猿田彦と天孫ニニキネについて水尾神社資料を拝借
2023年3月23日に猿田彦と天孫ニニキネについて、エクセルで作った展開図をのせただけで、その前段階の本文の記述が抜けていました。
遅くなりましたが、以下昭和46年3月の資料(2003/7入手)より
高島地方の古代史話 水尾(みを)神社の縁起解明
「編集人 竹 内 将 入.
発行入 水 尾 神 社神職
滋賀県高島郡高島町下拝戸
発行所 宗教法人水尾神社社務所」
より、拝借したものを抜粋しました。
ホツマツタヱ小笠原長弘筆録本の24綾に注釈が「小笠原通当が近江国三尾神社より拝持して帰った三輪容聡本のこと。」とありました。三尾神社にホツマツタヱの原本の一つがあったと理解できます。本資料からホツマツタヱ記述と関連あると思われた個所を抜粋いたしました。

一、 長田の土君(つちきみ)、猿田彦命
音羽、永田、小田川の由来
猿田彦の祖先は豊国主尊(とよくにぬしのみこと)の三男、国底立命(くにそこたちのみこと)で、土民農業の祖神である。故に土君(つちきみ)と称し代々相続してこれが通名である。
天照大神の御代に土君(つちきみ)は非常に農業の道に詳しく、土民はなお貌(かたち)が猿の如く原始的であったが、田作りの業を教え導くと人相がよくなり、公田を耕して身を修めた。それで土民は指導者の土君(つちきみ)を猿田彦と称して尊敬した。かくてその名声が諸国に鳴り響いて、農業を習う者が多くなり盛んになった。そこで天照大神はその教導の功を賞し、猿田彦に衢(ちまた)神の称号を授けられた。

その後、猿田彦は淡海国(あふみのくに)比良嶽(たけ)の北の尾崎で一つの環石(たまきいし)を拾い、天照大神に献上したところ、玉工を呼んでこれを磨かされ明玉となった。ところがその玉に羽のようなものが出来てよく音を発した。
大神はこれをご覧になって、音翅(かける)がように四方の民衆によく徹して、農耕の道が益々興隆する玉であると、土君(つちきみ)の猿田彦を褒めて興玉神という称号を授けられた。それでこの玉を羽明玉と称し、その出土した処を音羽溪(おとはたに)、その流れの川を音玉川と名付けられた。

かくて猿田彦に永く田作りの業を導くべしと、長田(ながた)の土君(つちきみ)と封賞された。
時に猿田彦在寿今3拾8万歳(3+8+5×4=31即ち三十一歳)、未だ老いず稚(わか)盛りなりとある。
今の私には、この年齢の数え方(数式)がわかりません。「時に猿田彦在寿今三拾八万歳(3+8+5×4=31即ち31歳)、未だ老いず稚(わか)盛りなりとある」という記述ですが、ホツマツタヱでは、「みそやよろとし」(三十八万歳)と記されていたと想定されます。
なぜかここでは、三十一才と計算されています。猿田彦は何代か続いていたようなのでその代も考慮されているのかも知れません。
今までは、喜ばしい歳・幸せであった38才と勝手に解釈していました。
高島町に今も音羽、永田の地名が残っており、音玉川は音の「お」と、玉のまを略すと、おた川となり、今の小田川のことであろう。
猿田彦の七つの称号
猿田彦命、 衢(ちまた)神、 興玉神、 長田の土君(つちきみ)
幸前馭神(さいのかみ)、 月隅の土君、 三尾大明神
二、 三尾大明神、三尾里(みおのさと)
瓊々杵尊(ににぎのみこと)、猿田彦の案内で
彼岸中日観測に高島へ、白鬚神社縁起
天孫瓊々杵尊の御代(西紀84~115)尊は天照大神(西紀37~91)より授かった三種の神器(太陽観測器)や彼岸中日観測器の銅鐸を用いて、彼岸中日を測定し 土民に種蒔(たねまき)の適期を教え 食糧を増産させようと 大神の許しを得てお供を連れて普く諸国を巡幸された。
尊たちは旅の幾日を重ねて北の高志(こしの)国(越(こし)の国、越前越後のこと)から近淡海国(つかつあふみ)(近江国)の高島まで来られたところ、音玉川(現在の小田川)の川口まで猿田彦が出迎え、天鈿女命(あめのうづめのみこと)を通じて、櫨川(うかわ・今の鵜川)の仮宮に宴を設けてお待ちしておりますと述べ、前駆して巡幸の前路の障害を排除して案内した。因って尊より猿田彦に幸前馭神(さいのかみ)と云う賞号を賜わった。

更に南行すると比良山系の尾崎三ヶ所(今の打下(うちおろし)から明神崎附近)で道が塞がっているので、猿田彦は鎧崎、吹卸(今の打下のこと)東の鏡崎などを切り開いて御案内した。三つの尾崎を啓開した功により更に三尾大明神の称号を尊より賜わった。
これは大功に対する褒賞である。それで猿田彦はその住所を三尾里(みをのさと)と名づけた。今の三尾里を含め高島町一帯であったらしい。大昔は郷(さと)を里(さと)と書いたが、条里の里と混同し易いので、神亀元年(西紀七二四)に里を郷の字に改められた。一郷の戸数は約五十戸である。
後年猿田彦は正に神とならんとする時(亡くなるとき)、三尾郷(みをのさと)に(今の白鬚神社の処)洞窟を掘り歿する日を太占(ふとまにうらない)で定め、三人の子を招いて自分の歿する鎈那秧(さなえ)の日(早苗(さなえ)、五月五日)には、夜半過ぎまで大声で自分を祀る祭歌を謡え、そうすると自分は清気陽明境に入る、従って自分の魂は肉体を離れて神に化生すると言い終って、洞窟内に入り神となられた。 天秢暦五拾七穂歳(57歳) の秧苗月(さなえ)(五月)、鎈南秧(さなえ)の日(五日)である。これは丁度纒向珠城宮(まきむきたまの)(人皇十一代垂仁天皇)廿九歳(西紀二六八年)の庚申五月庚申五日に当る。これ三尾大明神を祭るのを庚申待とする所以であると、ある。
なお、白鬚神社は垂仁天皇の二十五年(西紀二八九年、猿田彦命歿後二十一年目) に、伊勢におられた倭姫命(やまとひめ)が、猿田彦命が入り神となられたこの洞窟の地に、猿田彦を創祀されたものと伝えられている。また、倭姫はその八年後の丁巳年(西紀二九七年) に伊勢神宮を創建された。
三、 山崎命、山崎郷(のさと)
猿田彦は末子に疱瘡、皮膚(ひふ)病の治療法を伝授、永田神社の縁起

猿田彦には三尾郷(のさと)の永田で三人の子が生まれた。兄を太田命、次を岐大人(くなとのうし)、末子を山崎命と名づけた。
これより先猿田彦は伊勢国御裳裾川(みもすそ)の辺(ほと)りで新田を開拓し、挾長田里(さなかたのさと)と名づけ住った。土民はこれを喜んで彼の存寿二百万歳(2+5×6=32 三十二才)の祝いをした時。天照大神もこれが祝品として猿田彦に、天成神道と祭事宗源の秘伝を伝授し、また金鈴、埴活(はいき)、鼓笛(たち)の三つの神器を授与し、将来神道の興隆に努める人が出たらその者に授けよと詔(みことのり)を賜わった。
その後人皇十一代纒向珠城宮(まむきたまきのみや)(垂仁天皇)の廿五歳の時(西紀264年)に、この三つの神器を天君府の豊姫に奉還して郷里三尾郷に帰った。猿田彦は天照大神より伝授された天成神道と祭事宗源の秘伝を長男の太田命に伝授した。それで太田命は父の開拓した伊勢国挾長田里に行って、その地の土君(土民農業の神)となられた。また次男の岐大人には道別(ちわき)本源(道啓きの秘伝)を授けた。この大人(うし)は尾治(をはり)国(尾張国)に於いて山々の尾崎(山の出端)を拓き水路をつけ、荒れた道をよくして遂に津嶋(尾張国)の森に住った。土民は彼を源大人(みなもとのうし)と称した。
末子の山崎命(この地の地勢が三尾山の出崎であるところよりかく命名された)には、この地に於いて土民の疱瘡、皮膚病を治すようその療法を教えた。
それで山崎命は赤杉山の裾野の東の辺(ほと)りに一流の霊水(これを赤井水と名づく)があるので、そこに家を造って住まった。それでこの地を山崎郷(のさと)と呼んだ。
現在の下拝戸の水尾神社の附近と推定される。命の子孫はみなこの附近に住して代々山崎姓または赤井姓を用い、神職をする者が多かった。
また、猿田彦に田作りの指導を受けた永田の農民は、その遺徳を称え同地に三尾大明神の社を建てて、山崎氏を同社の神主に迎えた。
現在の永田神社が当時の三尾大明神社であろう。また、後述の大同三年に「和解三尾大明神本土記」を書いた水尾神社の神主赤井重彦氏も、山崎命の後裔であろう。
むすび
猿田彦命
以上、所々筆者の所見を少々加えて述べ来ったので、大筋についてはお判りいただいたことゝ、思うが、.なお二、三疑問を抱かれた人もあろうと考えられるので、筆者の考察を附記して、むすびとしたいと思う。
その第一は猿田彦命であろう。猿田彦は五十七才(57才)で西暦268年三尾郷(みをのさと)で歿しているのに、天照大神(西暦37~91)や瓊々杵尊(ににぎのみこと)(84~115)の頃にも居たことになる。また三尾大明神本土記の初めに猿田彦命の孫(ひ)、山崎命とあるのに、後半には、猿田彦には三尾郷で三人の子が生まれた。末子を山崎命と名づくとあり、猿田彦は一代ではなく襲名して少なくとも三代以上、五代は続いたものと考察される。
そしてその最後の猿田彦が三尾郷の三尾崎(今の明神崎)で歿し、白髪神社として祀られていることになる。
以上、本文
一、 長田の土君(つちきみ)、猿田彦命
二、三尾大明神、三尾里(みおのさと)
三、山崎命、山崎郷(のさと)
と むすび の猿田彦命の項目について抜粋させていただきました。
藤田 昇
遅くなりましたが、以下昭和46年3月の資料(2003/7入手)より
高島地方の古代史話 水尾(みを)神社の縁起解明
「編集人 竹 内 将 入.
発行入 水 尾 神 社神職
滋賀県高島郡高島町下拝戸
発行所 宗教法人水尾神社社務所」
より、拝借したものを抜粋しました。
ホツマツタヱ小笠原長弘筆録本の24綾に注釈が「小笠原通当が近江国三尾神社より拝持して帰った三輪容聡本のこと。」とありました。三尾神社にホツマツタヱの原本の一つがあったと理解できます。本資料からホツマツタヱ記述と関連あると思われた個所を抜粋いたしました。

一、 長田の土君(つちきみ)、猿田彦命
音羽、永田、小田川の由来
猿田彦の祖先は豊国主尊(とよくにぬしのみこと)の三男、国底立命(くにそこたちのみこと)で、土民農業の祖神である。故に土君(つちきみ)と称し代々相続してこれが通名である。
天照大神の御代に土君(つちきみ)は非常に農業の道に詳しく、土民はなお貌(かたち)が猿の如く原始的であったが、田作りの業を教え導くと人相がよくなり、公田を耕して身を修めた。それで土民は指導者の土君(つちきみ)を猿田彦と称して尊敬した。かくてその名声が諸国に鳴り響いて、農業を習う者が多くなり盛んになった。そこで天照大神はその教導の功を賞し、猿田彦に衢(ちまた)神の称号を授けられた。

その後、猿田彦は淡海国(あふみのくに)比良嶽(たけ)の北の尾崎で一つの環石(たまきいし)を拾い、天照大神に献上したところ、玉工を呼んでこれを磨かされ明玉となった。ところがその玉に羽のようなものが出来てよく音を発した。
大神はこれをご覧になって、音翅(かける)がように四方の民衆によく徹して、農耕の道が益々興隆する玉であると、土君(つちきみ)の猿田彦を褒めて興玉神という称号を授けられた。それでこの玉を羽明玉と称し、その出土した処を音羽溪(おとはたに)、その流れの川を音玉川と名付けられた。

かくて猿田彦に永く田作りの業を導くべしと、長田(ながた)の土君(つちきみ)と封賞された。
時に猿田彦在寿今3拾8万歳(3+8+5×4=31即ち三十一歳)、未だ老いず稚(わか)盛りなりとある。
今の私には、この年齢の数え方(数式)がわかりません。「時に猿田彦在寿今三拾八万歳(3+8+5×4=31即ち31歳)、未だ老いず稚(わか)盛りなりとある」という記述ですが、ホツマツタヱでは、「みそやよろとし」(三十八万歳)と記されていたと想定されます。
なぜかここでは、三十一才と計算されています。猿田彦は何代か続いていたようなのでその代も考慮されているのかも知れません。
今までは、喜ばしい歳・幸せであった38才と勝手に解釈していました。
高島町に今も音羽、永田の地名が残っており、音玉川は音の「お」と、玉のまを略すと、おた川となり、今の小田川のことであろう。
猿田彦の七つの称号
猿田彦命、 衢(ちまた)神、 興玉神、 長田の土君(つちきみ)
幸前馭神(さいのかみ)、 月隅の土君、 三尾大明神
二、 三尾大明神、三尾里(みおのさと)
瓊々杵尊(ににぎのみこと)、猿田彦の案内で
彼岸中日観測に高島へ、白鬚神社縁起
天孫瓊々杵尊の御代(西紀84~115)尊は天照大神(西紀37~91)より授かった三種の神器(太陽観測器)や彼岸中日観測器の銅鐸を用いて、彼岸中日を測定し 土民に種蒔(たねまき)の適期を教え 食糧を増産させようと 大神の許しを得てお供を連れて普く諸国を巡幸された。
尊たちは旅の幾日を重ねて北の高志(こしの)国(越(こし)の国、越前越後のこと)から近淡海国(つかつあふみ)(近江国)の高島まで来られたところ、音玉川(現在の小田川)の川口まで猿田彦が出迎え、天鈿女命(あめのうづめのみこと)を通じて、櫨川(うかわ・今の鵜川)の仮宮に宴を設けてお待ちしておりますと述べ、前駆して巡幸の前路の障害を排除して案内した。因って尊より猿田彦に幸前馭神(さいのかみ)と云う賞号を賜わった。

更に南行すると比良山系の尾崎三ヶ所(今の打下(うちおろし)から明神崎附近)で道が塞がっているので、猿田彦は鎧崎、吹卸(今の打下のこと)東の鏡崎などを切り開いて御案内した。三つの尾崎を啓開した功により更に三尾大明神の称号を尊より賜わった。
これは大功に対する褒賞である。それで猿田彦はその住所を三尾里(みをのさと)と名づけた。今の三尾里を含め高島町一帯であったらしい。大昔は郷(さと)を里(さと)と書いたが、条里の里と混同し易いので、神亀元年(西紀七二四)に里を郷の字に改められた。一郷の戸数は約五十戸である。
後年猿田彦は正に神とならんとする時(亡くなるとき)、三尾郷(みをのさと)に(今の白鬚神社の処)洞窟を掘り歿する日を太占(ふとまにうらない)で定め、三人の子を招いて自分の歿する鎈那秧(さなえ)の日(早苗(さなえ)、五月五日)には、夜半過ぎまで大声で自分を祀る祭歌を謡え、そうすると自分は清気陽明境に入る、従って自分の魂は肉体を離れて神に化生すると言い終って、洞窟内に入り神となられた。 天秢暦五拾七穂歳(57歳) の秧苗月(さなえ)(五月)、鎈南秧(さなえ)の日(五日)である。これは丁度纒向珠城宮(まきむきたまの)(人皇十一代垂仁天皇)廿九歳(西紀二六八年)の庚申五月庚申五日に当る。これ三尾大明神を祭るのを庚申待とする所以であると、ある。
なお、白鬚神社は垂仁天皇の二十五年(西紀二八九年、猿田彦命歿後二十一年目) に、伊勢におられた倭姫命(やまとひめ)が、猿田彦命が入り神となられたこの洞窟の地に、猿田彦を創祀されたものと伝えられている。また、倭姫はその八年後の丁巳年(西紀二九七年) に伊勢神宮を創建された。
三、 山崎命、山崎郷(のさと)
猿田彦は末子に疱瘡、皮膚(ひふ)病の治療法を伝授、永田神社の縁起

猿田彦には三尾郷(のさと)の永田で三人の子が生まれた。兄を太田命、次を岐大人(くなとのうし)、末子を山崎命と名づけた。
これより先猿田彦は伊勢国御裳裾川(みもすそ)の辺(ほと)りで新田を開拓し、挾長田里(さなかたのさと)と名づけ住った。土民はこれを喜んで彼の存寿二百万歳(2+5×6=32 三十二才)の祝いをした時。天照大神もこれが祝品として猿田彦に、天成神道と祭事宗源の秘伝を伝授し、また金鈴、埴活(はいき)、鼓笛(たち)の三つの神器を授与し、将来神道の興隆に努める人が出たらその者に授けよと詔(みことのり)を賜わった。
その後人皇十一代纒向珠城宮(まむきたまきのみや)(垂仁天皇)の廿五歳の時(西紀264年)に、この三つの神器を天君府の豊姫に奉還して郷里三尾郷に帰った。猿田彦は天照大神より伝授された天成神道と祭事宗源の秘伝を長男の太田命に伝授した。それで太田命は父の開拓した伊勢国挾長田里に行って、その地の土君(土民農業の神)となられた。また次男の岐大人には道別(ちわき)本源(道啓きの秘伝)を授けた。この大人(うし)は尾治(をはり)国(尾張国)に於いて山々の尾崎(山の出端)を拓き水路をつけ、荒れた道をよくして遂に津嶋(尾張国)の森に住った。土民は彼を源大人(みなもとのうし)と称した。
末子の山崎命(この地の地勢が三尾山の出崎であるところよりかく命名された)には、この地に於いて土民の疱瘡、皮膚病を治すようその療法を教えた。
それで山崎命は赤杉山の裾野の東の辺(ほと)りに一流の霊水(これを赤井水と名づく)があるので、そこに家を造って住まった。それでこの地を山崎郷(のさと)と呼んだ。
現在の下拝戸の水尾神社の附近と推定される。命の子孫はみなこの附近に住して代々山崎姓または赤井姓を用い、神職をする者が多かった。
また、猿田彦に田作りの指導を受けた永田の農民は、その遺徳を称え同地に三尾大明神の社を建てて、山崎氏を同社の神主に迎えた。
現在の永田神社が当時の三尾大明神社であろう。また、後述の大同三年に「和解三尾大明神本土記」を書いた水尾神社の神主赤井重彦氏も、山崎命の後裔であろう。
むすび
猿田彦命
以上、所々筆者の所見を少々加えて述べ来ったので、大筋についてはお判りいただいたことゝ、思うが、.なお二、三疑問を抱かれた人もあろうと考えられるので、筆者の考察を附記して、むすびとしたいと思う。
その第一は猿田彦命であろう。猿田彦は五十七才(57才)で西暦268年三尾郷(みをのさと)で歿しているのに、天照大神(西暦37~91)や瓊々杵尊(ににぎのみこと)(84~115)の頃にも居たことになる。また三尾大明神本土記の初めに猿田彦命の孫(ひ)、山崎命とあるのに、後半には、猿田彦には三尾郷で三人の子が生まれた。末子を山崎命と名づくとあり、猿田彦は一代ではなく襲名して少なくとも三代以上、五代は続いたものと考察される。
そしてその最後の猿田彦が三尾郷の三尾崎(今の明神崎)で歿し、白髪神社として祀られていることになる。
以上、本文
一、 長田の土君(つちきみ)、猿田彦命
二、三尾大明神、三尾里(みおのさと)
三、山崎命、山崎郷(のさと)
と むすび の猿田彦命の項目について抜粋させていただきました。
藤田 昇
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