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38-79~80 かぐのやかた(もとひこ)に道を乞う

16. かぐのやかた(もとひこ)に道を乞う(38-79~80)


 きたよりつがる(38-79)
ひたかみや かぐのやかたに
みちをきく(39-80)


北は津軽や日高見(仙台・東北)などを「たけうちまろ」は、橘(たちばな・かぐの木)の館(厚木市小野神社)に道(此処での道は行きかたと同時にどういう人(先祖)がどういう生活、どういう考え(教え・今で言う宗教観)をもっているのか、どういう世界か知っていること全て)を聞きました。

 もとひこいわく(38-80)
くにしるの みちはいにしえ


そうすると、「たちばなもとひこ」がおっしゃるには、東北のことを知るには、道は昔にさかのぼらなければなりません。と言って以下のかみのりがゐの綾に続けたと考えられます。

このあと 38-80 から 38-86~87 へ話の流れが飛びます。

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続く

ジョンレノ・ホツマ
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38-79~80 二十五年七月、「たけうちまろ」にほづま巡察の詔

15. 二十五年七月、「たけうちまろ」にほづま巡察の詔(38-79~80)

 ふそゐほふみは(38-79)
たけうちに ほづましるべの
みことのり


二十五年七月一日に、「たけうちまろ」にほづま地方(東北・北陸・関東)の巡察をするようにとの詔がありました。

次の 38-79~80 から 38-86~87 へ話の流れが飛びます。

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続く

ジョンレノ・ホツマ

38-76~79やまと姫、隠居し、斎宮をいもの姫に継ぐ

14. やまと姫、隠居し、斎宮をいもの姫に継ぐ(38-76~79)

 ひめことしそよ(38-76)
やまとひめ ことしもゝやつ
よろこびて


「ゐもの姫」は今年十四才です。「やまと姫」は今年百八才になりました。長生きと斎宮の仕事を達成したことについて大変喜ばれました。

なお、当時正月が年に二回あったことより実際の年令は半分という可能性があります。

 よはひいたれば(38-76)
われたりぬ わがやそものべ(38-77)
そふつかさ ゐものにうつし
つかえしむ


私(やまと姫)は弱ってきたので、私は充分に出来ません。私が引き連れている八十神(人)のもののべと、十二人の役人を、これからは、「いもの姫」に引き受けてもらい、天照大神に仕えてもらいます。

 くすこをかみの(38-77)
みつえしろ たけのみやゐに
つつしみて つかえはんべる(38-78)


「いもの姫くすこ」は天照大神の御霊を遷して(背中に背負って)生涯神祀りをします。「たけのみや」(垂任天皇の宮があったところ)に謹んで(身を清めて)いつもお傍にお仕えしました。

やまとひめ うぢはたどのゝ(38-78)
いそみやに


「やまと姫」は宇治宮の機織どの(絹を織る)のいそ宮に隠居されました。

 ひらきしづかに(38-78)
ひのかみを まつればながく
うまなくぞ(38-79)


行為は静かに(ひっそりと)天照大神の神祀りをいつまでも末永く行いました。

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ジョンレノ・ホツマ

38-75~76 二十年二月 伊勢の神に筑紫遠征を報告

13. 二十年二月 伊勢の神に筑紫遠征を報告(38-75~76)

ふそさにゑ きさらぎよかに(38-75)
ゐものひめ くすこうちみこ
いせのかみ まつるいわひは(38-76)
つくしむけ


二十年のさにゑ(当時の六十年ごとのえと)の二月四日に「ゐもの姫くすこ」が内親王になり、伊勢の神(伊勢山田・宇治宮で天照大神)に筑紫(九州)遠征を祀る祝い(報告)をしました。

「ゐもの姫くすこ」は三代目の斎宮(代宮)と考えられます。

一代目は「とよつき姫」(天照大神が丹後のまない原で亡くなり、御霊を遷して鈴鹿まで連れてきた)で、二代目は「やまと姫いつきのみや」と考えられます。

なお、私はこの「いもの姫」の「いもの」は鋳物の語源に関連している気がします。全編読み切った後で再度関連を挑戦したいと思っています。

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続く

ジョンレノ・ホツマ

38-75 十九年九月 大和のまきむき日代の宮に帰る

12-30 十九年九月 大和のまきむき日代の宮に帰る(38-75)


 そこほながやか(38-75)
まきむきの みやにかえます


(まきむきの日代の)十九年九月八日に君(景行天皇)は大和のまきむき(現在はまきむく・近鉄桜井線)の日代の宮に無事に帰りました。


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ジョンレノ・ホツマ

38-73~75 八月 いくば村 うくは(皿)の用意を忘れる

12-29-八月 いくば村 うくは(皿)の用意を忘れる(38-73~75)

 ほづみにいたる(38-73)
いくばむら


八月(旧暦・稲穂を摘む季節)に入り、いくば村(生葉村・福岡県浮羽郡浮羽町)に着きました。

 みけすゝむひに(38-73)
かしはでべ みさらわすれる


御食(みけ)をお勧めするとき、膳部(かしわでべ)がお皿を忘れてしまいました。

おさいわく むかしあめみこ(38-73)
みかりのひ こゝにみけなし(38-74)
かしはでが うくはわすれり
(かしはべが:小笠原写本)
 

村長が忘れた理由を述べました。昔、天皇子(あめみこ・天孫ニニキネ・わけいかづちのみち)が御狩りの日にこの地で御食(みけ)をとられた時、膳部(かしわでべ)が「うくは」(お皿)の用意するのを忘れました。

くにことば みさらをうくは(38-74)
ゐはもこれ かゝるめでたさ 
ためしなり(38-75)(かゝるめでたき:小笠原写本)


お国言葉で、お皿のことを「うくは」と呼ぶようになりました。また、お皿のことを「いは」とも呼んでいます。
これは大変めでたい古事にならったもので、この地を「うくは」と呼ぶようになりました。

続く

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ジョンレノ・ホツマ

38-71~73 八女(やつめ)姫神は、三根(現吉野ヶ里遺跡)を治めていた

12-28.八女(やつめ)姫神は、三根(現吉野ヶ里遺跡)を治めていた(38-71~73)


 やつめをこえて(38-71)
まえやまの あわみさきみて(38-72)
きみいわく たゝみうるわし
かみありや


八女県(やつめ)を越えて、「まえやま(眉山)」の「あわみさき」を見て、君(景行天皇)は、畳の目ように山の峰が重さなりあっている所だ。うるわしい国神ありやとお聞きになりました

 みぬさるおうみ(38-72)
もふさくは やつめひめかみ
みねにあり(38-73)


このとき、「みぬさるおうみ」(水沼県猿大海・福岡県三瀦(みずま)郡大川市)が申し上げるには、「やつめ姫神」が此処を治めていて山中にいます。


なお、景行天皇の御幸の行程を見ると、吉野ヶ里に一番近いところを通過していますが、吉野ヶ里の地名に相当する場所を示す記録が見当たりませんでした。(見つけられませんでした)。

先を急いでいたのか、
敢えて避けたのか、
既にこのとき沢山の国々があり、その中の一つで
単に通過する道から離れていただけで触れなかったのか、
時代が違っていたのか、
あるいは、この本文の中に隠れているのか、もう一度じっくり検討したいと思っていました。

まえやまのあわみさき(場所は不詳とされていた)について、以下のように解釈しました。

昨日、「街道の日本史53 佐賀・島原と長崎街道」吉川弘文館の中に、雲仙普賢岳の噴火の記載が載っていることを知りました。
そこには、寛政四年の大噴火で溶岩流の流出で眉山(まゆやま・前山とも)の東半分が大崩壊したの記録がありました。
多分、この眉山のことを見ながら通過されたと思います。

また、弥生時代、海岸線は今より奥まっていて、吉野ヶ里遺跡も海岸線に近かったと考えられていることから、あるいは「あわみさき」のことを示しているのかもしれません。

「八女を越えて」とあるので、八女もまた当時海岸線に近かったことを考えると、八女付近から、有明海が目の前に広がり、対岸には、左から順番に眉山(前山)、雲仙岳、多良岳、経ヶ岳、八幡岳、天山、背振山(吉野ヶ里)と山の峰がパノラマ状に重なり合って見えたのではないかと推定します。

そうであれば、眉山からあわみさき(吉野ヶ里)まで一連のことを伝えているととれますが如何でしょうか。

もし、この推論が正しいとすれば、吉野ヶ里を治めていたのは「やつめ姫神」になるかも知れません。
自分でも、ちょっと飛躍しすぎているようにも思えるのですが、一つの可能性はあると考えています。





続く


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ジョンレノ・ホツマ


38-68~71 七月四日つくしの高田行宮で大御木が倒れる

12-27-七月四日つくしの高田行宮で大御木が倒れる(38-68~71)


あふみよか つくしちのちの(38-68)
たかたみや おほみけたおれ(38-69)


七月四日つくし・ちのち(筑紫後の高田宮・大御木倒れ:福岡県三池郡大牟田市)の高田行宮に入られると間もなくこの地の大御木(御神木)が倒れました。

きのながさ こもなそたけぞ(38-69)
もゝふみて ゆききにうたふ


木の長さは九百七十丈もある大木で庶民はこの木の上を踏み歩いて往来にこんな歌を歌いました。

あさしもの みけのさおはし(38-69)
まへつきみ いやわたらずも(38-70)
みけのさおはし


朝霜の 御木の棹橋 宮前の君 いや渡らずとも 三池(御木)の棹橋

きみとえは おきなのいわく(38-70)
くぬぎなり


君がこの木について問いかけると、長老(おきな)が答えました。この木はくぬぎの木です。

 たをれぬさきは(38-70)
あさひかげ きじまねにあり(38-71)
ゆふひかけ あそやまおゝふ


倒れる前までは、朝日の影が杵島峯(佐賀県杵島郡武生市)にかかり、夕日の影は阿蘇の山を覆っていました。

かみのみけ くにもみけとぞ(38-71)
なづけます


これは御神木(神のみけ・御木の影が髪の毛のように見えたことを言っていると思う)です。これにより、国の名も三池(みけ)と名付けました。三池炭鉱のあったところでもあります。


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ジョンレノ・ホツマ

38-66~68 六月十六日には阿蘇国に

12-26-六月十六日には阿蘇国に(38-66~68)

そむかには いたるあそくに(38-66)
よもひろく いゑゐみえねば
ひとありや きみのたまえば
たちまちに ふたがみなりて
あそつひこ あそつひめあり(38-67)


十六日には阿蘇国に至りました。四方は広く、一軒の家も見えなかったので、誰か人はいるのかと君(景行天皇)が宣いました。
すると、たちまち二神が現われました。名前を「あそつ彦」と「あそつ姫」と名乗りました。

きみなんぞ ひとなきやとは(38-67)
きみいわく たれぞこたえて
くにつかみ やしろやぶれり


「君、何ぞ人無きやとは」と言ったので、君は「汝は名者ぞ」とおっしゃると、「我らは国神(くにつかみ)である。しかし、残念にも社殿は破れ朽ちて今はありません」と答えました。

ときにきみ みことのりして(38-68)
やしろたつ かみよろこびて
まもるゆえ ゐゑゐしげれり


これを聞いた君は早速、詔りして立派な社を建てました。二神(あそつ彦とあそつ姫)は大変喜んでこの社殿(やしろ)を守護したのでこの地に家々が多く立ち並ぶようになり賑わい豊かになりました。


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ジョンレノ・ホツマ

38-65 六月三日、高来県で土蜘蛛の頭を退治

12-25-六月三日、高来県で土蜘蛛の頭を退治(38-65)

せみなみか たかくあがたの(38-65)
ふなわたし たまぎなむらの
つちぐもの つゞらをころし


六月三日、高来県(たかくあがた・長崎県北高来郡、南高来郡諫早市、島原市・高来郡、肥前国高来郡―和名抄)に船を渡し、玉杵名村(たまぎなむら・玉杵名邑、熊本県玉名郡荒尾市、玉名市)のこの地の土蜘蛛のつづらという頭を殺し(退治し)ました。


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ジョンレノ・ホツマ

38-64~65 不知火国と名付く

12-24-不知火国と名付く(38-64~65)


 たくひをとえば(38-64)
ぬしをゑず ひとのひならず
しらぬひの くにとなづくる(38-65)


また、燃える火の光を聞いたところ、火の主は分かりません。あれは、人の火ではなく不知火(しらぬひ)ですと聞いて、此処を不知火国(熊本県宇城市不知火町・大野川の河口左)と名付けました。


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ジョンレノ・ホツマ

38-63~64 五月一日に船を馳せて八代に

12-23-五月一日に船を馳せて八代に(38-63~64)

 さつきはつひに(38-63)
ふねはせて ゆくやつしろえ


五月一日に船を馳せて八代に向かいました。

ひのくれて つくきししれず(38-63)
ひのひかる とこえさせとの
みことのり(38-64)


やがて、日も暮れて、岸にたどり着いたものの何処の土地か分かりません。君(景行天皇)は火の光る所へ、船を差し向けよと詔(みことのり)をしました。

 きしにあかりて(38-64)
なにむらと とえばやつしろ
とよむらの


岸(対岸)に上がって、此処は何村と問うたところ、八代の豊村(熊本県宇城市松橋町豊崎・大野川の河口右・八代郡豊福郷―和名抄)です。


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ジョンレノ・ホツマ

38-61~63 葦北の小島で水を求めたら清水が湧き出した

12-22. 葦北の小島で水を求めたら清水が湧き出した(38-61~63)

 ふそかあしきた(38-61)
こしまにて ひてりにあつく
みづをめす(38-62)


二十日に葦北の小島に泊まったとき、日照りがきつく、水を欲しましたが、何処にも見当たりませんでした。


 やまべこひだり(38-62)
みづなきを あめにいのれば
いわかどに しみづわきでる
これさゝぐ かれになづくる
みづしまぞ(38-63)


そのとき、「やまべこひだり」が水を求めて、天に祈ったところ、岩角に清水が湧き出したので、この水を捧げました。故に、この地を水島(熊本県八代市水島町)と名付けました。この泉は、今も水嶋の崖にあるそうです。

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ジョンレノ・ホツマ

38-60~61 四月三日 「くまつひこ兄弟」を呼び召したが弟は来ず殺す

12-21. 四月三日 「くまつひこ兄弟」を呼び召したが弟は来ず殺す(38-60~61)

 ゆくうつきみか(38-60)
くまのがた おさくまつひこ
ゑとをめす


また、更に行き進みました。四月三日にくまのがた県(熊本県球磨郡人吉市:球磨郡延喜居部式・和名抄)の長の「くまつひこ兄弟」(ゑ=兄、と=弟)を召し呼びました。


 ゑひこはくれど(38-60)
おとはこす とみとあにとに(38-61)
さとさしむ しかれとこはむ
かれころす


兄(えひこ:兄彦)は来ましたが、弟の方は来ませんでした。臣と兄に天朝に従うよう諭させましたが、拒み出頭しなかったので殺しました。

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ジョンレノ・ホツマ

38-59~60 泉姫の家で集いの用意

12-20. 泉姫の家で集いの用意(38-59~60)

 おとひなもりに(38-59)
みせしむる かえりもふさく
もろあがた ぬしらおほみけ
さゝけんと いつみめがやに(38-60)
そのつどえ


弟「ひなもり」に見に行かせました。そうすると帰ってきての返事は諸県主たちが君(景行天皇)を迎えるために大御食(おおみけ)を捧げようといずみ姫(泉)の家に集いを用意しているところです。


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ジョンレノ・ホツマ


38-58~59 日代十八年三月帰途に向かって御幸狩り、ひなもりにて

12-19. 日代十八年三月帰途に向かって御幸狩り、ひなもりにて(38-58~59)

そややよひ みやこかえりの(38-58)
みゆきがり


日代十八年三月帰途に向かっての御幸狩りに発ちました。

 いたるひなもり(38-58)
いわせかわ はるかにのぞみ(38-59)
ひとむれを


ひなもり(夷守:宮崎県小林市付近)という所に近づいたとき、岩瀬川の川辺に立ち遠方を望むと人の群れができていました。


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ジョンレノ・ホツマ

38-52~58 日代十七年の三月十二日、子湯潟のにもの(丹裳小野)に御幸

12-18. 日代十七年の三月十二日、子湯潟のにもの(丹裳小野)に御幸(38-52~58)

 そなやよひそふ(38-52)
こゆがたの にものにみゆき
きをのぞみ むかしおほして
のたまふは(38-53)


日代十七年の三月十二日、景行天皇は子湯潟(こゆがた)の丹裳小野(にもの)に御幸されました。そして、はるか東(き)を望みながら昔を思い馳せて宣(のたま)いました。

都(やまとの日代の宮)を出てから、既に五年の年月が流れていたわけです。今の宮崎県の日向灘の海の向こうの遠い故郷に思いを募らせていたことと思います。

 みおやあまきみ(38-53)
たかちほの みねにのほりて
ひのやまの あさひにいなみ
つまむかひ かみしもめくむ
かみとなる くにのなもこれ(38-54)
かはかみを あまねくてらす
もはしもの あをひとくさを
めぐまんと なるかみのあめ
よきほとに わけてみぞろの(38-55)
うるほひに たみにぎはせる
いさをしは かもわけつちの
かんこゝろ かくぞをぼして 
かみまつり(38-56)


御祖天君(みおやあまきみ) 
高千穂の 峯に登りて 
大日山(ひのやま:当時の富士山)の 朝日に辞み 
妻向かい 上下(かみしも)恵む 
神となる 国の名もこれ 
「か」は上(かみ)を あまねく照らす 
「も」は下(しも)の 青人草(あおひとくさ)を
恵まんと 鳴る神(雷神)の雨 
良き程に 別けて 稲畑(みぞろ)の
潤いに 民、賑(たみにぎ)わせる 
功(いさおし)は 加茂別雷(かもわけつち)の
神心(かんごころ) かくぞ思(おぼ)して 神祭り


 みやこのそらを(38-56)
なかむみうたに
はしきよく わきべのかたゆ
くもいたち くもはやまとの
くにのまほ またたなびくは(38-57)
あおかきの やまもこもれる
やましろは いのちのまそよ
けむひせば たゞみこをもえ
くのやまの しらかしがゑを(38-58)
うすにさせこのこ


都の空を 望み忍んで(眺める)の御歌に
愛(はし)きよし 
我辺(わきべ)の方ゆ 
雲居立ち 雲は大和の 
国の秀(まほ:ほまれ) 又、棚引くは 
青垣の 山も籠れる 
山城は 命の真麻(まそ)よ 
煙火(けむひ)せば 唯、皇子思う 
香具山(くのやま)の 白樫の枝を 
うすにさせこの子

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続く

ジョンレノ・ホツマ

ホツマツタヱ 目次

ホツマツタヱ 目次

はじめに→

解読が一通り終わったのは下記の綾(章)までです。

28 綾 きみとみ のこしのり のあや (君臣遺し典の綾)
はこのあと引き続き解読を楽しんでいきます。




1綾 御機織 東西(南北)の名前と 穂虫去る 綾

2綾 天神七代と「いさなぎ」「いさなみ」と床神酒

3綾「いさなぎ」「いさなみ」が一姫三男を生む産殿の綾

4綾「ひのかみ」(天照大神)の「みずみな」瑞(吉兆、目出度い)御名の綾

5綾 和歌の枕詞(まくら言葉)の綾

6綾 日の神(天照神)の十二妃の綾 

7綾 遺し文、刑罰(さが)を立法(たつ)綾

8綾 魂返し「はたれ」討つ 綾

9綾 やくも打ち 琴つくる綾

10綾 鹿島立ち 釣り鯛の綾

11綾 みくさ(三種神器)ゆつりもうけ(謙り受け)の綾

12綾 速秋津(あきつ)姫 天児(あまがつ)の綾

13綾 「わかひこ」、「いせ」(男女・伊勢)、「すずか」(清く正しく私欲なく・鈴鹿)の綾

14綾 世継ぎ(よつぎ)告(の)る 祝詞(のとこと) の 綾

15綾 御食(みけ)万物(よろず)成り始め(なりそめ)の 綾

16綾 孕み慎む帯の綾 

17綾 神鏡 八咫の名の綾

18綾 おのころと まじなふ の綾

19綾 乗り典 一貫きの間(轡に付ける手綱)の綾

20綾 皇御孫十種の神器を得る綾

21綾 新治の宮の法 定む綾

22綾 おきつひこ(興津彦)ひみつ(火水土)のはらひの綾

23綾 みはさため つるぎなのあや 御衣服定め 剣名の綾

24綾 こゑくに はらみやまのあや 扶桑国 蓬莱山の綾

25綾 ひこみことちおゑるのあや 彦尊(命)と「ち」(鉤・血の色の朱、水銀)を得るの綾

26綾 うかや あおいかつら のあや 産屋(うがやふきあわせず) 葵桂の綾

27綾 みをやかみ ふなたま の綾

28綾 きみとみ のこしのり のあや  君臣遺し典の綾


29綾 たけひと(神武天皇)大和討ちの綾

30綾 天君 都鳥 の 綾

31綾 直入神 なおりかみ 三輪神 みわかみ の綾

32綾 富士山と淡海(琵琶湖)、瑞(みず:生き生き)の綾

33綾  神を崇めて、疫病を退治する綾

34綾 みまきの御世、任那の綾  後世の十代崇神天皇:みまきいりひこ

35綾 新羅の皇子「ひぼこ」が来た綾、そして相撲の始まりの綾

36綾 やまと姫 神鎮づむ綾 天照大神の御霊をやまと姫が安置する

37綾 とりあわせたちばなのあや 闘鶏と橘の綾 

38綾 ひしろのよくまそうつあや  日代の世 熊襲討つ章(38-1~101)

39綾 ほづまうちつづうたのあや ヤマトタケが景行天皇の命により、東国(ほづま)討ちの話と連歌(つずうた)説明の綾

40綾 「あつたかみ」(ヤマトタケ)よをいなむあや 熱田神。世を辞む綾

終わり

38-51~52 「みはかせ姫」をお妃に、生まれた子供「とよくにわけ」は日向の国造へ

12-17. 「みはかせ姫」をお妃に、生まれた子供「とよくにわけ」は日向の国造へ(38-51~52)

 みはかせひめを(38-51)
うちさまに とよくにわけの
おみこうむ はゝことゝまり(38-52)
くにづこや


この間、景行天皇は「みはかせ姫」(そお県主の娘)を日向で二人目のお妃(内妃・うちきさき)として迎えました。そして、皇子の「とよくにわけ親王」が生まれました。(38-21~22参照)

母と子供はこの地(高屋の行宮)に留まりました。その後、「とよくにわけ親王」は、日向の国造の祖(日向親王)となりました。


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続く

ジョンレノ・ホツマ

38-51 筑紫を完全に平定するために六年間高屋に滞在

12-16. 筑紫を完全に平定するために六年間高屋に滞在(38-51)

 つくしむけんと(38-51)
むとせまて たかやのみやに
をわします


その後、筑紫を完全に平定するため(ヤマトに従うようになるまで)に、六年間という年月の間、高屋(宮崎県西都市高屋八幡)の行宮に滞在されました。


この間、現地には、二人のお妃がおられ、「おおたけ姫」と「みはかせ姫」で、それぞれ、お子さん一人をもうけています。(38-21~22)参照


この六年間という年月は、今の我々から見ると非常に長く感じます。時間の流れが違うのでしょう。

時代が下って、垂仁天皇の御世のとき、「たじまもり」が橘樹(かぐ)の木を常世の国へ取りに行った時には、現地に馴染むまで十年間過ごしたという記述があります。
(37綾―48~54参照)

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続く

ジョンレノ・ホツマ

38-50~51 妹の「へかや」を国造の跡継ぎに

12-15. 妹の「へかや」を国造の跡継ぎに(38-50~51)

いとへかや そのくにつこと(38-50)
(おとへかや:小笠原写本)
をぢのこの とりいしかやと
ちなませて(38-51)


(くまその親玉は娘(姉の方)に殺されてしまい。景行天皇がこの姉を罰して殺したため、跡継ぎがいなくなり)、妹の「へかや」をその国の国造に取り立てました。叔父(せかや)の子の「とりいしかや」と関係させて(結婚させて)後を継がせました。

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続く

ジョンレノ・ホツマ

38-48~50 姉の「ふかや」の行い許せず

12-14. 姉の「ふかや」の行い許せず(38-48~50)

 あねのふかやが(38-48)
もふさくは きみなうれひそ
はからんと


すると、姉の「ふかや」が申し上げるには君(景行天皇のこと)よ、どうかご心配しないで下さい。私に名案がありますからおまかせください。

 つわものつれて(38-48)
やにかえり さけをあたゝに(38-49)
のましむる ちゝのみゑいて
ふすときに ちゝがゆみつる
きりおきて ちゝあつかやを
ころさしむ


と言って、皇軍の兵士をこっそり連れて家に帰りました。そして、酒を父に存分に飲ませました。父は泥酔してその場に伏して寝てしまいました。その間に、父の弓弦を切っておいて、父の「あつかや」を殺させてしまいました。

 すべらぎあねが(38-50)
しむたつを にくみころして


ところが、すべらぎ(景行天皇)は、この姉の「ふかや」が肉親である自分の父親を殺したことが許せず、憎みました。そして、すべらぎは、この姉の「ふかや」を殺してしまいました。

引き出物に目が眩んだのか、以前から父親に反感を持っていたのか、身内を殺してしまうという恐ろしい事は、最近に始まったことではなかったようですね。

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ジョンレノ・ホツマ


38-46~48「ふかや」と「へかや」二人の娘を召し入れる

12-13. 「ふかや」と「へかや」二人の娘を召し入れる
(38-46~48)


とみひとり すゝみていわく(38-46)
くまそには ふかやとへかや
ふたむすめ


一人の臣が進み出て申し上げるには、熊襲(くまそ)には「ふかや」と「へかや」という二人の娘がいます。

 きらきらしくも(38-46)
いさめるを おもきひきでに(38-47)
めしいれて ひまをうかゝひ
とりこにす


容姿端麗きらきらと輝き凛々しくもあります。高価な引き出物を用意して二姉妹を召し入れて隙(ひま・すき)を狙って手なずけてとりこにしましょう。

ここでも引き出物は相手を引き出すための手段として使っています。

 ときにすべらぎ(38-47)
よからんと きぬにあざむく
ふたむすめ めしてみもとに(38-48)
めぐみなす


それを聞いた時、すべらぎ(景行天皇)は非常に良い考えだと言って、美しい絹織物に目がくらんだ(欺むいた)二人の娘を身元に呼び寄せ手厚く恵みを与えて親切にもてなし(手懐け)ました。

この場面で、敵の頭(かしら)に二人の娘がいることを知った天皇は、二人の娘をとりこにしようと、高価な絹織物を引き出物に使って、結果は手なずけてしまったわけですが・・・・

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38-44~45 十二月五日に熊襲を討つ計画を

12-12. 十二月五日に熊襲(くまそ)を討つ計画を(38-44~45)

しはすゐか くまそをはかり(38-44)
みことのり われきくくまそ
ゑあつかや おとせかやとて
ひとのかみ もろをあつめて(38-45)
たけるとす


十二月五日に熊襲(くまそ)を討つため計画を練りました。そして、景行天皇の詔がありました。我が聞く熊襲は兄が「あつかや」で、弟が「せかや」といって人の神(頭)で群集を集めてクマソタケル(熊襲たける)を名乗っている。

 ほこさきあたる(38-45)
ものあらず さゝひとゝかず
さわなれば たみのいたみぞ
ほこからず むけんとあれは(38-46)


この二人に立ち向かえるものはなく、我が兵は小数(ささい)で劣勢(とどかず)にある。民兵を多数(さわ・大勢)動員すれば、民(たみ)に多大な犠牲を強いることになりかねない。武力(ほこ)をつかわずに敵を倒す戦法を取ろうとの意向を表明しました。


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38-43~44 十一月に日向の高屋に至る

12-11. 十一月に日向の高屋に至る(38-43~44)

かえもうで ねつきにいたる(38-43)
かりみやは ひふがたかやぞ(38-44)


戦勝記念として十一月(ねつき・しもねつき・霜が根に付く月)に行き至った仮宮は日向の高屋(宮崎県西都市高屋八幡・高屋温泉付近)です。

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38-42~43 柏峡野の石について

12-10. 柏峡野の石について(38-42~43)

そのはじめ かしはをのいし(38-42)
ながさむた はゞみたあつさ
ひとたゐき


柏峡野(かしわの・大分県直入郡荻町付近)にある石は長さ六尺、巾三尺、厚さ一尺五寸あります。
(た=尺、き=寸)

 すべらきいのり(38-42)
とびあがる かれすみよろし(38-43)
なおりかみ もろはのやしろ
さらにたて これまつらしむ


ここで、すべらぎ(景行天皇)が祈ったら、この石が飛び上がって祈りました。
それ故に、
「すみよろし」(志賀住吉神、若宮志賀八幡・大野町)、
「なおりかみ」(直入物主神(右大臣)直入郡直入町大字社家)、
「もろはのやしろ」(両翼の神社・直入中臣石神明社、上半田(左大臣)の三神を祭りました。


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38-39~42 .「やた」と「うちさる」を討つ

12-9 「やた」と「うちさる」を討つ(38-39~42)


 またうちさるを(38-39)
うたんとて つはきいちより(38-40)
ねぎやまを こすときあだが
よこやいる あめよりしげく
すゝみえず


次に「うちさる」を討とうと海石木市(「つはきいち」大分県直入郡菅生村付近)から禰宜山(ねぎやま)を越す時に賊(あだ)の横矢が雨より激しく降り注ぎ一歩も先に進めませんでした。

 きわらにかえり(38-40)
ふとまにみ やたをねぎのに(38-41)
うちやぶり こゝにうちさる
くたりこふ


再び木原・城原(大分県竹田市久住町と竹田市の中間)に戻り、「ふとまに」で占ってみました。
その結果、「やた」を禰宜野(ねぎの)で討ち破りました。そうしたら、ここに至って「うちさる」が降伏を願い出ました。

 ゆるさずゆえに(38-41)
くにまろも たきえみをなげ
ことことく ほろびおさまる(38-42)


しかし、景行天皇は許しませんでした。「くにまろ」も滝へ投げてことごとく滅ぼし治めました。


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ジョンレノ・ホツマ


38-38~39 岩窟のくも(賊)を討ち殺す

12-8 岩窟のくも(賊)を討ち殺す(38-38~39)

 つばきをとりて(38-38)
つちとなし たけきをえらみ
つちもつて やまをうがちて(38-39)
くさをわけ いわやのくもを
うちころす


山の椿(つばき)を切り出して、槌(つち・大ハンマー)をつくり、剛者を選び、槌を持たせて山を押し分けて進み(穿ちて)、草の根を分けて探し出し、岩窟に潜んでいたくも(賊・ヤクザ)を討ち殺しました。
なお、椿の木の木質は固く緻密、かつ均質で、摩耗に強くて摩り減らない特徴を持っているから、槌(つち・大ハンマー)に適していたと考えられます。

 いなばかわべは(38-39)
ちだとなる


稲葉の川辺(稲葉川・大分県直入郡久住山に発し竹田市を貫流、大野川上流)は血の川(血田、知多)となりました。


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38-38 来田見村の仮宮で作戦を取る

12-7 来田見村の仮宮で作戦を取る(38-38~38)

 ここにすべらぎ(38-37)
すゝみゑす くたみのむらの
かりみやに はかりていわく(38-38)
もろうたは くもらおそれて
かくれんと


ここに来て、すべらぎ(景行天皇)は進むことが出来ませんでした。そこで、来田見村(大分県直入郡久住町大宇仏原)の仮宮で作戦を取りました。
そして、おっしゃるには多勢で一気に打って出れば、蜘蛛(賊)らは、隙を突かれて恐れをなして逃げ出すはずだ。



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38-35~37鼠(ねず)の岩窟に二つの「つちぐも」

12-6 鼠(ねず)の岩窟に二つの「つちぐも」(38-35~37)

 ねづがいわやに(38-35)
ふつちくも なはあおくもと(38-36)
しらくもと


鼠(ねず)の岩窟(現・青龍窟・福岡県京都郡行橋市苅田町)には二つの「つちぐも」という賊(今風に言えばヤクザ集団でしょうか)が住みついています。名前は「あおくも」と「しらくも」と言います。

 なおりねぎのに(38-36)
みつちくも うちさるとやた
くにまろと


直入(なおり)県の禰宜野(ねぎの・大分県直入郡竹田市及び熊本県阿蘇郡の一部)には三つのつちぐもが住みつき、名前は「うちさる・打猿」と「やた・八田」と「くにまろ・国磨」といいます。

 このゐつちくも(38-36)
ともからの ちからつよきを(38-37)
あつめおく あながちめさば
いくさせん


この五つの「くも」(賊・ヤクザ)集団は仲間を集めていて力が強いので、まともにかかると戦になってしまいます。

「くも」は、蜘蛛が蜘蛛の巣に虫が引っ掛かるのを待っているように、要路に隠れ潜んで、獲物が通るのを待ち構えているしぐさが、語源になったものと思います。
続く

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