、狛(柏)江の佐須という所に、狩猟を好む長者がおり、そこへ「虎」という容貌愛わしき婦人が自らすすんで妻となり長者を良導したとある。この虎女は、何を暗示しているのだろうか。現存する「虎猫(柏)神社」は彼女を祀ったとされている。虎は高句麗ではないか。

 さらに、この夫婦からは美しい女の子がうまれ、12、3という年ごろになると、どこからともなく来た「福満」なる童子が求婚するが親は許さなかったという。しかし、福浦は、日夜必死の祈りによって「水神深沙大王」の助けをかり、親のゆるしをうけて結婚したのである。この福浦もまた、虎と同じように、この地に渡来した人物像とダブルイメージである。

 福浦には一人の男子があり唐土で修行して「満功上人」として、天平五年に深大寺を創建したとある。その際、深沙大王の像を多摩川に流れてきた桑の木で作り寺の本尊としたという。もっとも注目すべき事は、この深沙大王像のモデルとなったのは、新羅から送られた画像であるという事である。
 この縁起が、すべて真実であるとは考えられないが、何らかの事実を反映しているであろう事は認められている。
 とすれば・この狛江・調布の地にいた先住民の士に「虎」を象徴とする高句麗人が渡来し、やがて、福満を象徴とする新羅人が覆って来たのではないだろうか。

 深沙大王信仰が、新羅僧によってもたらされた事はすでに指摘されている。
 いわば深大寺は、高句麗・新羅の混血文化の結晶といえるのである。さて、深大寺には謎に包まれた白鳳仏が現存するがこの仏の由来は明確でない。畿内で作られて運ばれたという説もあれば関東で作られたと言う人もある。どちらにしても新羅系の仏像である事は間違いないが深大寺の背景には歴史的謎が秘められている気がしてならない。

 深大寺が新羅人によって天平宝字年間に創設されたとする説は、稲葉博氏が発表されており、高句麗系の先住民との確執があった事はほぼ間違いないと考える。

 また、それ以前の霊亀二年(七一六)に関東一円の高句麗人を集めて、この佐須の地より北へ20キロメートル、現高麗川流域に新しい高麗郡が設置されたのである。ところが、この新しい高句麗人の居住地が不思議と新羅的要素の強い地域なのである。現比企郡、とくに東松山市を中心とする一帯は考古学的にも、新羅系渡来人の残したと思われる胴張のある横穴式石室が、金井塚良一氏によって確認されている。
 さらに『和名砂』で言う「都家」=ツゲ郷の地名ツゲが、鶏林であり新羅である事は、河内や大和のツゲの係わりで、大和岩雄氏が指摘されたところである。

 また、新羅系渡来人「壬生吉志」氏がかなり早い時期からこの北武蔵一帯に定着していた事は原島礼二氏の論証で明らかになっている。とすれば、新羅系先住者の上に、八世紀初頭、新たな高麗人が、75  高句麗・新羅混血の深大寺何らかの政治的配慮で、クサビ状に入植してきた事になる。
 この事は、入間川や高麗川一帯に、新羅人の祀った「新羅神社」と思われる「自鬚(髪)神社」が密に分布しており、高麗郡設置より以前である事が、金達寿氏などによって明らかになっている事で判明する。
 高麗神社現存系図の前書の部分は、なにか不利益なことがあって破ったのではないかと五八代目宮司高麗明津氏かのべられているが、そこに、先住新羅人と後移住高麗人の確執がかくされているとみている。
 要するに、私は、深大寺周辺では高麗人の上に七世紀代の新羅人か被い、さらに八世紀に、拠点分散的に高麗郡や新羅郡が設置されて、古代武蔵野の開発にあたったといいたいのである。統一政権の出現によって融合したのだ。彼らが自国での自然環境や政治社会環境を、古代武蔵野にも当然持ちこんでいたと考えるので、きわめて政治的色彩の強い移住や渡来だったと考えているのである。

 この高麗郡と南の狛江郷との関係は明らかに出来ないが、六世紀に栄えた自分たちの祖先の事を知らないわけはないであろうし、地域的には、山麓線に沿った同一環境とみられるので、高麗郡の設立時には、その一族は北へ拡大移住していたのてあろう。
 というのは、現青梅市根ヶ布に、調布市佐須にある「虎柏(狛)神社」と全く同名の神社があり、式内の論社となっているからである。どちらが式内の虎柏(狛)神社かわからないが、両者とも高句麗系の自然環境を有しており、佐須のそれが狛江郷にあり、青梅のそれが、高麗郡の南に接している事だけは間違いない事である。
 とすれば、やはり両者はコマ神社であり、あるいは、佐須の先住高麗人が、青梅方面へ拡大移住した証拠かもしれない。また、神奈川県大磯市の高来(麗)神社から北に直線を引いて、日高町の高麗神社に至る中間地城に、青梅市根ヶ布の虎柏神社が立地している事は、これらの地域が何らかの歴史的な糸で結合されていると思うのである。

 高麗郡の高麗神社も、相模の高来(麗)神社も、延喜式にはとりあげられていないが、多摩郡内にあると思われる「虎柏神社」だけが論じられているのは、それだけ地域的な政治経済集団の力を無視しえなかった証拠であろう。

 なお、「虎柏」とあり「虎狛」とないのは「高麗」を「高座」「高倉」に、あるいは「高来」 へと改める事や、「新羅」を「志楽木」や「白木」「白城」とする事と相通じる政治的感情的背景が存在していたのではないか。あるいは「柏」に意味があるのかもしれない。

 ともあれ、「虎柏」ではなく、「虎狛」である事は証せられているので、佐須のそれは「コマ」=「高麗」 である事は間違いない。

 ところで、この関東平野西北部一帯の古文化が、後の鎌倉武士の出現と無関係でない事は当然の事であろう。なぜなら、「武蔵鐙」 の出現は、馬文化の長い歴史と伝統を持っていたからに他ならないし、桓武平氏系、清和源氏系、丹治氏系が鎌倉以前の伝統を受け継いでいる事は間違いない。彼らが、武蔵野移住前に中央政権との係わりで、遠く朝鮮半島の高い文化を背負っている事も考えられるのである。

以上、古代の日本と渡来文化 荒竹清光著 古代東国と渡来人 高句麗・新羅混血の深大寺より

ホツマツタヱ 19綾に、馬や乗馬の方法が詳しく述べられています

こんにちは
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初期からの内容です。
「ほつまつたえ」の文字の例です
48音で出来ています


追加の目次です。
目次
魏志倭人伝の卑弥呼(ひみこ)とはいったい誰だったのでしょう?
邪馬台国はどこだったのでしょうか。
古代遺跡・ホツマツタヱ・ミカサフミから宇宙・太陽・月・地球を読み解く




ホツマツタヱ 19綾に、馬や乗馬の方法が詳しく述べられています。明日は天皇賞がありますが、縄文末期には今で言う、天皇とその側近しか乗馬できなかったことがわかります。

縄文後期には、日本に馬はいないと誰しもが思い込んでいました。

解読前に、魏志倭人伝などについて

ホツマツタヱ 19綾前半
のりのり ひとぬきま の あや
乗馬の心得、手綱(たづな)の操(あやつ)りの綾

19-1 両神は皇子「ワカヒト」(天照)に日嗣をゆずります。
19-2 「オモイカネ」「サクラウチ」「カナザキ」「カダ」「ヲバシリ」の5臣が天照神に仕えます。
19-3 「ヲバシリ」は日高見に詣で乗馬の道を乞いました。

19-4 日高見の「トヨケ神」は乗馬について教えます。
19-4-1 地道(歩く普通の速度)を基本動作とします
19-4-2 馬子に手綱を引かせておいて、馬の右より踏み登ります。
19-4-3 馬の背に鞍(くら)を敷いて、鐙(あぶみ)を縄で取り付け、腹帯の緩さ加減に気を付けます

19-4-4 心を落ち着かせ、馬の足取りに息を合わせます
19-4-5 人を乗せたことのない馬には、振り落とされないよう前もって教えます
19-4-6 逸乗りは速く走るときで、馬の背に「しとなめ鞍」を敷き腹帯(はるび)は緩めません
19-4-7 馬のひじ除けの「たれかわ」が、風を含み浮羽となり窪みを飛び越します
19-4-8 飛び越そうとしたときに余裕がなければ無理をしてはいけません

19-4-9 轡につける引綱(手綱)を「一貫きの間」と名付けます
19-4-10 両神も馬に乗り巡って国を治めてきました
19-4-11 轡(くつわ)は、天空から地中まで、一本の緒で貫かれていると心得なさい
19-4-12 馬を慌てさせないよう人馬一体の意識を持ちなさい
19-4-13 手綱が強いと浮羽(うば)の障泥(あおり)を打っても飛べず、弱いと前足を折ってしまいます
19-4-14 手綱の引き加減は、強くもなく弱くもない、程よさを知りなさい

19-5 「ヲバシリ」は乗馬の道を得て、「乗り典(極意)」を授かりました
19-6 「ヲバシリ」は練習を重ね、乗馬の技を習得しました
19-7 三十九手の荒れ乗りや五十九手の逸乗りを披露しました
19-8 馬の乗り技を教える役目を「ヨリコ」と詔りがありました
19-9 この馬の乗り技は「イフキトヌシ」や「ソサノオ」など全ての神々に伝わりました

19-10 役人(益人)が乗馬しようと群がったが、払いのけられる
19-11 荒れ乗り、逸乗り、乗り弓(流鏑馬)の技で、不正を防ぎます
19-12 「ヲバシリ」は「モノノベ」を賜い、「イヅ」の名も賜い、鹿島神になり、「タケミカヅチ」と名付けられました

ホツマツタヱ 19綾後半

のりのふみてるたえのあや
乗りの踏み照る妙の綾

19-13 天照神から皇子「オシヒト」に日嗣を譲りました
19-14 「オオクマド」が蹄の青い白馬を奉りました
19-15 「クマド」に御饗を賜いました
19-16 七草には解毒の作用があります
19-17 「タカギ」が黄金色の蹄の黒馬を奉りました
19-18 マナイに馬に乗り御幸し幾度も奉りをされました
19-19 「ニニキネ」が後年御幸されたところが「ほつま国」の「ニハリ」になりました
19-20 乗馬の術を「タカヒコネ」が受け継ぎました

19-22 馬の生まれつきの性格を知らないと乗りこなせません
19-23 「ひたかみ」は一年で馬に乗れるようになりました
19-24 筑紫の馬について
19-25 越国の馬について
19-26 南の馬について
19-27 馬は種(血統)によるが、育ちで良し悪しが

19-28 稲虫払いに馬を使います
19-29 法を犯す者を追うとき、片手に刀を持つので轡の綱は「たえ」を使います
19-30 縮(ちぢみ)布の手綱を腰に挟み込み、越を左右にひねって操ります
19-31 馬の心と息が合えばこのような難しい技もできます

19-32 馬の鞍の居木には長い短いがあります
19-33みおや神が腰で手綱を扱うときは「たえ」を使い、足取りを見てから乗ります
19-34 地道(普通の乗馬)の鐙は金物で、差し縄を短く腹帯を緩めます
19-35 逸駆けのときは腹帯を緩めず、下滑鞍(しとなめ)や鞅(きづな)を添えます
19-36 轡(くつわ)の手綱を鞅(きづな)にそえ、轡銜(くつばみ)を輪に結び両端を持ちます
19-37 そうすれば、「あたばしり」(無駄な走り)なき一貫間が得られます
19-38 「てるたえ」・「あかたえ」について

19-39 馬は目鼻立ちより背骨の大きさです
19-40 馬の寿ぎの典には疑問があります
19-41 御孫も馬術をものにされました
19-42 「タカヒコネ」は二荒れの「オシデ」を賜い、子孫も馬の君となりました
19-43 馬の薬草には人参など7種類あります
19-44 「イツヲバシリ」と「タカヒコネ」は二荒神となり、乗り弓(流鏑馬)を習うときになりました



 古代日本の情報源とされていた魏志倭人伝に、日本に馬はいないと記されていました。


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 更に、古事記日本書紀では馬の記述はなく、疑うこともなく、5世紀ごろ、馬が日本に持ち込まれたことになっていることが定説になっています。
下記 読売新聞大阪本社 関口和哉氏より


FC2ブログ002馬の文化2013



 ホツマツタヱに馬の記述があっても、大和政権により、ホツマツタヱの存在そのものが抹消されたため、誰もホツマツタヱに書かれていることを知る由もありませんでした。

 昭和になってホツマツタヱの写本が見つかりました。しかし、古代文字を誰もが簡単に読めるわけでなく、写本には漢字訳がついており、記載内容が古事記日本書紀と違っている個所があって、江戸時代後世に作られた偽書であると断定されたままになっているようです。

ホツマツタヱの存在そのものを未だ認められないようです。

いづれ、その時が来ると思っていますので、ホツマツタヱの記述を見ていきましょう!



 19綾は前半(19-A,19-イ)、後半(19-B,19-ロ)に分かれています。
19-A、Bは和仁估安聰釋訳本、19-イ、ロは小笠原長弘訳本の頁になります。


「のりのり ひとぬきま の あや」
「乗馬の心得、手綱(たづな)の操(あやつ)りの綾」

「のりの ふみてるたえ の あや」
「乗りの踏み照る妙の綾」







ホツマツタヱ 19綾前半

のりのり ひとぬきま の あや
乗馬の心得、手綱(たづな)の操(あやつ)りの綾



19-1 両神は皇子「ワカヒト」(天照)に日嗣をゆずります。(19A-1~2)

ふたかみの みよのよわひも「19イー1」(19A-1)
やすらかに おうみのたがに
ゐまさんと


両神(フタカミ:イサナギ・イサナミ)が、治めていた御代(ミヨ)は何年も平穏でしたが、この度、淡海(近江)の多賀宮に隠居されることになりました。
後世になり、漢字が渡来し「フタカミ」に漢字が宛がわれ、訓読みで「両神」と記されていた。しかし、時間の経過とともに漢字が音読みされるようになり、「リョウガミ」と呼ばれるようになった。


 みこわかひとに「19イ-1」(19A-1)
あまてらす ひつぎをゆつり(19A-2)
ますときに

 両神(イサナギ・イサナミ)は、今回、皇子(長男)の「ワカヒト」に日嗣を譲りました。
 皇子「ワカヒト」は、日嗣(天皇の位)を受け継ぎ、天照神となられました。


19-2 「オモイカネ」「サクラウチ」「カナザキ」「カダ」「ヲバシリ」の5臣が天照神に仕えます。(19A-2~3)

 ひたりのとみは「19イ-1」(19A-2)
おもいかね みぎさくらうち


新たに、五人の臣(大臣)がそれぞれの役職で天照神に仕えることになりました。
左大臣には、「オモイカネ」が担いました。
「オモイカネ」は、(アチヒコ⇒天照神の姉・ワカ姫に一目惚れされる・天照神の義理の兄)
右大臣は「サクラウチ」が担いました。
「サクラウチ」は、天照神の正妃の「サクナタリ セオリツホノコ」の父親になります。(天照神の義理の父)

左大臣とは、今風の文武の「文」を担当。

瓊(と)の「おしで」・人の心のなかに相求め、人心一体になるよう心を尽くす。
「と」(瓊)の道とは、今風に言えば、横道に逸れないこと、隙あれば他人の弱みに付け込んで自分勝手に我を出すことなく、つまり、相手の立場にたち、正道に物事を考えることを意味しているように思います。
右大臣とは、今風の文武の「武」を担当。
矛(ほこ)を用いる、天の教えに逆らうものを糺すため「さかほこ」(逆鉾)で正しい方向に向ける。


かなさきは ひをうつします「19イー2」(19A-2)
ゑをやとみ(19A-3)

「カナザキ」は、「ヒ」(日霊・天照神の住まい)を移します。
「ヒ」(日霊・日嗣)を「イサナギ・イサナミ」の宮から、新たに「天照神」の宮にを移します。
「カナザキ」は、「ヱオヤ」(兄・親・一番の重鎮)の臣になります。

「ヒ」とは、両神から天照神に日嗣・皇位を継承することにより、日霊・(儀式・政局の中心)を移したことを示しています。


  かだはうけもち「19イー2」(19A-3)
をばしりは むまやをさめぞ

「カダ」(荷田神)は保食神(うけもちの神・御饌の担当)を守ります。
「ヲバシリ」(雄走神)は馬「むま」と矢を治めます。


きみとみと こゝろひとつに「19イー2」(19A-3)
つかさどれ


君(天照神)と5人の臣は常に心を一つにして、任務に当たりなさい。というお達しが「オモイカネ」「サクラウチ」「カナザキ」「カダ」「ヲバシリ」の5人の臣に出されました。


19-3 「ヲバシリ」は日高見に詣で乗馬の道を乞いました。(19A-3~4)

 ときにをはしり「19イー2」(19A-3)
ひたかみの みやにもふでゝ(19A-4) 
みちこえは


さて、馬と矢を治めるように命じられた「ヲバシリ」神は、日高見の宮に詣で、豊受神を訪ねました。そして、乗馬の道を教え乞いに行きました。

日高見神社


図382に見るように月の浦を出て旧北上川を遡ると日高見神社のある地点に至る。ここは旧北上川と北上川に囲まれた自然の要塞のような地形を呈している。
北上川とあるのは、漢字到来の時、本来は「ヒタカミ」川と書くとき、「キタカミ」川と聞き間違えて漢字化されてしまったと推測しています。

日高見神社: ひたかみじんじゃ
宮城県石巻市桃生町太田字拾貫1-73


19-4 日高見の「トヨケ神」は乗馬について教えます。(19A-4)

 とよけのかみの「19イー2」(19A-4)
おしえには


日高見に居られる「トヨケ神」は乗馬についての詳細全てを「ヲバシリ」に教えました。

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19-4-1 地道(歩く普通の速度)を基本動作とします(19A-4) 

 のりはぢみちお「19イー2」(19A-4)
つねとなす「19イー3」


馬の乗り方ですが、「地道」(じみち)を基本動作とします。

「地道」(じみち)とは、馬が普通の速さで歩くこと。
なみ足とも言うようです。馬をふつうの速度で進ませることを、現在でも馬術で使われている言葉のようです。
「地道な努力」という慣用句が今でも使われています。乗馬の練習の基本の語源から来ているものと思われます。


19-4-2 馬子に手綱を引かせておいて、馬の右より踏み登ります。(19A-4~5)

 まこにたつなを「19イー3」(19A-4)
ひかせおき むまのみぎより(19A-5)
ふみのほり

まず、馬子に手綱(たづな)を引かせておいて、馬の右側の鐙(あぶみ)に足を掛けて、踏み上ります。
馬子とは、馬をひいて人や荷物を運ぶことを職業とした人。うまかた。うまおい。とも言う
手綱(たづな)とは、 馬の口に轡 (くつわ)をはめこみ、そこから左右に綱を結びつけ、人が手に取って馬を操る

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19-4-3 馬の背に鞍(くら)を敷いて、鐙(あぶみ)を縄で取り付け、腹帯の緩さ加減に気を付けます(19A-5~6)

 しくやすくらの「19イー3」(19A-5)
あぶみなわ まちにゐきあげ
こゝろみて

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馬の背に、鞍を敷いて乗りやすくします。そして、鐙(あぶみ)を縄で取り付けます。
「まち」に「ゐきあげ」を試します。
ここで、「まちにゐきあげ」とは、鐙(あぶみ)の高さ調整を示しているようです。
「まち」とは、布幅にゆとりをもたらせるために補う布、袴の内股や、羽織の脇に入れるものとあります。

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「いきあげ」の「い」は数字の「5」を示しており、「き」は寸法の「寸」(約3cm)と見て、鐙(あぶみ)の長さを約15㎝短くしてみましょうと捉えました。


 もゝとはるびの「19イー3」(19A-5) 
ゆるみあい(19A-6)
 

馬体の腿(もも)に腹帯(はるび)を付けたときの緩さ加減に気を付けます。

「はるび」は腹帯(はらおび)とも言い、鞍橋(くらぼね)を置くときに馬の腹にめぐらす帯、布又は麻縄(おなわ)を用います。

19-4-4 心を落ち着かせ、馬の足取りに息を合わせます(19A-6~7)

 こしすえのりて「19イー3」(19A-6) 
やわやわと むまのあしとり
いきすあひ


馬「むま」に乗るとき、腰の重心を下げて、馬「むま」の背に物柔らかく接すれば、馬「むま」の足取りとも息が合います。

 あわすかなめの「19イー3」(19A-6)
のりのりぞ つねにこゝろを「19イー4」 
うべきなり(19A-7)


馬の心と乗る人の心を一つにあわせることです。
重要なことは、馬がどんな心の変化をしているか常に思い描くことです。
「うべき」は、自分の心を、馬の心の中に浮かべるという意味合いから常に馬の気持ちになること・全ての気持ちを馬にあずけることが必要だと言っているようです。

19-4-5 人を乗せたことのない馬には、振り落とされないよう前もって教えます(19A-7) 
 
 むまはうまれて「19イー4」(19A-7)
ものしらす あだはしるとき
のりおつぞ


馬は生まれて、人間を乗せたこともないと、慌てて振り落とそうと訳も分からず走り出してしまいます。乗った途端に落とされてしまうので注意が肝心です。

 かねてをしゑは「19イー4」(19A-7) 
かなふもの

しかし、前もって馬に良く教えておけば、思い通りの動作をしてくれます。

19-4-6 逸乗りは速く走るときで、馬の背に「しとなめ鞍」を敷き腹帯(はるび)は緩めません(19A-7~8)

 またいづのりは「19イー4」(19A-7) 
はせるとき しとなめくらを(19A-8)
しきをびて はるびゆるめず


更に、「逸乗り」(さっと抜け去る・威力ある乗り方)は、馳せるとき・速く走るときの乗り方です。
このときは、「しとなめ」鞍を敷き帯にして、腹帯(はるび)は緩めません。 今でも、腹帯と書いて「はるび」と称しているようです。


19-4-7 馬のひじ除けの「たれかわ」が、風を含み浮羽となり窪みを飛び越します(19A-8~10)

ひぢよけの たれかわうばと「19イー4」(19A-8)
なるゆえは


馬の泥除け(ひじ除け)の垂皮(たれかわ)が、「浮羽」(う衣・打ち仰ぐ羽)になった理由についてです。

「「始め「泥除けの垂皮」だったのが、「打ち煽(あふ)つ」の動作を経て、「泥除けの垂皮」プラス「打ち煽(あふ)つ」が、後世「泥障(あふり)」の五に変化した。
松本善之助著ほつま復刊142号より」」

ひじ〔ひぢ〕【▽泥/×埿】 水たまりの土。どろ。泥土(goo辞書より)

 はせゆくみちに「19イー5」
なかくぼの こみぞにゆきて(19A-9)
あふみにて そのたれかわを
うちあおつ


馳せて道を走っているとき、凸凹があって、溝の中に入ってしまいそうになったとき、鐙(あぶみ)でその「たれかわ」を打ち叩きます。

 うちあおたれて(19A-9)
(うちあおがれて)「19イー5」
かせふくみ はねとなるとき
とびこさす(19A-10)


その「たれかわ」を打ち叩いたとき、風を含み(風に乗り)羽となって、飛び越すことが出来ます。
天馬の様子がイメージできます。

あおり〔あふり〕【障=泥/泥=障】 の解説goo辞書
馬具の付属具。鞍橋 (くらぼね) の四緒手 (しおで) に結び垂らして、馬の汗や蹴 (け) 上げる泥を防ぐ。下鞍 (したぐら) の小さい大和鞍や水干鞍に用い、毛皮や皺革 (しぼかわ) で円形に作るのを例とするが、武官は方形として、「尺 (さく) の障泥 (あおり) 」と呼んで用いた。



19-4-8 飛び越そうとしたときに余裕がなければ無理をしてはいけません(19A-10)

 たとひとぶとも「19イー5」(19A-10)
のるひとの ゆぐりなければ
あえとばず


たとえ、飛び越そうとしたときでも、馬に乗っている人の心に、一瞬でも余裕がないときには無理に飛んではいけません。
「ゆぐり」は、後に「ゆっくり」という言い方になったと思われます。


19-4-9 轡につける引綱(手綱)を「一貫きの間」と名付けます(19A-10~11) 

 くつわにつける「19イー5」(19A-10)
ひきつなを ひとぬきのまと「19イー6」
なつくなり(19A-11)

FC2ブログ008-19綾馬具くつわ




轡(くつわ)に付ける引綱(ひきつな)を「ひとぬきのま」(一貫の間)と名付けます。
とっさの、手の抜き加減のことを「ひとぬきのま」とは言い得て妙です。


19-4-10 両神も馬に乗り巡って国を治めてきました(19A-11~12) 

 ゆえはあめつち「19イー6」(19A-11)
わかさるに あめのみをやの
あほをあめ うびをくにたま


この事の起こりは、天地がまだはっきりと区別されてない時のことです。天祖神が、泡のように軽いものが天、「ウビ」(泥)のように重たいものが地球として誕生した時にさかのぼります。

うつろのり しなどのたつな「19イー6」(19A-11)
のりめぐり よろものうめる(19A-12)
ふたかみも のりめくりてぞ
くにをさむ


天馬は「ウツロ」(空)を飛び回り、「シナド」(風神)は手綱(たづな)を引いて世界中を乗り巡り、あらゆるもの(万物)を生んできました。
両神(いさなぎ・いさなみ)も、国中を馬で乗り巡り、国を治めてきました。


19-4-11 轡(くつわ)は、天空から地中まで、一本の緒で貫かれていると心得なさい (19A-12~13)

 うつろくつわや「19イー6」(19A-12) 
くにたまを ひとぬきのをと19「イー7」
こゝろゑは たとひはすれど(19A-13)
のりおちず


「クツワ」(口輪・轡・くつわ・手綱をつけるため馬の口にかわせる金具)のおかれている立ち位置は、「ウツロ」(天空)から、この「クツワ」を通して地球の中心までを、常に一貫きのまっすぐな緒で貫かれていると心得えなさい(想像しなさい)。
そうすれば、たとえ騎乗で馬の中心から多少外れたとしても、乗り落ちることは有りません。

天空から地下深くまで鉛直に通った目には見えない一本の緒で貫かれていることを想像しなさいと言っています。
廻っている駒(コマ)は垂直に立っており、多少外部から力が加わっても影響されないことを言っています。
馬のことを駒「コマ」と言っていたことに関連ありそうです。

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19-4-12 馬を慌てさせないよう人馬一体の意識を持ちなさい(19A-13~14)

 むまくるわせぬ「19イー7」(19A-13)
わがこゝろ ひとつらぬきの
たづなひく あるじのまゝと
なるものぞ(19A-14) 


 馬を慌てさせないよう主の思い通りに馬を走らせるために、一つに貫らぬかれている手綱(たずな)を引くことです。
手綱の先端の轡(くつわ)は、天空から地中までの目に見えない一本の緒でつながれています。その轡(くつわ)を操作すれば、主の意のまま馬を走らせることが出来ます。人馬一体になります。


19-4-13 手綱が強いと浮羽(うば)の障泥(あおり)を打っても飛べず、弱いと前足を折ってしまいます(19A-14) 

 うばのあおりを「19イー7」(19A-14)
うつとても つなつよければ
むまとばず つなゆるければ
まえあしを おりてたおるぞ「19イー8」


浮羽の「あおり」(障泥)を、打ち仰いでも、手綱が強いと、馬は飛び越えることが出来ません。 一方、手綱が緩いと、馬はつんのめって前足を折って倒れ込んでしまいます。

19-4-14 手綱の引き加減は、強くもなく弱くもない、程よさを知りなさい(19A-15) 

いづとゆる かけこゑめをの「19イー8」(19A-15) 
あいたあり このほとらいの  
まをしれは


手綱の引き加減には、「いず」(巌・きつく)と「ゆる」(穏・やさしく)が陰陽のように両極端だけはなく、その中間の引き加減があります。
この適度の程らい(具合)という、強くもなく弱くもないちょうど良い間(中間)を知る必要があります。 

19-5 「ヲバシリ」は乗馬の道を得て、「乗り典(極意)」を授かりました(19A-15~16) 
 
 ぢみちいづあれ「19イー8」(19A-15)
のりのりを またくゑるぞと
さつけます こゝに「をばしり」(19A-16) 
みちをゑて


地道(ゆっくり進むこと)も、「いず」(急ぐ駆け足)でも、馬に乗る典(極意)があります。この馬を跨いで存分に乗れるようになりましたので、ここに「乗り典(極意)」を授けられました。
乗りこなす意味に馬の背に跨げるという言い方もしたようです。

日高見の豊受神は乗馬に卓越していたことが分かります。


19-6 「ヲバシリ」は練習を重ね、乗馬の技を習得しました(19A-16~17) 

 ひゝにもゝたび「19イー8」(19A-16) 
のりなるゝ


「ヲバシリ」は、一日に百回以上も繰り返し乗馬の技を習得することが出来ました。

 ちよろとゝのひ「19イー8」(19A-16)  
ねりなれて やゝゆるぢみち「19イー9」
つずのわざ としをかさねて(19A-17)


用意万端整い(万全な準備も終え)、馬に慣れました。
やっと「地道」(普通に歩く基本)を得るところまでこぎつけることができました。「つず・つづ」の技(あらゆる技・つづうらうら)を、何年も練習に練習を重ね習得できました。

「つず」には、射た矢が全て的に当たることの意味もあるようです。すなわち、完璧な技になったという意味も含まれているようです。
また、「ねりなれて」という言葉は漢字に当てはめると「練り慣れて・習れて」になるのでしょうが、後日、練習という音読みになったことがわかります。


19-7 三十九手の荒れ乗りや五十九手の逸乗りを披露しました(19A-17~18) 

ねりなれて あれのりみそこ「19イー9」(19A-17)
はなわさも またなれしみて
いづのりの ゐそこさつめの
たゑわざの のりのりさだむ(19A-18)


練習を積み重ねて、「荒れ乗り」の三十九手(通り)の離れ技(花技)も身につけることができました。
更に、慣れ親しみ、「逸乗り」(厳・いず)乗りの五十九連発もの早詰の妙技(曲芸)を披露しました。

相撲にも四十八手というきまり技があります。馬の乗り技の三十九手とか五十九手とは、どんな妙技であったかは分かりませんが、現在の流鏑馬などに引き継がれているものと思います。

三十九という数は、出雲で出土した銅鐸39体と何か背景に関連があるかも知れないです。


19-8 馬の乗り技を教える役目を「ヨリコ」と詔りがありました(19A-18) 

みことのり のりをしゑどゝ「19イー9」(19A-18) 
なるよりこ


ここで、君(天照神)の詔りがありました。 馬の乗り技を教える役目となる人を「寄子・ヨリコ」と名付けます。

19-9 この馬の乗り技は「イフキトヌシ」や「ソサノオ」など全ての神々に伝わりました(19A-18~19)  

 いふきとぬしや「19イー9」(19A-18)
そさのをと すべやそゐよろ「19イー10」 
みちそやの かみにつたふる(19A-19)
のりわざも


「イフキトヌシ」(天照神の弟・ツキヨミとイヨツ姫の子)や「ソサノオ」(天照神の弟)など、全てヤソイヨロミチソヤ(八十五万三千十八)
もの神々にこの乗り技は伝わりました。

ここの記述からも、当時、既に馬を乗りまわしていたからこそ、全国を駆け巡ることが可能であったことに納得できます。

馬を使っていた事を知らなければ、長距離を移動することは想定外で、あちこちに痕跡を残すことはあり得ないという思い込みがあったようです。
そのため、あちこちに登場した人物は神話の世界の話にされてしまったと思われます


19-10 役人(益人)が乗馬しようと群がったが、払いのけられる(19A-19~20) 
 
 みつればかくる「19イー10」(19A-19) 
よこしまの はやるますびと
むらがるゝ


多くの神が乗馬に集中してくれば、ドサクサにまぎれて乗馬する権利のない者まで、我も我もと乗馬したいと群がりました。

神のみが乗馬の免許取得できたのに、免許を持てない益人も邪悪な考えで我もと夢中になりました。


 なんますこちの「19イー10」  (なろますこちの)(19A-19)
さまたけも やぶるをしてを(19A-20) 
たまわれは ほとよくはらふ


「ナンマス・ナロマス」(七億)「こち」(九千)もの権利もないのに乗馬をしたがる益人に対し、与えられた立場「オシデ」を破るとどうなるかの勅を賜い、払いのけることが出来ました。
役人(益人)には乗馬ができる立場にないことを知らしめました。
ここの記述から、乗馬は誰にでもできるわけではなく、ごく限られた人であったことが分かります。

19-11 荒れ乗り、逸乗り、乗り弓(流鏑馬)の技で、不正を防ぎます(19A-20~21) 
   
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むつのかみ たけものゝべら
あれいつの のりゆみわざに「19イー11」(19A-20) 
よこしまを のぞけはすべて(19A-21)



六ハタレ神(猛ケタモノノベ達)を「あれいず」(生出・神霊なものが現れる・不正を征伐する神の力・荒れ乗り、逸乗り)の、乗り弓(のりゆみ・流鏑馬・やぶさめ)の技でもって、「よこしま」(道から外れたこと・道理から外れたこと)を取り除き、防ぎました。

よそやます ををんたからも
みなすでに ゐをやすくぬる


その結果、全て四十八十万もの御宝も皆気持ちが落ち着き安心して解れました。

「い」(居・居場所) ぬる(解る・ほどける)

後世になって、「のりゆみ」という言葉に、「賭弓」(のりゆみ)という漢字が当てはめられています。
これは、平安朝以降、「のりゆみ」という行事が乗馬とは関係なく弓の競技として賭け事の対象と進化したものと思われます。
そのため、漢字が渡来したときに、「賭」という文字を「のり」と読ませたと思われます。


19-12 「ヲバシリ」は「モノノベ」を賜い、「イヅ」の名も賜い、鹿島神になり、「タケミカヅチ」と名付けられました(19A-21~23) 

のりゆみの いざをしたける「19イー11」(19A-21)
ものゝべを めぐみたまひて(19A-22)
「をばしり」に ゐづのなたまふ


乗り弓に長けた勲し(手柄・功績)を称えて、「モノノベ」の役職を恵み給いました。そして、「ヲバシリ」に「イヅ」(逸・伊豆)の名も給いました。

このかみは とよけのまこの「19イー11」(19A-22)
みかさひこ そのこひさひこ「19イー12」 
かしまかみ(19A-23)


この神は、「トヨケ」の孫の「ミカサヒコ」の子供の「ヒサヒコ」と言い鹿島神になられます。

 いかつちひしぐ「19イー12」(19A-23)
いさおしを たけみかつちと
なつくこれかな

「イカツチ」を拉(ひし)ぐ功し(功績)を称え、「タケミカツチ」と名付けられた理由がここにあります。

19綾イ(A)完



ホツマツタヱ 19綾後半

のりのふみてるたえのあや

乗りの踏み照る妙の綾

19-13 天照神から皇子「オシヒト」に日嗣を譲りました(19B-1~2)

ふそゐすゝ もゝみそゑたの「19ロ-1」(19B-1)
としさなと はるのはつひに「19ロ-2」
よのひつぎ みこおしひとに
ゆつります(19B-2)

二十五すず歴の百三十枝の「さなと」の年になります。新年の初日(元旦)に日嗣がとりおこなわれました。天照神から、皇子の「オシヒト」に天地の全ての神としての役割を譲られました。
今で言えば、平成から令和へと、全ての譲渡がおこなわれていたことになります。

 あめよりいせに「19ロ-2」(19B-2)
おりいます

 天照神は日嗣を息子の「オシヒト」に任せたので、伊勢にお住まいになられました。

19-14 「オオクマド」が蹄の青い白馬を奉りました(19B-2)

 ときにしらすみ(19B-2)つきすみ「19ロ-2」
おゝくまと ひつめあおこま
たてまつる

話が前後しますが、「シラスミ」国(筑紫・九州)の「オオクマド」が、蹄(ひづめ)の青い白馬を奉りました。
青駒(あおこま)と白馬と書いて「あおうま」と言うようです。

「シラスミ」と「ツキスミ」の違いは鏑氏の解読内容で明確になりました。
あえて、「ツキ」を使わなかったのは「ツキヨミ」を思い出させないためであったかなと思いました。しかし、後に「シラスミ」では、理解に苦しみ誰でもが分かる「ツキスミ」に書き換えたのでは思いました。

19-15 「クマド」に御饗を賜いました(19B-2~3)

 かみおもしろく「19ロ-2」(19B-2)
おほすれば くまどにたまふ(19B-3) 
みあえには 

天照神は、この白馬を面白く思われ、「クマド」に、御饗(みあえ・飲食のおもてなし)を賜いました。

19-16 七草には解毒の作用があります(19B-3~4)

みあえには ぬゑあしもちが「19ロ-2」(19B-3)
がさくさも ごげうはこべら「19ロ-3」
いたひらこ すゞなすゞしろ
すせりなづ このなゝくさに(19B-4) 
のぞくなり

この時の七草の御饗(みあえ・飲食のおもてなし)には、「ぬえ・あしもち」という今で言う妖怪が飛びかったときの毒が降りかからないように、がさくさ(疫病)にかからないよう配慮されていました。
「ごぼう・はこべら・いたひらこ・すずな・すずしろ・せり・なずな」の七草によって払い除かれました。
ここの解釈(9-16)について、完訳ホツマツタエ須田麻紗子氏の解釈を参考にさせていただきました。

「ぬえあしもち」「ぬえ」
妖術(ばけわざ)に誑(たぶら)かすものである。
鵺などと書かれる怪鳥、伝説上の妖力をもった怪獣。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、声はトラツグミ(虎鶫)
また、萎させる意味も持つようです。

「あし」は「あす(褪す・悪す)」、「もち」は「もつ(没つ・歿つ)」の意味も考えられるとのことだそうです。

 さくらばなれば「19ロ-3」(19B-4)
またのもち

桜の花が満開になった庭で、桜餅(又の餅)を楽しみました。

19-17 「タカギ」が黄金色の蹄の黒馬を奉りました(19B-4~5)
 
 こかねひつめの「19ロ-3」(19B-4)
くろこまの たかぎがひけば
たてまつる(19B-5)

黄金の蹄(ひづめ)をもった黒駒(黒馬・駿馬)を「タカギ」が引き連れて奉りました。

「タカギ」(スズカ姫の兄で仙台ヒタカミの神、7代タカミムスビ神)(幼名フリマロで、幼名ワカヒト(後の天照神)と学友であった)

19-18 マナイに馬に乗り御幸し幾度も奉りをされました(19B-5)

 みつぼまなゐに「19ロ-3」(19B-5) 
のりみゆき しばしばまつり
きこしめす これそらくもり「19ロ-4」 
あらざりき

天照神は三つの壺(オキツボ・ケタツボ・ハラミツボ)やマナイ(比沼麻奈為・アサヒ宮・丹後)に、馬に乗って幾度も御幸され、奉りをされました。

これは、空(心・心持ち)が曇ることはなく、明るい世界に導きました。

19-19 「ニニキネ」が後年御幸されたところが「ほつま国」の「ニハリ」になりました(19B-5~6)
 
 としへてのちに「19ロ-4」(19B-5) 
にゝきねの みゆきほづまの(19B-6) 
にはりなる

 年を経てた後に、「ニニキネ」(オシホミミの次男・天照神の孫に当たる)が、御幸されたところが「ほつま国」の「ニハリ」(新治)となりました。

JR水戸線に新治駅もあり、筑波山神社の北側に幾つかの足跡と思われる神社などが点在しているようです。

19-20 乗馬の術を「タカヒコネ」が受け継ぎました(19B-6)
 
 のりのりめせは「19ロ-4」(19B-6)  
「をばしり」が わざをうけたる
たかひこね

「ヲバシリ」が馬に乗られて御幸されましたので、乗馬の術を「タカヒコネ」が受けつぎました。

「タカヒコネ」は、初代大物主「オホナムチ」と「タケコ」(オキツシマヒメ タケコ・3姉妹)の2番目の子供、
兄は2代目大物主クシヒコ・コトシロヌシ(エビス神)、
妹は「タカテル姫」

19-21 「地道」は容易いが、荒れ乗り、逸乗りの技は得難いものです(19B-6~7)

 ぢみちはやすく「19ロ-4」(19B-6)
あれゐつの わざはゑかたき(19B-7)
もゝちたび とゝのへねりて
これをうる「19ロ-5」

「地道」(普通に乗馬して歩くこと)は、易く・簡単にできるようになります。
しかし、「荒れ乗り」や「逸乗り」の技は難しく得難いものです。  
百回、千回と調教の練習を積み重ねて、やっとのことで達成できるものです。

19-22 馬の生まれつきの性格を知らないと乗りこなせません(19B-7)

 まづしるむまの「19ロ-5」(19B-7) 
うまれつき あらましとかん

先ず(最初に)馬の生まれつきの性格を知っておいて、大体のところを理解しておかないと、馬を乗りこなすことはできません。

19-23 「ひたかみ」は一年で馬に乗れるようになりました(19B-8)
  
ひたかみは しゝたくましく「19ロ-5」(19B-8)
ゆるやかで やゝひとゝしに
のりなるゝ ぢみちののちは
あれのりや

「ヒタカミ」は筋肉隆々で、温厚な方です。ほぼ一年で馬を乗りこなせるようになりました。最初に「地道」(普通に乗馬して歩くこと)乗りに十分慣れた後に「荒れ乗り」にも乗りこなせるようになりました。

19-24 筑紫の馬について(19B-8~9)
 
 つくしのむまは「19ロ-5」(19B-8) 
すこやかに ゆるくなるゝも(19B-9) 
としなかば はせいづかけも
なかなれや「19ロ-6」

筑紫の馬は、健やか(体が丈夫で元気)で、激しくないが、年半ばになれば、馳せる・逸乗り・駆けることもかなり慣れてきます。

19-25 越国の馬について(19B-9~10)

 またこしくには「19ロ-6」(19B-9) 
たくましく しゝなかなれに
いそぐゆえ みよつきなれて(19B-10)
いつかけも なれといそぐは
あやしあり

一方、越国の馬は、たくましく筋肉も中肉に早く育つため、「みよつき」(3か月で・御嗣)慣れて、逸駆けも慣れるようにと急ぐあまり不安があります。

19-26 南の馬について(19B-10~11)

 みなみのむまは「19ロ-6」(19B-10) 
ちいさくて としなれはやく
ねがうすく いさおしならす(19B-11)

南の馬は、小さいので早く成長しますが、性格があっさりしており、勇ましさに欠けています。

19-27 馬は種(血統)によるが、育ちで良し悪しが(19B-11~12)

しかしまた つよきよはきも「19ロ-6」(19B-11)
たねにより けいろにわかつ「19ロ-7」 
よしあしも そたちによりて
しなかわる よくのりなれて(19B-12)
これをしる

しかし、一方で強き弱きも種(血統)によって、毛色(性格)が分かれます。良し悪しも育て方によって品(品格)が変わります。よく乗り慣れることで、この違いが分かるようになります。

19-28 稲虫払いに馬を使います(19B-12~13)

 むまもちゆるは「19ロ-7」(19B-12) 
いなむしか ひみづのなせる
わざわひも はやのりなして
のぞくなり(19B-13)

稲穂に群がる稲虫(いなご)を、稲虫払いという秘密の祓いの技を、馬を「速や乗り」(乗りまわす)で追い払います。

この時から、既に馬を生活の一部として使いこなしていたことが分かります。

19-29 法を犯す者を追うとき、片手に刀を持つので轡の綱は「たえ」を使います(19B-13)

 もしのりおかす「19ロ-7」(19B-13)
ものあれば てにはつるぎを
もつゆえに くつわのつなは「19ロ-8」  
あかるたえ きぬはもちひず

もし、法を犯す者を追い駈けるときには、馬に乗って追い駈けます。その時、片手には剣を持ちますから、轡(くつわ)の手綱は、艶のある「たえ」の布(綱紐)を使い、絹は用いません。

ここで、「あかる」は明るい・艶のあるという意味から表面がすべすべした素材のことと思い至りました。あるいは、「あがる」で挙がる・上がる(下から上へ)の意味合いがあるのかも知れません。

また、「たえ」(栲・たえ)とは、カジノキ・藤・麻などからとった繊維などの繊維で織った布の総称のことのようです。

19-30 縮(ちぢみ)布の手綱を腰に挟み込み、越を左右にひねって操ります(19B-14~15)

ちゞみぬの ちゝめるゆうで「19ロ-8」(19B-14)
やたふたつ そのみづつきを
わにゆひて てつきおこしに
はさみおぶ

縮み(ちぢみ)布の縮む(伸縮する)木綿で、「やた」(八尺)長さのものを二本用います。片方を轡(くつわ)の承鞚(みづつき・手綱の両端の金具)を輪に結んで、手つき(手元)の方を腰に挟み込んでおぶる格好にします。

「おぶ」はおんぶに抱っこの負ぶるの意味
また、既にこの時から縮みという織り方の布の名前があったことにも驚きます。

 このふたすぢを「19ロ-8」(19B-14)
 みぎひだり こしのひねりに(19B-15)
つなをひく

この二本の縮み布で作った手綱を、腰を左右にひねって操って意のままに馬を動かします。

19-31 馬の心と息が合えばこのような難しい技もできます(19B-15)
 
 むまのこゝろに「19ロ-8」(19B-15)
 こたえてぞ たえなるわさを「19ロ-9」  
なすたとえ

馬の心に答えてこそ、この絶妙な技(両手を離して腰で手綱を操る)が成せるという例えです。

19-32 馬の鞍の居木には長い短いがあります(19B-15~16)

 あめつちつなぐ「19ロ-9」(19B-15)
なかくにの いきにつきひの(19B-16)
ながみぢか はるあきとなす

天地をつなぐ「なかくし」(中心の串・御柱)のように、馬の鞍の居木(いぎ)にも月日のように長い短いがあって、春であったり秋であったり移り変わるものです。

春分の日と秋分の日が基準となって、それ以外の月日(日照時間)には長い短いがある。地球の回転軸(自転軸)は太陽の周りをまわる公転軸とはずれていたことまで認識していたのでしょうか。

「いぎ・居木」(つなぎ)とは馬具の鞍橋(くらぼね)の部分のこと、前輪(まえわ)と後輪(しずわ)をつなぐために渡した木で、乗り手が尻を据えるところ)

19-33みおや神が腰で手綱を扱うときは「たえ」を使い、足取りを見てから乗ります(19B-16~17)

みをやかみ かくこしつかふ(19B-16) 
あかるたえ わざをおもわゝ
くらしきて ゆきつもとりつ(19B-17) 
むそあゆみ あしどりをみて
のちにのる「19ロ-10」

みおや神はこのように腰を使って(剣を持ったり、矢を射るために手綱は手では引かず、腰に挟み込んで腰を振って操作、手が自由に使える状態にして)、「あかるたえ」(すべすべした表面の布・綱・下記)を用い、技を思い巡らすとき、鞍を馬の上に敷いて、行ったり来たりして、六十歩ほど歩かせて、足取りを観察してから実際に乗って試します。

ここで、「あかる」は明るい・艶のあるという意味から表面がすべすべした素材のことと思い至りました。あるいは、「あがる」で挙がる・上がる(下から上へ)の意味合いがあるのかも知れません。

また、「たえ」(栲・たえ)とは、カジノキ・藤・麻などからとった繊維などの繊維で織った布の総称のことのようです。

19-34 地道(普通の乗馬)の鐙は金物で、差し縄を短く腹帯を緩めます(19B-17~18)
 
 ぢみちのあぶみ「19ロ-10」(19B-17)  
かなつくり かけはをざしの(19B-18) 
つりなわも ゐつきみじかく

地道(ゆっくり普通に歩くとき)の鐙(あぶみ)は金物で作ります。駆け足のときは、「おざし」(あぶみ)という吊り縄も五寸短くします。

「おざし」とは、苧(からむし)麻の一種の川の繊維で布を織り、縄を作ったもののようです。(鏑邦男著を参考)

ぢみちには はるびゆるくて「19ロ-10」(19B-18)
ゐつゆびの とふるほどよし

地道(ゆっくり普通に歩くとき)の腹帯(はるび)は、緩くしめて指が5本通るほどの隙間があるのがよい。

19-35 逸駆けのときは腹帯を緩めず、下滑鞍(しとなめ)や鞅(きづな)を添えます(19B-18~19)

ゐづかけは はるびゆるめず「19ロ-10」(19B-18)
ちとしめて しとなめきつな(19B-19) 
むながひも しほでにそえて

 逸駆け(速く走る)の時は「はるび」(腹帯)を緩めないで、些と(ちと・ほんの少し)きつく締めます。
「しとなめ」(下滑鞍)と「きつな」(絆・鞅)と「むながい」(鞅・胸懸)も、「しほで」(四緒手)に添えます。(付け加えます)

「むながい」(鞅・胸懸・胸繋)とは、鞍橋(くらぼね)を固定するために、馬の胸から鞍前の前輪(まえわ)の四緒手(しおで)にかけて取り回す緒(皮ひも)。

鞅(おう)には、①むながい
        ②はらおび
        ③きずな
の意味があるようです。
当時の言葉がそのまま現在の乗馬用語になっていることを知りました。

19-36 轡(くつわ)の手綱を鞅(きづな)にそえ、轡銜(くつばみ)を輪に結び両端を持ちます(19B-19~20)

くつはつな ひとたけむたの「19ロ-11」(19B-19) 
なかほとを きつなにそえて

轡(くつわ)の手綱は1尺6寸です。その中程を「きづな」(鞅・絆)に添えます(付け加えます)。

くつはみの わにゆふはしを「19ロ-11」(19B-20)
まてにもつ

轡銜(くつばみ・くつわの馬の口に噛ませる金具部分)を輪に結んで、両端をそれぞれ両手(左右の手)に持ちます。

19-37 そうすれば、「あたばしり」(無駄な走り)なき一貫間が得られます(19B-20)

 あたばしりなき「19ロ-11」(19B-20)
ひとぬきま

そうすれば、無駄に走ることのない一貫きの間(8尺の長さ)になります。

お酒には、「あたばしり」(新走り)という言葉が、新酒で酒を絞るとき、力を加えないうちに流れ出てくる最初の酒を言っています。
漫画家で名誉酒匠の高瀬斉氏に確認したことがあります。昔、杉並区の区民企画講座でおやじ塾というのがあり、お酒の講師として招いたときに知りました。
お酒の場合は、最上級のお酒のことを意味していますが、ここでは、漏らさないよう、つまり無駄な動きを馬にさせないように我慢させることを言っているようです。

19-38 「てるたえ」・「あかたえ」について(19B-20~21)

 またてるたえは「19ロ-11」(19B-20)
たけむたの そのみつつきを
まてのわに ゆひてなかもつ「19ロ-11」(19B-21)

また、「てるたえ」(照栲・白い布が直接の意味だが、馬術の一つを言っている)は、丈(長さ)が6尺で、その「みづつき」(承膣・轡の引手部分)を両方の輪に結んでその中央を持ちます。

あかたえと ぬきまをかぬる(19B-21)
てるたゑや「19ロ-12」 

「あかたえ」(轡の綱・馬術の一つ)と「ぬきま」(一貫きの間)を兼ねるのが「てるたえ」になります。


19-39 馬は目鼻立ちより背骨の大きさです(19B-21~22)

 むまのさためは「19ロ-12」(19B-21) 
めはなより おほねえやたの
つゝたちは ゐたゐきのりを(19B-22)

馬の良し悪し(定め)は、目鼻立ちより、背骨まで大きさです。馬が立ち上がった時の背高さは八咫(尺)で、乗馬するとき、引綱は一貫の間の半分の五咫(尺)です。

「いたぬき」の解釈を、轡(くつわ)に付ける引綱を「ひとぬきのま」(一貫の間)の半分の五咫(尺)ではないかと考えました。
馬のことを全く知らない小生には、今一つ実感がわきません。

19-40 馬の寿ぎの典には疑問があります(19B-22~23) 

はつきもち さつきゐつかの「19ロ-12」(19B-22)
ことほぎの のりにかけたは
あやしあり

八月十五日と五月五日の祝賀(寿ぎ)の典(宣告・決まり)に、掛ける(あてがう)には、疑問があります。

 たとえふとくと「19ロ-12」(19B-22) 
やつゐゐの わりあひかがえ(19B-23) 
たまふへし

例えば「ふ」(2歳馬)と「く」(9歳馬)が紛れ込んでいる割合を考える必要があります。さらには、八(8月15日)の祝賀と、五五(5月5日)の祝賀の割合を考えて賜う必要があります。

上記解釈は、私の全くの推測ですが、3歳馬から8歳馬までを正規の乗馬の馬と定めていたのではないでしょうか。馬年令x3が人間の年令に相当するという計算もあるようです。

19-41 御孫も馬術をものにされました(19B-23~24)

 こゝにみまごの「19ロ-12」(19B-23) 
ぢみちのり のりなれねりて「19ロ-13」  
あれのりも ひつみつきへて
つひにゑて またゐづのりを(19B-24)
としかさね わざゑたまえは

このようにして、御孫(天孫ニニキネ)も、地道(ゆっくり普通に歩く速さ)から始めて、今では乗り慣れ練れて、「荒れ乗り」も毎日練習を積み重ね、月を経て、ついに馬術を自分のものにされました。
更に、何年も年を重ねて「逸乗り」の技を得られました。

「荒れ乗り」は、三十九手(通り)の離れ技(花技)。
「逸乗り」(厳・いず)乗りは、五十九連発もの早詰の妙技(曲芸)。
という説明がありましたが、どう違うのかは、今の私には分かりません。しかし、ここで、逸乗りの方がはるかに高度なテクニックであることは理解できました。

19-42 「タカヒコネ」は二荒れの「オシデ」を賜い、子孫も馬の君となりました(19B-24~25)

みことのり ゐづのをしてを「19ロ-13」(19B-24)
たまひけり たかひこねには
ふたあれの をしてたまえは(19B-25)
こもまこも むまのきみなり

詔りがありました。逸乗りの「オシテ」を賜いました。

「タカヒコネ」には、「フタアレ」(二荒)の「オシテ」を賜いました。そして、「タカヒコネ」の子も孫も馬の君となられました。

19-43 馬の薬草には人参など7種類あります(19B-25~26)

くすりには ひとみこまひざ「19ロ-14」(19B-25) 
うはなくず つちひとゑばは
まめはごぞ(19B-26) 

馬に与える薬(薬草)には、
人参(ひとみ)、
「こまひざ」(いのこずち)、
卯の花、
葛、
「つちひとくさ」(そくず・スカズラ科ニワトコ属の多年草)、
えばわ、
まめわごぞ
の7つになります。

人参のことを当時は「ひとみ」と言っていたものが、漢字到来で「ひと」を「人」、「み」を「三→参」から、訓読みで人参と書かれていたものが、時代と共に音読みになって「にんじん」と呼ばれるようになったことが分かります。

19-44 「イツヲバシリ」と「タカヒコネ」は二荒神となり、乗り弓(流鏑馬)を習うときになりました(19B-26)

 ゐつをばしりと「19ロ-14」(19B-26)
たかひこね ふたあれかみと
きさらしゑ まつるのりゆみ
ならふころかな

「イツヲバシリ」と「タカヒコネ」は「フタアレカミ」(二荒山神)となられました。2月の午の日(「ウマ」・「しえ」)の日に、乗り馬弓(流鏑馬)を祭ることが始まりました。そして、それ以外の役職者が乗馬を習う時代になりました。










「しえ」について
さしえ:庚午かのえうま、
ねしえ:壬午みずのえうま、
きしえ:甲午きのえうま、
つしえ:丙午ひのえうま、
おしえ:戊午つちのえうま

乗馬のなかでも、荒れ乗りという難しい極意をこの二人が習得したことで、二荒れ神という名前を賜わったことが分かります。
今でも、二荒山神社の隣の日光東照宮に白馬がまつられていることに関連を感じます。

「イツヲバシリ」は、「モノノベ」の名を賜い、「イヅ」の名も賜い、鹿島神になり、「タケミカヅチ」と名付けられたとあります。
19綾-12、19綾-13参照。

「タカヒコネ」は、
「ソサノオ」の子供①「クシキネ」と
「コマスヒメハヤコ」(天照神の内妃)の子供②「オキツシマヒメ タケコ」との子供になります。

19綾完
2021/10/30
2021/10/31一部追記変更
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