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1221回文

「本の会」という自分の読んだ本の感想を話し合う会に参加していたときの書感の一つです。

以下のブログに今回の回文を取り上げてみます。

https://jhonreno.exblog.jp/25080256/


土屋耕一回文集 軽い機敏な仔猫 何匹いるか 土屋耕一著(故人) 角川文庫 昭和61年発行

回文

先月(2014年)の読売新聞の編集手帳に「回文」のことが取り上げられており、本書の存在を知りました。


まえがきに、回文というのは、上から読んでも下から読んでも同じ文になる文のことです。
昔から「タケヤブヤケタ」が有名です。回文の作り方は、先人の残した伝承ですが、仮名づかい、とくに濁点は現代表記に従って変えているとあります。


さらに、まえがきには、
「長き夜の 遠の眠りの 皆 目覚め 波乗り船の 音の良きかな」
(ナカキヨノ トヲノネフリノ ミナメサメ ナミノリフネノ ヲトノヨキカナ:ホツマツタエ本文より)
という歌が、お正月の宝船に添える歌として古代から受け継がれてきた回文歌の名作です。とあり、同じ歌が「まわりうた」(廻り歌)として、ホツマツタヱにもあることに感心しました。

しかし、ホツマツタヱにある、上から読んでも下から読んでも同じという廻り歌(回文)の意図は、その歌を聞いたものは、返事のしようがない。つまり返歌できないことを意味していました。この歌を聞いたら最後、そこから逃げられずに言うことを聞かざるを得ないという意味合いがあったようです。

当時は、相手に対し、歌を詠んだら、その歌を受け取った者は同じ韻を踏んだ歌で返事をする世界であったようですが、返事が返せないようになっていたということになります。

ホツマツタヱの説明では、「御幸」の船に乗っていた時、風が激しく波を鎮めようと風の神に廻り歌を詠んだ歌で、「かなざき」(住吉の神)が、波を鎮めるという願いを、風の神を相手に詠んだ歌になります。
この歌を詠んだ結果、風は止み海は静かになって船は心地良く進み、阿波(徳島)に着きました。
これが、後世になって、縁起が良いので宝船となって伝えられて今に伝わえていたのでしょう。

もう一つ、ホツマツタヱにしか受け継がれていないと思われるものに、ワカヒメ(天照神のお姉さん)が、勅使としてやって来たアチヒコに一目ぼれして、歌冊(短冊・うたみ)に詠んだ恋文があります。

紀州こそ 妻を身際に 琴の音の 床に吾(我)君を 待つぞ恋しき
(キシイコソツマヲミキワニコトノネノトコニワキミヲマツソコイシキ)

紀州にいらしてください。私は貴方の妻となって、いつも、御そばで琴を奏でて差し上げましょう。布団を敷いて貴方が来られるのを恋しい想いでお待ちしています。

上から読んでも下から読んでも同じという廻り歌(回文)で、その歌を受け取ってしまい、返事にこまり、この歌を聞いたら最後、相談し受けざるを得ない結果になりました。
この歌で、結ばれ、アチヒコはオモイカネと名が変わりました。ワカ姫と夫婦になりました。

このオモイカネ(思兼命・八意思兼命)は暦を作り、美濃・岐阜県下呂市金山町の岩屋岩蔭遺跡で太陽観測されていたようです。
(金山巨石群の「縄文」太陽観測ガイド 小林由良、徳田紫穂著 三五館 2016年9月発行)

オモイカネは暦を作ったこともあり、息子のタチカラオに続きます。
高円寺駅前にある気象神社に(思兼命・八意思兼命)が祀られています。


回文集本文の回文の幾つかです。

求む友 (モトムトモ)
占い習う (ウラナイナラウ)
皆はお花見 (ミナハオハナミ)
関係ない喧嘩 (カンケイナイケンカ)
ママが私にしたわがまま (ママガワタシニシタワガママ)
スマートなトーマス (スマートナトーマス)
軽い機敏な仔猫何匹いるか (カルイキビンナコネコナンビキイルカ)
酒を互いに新潟おけさ (サケヲタガイニニイガタオケサ)
品川に今棲む住まい庭がなし (シナガワニイマスムスマイニワガナシ)
いい女 モテてモテても難を言い (イイオンナモテテモテテモナンヲイイ)
力士手で塩なめなおし 出て仕切り (リキシテデシオナメナオシデテシキリ)

以下は別の土屋耕一シリーズより

新年、年始 (シンネンネンシ)
桜ひらくさ (サクラヒラクサ)
桜切る、気楽さ (サクラキルキラクサ)
酒呑みな、花見の今朝 (サケノミナハナミノケサ)
花見にうとく、とうに、皆葉 (ハナミニウトクトウニミナハ)
ママが我儘 (ママガワガママ)
柚子湯 (ユズユ)

上から読んでも下から読んでも、同じであることには新旧どちらも違いがないのですが、現代は言葉の遊びで愉しんでいるのが良く分かります。古代ホツマツタヱの回文から進化して別物となって生き続けていることに感慨を覚えました。
艶物も多く見受けられ、高度なダジャレへと進化しているように見受けました。

参考までに

①ホツマツタエの解読を楽しむ   ブログ名:ジョンレノホツマ
http://hotsumatsutae.blog62.fc2.com/
②書感など
https://jhonreno.exblog.jp/

③ノホホンの会として一部が残っています。ペンネーム:ジョンレノホツマになっています。
http://hans5.com/+Nohohon/index.htm以上
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猿田彦と天孫ニニキネについて水尾神社資料を拝借

2023年3月23日に猿田彦と天孫ニニキネについて、エクセルで作った展開図をのせただけで、その前段階の本文の記述が抜けていました。
遅くなりましたが、以下昭和46年3月の資料(2003/7入手)より
高島地方の古代史話 水尾(みを)神社の縁起解明
「編集人 竹 内 将 入.
発行入 水 尾 神 社神職
        滋賀県高島郡高島町下拝戸
発行所 宗教法人水尾神社社務所」
より、拝借したものを抜粋しました。

ホツマツタヱ小笠原長弘筆録本の24綾に注釈が「小笠原通当が近江国三尾神社より拝持して帰った三輪容聡本のこと。」とありました。三尾神社にホツマツタヱの原本の一つがあったと理解できます。本資料からホツマツタヱ記述と関連あると思われた個所を抜粋いたしました。
35-01三尾神社

一、  長田の土君(つちきみ)、猿田彦命
音羽、永田、小田川の由来

猿田彦の祖先は豊国主尊(とよくにぬしのみこと)の三男、国底立命(くにそこたちのみこと)で、土民農業の祖神である。故に土君(つちきみ)と称し代々相続してこれが通名である。
天照大神の御代に土君(つちきみ)は非常に農業の道に詳しく、土民はなお貌(かたち)が猿の如く原始的であったが、田作りの業を教え導くと人相がよくなり、公田を耕して身を修めた。それで土民は指導者の土君(つちきみ)を猿田彦と称して尊敬した。かくてその名声が諸国に鳴り響いて、農業を習う者が多くなり盛んになった。そこで天照大神はその教導の功を賞し、猿田彦に衢(ちまた)神の称号を授けられた。

35-04-1三尾神社系図


 その後、猿田彦は淡海国(あふみのくに)比良嶽(たけ)の北の尾崎で一つの環石(たまきいし)を拾い、天照大神に献上したところ、玉工を呼んでこれを磨かされ明玉となった。ところがその玉に羽のようなものが出来てよく音を発した。
大神はこれをご覧になって、音翅(かける)がように四方の民衆によく徹して、農耕の道が益々興隆する玉であると、土君(つちきみ)の猿田彦を褒めて興玉神という称号を授けられた。それでこの玉を羽明玉と称し、その出土した処を音羽溪(おとはたに)、その流れの川を音玉川と名付けられた。
35-04三尾神社音玉川

かくて猿田彦に永く田作りの業を導くべしと、長田(ながた)の土君(つちきみ)と封賞された。

時に猿田彦在寿今3拾8万歳(3+8+5×4=31即ち三十一歳)、未だ老いず稚(わか)盛りなりとある。
今の私には、この年齢の数え方(数式)がわかりません。「時に猿田彦在寿今三拾八万歳(3+8+5×4=31即ち31歳)、未だ老いず稚(わか)盛りなりとある」という記述ですが、ホツマツタヱでは、「みそやよろとし」(三十八万歳)と記されていたと想定されます。
なぜかここでは、三十一才と計算されています。猿田彦は何代か続いていたようなのでその代も考慮されているのかも知れません。
今までは、喜ばしい歳・幸せであった38才と勝手に解釈していました。


高島町に今も音羽、永田の地名が残っており、音玉川は音の「お」と、玉のまを略すと、おた川となり、今の小田川のことであろう。


猿田彦の七つの称号
 猿田彦命、 衢(ちまた)神、 興玉神、 長田の土君(つちきみ)
 幸前馭神(さいのかみ)、 月隅の土君、 三尾大明神

二、 三尾大明神、三尾里(みおのさと)
瓊々杵尊(ににぎのみこと)、猿田彦の案内で
彼岸中日観測に高島へ、白鬚神社縁起

 天孫瓊々杵尊の御代(西紀84~115)尊は天照大神(西紀37~91)より授かった三種の神器(太陽観測器)や彼岸中日観測器の銅鐸を用いて、彼岸中日を測定し 土民に種蒔(たねまき)の適期を教え 食糧を増産させようと 大神の許しを得てお供を連れて普く諸国を巡幸された。

 尊たちは旅の幾日を重ねて北の高志(こしの)国(越(こし)の国、越前越後のこと)から近淡海国(つかつあふみ)(近江国)の高島まで来られたところ、音玉川(現在の小田川)の川口まで猿田彦が出迎え、天鈿女命(あめのうづめのみこと)を通じて、櫨川(うかわ・今の鵜川)の仮宮に宴を設けてお待ちしておりますと述べ、前駆して巡幸の前路の障害を排除して案内した。因って尊より猿田彦に幸前馭神(さいのかみ)と云う賞号を賜わった。
35-05三尾大明神

 更に南行すると比良山系の尾崎三ヶ所(今の打下(うちおろし)から明神崎附近)で道が塞がっているので、猿田彦は鎧崎、吹卸(今の打下のこと)東の鏡崎などを切り開いて御案内した。三つの尾崎を啓開した功により更に三尾大明神の称号を尊より賜わった。

これは大功に対する褒賞である。それで猿田彦はその住所を三尾里(みをのさと)と名づけた。今の三尾里を含め高島町一帯であったらしい。大昔は郷(さと)を里(さと)と書いたが、条里の里と混同し易いので、神亀元年(西紀七二四)に里を郷の字に改められた。一郷の戸数は約五十戸である。

後年猿田彦は正に神とならんとする時(亡くなるとき)、三尾郷(みをのさと)に(今の白鬚神社の処)洞窟を掘り歿する日を太占(ふとまにうらない)で定め、三人の子を招いて自分の歿する鎈那秧(さなえ)の日(早苗(さなえ)、五月五日)には、夜半過ぎまで大声で自分を祀る祭歌を謡え、そうすると自分は清気陽明境に入る、従って自分の魂は肉体を離れて神に化生すると言い終って、洞窟内に入り神となられた。 天秢暦五拾七穂歳(57歳) の秧苗月(さなえ)(五月)、鎈南秧(さなえ)の日(五日)である。これは丁度纒向珠城宮(まきむきたまの)(人皇十一代垂仁天皇)廿九歳(西紀二六八年)の庚申五月庚申五日に当る。これ三尾大明神を祭るのを庚申待とする所以であると、ある。

 なお、白鬚神社は垂仁天皇の二十五年(西紀二八九年、猿田彦命歿後二十一年目) に、伊勢におられた倭姫命(やまとひめ)が、猿田彦命が入り神となられたこの洞窟の地に、猿田彦を創祀されたものと伝えられている。また、倭姫はその八年後の丁巳年(西紀二九七年) に伊勢神宮を創建された。

三、 山崎命、山崎郷(のさと) 
 猿田彦は末子に疱瘡、皮膚(ひふ)病の治療法を伝授、永田神社の縁起
 
銅鐸・白鬚神社


猿田彦には三尾郷(のさと)の永田で三人の子が生まれた。兄を太田命、次を岐大人(くなとのうし)、末子を山崎命と名づけた。
これより先猿田彦は伊勢国御裳裾川(みもすそ)の辺(ほと)りで新田を開拓し、挾長田里(さなかたのさと)と名づけ住った。土民はこれを喜んで彼の存寿二百万歳(2+5×6=32 三十二才)の祝いをした時。天照大神もこれが祝品として猿田彦に、天成神道と祭事宗源の秘伝を伝授し、また金鈴、埴活(はいき)、鼓笛(たち)の三つの神器を授与し、将来神道の興隆に努める人が出たらその者に授けよと詔(みことのり)を賜わった。

その後人皇十一代纒向珠城宮(まむきたまきのみや)(垂仁天皇)の廿五歳の時(西紀264年)に、この三つの神器を天君府の豊姫に奉還して郷里三尾郷に帰った。猿田彦は天照大神より伝授された天成神道と祭事宗源の秘伝を長男の太田命に伝授した。それで太田命は父の開拓した伊勢国挾長田里に行って、その地の土君(土民農業の神)となられた。また次男の岐大人には道別(ちわき)本源(道啓きの秘伝)を授けた。この大人(うし)は尾治(をはり)国(尾張国)に於いて山々の尾崎(山の出端)を拓き水路をつけ、荒れた道をよくして遂に津嶋(尾張国)の森に住った。土民は彼を源大人(みなもとのうし)と称した。

末子の山崎命(この地の地勢が三尾山の出崎であるところよりかく命名された)には、この地に於いて土民の疱瘡、皮膚病を治すようその療法を教えた。
それで山崎命は赤杉山の裾野の東の辺(ほと)りに一流の霊水(これを赤井水と名づく)があるので、そこに家を造って住まった。それでこの地を山崎郷(のさと)と呼んだ。
現在の下拝戸の水尾神社の附近と推定される。命の子孫はみなこの附近に住して代々山崎姓または赤井姓を用い、神職をする者が多かった。

また、猿田彦に田作りの指導を受けた永田の農民は、その遺徳を称え同地に三尾大明神の社を建てて、山崎氏を同社の神主に迎えた。
現在の永田神社が当時の三尾大明神社であろう。また、後述の大同三年に「和解三尾大明神本土記」を書いた水尾神社の神主赤井重彦氏も、山崎命の後裔であろう。


むすび
 猿田彦命

以上、所々筆者の所見を少々加えて述べ来ったので、大筋についてはお判りいただいたことゝ、思うが、.なお二、三疑問を抱かれた人もあろうと考えられるので、筆者の考察を附記して、むすびとしたいと思う。

その第一は猿田彦命であろう。猿田彦は五十七才(57才)で西暦268年三尾郷(みをのさと)で歿しているのに、天照大神(西暦37~91)や瓊々杵尊(ににぎのみこと)(84~115)の頃にも居たことになる。また三尾大明神本土記の初めに猿田彦命の孫(ひ)、山崎命とあるのに、後半には、猿田彦には三尾郷で三人の子が生まれた。末子を山崎命と名づくとあり、猿田彦は一代ではなく襲名して少なくとも三代以上、五代は続いたものと考察される。
そしてその最後の猿田彦が三尾郷の三尾崎(今の明神崎)で歿し、白髪神社として祀られていることになる。


以上、本文
一、 長田の土君(つちきみ)、猿田彦命
二、三尾大明神、三尾里(みおのさと)
三、山崎命、山崎郷(のさと)
と  むすび の猿田彦命の項目について抜粋させていただきました。
 
 藤田 昇

やっと、銅鐸の謎が解けました。ズバリ、彼岸孔でした!

やっと、銅鐸の謎が解けました。ズバリ、彼岸孔でした!

銅鐸202305


世界各地の古代遺跡に、例えばマヤ遺跡、エジプトピラミッド、アイルランドなど、夏至だけ、冬至だけに太陽信仰とも思える太陽光線を捉える仕組みが隠されていました。銅鐸も特別の日に太陽の光りを取り込む配慮があったことに多くの方は気が付きませんでした。
古代遺跡に発見された大掛かりな仕掛けではなく、銅鐸も太陽の光線を取り込む機能を備えていたことです。気が付かれていた方々は銅鐸本体の左右・前後の4つの孔を彼岸孔と呼んでいました。春分・秋分・夏至・冬至の日の太陽を捉えていたことがわかります。

銅鐸は、山の南のふもとに銅鐸を北極星に向かって設置します。そして、日の出を山の正面に向かって銅鐸が照らせれるのを待ちます。日の出の瞬間、地平線に沿って銅鐸の右側が照らされるからです。

彼岸の日だけ、日の出は真東から、右の孔に差し込み、反対の左の孔から光が通り抜けます。日の出の光りが銅鐸の左右の孔を通り抜けたときを彼岸の日と言います。

この日の夕方、日没のときには、逆に西から東の孔に光が貫通します。その日が彼岸の日であることがわかります。銅鐸が正しく置かれていることの確認にもなります。
影になる方の孔の中に、わずかに光が通り抜け始めた日が、「彼岸の入り」で、完全に入り込んだ日が「彼岸の中日」で、光の取り抜けがついに差し込まなくなった日が「彼岸明け」と呼ばれるようになったと思われます。

銅鐸の4つの孔の対角線に太陽の光りが通り抜ける日が夏至と冬至の日を示します。
(銅鐸の孔は対角線29°と言われているようですが、昔、銅鐸展や上野の博物館やでいくつか見たとき、角度が違っているものも存在していた記憶があります。)

銅鐸で太陽の動きを日にちごとに確認し、季節の基準が決めることができるようになったからです。それまでの狩猟生活から農耕生活に移行しつつある年代と思われます。農耕生活に必要なことは、春夏秋冬、種まきから収穫まで育てるための暦が必要とされ、一年を四つに分け、さらに細かく分けていったものとなっています。

立春・雨水(うすい)啓蟄(けいちつ)春分・清明(せいめい)穀雨(こくう)
立夏・小満(しょうまん)芒種(ぼうしゅ)夏至・小暑(しょうしょ)大暑(たいしょ)
立秋・処暑(しょしょ)白露(はくろ)秋分・寒露(かんろ)霜降(そうこう)
立冬・小雪(しょうせつ)大雪(たいせつ)冬至・小寒(しょうかん)大寒(だいかん)

長い年月をかけ、夏至・冬至を示す銅鐸の孔の位置は、春分・秋分から29°の角度で確定されてました。
昔の資料(2003年、初めてのホツマツタヱ記述検証旅行)が見過ごしたままになっていた滋賀県の三尾神社の資料に目が留まりました。

その三尾神社の資料の中に猿田彦と銅鐸という二つの言葉を見つけたからです。
今まで全く無関係と思っていたものでしたが、猿田彦が銅鐸と結びついたことにより、ホツマツタヱを読み直してみると、断片的に出てくる猿田彦の行動から、銅鐸がどういうものであったか、今まで疑問だったものが氷解し、時代背景も浮かび上がってきました。

ホツマツタヱ24綾に、天孫ニニキネが八洲巡りの途中で猿田彦が80人もの馬と篭の行列の道を塞いでいた記述がでてきます。猿田彦が道を塞(ふさ)いで動かなかった、天孫ニニキネが来るのをずーっと待っていたと記述しています。
猿田彦は、そこで何をしていたのかが最初の疑問です。
猿田彦は、毎日、銅鐸に向かい合って、ここで何をしていたのか?

毎日、日の出と日の入りの時に銅鐸の孔へ太陽の光が差し込むのを見ていたと考えられます。銅鐸が動かないように、見守り続けていたからです。
毎朝、毎夕の日の出、日の入りの両方を観察していたと思われます。あるいは、日の出、日の入りのどちらか片方だけであったかも知れませんが。

今までの事例より、多くの銅鐸は、山のふもとの南側に設置されていたようです。山の頂には神がいると信じられ、多くは神社が鎮座しています。夜、南斜面の山のふもとから山頂を見上げると、北の前方に北極星(神)が輝いています。
古代の出雲大社の北の上空に神社が祀られていたようです。さらにその向こうには北の星(北極星)が鎮座していたからと感じられます。

それではなぜ、歴史の流れの中で銅鐸は消えてしまったのか?
ホツマツタヱ後半に、ヤマトタケがエミシ征伐に行ったとき「伊勢の暦」が遠く東北・ヒタカミまで届けらており争うことなく感謝されています。

伊勢でつくられた暦は、候補として、美濃の金山巨石遺跡群(岐阜県下呂市金山町の岩屋岩蔭遺跡)が考えられます。そのほかに益田船山遺跡(橿原市白橿町)や明日香村村岡の酒舟石などでも観測していたと思われます。

(「ホツマツタヱ15綾」や「ミカサ文タカマナル綾」から信じられないほど正確な地球の大きさに驚きます。緯度経度も認識されてきています。地球の大きさは現在の大きさと全く同じ寸法を表示しているにはただ驚くばかりですが。)

紀元前の日本で、ミカサ文やホツマツタエの記述から、地球をクニタマ(球体)として見ており、しかも正確な大きさで測量していたことに驚きました。

正確に測定されていた当時の背景の可能性を取り上げて見ました。
先人たちの調査内容や、遺跡から、組み合わせると浮かび上がってくるように見えたからです。
一つは景行天皇の兄の「イソギネ・ニシキイリヒコ」が司としての記述です。日置の配置から、測量をしていたことが考えられます。

西へ西へと一直線に測量したのは、いくつかの推測があります。
同緯度上に一直線になるように等間隔に日置(火の見やぐら)を設け、合図に使ったためかもしれません。

直接見通しのつく日置の距離を実測したものと、天体測定によって得られた経度の違いを測量したものを突き合せたものと考えられます。

離れた2か所の距離と天空の星の角度のずれを精密に観測したことから、経度の角度から距離が計測され、最終的に地球全体の距離も計算できていたと推測されます。

当時の地球の大きさの測定結果については、現在の大きさとほとんど変わらない事実について、当初はまさかと思っていましたが、正確な測定技術を持っていたものと感心します。

一方、出雲では、
おおなむちの行動の背景ですが、全国を廻り、稲作を確かなものにしていくことを教え説いています。
おおなむち・大国主(おおものぬし)は、狩猟生活、獣肉を食べていると栄養がつき過ぎて早や枯れ(早死)してしまう。お米を食べなさい。と説いていたことが記されています(ホツマ9 綾)。
そのためにもそれぞれの地区で稲作のために銅鐸が必要であると感じていたと思われます。

39もの銅鐸・ミカラヌシを作り上げていたことになります。

同時に、古代の出雲大社の並外れた大きな天空に届くような神社を祀ったことで、北の神(北極星)を祀ることにつながります。
出雲での並外れた大掛かりな行動が本家の存在を脅かすまでになっていました。

後に、銅鐸に頼らずとも太陽を観測されるようになり、精密な暦もでき、地方へも伝えられるようになった時代になりました。

銅鐸が歴史上で突然消えてしまったのはなぜ?
大変な思いをして銅鐸を使う必要がなくなったのはなぜ?
銅鐸を作る目的は何であったのか?
銅鐸に置き換わったものとは何?銅鐸を必要としない新しい時代の取り代わったものは
出雲の荒神谷の39体の銅鐸が何を意味していたのか?不要になったことも
出雲では神まつりせず
銅鐸を各地に配るため、大量(39体)作られたが、不要になっていた。

なぜ、大国主命が出雲を去らなければならなかったか、
「おおなむち」が津軽「つがるうもとの神」になったいきさつは、
本家を差し置いての出過ぎた行動に、くぎを刺す背景が浮かび上がってきました。そして、争いごとをせずに、あてがってもらった津軽へおとなしく身を引くことに納得できました。

 ホツマツタヱ10綾にクシキネ・オオナムチが出雲を去り津軽へ180人のお供と国替えしたことが記されており、その後、出雲での乱れ(罪)も許され、13綾で「カルキミオキナ」(津軽の君・翁)・「垂れ内」(垂れ帳の内:天照神と同等に宮中に昇殿)と呼ばれるようになっています。

後に、大国主は津軽の君として、日高見・仙台でのおしほみみ(天照神とサクナダリセオリツ姫ホノコ・ムカツ姫の子供)とタクハタチチ姫の婚礼に列席しています。

松本清張が「砂の器」に、出雲と東北に同じ方言があったことを言っています。まさに裏付けていたことがわかります。

後に、おおなむちは出雲が乱れた真の理由は、「上のものが欲に溺れると、下の者は真似して手が負えなくなる事」が、今わかったと反省している場面があります。
「すずか」の意味がわかったと反省しています。それ以降、出雲の国が乱れた罪も免じられています。
「みからぬし」という言葉がホツマツタヱに登場します。ひとりの人間として対応しているようにも見えます。

魏志倭人伝には錯綜文字(訳が分からなかった・どのようにも取れる)があったとだけ記載されています。漢字文化を背景にした人からは、48文字だけのオシデ文字に高度な情報が入っているとは到底考えられなかったと思われます。
まさか、精密な天体観測のデータなど48文字に記されているとは思いもよらないことで、卑弥呼が鬼道を占いと言う表現になったことは容易に理解できます。(卑弥呼が鬼道:ヒミコ・日・天照神の巫女・御杖代:キミチ・黄道・太陽の道)

私自身もこのミカサ文57調の歌を読み、記載内容をエクセルで図に展開し全体が読み取れて初めて納得できました。小中学校のときの天体観測や経験も役立ちました。太陽を廻る公道と地球の地軸の傾きを言っていると理解できました。

漢字文化を背景にされた方が、ホツマツタヱに記されている内容は、訳が分からないことが多く、自分たちに都合の悪いところや理解できないところは無視して、古事記・日本書紀を完成されたと思われます。自分たちの知らない高度な情報は認めるわけにいかず、日本には文字がなかったことにしたことは容易に納得できます。
いつの時代も、時の権力者は自分の不都合なことは表に出しません。
そのため、今でもホツマツタヱが抹殺されたことを知らない方がほとんどである。
2023/5/18藤田 昇

猿田彦と天孫ニニキネ


ホツマツタヱの解読で、難解で28綾の解読が途中で止まったままになっていました。まだ途中のままですが、以前ホツマツタヱの検証旅行(2003年)で入手したパンフレット資料を読み返したとき、高島地方(琵琶湖西側)の水尾神社三尾神社の資料(昭和46年)が見つかり、その中に猿田彦が飛び込んできました。
詳細な調査資料であり、ホツマツタヱで得られていた系図に猿田彦の系図(エクセルで作成)を併せてみました。


以下昭和46年3月の資料より
高島地方の古代史話 水尾神社(みを)の縁起解明
「編集人 竹 内 将 入.
発行入 水 尾 神 社神職
        滋賀県高島郡高島町下拝戸
発行所 宗教法人水尾神社社務所」
より、拝借しました。
図表一部追記修正しました。
2023/5/30


猿田彦天孫ににきね20230530



埴輪は、どんな理由でいつ生まれたかが、ホツマツタヱに記述

埴輪:

先日、土偶についての謎が解けた本を見つけ、取り上げさせていただきました。
(土偶 130年間解かれなかった縄文神話の謎 竹倉文人著 晶文社発行) 

ホツマツタエと年代的にずれがあるようですが、大きな歴史の流れの中の一つを見ることができたと思いました。
今回、土偶と同じように古代の造形物の一つ埴輪について、取り上げました。
埴輪は、どんな理由でいつ生まれたかが、ホツマツタヱに記述されているからです。
それは、垂仁天皇のときとホツマツタヱ37綾に明確に記録されています。

一方で、中国の秦の始皇帝の時に、兵馬俑という大掛かりな遺跡の情報があったかどうか、関連性があったかどうかは不明です。年代的に、すでに兵馬俑のことが伝わっていたかも知れないと思われるからです。
ここでは、ホツマツタエの記述のみに注目します。

さて、なぜ埴輪が出現したかについて、埴輪ができるまでは、亡くなった方を埋葬するとき、お付きのものが一緒に生きたまま埋葬される風習・殉死があったからです。当初は、殉死された方は自ら進んであの世でも主人にお仕えするという心意気が全てであったのが、時代とともに習慣化されてしまい義務的になっていたような空気があったのではないでしょうか。

例外かもしれませんが、オシホミミ(天照神とムカツ姫との皇子)が亡くなられたとき、お妃の「タクハタチチ姫」は、天照神にお仕えする道を選んでいます。
神武天皇が亡くなられたときには、殉死された方はなんと33人にも及んだと記されています。

ホツマツタエ19綾より
 神武天皇の「おもむろ」を埋葬、殉死者は三十三人に(31綾-41~43頁)

ながつきの そふかつみえに
「おもむろ」を 「かしお」におくる
よそほひは 「あびらつひめ」と
「わにひこ」と とはずかたりを
なしはべる 「きみ」「とみ」ともに
「ほら」にいり 「かみ」となること
あすききて おひまかるもの
「みそみ」たり

(綏靖元年)九月(菊栗月、菊な月)の十二日「つみえ」(ほつま歴 3/60後の丙寅ひのえとら)の日に、神武天皇の「おもむろ」(死骸)を「かしお」(うねび山東北白檮尾)の陵に埋葬しました。
神武天皇の葬送のその時の状況(装い)は「あびらつ姫」と「わにひこ」(くしみかたま)とが無言でかしこまってつき従い、君の亡きがらと臣は共に洞に神になりました(追い枯れ、臣は生きたまま殉死されました)。
あくる日、お二人の殉死を聞いて、待女や従者たちは次々と君の後を追って殉死したものは三十三人にもなりました。

 よにうたふうた
「あまみこ」が 「あめ」にかえれば
「みそみ」をふ 「まめ」も「みさほ」も
とほる「あめ」かな

このとき、世の人々が唄った歌です。
天皇子(あまみこ)が天(あめ)に帰れば(天国に召されたとき)
三十三(みそみ)人が後を追いました。天には、忠(まめ)も操も通じています。

後世になり、垂仁天皇は、兄の死で、殉死(追い枯れ)の残酷さを目撃し、廃止を決意することになります。37綾-2~5

殉死に置き換るもの「埴輪」を考案し作り出したのが、相撲で名声を得た「のみのすくね」ということがわかりました。

 ふそやほかんな
ゐかまかる あに「やまとひこ」
ねつきふか 「おもむろ」おくる
「つきさか」に はべるひとらを
いきながら うづめばさけび
ついにかる 「いぬ」「とり」はむを
きこしめし あわれにおぼす

たまき宮28年十月(かんな:神々が並びいる月)五日、垂仁天皇の兄の「やまとひこ」が亡くなられました。(「やまとひこ」は崇神(すじん)天皇と「めくうし姫」との間に生まれた皇子。)
十一月二日に葬儀(おもむろ:死体を送る)が行なわれました。「つきさか」(地名:柏原の北側)に埋葬されました。
死体を1ヶ月近く風化させてから埋葬したことがわかります。

天皇を埋葬する時、「はべる」(部下・従ってきた人々)を、生き埋めにして殉死させました。
苦しがって泣き叫び続けてついには死に至りました。野犬や鳥が食いついているのを見、突付くのが聞こえきて、哀れに思いました。

「みことのり」 いきをめぐまで
「からする」は いたましひかな
「ふるのり」も よからぬみちは
やむべしぞ
そこで、垂仁天皇が詔を発しました。生きたまま(息をしている、生きている人を恵んでまでして)死に至らせる(からす)のは痛ましい限りである。
古い法典であっても、悪い教えは止めるべしと申されました。

垂仁天皇の兄の「やまとひこ」が亡くなってから、2年後に 「ひはず姫」(ひはす姫)の葬儀がありました。
この時から、埴輪が始まります。

 みそふほふづき
むかまつる 「きさき」「ひはづ」の
みをくりは もろとみめして
みことのり

たまき宮三十二年七月六日、中宮の「ひはず姫」(ひはす姫)がお亡くなりになりました。
垂仁天皇は、葬儀(見送り)について、諸臣を集めて詔を申されました。

「ひはず姫」(ひはす姫):垂仁天皇の3代目正妃でニシキイリヒコ・イソギネ(兄)、ヤマトオシロワケ・タリヒコ(弟)の母親)

 さきの「をひかれ」
よからねば このおこなひは
いかにせん

垂仁天皇は、今までの追い枯れ(殉死すること)は良くないことなので、今度の葬儀は殉死に代えてどのようにしようかと相談されました。

 「のみのすくね」が
もふさくは いけるをうづむ
ためしとは あにゐからんや
はからんと 「いつも」の「はしべ」
もゝねして 「はにでこ」および
「くさくさ」の かたちつくりて
たてまつる

「のみのすくね」が申し上げるには、生きたまま埋めるという「ためし」(お手本・見本・試すこと・前例に従うこと)は絶対にやめましょう。
考えて(図らん)見ましょうと言って、出雲の土師部(はしべ)多数に、埴でこ(土人形)及びいろいろ(くさぐさ)な形のもの(馬・舟・建物など)を作ってお納めしました。(奉りました)
 いまよりのちは
「はしもの」を いけるにかえて
みさゝきに うえてためしと
なすべしや

今後は、「はしもの」(土で作ったもの・「は」は「はに」、埴)を、生きた人間に代えて陵に「はにわ」を植えて(建てて)納めることを今後の「ためし」(お手本)にいたします。

 「きみ」よろこびて
みことのり なんじがはかり
わがこゝろ よしと「はにわ」の
たてものを のちのためしと
さたまりて

君(垂仁天皇)は大層喜ばれ、詔をいたしました。
汝(のみのすくね)が計画したものは、私の思う心と同じで(良しと決定する)あるので、今後は「はにわ」で作った建物(殉死に置き換わる造形)を後世へのお手本にするよう定めまることとする。

 「のみのすくね」を
あつくほめ 「かたしところ」を
たまわりて 「はし」の「つかさ」ぞ

「のみのすくね」を大変誉めて、「かたしところ」という称号を賜りました。そして、土師部(はしべ)という役職(司:司る)に出世しました。

「かたしどころ」の解釈について、
一つは「かたづける場所」「かたす所」から推測して作業場のある土地を示しており、良い土の取れる土地を賜ったと考えられます。
もう一つの解釈としては、「のみのすくね」が「すもう」をしたことより、勝負のかたをつける場所、(後世の土俵につながる)であったのではないかと思われます。
「すもう」・「のみのすくね」については、前回の項目と一部重複しています。

垂仁天皇の代に、「はにわ」が始まった理由や経緯がこの記述でよくわかります。
神武天皇の時には、部下たちは自ら進んで殉死したが、後世になって殉死するのが風習となって義務化されていたように思えます。

いくつか、語源となった言葉が見つけられます。
かる:枯れる:当時は人間が死ぬことも枯れるという表現をしていた。
追い枯れ:殉死、折れ枯れ:事故死、早枯れ:早死
からす:死体を埋葬するまで守って風化させる、死体処理すること、忌み嫌われる鳥になる)
2023/1/26 (日付の年間違えてました) 藤田 昇

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