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39-91~94~100関東をあとに、東(あづま)の元

24. 関東をあとに、東(あづま)の元(39-91~94~100)
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・ ・ ・ ・ うすいのさかに(39-91)
やまとたけ わかれしひめを(39-92)
おもいつつ きさをのぞみて
おもひやり かたみの。うたみ
とりいだしてみて


「さねざねし さがむのおのに もゆるひの(39-93)
 ほなかにたちて とひしきみはも」
これみたび あづま。あわやと
なげきます あづまのもとや (39-94)


むさしの国を後にして、いよいよ関東に別れを告げようと、箱根の碓氷峠(碓日坂:日本書紀)にきたとき、「オトタチバナヒメ」(弟橘媛:日本書紀、弟橘比賣命:古事記)が嵐を鎮めようと入水したときの情景を思い出して、感無量になってしまいました。
「やまとたけ」は峠から「きさ=東南」の海に向かって、今は亡き妻の「オトタチバナヒメ」が詠んだ形見の歌冊(うたみ)を胸からそっと取り出し、この歌を3度詠んで、「あづまあわや」と感無量になってしまいました。

「さねざねし さがむのおのに もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」
 (もゆる「ひ」:火)(「ほ」なか:炎)
ここの「ひ」と「ほ」はそれぞれ「火」と「炎」を表す表意文字にもなっている。



あづま(吾妻:私の妻)あわや(絶体絶命、天地人、もう二度と会うことも出来ない)  悲しんだこの言葉が、「あずま」の語源ですよ。と結んでいます。
それまでは、「ホツマの国」と呼ばれていました。



なお、「これみたび あづまあわやと なげきます あづまのもとや」のホツマツタエの記述に対して日本書紀、古事記は以下のように表しています。

日本書紀:
三歎曰、吾嬬者耶。故因號山東諸國、曰吾嬬國也。
みたびなげきてのたまわく、かれよりて、やまのひがしのもろもろのくにをいふ、あづまのくにとなり。

古事記:
三歎詔云、阿豆麻波夜。故、號其國謂阿豆麻也。
みたびなげかして、のりたまひき、あづまはやと。かれ、なづけて、そのくにを、いふ、あづまと、なり。

碓氷峠と言うと、まず思い起こすのが長野県軽井沢と群馬県安中市の県境にある峠の事と思っていました。しかし、ヤマトタケが実際に通った碓氷峠は箱根のR138の北側にあります。峠の名前も標識も確認できました。
さらに、その先の御殿場方面への「乙女峠」の「おとめ」は「おとたちばなひめ」から来ているような気がします。


25. 吉備武彦は越路へ、武日は土産を持って帝へ (39-94~95)

おいわけに きびたけひこは(39-94)
こしぢゆく くにさかしらを
みせしむる 


追分(旧軽井沢、信濃追分)に、吉備武彦は越路へ向かいました。そして越前・越中・越後の国々で、謀反を起こすものがいないかどうか査察して行きました。(検察史の任務)
追分とは、違う目的を持って分かれて再び追いついて会うことを意味していると思われます。

たけひはさきに(39-94)
さがむより ゑみしのみやげ(39-95)
もちのぼり みかどにさゝげ
ことことく まつらふかたち
もふさしむ
 

大伴の武日は先に相模よりエミシの土産(戦利品)を持ち上り、みかど(まきむきのひしろの宮)に捧げました。そして、エミシらが従った様子を説明申し上げました。
土産(みやげ)という言葉が既にあったのに驚きます。

26. ヤマトタケは単独木曽路へ(39-95~98)

ひとり。みゆきの(39-95)
やまとだけ しなのきそぢは(39-96)
やまたかく たにかすかにて
つゞらおり かけはしつたひ
むまゆかず くもわけあゆみ


一人で行かれたヤマトタケは信濃木曽路は山は高く、谷は深く、道は九十九折(葛)で懸け橋を伝って行きました。
馬(むま)も行かない道で、雲の中を行くようでした。
この恵那山の所は難所であった。

[しなの]の語源、[よしな]にはからえ(よしなに計らう)

うえつかれ みねのみあえに(39-97)
なるしらか まえにいきはき
くるしむる 


餓えて疲れはてていました。峯での食事のとき突然山の神が白鹿が現われ、君の前で息を吐いて(毒気を吐いた)苦しめました。

この記述は当時の冶金がこの付近で既に行われていたことを偵察に行ったことを示しているのではないかと私は考えます。
鹿の皮はふいごとして風を送り込む非常に重要な道具であったと考えられ、この冶金時に発生する毒ガスに犯されたものとも考えられます。
たとえ、そうではなくとも、この付近はいろいろな鉱物資源が埋蔵されており、単に鉱毒にやられたのかも知れませんが・・・。この個所も要再考したいと思います。


 きみはしろして(39-97)
ひる。ひとつ はじけば。まなこ
うちころす (39-98)


君は悟ってひる(行者にんにく)を投げつけたら目に当たって撃ち殺してしまいました。

なおくもおゝい(39-98)
みちたつを ひみつのはらひ
みたびのる しなどのかぜに
ふきはらふ 


それでも、雲はおおっていて、道をふさいでいたので、秘密の祓いを三度唱えました。風の神が現われて、雲を吹き払ってくれました。

27. 美濃にて吉備武彦と再会(39-98~100)

かみのしらいぬ(39-98)
みちびきて みのにいづれば(39-99)
たけひこも こしよりかえり
こゝにあふ 


神が白犬となって、導きだしてくれて無事、美濃にたどり着けました。
吉備武彦も越中より帰り美濃で会いました。

さきにきそぢの(39-99)
おえふすも はらひまぬかる
しかのちは ひるをかみぬり(39-100)
ざがいきに あたらしものと
かたりたまいき (39綾完)


木曽路(みさか峠)でのけがれ(毒気)に苦しんだが、打ち払って命からがら抜け出しました。その後は、行者にんにくを噛んで体に塗って毒気に当たらないようにしようとかたりあいました。

-39綾 完-

40綾へ続く

ジョンレノ・ホツマ

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39-86~89~91 おとたちばな姫を祀り、大宮(氷川神)を建てる

22. おとたちばな姫を祀る(39-86~89)

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 まちか。てちかの(39-86)
とみふたり おとたちはなの(39-87)
くしと。おび うれば。なげきて
ひめのため つかりあびきの
まつりなす 


「まちか」(左近)「てちか」(右近)の臣(とみ)の添人二人は漂着した「オトタチバナ姫」が身に着けていた櫛と帯を得たことにより、嘆き悲しみました。「オトタチバナ姫」のためにツガリアビキ(連雁天引:雁がつながって天を引くように、御霊を天国に届ける)の祀り(まつり)をいたしました。

これ。そさのおの(39-87)
おろちをば つかりやすかた(39-88)
かみとなし はやすひめも
あしなづち なゝひめまつる
ためしもて 


昔、ソサノウが「ヤマタノオロチ」を退治したとき「ツガリアビキの祀り」が行われました。その祀り(神として天国につなげて送り届ける)で、にくきオロチ(はやこ)も退治してしまえば神となり、ハヤスヒ姫、あしなづち(8番目の子)、殺された7人の姫達)も祀って、つがり(御霊を天国に届けて)やすかた(宗方:平和)になった前例にならったからです。

「ハヤスヒ姫」(大分県 8番目の子供)もソサノウが恋したので怨みをかって殺されてしまう。天照に冷遇されたハヤコは「うさばらし」をする。ハヤコがオロチとなって、天照朝廷打倒を全国に呼びかけて、八年間の内乱になってしまう。国に帰って(木枯らしの竜、九頭竜川で)兵をあげた。
ハヤコは、天照のお妃であったと同時にイサナギの弟のクラキネのお嬢さんでもあった。そして、非常に権力をもっていた。更に、こまつひめハヤコは山陰地方を治めていた。

オロチが、実在したわけではなく、実際には女性同士の戦いで、ソサノウが恋した女性が全て許せなく、七姫、皆、殺されてしまった残酷さを、物語としてのちに伝えるためのものである。
昔、殺された七姫を、ツガリアビキの祀りをしたように、今回の葬儀も、前例に倣いました。

かたみをこゝに(39-88)
つかとなし なもあつまもり(39-89)
かみまつり こゝにとゝまる 


流れ着いた、形見の櫛と帯を埋めて塚とし、名前を吾妻守としました。大磯(現在の二の宮)に社(やしろ)を建てて神祀りをしました。「オトタチバナ姫」の付き人であった右近左近が此処にとどまりました。

23. 大宮(氷川神)を建てる(39-89~91)

はなひこは わがさきみたま(39-89)
しろしめし かわあいののに(39-90)
おおみやを たててまつらす
ひかわかみ
  

「はなひこ」(ヤマトタケ=日本武尊、倭建命)は 今回の東征の成功により、自分の(我が)先祖の御霊が「スサノウ」であると固く信じたので、川と川の合流地点の野に、先祖「スサノウ」を奉るため、大きな宮(すなわち氷川神社)を建てました。
(「かわあいの「の」に」の「の」は野原を示す表意文字)

「さき(先祖)みたま(御霊)」→「さきたま」→「埼玉」→「さいたま」に変わって行った。「み」は謙譲語。
「おおみや(大きな宮)」→「大宮」の語源となった。

「ひかわかみ」→「氷川神社」について、大宮にある氷川神社は武蔵一ノ宮といわれています。
「ヤマトタケ」は「スサノウ」の生まれ変わりと固く信じたので、「スサノウ」つまり「氷川の神」を奉った。

昔、「スサノウ」が「ヤマタノオロチ」を退治した場所が「ヒカワ」であったため「スサノウ」は「ヒカワ神」の名を天照大神より賜わったことによります。
また、今回の東征で、「ヤマトタケ」は「やまと姫」から「スサノウ」が昔、使った「むらくもの剣」を授かって、役目を果たせたことが「スサノウ」の生まれ変わりと信じさせたと考えられます。なお、この「むらくもの剣」は、敵に枯れ草に火をつけられたとき、この草をなぎ倒したところより「くさなぎの剣」と名前が変わります。

関東地方のあちこちに氷川神社があるのは「ヤマトタケ」が訪れた場所の名残と考えられます。氷川神社という神社は関東地方以外ではほとんど見受けられないようです。氷川神社の御祭神が東国とは関係ないスサノウであることも理解できます。

(当時は東京湾の海面が5mほど高かった推定され、大宮付近は海に近かったと考えられます。この川は荒川と利根川?と思われる)

いくさうつわは ちちぶやま (39-90) 

用済みになった「いくさうつわ(武器、甲冑)」は「ちちぶやま(武甲山)」に収めました(埋めた)。

きさらぎ。やかに(39-90)
くにめぐり まつらう。しるし(39-91)
かぐかごを やむねにさゝげ
ことおさめ ほつまのよゝの
ならわせや
 

そして、2月8日にこの近辺の国(武蔵の国など)に、未だ反乱分子がいないかどうか巡回してまわりました。
みかんの籠を家の棟に捧げているのを、従っている印にさせた。ホツマの国の代々の慣わしになりました。
しめ飾りにみかんを使うようになった始めと考えられます。

 続く

ジョンレノ・ホツマ

39-84~86.相模の館にて 虎柏(とらかしわ)鐙(あぶみ)を差し出す

21. 相模の館にて 虎柏(とらかしわ)鐙(あぶみ)を差し出す(39-84~86)

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ここから、話はがらっと変わります。

こぞよりつゝき (39-84)
あめはれて むつき。すえやか
みゆきふり  


昨年より引き続き天気は快晴でしたが、一月二十八日は大雪が降りました。(日代の41年になると思います)

きみ。そりにめし(39-84)
ゆきいたる さかむのたちに
いりませば (39-85)
 

ヤマトへ帰る途中、君(ヤマトタケ)はソリに召して(お乗りになって)
相模の館(厚木神社と考えられる)にお付きにになりました。

のに。かたあぶみ(39-85)
とらがしわ ひろい。かんがえ
あぶみ。さし いま。たてまつる
たまかざり
 

虎柏なる武将が、野戦で失った君の片方の馬具の鐙(あぶみ)を拾って考えた末、榊の枝にさして、御霊飾(みたまかざり)として、君(ヤマトタケ)の御前に奉りました(献上しました)。

ほめてたまわる(39-85)
むらのなも たまがわ。あぶみ(39-86)
みさしくに さがむのくにと
もとひこに なつけたまわる
くにつかみ
 

君(ヤマトタケ)は「トラガシワ」を誉めて、玉川あぶみ村(現厚木市)と名付けて褒賞として「トラガシワ」に賜りました。
戦歴の地をミサシ(献上:武蔵)国と命名し、サガム(相模)国と一緒に、「タチバナモトヒコ」に与え国造(国神)に取り立ました。

ここで、武蔵の語源が出てきます。

鐙をさして献上したことにより「あぶみさし」→「みさし」という国の名前が付けられた。「み」は謙譲語。
このホツマツタエ記述のこの部分を知らなければ、ヤマトタケの東征で唯一激しい戦いであった場所なので、「みさし」が「むさし」になまり、「武蔵」という漢字に置き換えられたのは的を得ているようにも思えます。

深大寺の近くにある、虎柏神社はこの「トラカシワ」という武将の名残と考えられます。ただ、現在地元では虎柏(こはく)神社と呼んでいます。
漢字文化が渡来して漢字を当てはめた地名が、いつの間にか音読みになった例が此処にもありました。

この虎柏神社付近の町名になっている佐須町や佐須街道はこの「みさし」の「さす」という語源から来ているものと考えられます。

虎柏神社は青梅にもあり、代々青梅の虎柏神社を管理されている方の名字が「さした」さんとおっしゃるそうです。

また、この「あぶみを拾った」という記述部分から、当時既に馬に乗っていたことも分かります。


「さがむのくに」の語源について、
天照大神の「うち妃」の一人、コマツスヒメハヤコが、ソサノウと浮気(当時は陰のみやびと言った)をしてから生まれた子供、三つ子について、天照大神は疑っているということは言えないので、私は夢を見た。
「やつかの剣を みきだにおりて さがみにかみて みたとなした」
ソサノウが背負っていた、持つところが八握りもある大きな剣を三つに折って、清めのためにつき出して見たら、三つの子宝となった。この夢より自分の娘は宝(子宝)である。
でも、結局は宇佐に流してしまうことになる。

天照大神は自分の子かソサノウの子かわからない。
宗方三女神として、トヨヒメアヤコが面倒をみた。三人の子供(三女神)は成人してから生い立ちを知り、日本中を禊をしてまわった。青森の善知鳥神社まで行っている。

この三女神のうち、エツノシマヒメ・タキコは江ノ島の祭神(相模の国)である。日本全国にある弁天様は彼女たちが禊をした跡と思われます。7綾参照

 続く

ジョンレノ・ホツマ

39-60~67~84東北からの帰途で~つず歌~流行歌

17. 東北からの帰途で~つず歌~流行歌(39-60~67~84)

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このゆきおもく(39-60)
ふもをあり おいてもとむる
おおともの さすらいよたり
おいかはり (39-61)
 

この靱(ゆき:矢を入れる入れ物)が重くなり、二百斤あり、強力な負い手を捜しました。大伴の武日の侍から、四人が負うのを代わりばんこで背負いました。
二百斤は約140kg(1斤=600gと仮定)
「さすらい」は侍の語源になっている。「侍四人」のこと。

つくばにのぼり(39-61)
きみとみも つさへいたる 


筑波山に登りました。君(ヤマトタケ)も大臣も登った。そして、西南へと向かいました。

さかおりの みやにひくれて(39-61)
たひおそく 


酒折宮(大伴武日の本拠地:甲府市)に着いたときには日が暮れてしまっていました。松明(たびまつ:手にもつ灯)を持ち、重いものを担いできたから遅くなってしまいました。

しからばこたえ(39-61)
ゆきおもく つかれぬふりて(39-62)
くれしらず 


遅くなったことを叱ったら答えは、靱(ゆき:矢を入れる入れ物)が重たくて、疲れてしまい、つい寝てしまいました。日が暮れたことに(夜になった)気がつかなかったと弁解しました。

 またいふよたり(39-62)
あいもちで なんぢばかりが
などつかる  


そうしたら、四人で交互に持っただろう。なぜ、お前だけが疲れるのだ。

ちからいとはゞ うたをよめ (39-62~63) 

力を出すのが辛いのなら歌を読みなさい。

こたえてかみの(39-63)
みよはうた いまはちからよ 


そうしたら、重たい靱(ゆき)を持つことになったその侍は弁解・言い訳に、神の代は歌であったかもしれないが、今は重たいものを持つ力が要るのだと訴えました。

ときに。きみ これきこしめし(39-63)
つず。はつね うたみにそめて
かえ。せよと なかえたまわる (39-64)


その時、会話を聞いていた君(ヤマトタケ)は
十九歌の、発句を歌札(うたみ:短冊)に染めて(書いて)、返歌しなさいと皆の中(侍者中)へ捧げました。

にゐはりつ。つくばを(39-64)
すぎて。いくよかねつる 


にいはり(新治:水戸線にある地名)地区から、筑波を通過して、幾晩寝た事だろう。

もろなさず ひとぼしよすな(39-64)
きみのうた かえしもふさく (39-65)


諸侍(皆)返し歌が出来なかったら、「ひとぼしよすな」が君(ヤマトタケ)の歌に返し歌を申し上げた。

かがなえて。よにはこゝ(39-65)
のよひにはとおかを 


考えてみると、夜は九泊(九の夜)なのに、昼(日)は十日たっています。

やまとだけ ひとぼしほめて(39-65)
たけだむら ほかは。はなふり (39-66)


返し歌を聴いて、「ひとぼしよすな」を誉めて、タケダ村(笹子峠を出た所)を賜わりました。その他の侍たちは賃金(花降り:砂金・銀)を賜わりました。

たけひおば ゆきべをかねて(39-66)
かひ。するが ふたくに。かみと
ことをほむ
 

大伴の武日はお宝(ゆきべ)を兼ねて、甲斐、駿河を賜り、両国の国神(守護神)として事を褒め称えました。

きみ。やまのひは ゆき。やすみ (39-66~67) 

君(天皇:此処ではヤマトタケ)が山に登る日は、靱(ゆき)侍は休みになります。

国見山、国見峠の名前が各地に見られるのは、国の様子がどうなっているのか高い所に登って眺望した名残りだということがわかります。

群馬県の尾瀬片品村に雪質の素晴らしい武尊(ほたか)オリンピアスキー場があり、その奥に武尊(ほたか)山があります。
この記述より、ヤマトタケが帰路に此処に立ち寄り登山されたことがわかります。
ここには、武尊山(前武尊と奥武尊)があります。さらに、この近くには花咲村という地名が残っています。花咲の武尊神社もあるようです。花咲の「はな」はヤマトタケの「はなひこ」から来ているのではないかと感じます。
何も知らないで、学生時代の仲間と一緒にこの片品村の武尊山の麓に山小屋をつくり、毎週のように来ていたことになんとも不思議な縁を感じます。ヤマトタケがこの武尊山に登っていたことを知り、ホツマツタエが非常に身近に感じられるようになりました。





18. つずうた発祥、早百合姫の歌(39-67~72)

わがきみにいふ(39-67)
すべらぎみ やつら。はなふり
そろりには たけた。たまわる
なにのこと  


休み中の侍が、不満をぶちまけました。わが君(ヤマトタケ)に言ってくれ。皆は賃金しかもらえないのに、「そろり」(ひとぼしよしなの実名)にはたけだ村を賜ったのはなぜだ。不公平だと文句を言っています。

たけひのいわく うたのこと (39-67~68)

大伴の武日は、それは歌を作ったからだと答えました。

 またとふかれは (39-68)
あわならず なにのうたぞや
 

そうしたら、再び問いました。
それ(かれ)はアワの歌((5・7調)になっていないではないか。一体何の歌なんですか?

また。いわく つずうた。むかし (39-68)

ここで、大伴武日が昔、つずうたが発祥した経緯の説明を始めました。

さゆりひめ とし。そこのとき (39-68)

昔、早百合(さゆり)姫という神武天皇の隠しお妃が19歳のときのことです。「そ」は十、「こ」は九 神武天皇は恐妻家であったので早百合姫とは密会していました。

たぎしみこ したひこうゆえ (39-69)

神武天皇が九州を統治していた頃、アビラツ姫(中宮:正妻で三島と伊予の両国を管轄していたかなりやり手の出身)との間に生まれた長男「たぎしみこ」がこの早百合姫(まだ19歳)に横恋慕してしまった。

分かりやすく言えば、父親の先妻との間に生まれて成人した(?)男の子が、父親の、年もまだ若くてかわいい、隠れ妻に手を出そうとしたことが発端です。

そのちゝが よびだすときに(39-69)
ひめさとり のぞくつゞうた 


早百合姫の父親(久米)が、呼び出したので、早百合姫は悟って、災いを取り除く「つづうた」を突きつけました。

あめつつち とります (39-69)
きみと などさけるどめ (39-70)


天つ地 鳥り増す君と(求愛行動・つがう) 何ど(何故)裂ける止め
私と天皇とは太陽と月の関係で、もう離れることは出来ません。なぜ、私たちの間の関係を壊そうとするのですか。

そのつずゝ かぞえてなかを(39-70)
つぼかなめ  


その十九音で歌った歌の最初から数えて真ん中の10番目を折り返し点(すなわち:き)を壺要(つぼ・かなめ)と言います。

このうたつゝき(39-70)
かぞえもの おりあわせめに
けりもあり (39-71)


この歌続きと上の句には「つず」があります。数えもの(中の句のことで十番目に「き」が君のことが入っています)。
そして、折り合わせ目(下の句のこと)には蹴りも入っています(蹴り返すの意味で此処では「ける」になっている)

きみとわれとは つゝきけり (39-71)

この歌は二人の仲(神武天皇と早百合姫)が続いていることを言っています。

 よこがめどるを(39-71)
さかしまに るどめに。とめて
たちきれば まめもみさほも
あらわせり (39-72) 


横我娶る(よこがめどる)すなわち横恋慕してめどる(性交する)ことを逆手に取って「ルドメ」に止めて(最後にする:「メドル」を逆から読んで「ルドメ」)、断ち切れば忠実心も操も表せます。

かれ。そこも。つず(39-72)
ものも。つず つゝきうたなり 


故に十九もツズ
「もの」(人物)もツズ(十九歳) よって、続き歌(連歌)なりけり

なつかはぎ こゝにゐてとふ(39-72)
つぎありや たけひ。こたえて 


七柄脛(なつかはぎ:人名)が此処に居て問いました。歌の続きはあるのですか。そうすると、大伴武日は答えて言いました。

19. つずうた(十九歌)の説明(39-73~79)

やそ。ありて はつは。おこりと(39-73)
つぎはうけ みつは。うたゝに
よつあわせ
  

一連八十句ありて、発句は「起こり」と言います。
次ぎ(二つ目)の句は[受け]と言い、三つ目の句は「転たに」と言います。四つ目の句は「合わせ」と言います。漢詩でも起承転結と同じようですね。

ゐつは。たゞこと(39-73)
むつは。つれ なゝは。つきづめ 
やつは。つき (39-74)
 

五つ目の句は「只事」と言い、六つ目の句は「連れ」と言い、七つ目の句は「月詰め・付き詰め」と言い、八つ目の句は「月・くっつく」と言います。

おもて。よつらね(39-74)
まめみさほ まてにかよはず
うら。よつれ はつは。かしらの
ゐおしてえ めくらしつらぬ 


表四連ね 忠実心・操 まて(両手)に交わらず
(初折)裏四連れ 発は頭の 五文壐(おしで)
巡らし連ねます。


そのつぎは うちこしこゝろ(39-75)
うたゝ。さり もとにむらがる
ひとつらね そむをひとおり
すべゐおり やそをもゝとし 
おりは。ふそ (39-76) 


その次は 打越し心 
転た去り 元に群がる
一連ね 十六句を一折 (そむ:十六)
総べ五折 八十を百として 
一折二十句とします。

かれ。おりとめの(39-76)
つずはたち おりはつのつず
あひかなめ おりつめのつず
みそこはな みの。つめゐそこ


故に、折留めの 
二十(機立)のツズ 第二折り初のツズ
天一要め おり詰めのツズ 
三十九花 第三折の 詰五十九

ここで、機織(はたおり)の「機立(はたち)」と、「つず歌」の「折りとめ」が同じ「止め」を意味しており、この「つず歌」の「折りとめ」が「機立(はたち)」と同義語になったと考えられます。すなわち、「十九」の次に来る「二十句」目のことを「はたち」と言うようになり、二十歳のことを「はたち」という語源であると考えられます。



つず。さづめ よの。つめ。なそこ(39-77)
つづ。ふづめ ゐの。つめこそこ
つず。つくも  


ツズ 早詰 第四折 詰七十九
ツズ 文詰 第五折 詰九十九
ツズ 「も」百に「つく」つながる。

ゐふしにほひの(39-77)
はなはゆり もとうたはきみ 


五節句は匂い(香花)の 花は百合(早百合姫を意味している)で元歌は君(宗匠:ししょう)

そのあまり ゑだや。はつこを(39-78)
やそつゞき なお。ふかきむね
ならひうくべし
 

その余り続きは 支族や子孫がうめて行きます。
八十連続き 尚、深遠なる旨
良く習って受けなさい。

またとふは やそを。もゝとす(39-78)
かずいかん (39-79)


七柄脛(なつかはぎ)が大伴武日に又、問いました。 
八十の句を百句に数えるのはどういうことですか。

 こたえはかなめ(39-79)
またくばる もとうたをふそ 


答えは閉じる側(要側)には各歌の元歌が配される。元歌は毎回出るので合計一折二十句になります。

私には、何となく分かったような、分からないような説明です。実際には、どんな配列でどんな綴じ方をしていたか、裏とあるのは紙の裏表を使っていたのかなどが分からないため、完全には納得していません。要再考です。

20. 神武天皇が日向に行ったときの流行歌も(39-79~84)

かえしとふ ゆりがはじめか(39-79)
こたえいふ かみよにもあり  


再び、七柄脛(なつかはぎ)が質問しました。この歌は百合姫(早百合姫)が初めてですか。
大伴武日が答えました。もっと昔からもありますよ。

みおやかみ つゝのおしてや (39-80)

天照大神の時代の「さつさつづうた」にもありますよ。

天照大神がお妃に裏切られ、八年間内乱になった時、反逆者(反乱軍=はたれ)を取り押さえるため、自らが八さ車(八角形の神輿に車のついたもの)に乗り戦った。
「さつさつづうた」を記した板切れに餅をつけて敵の陣地に投げ入れ、敵はその餅をむさぼり食べているところを一網打尽に捕らえた。

悪魔払いの長い歌「さつらでも はたれもはなげに みつたらず かかんながも てだてつき かれのんでも あにきかず ひつきとわれは あらもてらふさ」 の最初の「さ」と真ん中の「つ」と最後の「さ」で「さつさ」の三文字で全てを言い表した。

はたれ=はたやれ=はたおれず=機(はた)が織れない つまり反逆者(悪魔)がいると国が乱れ、国が治まらない。悪魔払いの語源が「さつさ」となった。
いまでも「さっさと片付けなさい」などと言っており面白い。

また、国が「治まらない」の語源は「おさ」(筬=縦糸の位置を整えて横糸を打ち込む櫛のような治具:竹の薄い小片を櫛の歯のように列ね、長方形の框(わく)にいれたもの)が廻らないから、機織(つまり国の政治)がまわらないことを言っている。

あめみこの ひふがにいます(39-80)
やまとちの はやりうたにも 


そして、神武天皇(あめみこ)が日向に赴いていた時、中央(ヤマト)が荒れてきたという流行歌(はやりうた)にもありますよ。

神武天皇は滋賀の多賀の宮の生まれですが成人される頃、お父さん(うがやふきあわせず)が九州で亡くなられたので、神武天皇は九州に行きましたが、九州での乱れを治めるため引き止められてしまい10年ぐらい現地で政治を取ることになってしまいました。その結果、中央(ヤマト)では「ながつねひこ」や「にいはやひ」などが勝手な振る舞いをするようになってしまった。そのため、ヤマトが荒れているので、天皇に早く戻ってきて欲しいという流行歌が広まった。

のりくだせ。ほづまぢ(39-80)
ひろむ。あまもいわふね(39-81)


乗り降せ 秀真路 弘む下界(あまも)岩船
天皇よ、早く東国(九州から見ているのでヤマトのこと)に帰ってきて下さい。
政治の行き届いた天下にして欲しい。

この当時から、既に流行歌(はやりうた)という語源があったことに驚きました。ヤマトでの流行歌が九州まで広がっていったという事実には更に驚かせられます。

しほづゝお すゝめて。やまと(39-81)
うたしむる これ。おりかえに
あひつ。あり かれうちとるを
よしとなす (39-82)


しほつちの翁(はやみ県主:九州の豪族)がヤマトを討てと押しすすめました。
この歌を逆に読むと「あ」・「ひ」・「つ」が含まれており、「あまひつぎのきみよ」を意味しています。

「あ」は「あま」で天皇であり、「ひつ」は「ひつぎ」で勅使とか天皇の位の皇子のことを示しています。

つまり、「あまひつぎのきみよ」は天皇になるタケヒト(神武天皇の本名)よと言っています。

留守を良いことに勝手なことを言い出しているヤマトを討つ正当な理由が出来た。貴方(神武天皇)が行く以外ないと勧められ、神武天皇はヤマト討ちに出発することになった。

 ゆりひめ。もつゝ(39-82)
うたもつゝ まめとみさほと
あらわせば つゝきうたよむ
のりとなる (つゝにうたよむ:小笠原写本)


百合姫本人もつづ(十九)、百合姫の歌もつづ(十九)であり、まめ(忠義)と操の両方を織り込んでいる歌をつきうた(連歌)のしきたりとなりました。

 ついにほつまの (39-82)
まつりこと あめにとほれば(39-83)
ことごとく まつらふときぞ 


ついに真秀の政治が天下に行き渡ったので、全てのハタレ(反逆者たち)や全国の神も従う時が来ました。戦いが終わって平和になりました。
それほど、トラブルが多かったことを示していたことになります。

うたはくに ちからは。あたひ(39-83)
たまわりし きみは。かみかと
みなめつむ (39-84)


だから、歌は国と引き換えになるほど、重要な価値のあるものです。力仕事は単なる賃金です。
ヤマトタケから賜り、配下の八十神たちは君(ヤマトタケ)は神ではないかと皆涙しました。

 続く

ジョンレノ・ホツマ

39-38~39~60.勿来に行宮(あんぐう)を建て滞在、竹の湊で行く手を拒まれる

12. 勿来に行宮(あんぐう)を建て滞在、竹の湊で行く手を拒まれる(39-38~39~60)

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あしうらこえて (39-38)
なこそばま かりみやにます 


葦浦(あしうら)を越えて、勿来(なこそ)浜に着き、ここに行宮を造営して滞在しました。
 
ひたかみの みちのく。しまつ (39-38)
みちひこと くにづこ。ゐたり (39-39)
あがたぬし ももなそよたり 
よろやから たけのみなとに 
こばむとき  


日高見神陸奥と島津道彦と国造り5人、県主等計百七十四人と数万の兵士が竹の水門(湊)に結集して行く手を拒んでいました。

「なこそ」の解釈については、「な」は否定語で、「こ」は、来るの意味から、蝦夷に対して、此処から先へ来てはいけないという関所であったようです。
いわき市の南、茨城県と福島県の県境が有名ですが、他にも同じ「勿来」という地名があり、歴史の流れの中の力関係で行きつ戻りつしていたものと考えます。


竹の水門(湊)について、吉川弘文館発行の街道の日本史13によると、この勿来の関の北のいわき市の小名浜港の近くに代官所があり、初代代官に竹垣治部右衛門(たけがきじぶえもん)という方の名前が目に留まり、ひょっとして、関連があるのではないかと推測しました。場所的にも大人数が終結できるし、此処が竹の湊(水門)と思われますが、如何なものでしょうか。

13. 大伴武日を勅使に、島津の神は降伏(39-39~40)

たけひを。やりて これをめす (39-39~40)

そこで、ヤマトタケは大伴の武日を勅使として遣わし、両首領を召されました(呼び寄せました)。

しまつのかみは (39-40)
あらかじめ いさわに。おそれ 
ゆみやすて みまえにふして 
やつろひぬ 


島津の神は、事前に君の威勢に恐れをなし、て勝ち目は無いと知り、弓矢を捨て、君の御前に降伏して服しました。

14. 大伴武日、日高見陸奥の言い分を聞く(39-40~46)

たけひまたゆく (39-40)
ひたかみの みちのくに。つぐ (39-41)
さおしかど みちのくかどに 
いでむかえ
 

大伴武日は、再び出向いて、日高見陸奥に告げました。勅使(大伴武日)を、日高見陸奥が門まで出迎えました。

みちのく。いわく (39-41)
いまなんぢ ひとのすべらぎ 
きみとして つかえるなんぢ (39-42)
おとろえり 


日高見神陸奥は言いました。今、汝は神ではなく人間の天皇(すべらぎ)に仕えて、君(天皇)と言っているが、仕える汝も衰えたものだ。

いまきてくにを うばわんや (39-42)

今頃、ノコノコやって来てわが国を奪うつもりか。

たけひのいわく (39-42)
かみのみこ なんぢを。めせど 
まつろはず かれにうつなり (39-43)


大伴武日は答えて言いました。神の皇子(みこ)(ヤマトタケ)が汝を召せど(呼び寄せたが)、服(まつろ)わないため、故に討ち滅ぼしに来た。

こたえいふ これなんのこと (39-43)
なんのいゐ
  

日高見陸奥が答えて言った。いったいこれは何のこと。何の謂い(いい)。

それわがくには (39-43)
おゝみおや たかみむすびの 
このくにを ひらきてなゝよ (39-44)
これをつぐ 

 
それわが国日高見は、大御祖神(おおみおや)高皇産霊神(たかみむすび)がこの国を開いて、七代の豊受神(とよけ:伊勢神宮祭神)がこれ嗣(つ)ぐ。

ひのかみここに みちまなぶ (39-44)

この時、日の神(天照神)もこの地(日高見のヤマテ宮:仙台)で天成神道(アメナルミチ)を学ばれたではないか。

ここはタカミムスビ家であり、この「タカミ」に天照大神の「ヒ」をつけて「ヒタカミ」という国名になった。仙台という漢字はヤマ(仙)テ(台)宮からつけられた。

かれひたかみぞ (39-44)
あめのみこ ちゝひめとうむ 
みこふたり (39-45)
 

だから、この地を日高見と言うのだ。天照神(あめ)の皇子(みこ)=オシホミミはタクハタチチ姫(豊受の娘)との間に二人の皇子を儲けた。

ゑはあすかみや とははらみ (39-45) 

兄(ゑ)はアスカ親王(クシタマ・ホノアカリ・テルヒコ)として大和国に封じ、弟(と)はハラ親王(天孫ニニキネ)でホツマ国(はらみ山=富士山)に封じた。

そのときくにを (39-45)
たまわりて そよの。はつこの 
われまでは よその。た。うけず 


その時、天照神から日高見(ひたかみ)国を賜ったのが、我が先祖のタカギ神で十四(そよ)代の裔(はつこ)の我までは他国の援助(た:助け)を受けず守ってきた。

それのきみ あすかをうちて (39-46)
くにをとる かみに。たがえり
かれなれず (46)


以前、タケヒト(神武)が正統なアスカ宮を討って、ヤマト国を奪ったのは神の道に反しているぞ。これ故、汝らの行為を認めないのだ。

 いま。また。きたり(39-46)
とらんとす これも。かみかや
すべぎみよ (39-47)


今、また、突然現われて、国を取らんとするのか。これでも神天皇(すべらぎ)のやることか、単に人の統治者(すべぎみ)ではないか。



15. 大伴武日が論証で日高見陸奥を説得(39-47~55)

たけひ。ほゝゑみ (39-47)
これなんぢ ゐなかにすんで
さわをみず ことよきに。にて
あたらずぞ
 

日高見陸奥の言い分を黙って聴きおえた大伴の武日は
これ汝、井の中に住んで沢を見ずという言葉を知っているかな。一見道理にかなっているようだが、正当性に欠けている(似て非なる)のだ。 

いなか(田舎)の語源 井中に住んで沢を見ず

しかときくべし(39-47)
これとかん (39-48)


そのわけを説いて聞かせるからしっかりと聞くべし。

むかしあすかの(39-48)
ながすねが ふみぬすめとも
あすかぎみ たゝさぬゆえに 


昔、アスカの臣のナガスネが無断で春日の神庫から世嗣紀(よつぎふみ)を盗み出したのに、いつまでもアスカ君が糺さなかった。(糺せなかった)

のりくだせほづまぢ 
ひろむあまもいわふね (39-48~49)


乗り降せ 秀真路 弘む下界(あまも)岩船

よにうたふ しほつおきなが(39-49)
これゆきて むけざらんやと
すゝむゆえ やまとたゞせば


 この歌が世に流行して、「シホツチ」の翁(九州宇佐の県主と思われる)がタケヒト(神武)に「今こそ立って国を治めなさい東征(むけ)ざらんや」との進言により、ヤマトを討って糺した。
(だから、勝手に盗んだのではないと援護した)

おおんがみ かしまのかみに(39-50)
みことのり ゆきてうつべし 


オオン神(天照大神)が夢枕に現われて、鹿島神(タケミカヅチ)に向かって命令(詔みことのり)した。
「神武天皇が苦労しているようだから、お前が行って、ヤマトを討ってきなさい」

そのこたえ われゆかずとも (39-50)
くにむけの つるぎくだして
たかくらに これさゝげしむ (39-51)


鹿島の神の答えは「私が行くこともないでしょう。国を成敗する剣を神武天皇に捧げれば済むことです。」
夢から覚めたら高倉に剣が捧げられていました

たけひとは きみたるいとの(39-51)
あるゆえに あめよりつゝく
かみのみこ よゝにあまてる 


タケヒト(神武)は君としての人格を充分にそなえて、威徳もあるので天神より続く神の御子として代々に天照(あまてら)していらっしゃいます。

なんじよゝ きみなくこよみ(39-52)
いづれぞや こたえて。いせと
 

汝、代々君無くして、暦をいったい誰から受け取っているのかとの問いに「伊勢」からであると答えました。

またいわく あまてらすかみ(39-52)
こよみなし ぞろうえさせて 


更に、天照神が最初に暦を作り授けたので、田植えの時期も正確に出来るようになったではないか。

かてふやし みをたもたしむ(39-53)

お陰で、民の糧(かて)も増えて、皆、命を保っているではないか。

もゝなそこ よろみちつゞく(39-53)
このよみて いまひのわちに
おわします
  

神は今も百七十九万三千年続いているこの世を見守って、今は日輪内(ひのわち:太陽の中心)にお帰りになり御座されています。

みまこのよゝの(39-53)
たみおさむ ひに。なづらえて(39-54)
あまきみぞ 


御孫(みまご)(天孫ニニキネ)は本格的に水田を作り、代々民を豊かに治めたので、天照日に準えて(なぞらえ)天君(あまきみ)と呼ぶようになったのです。

なんぢはよゝに(39-54)
みのりうけ いのちつなきて
いまだその きみにかえこと
もふさぬは そのつみつもり(39-55)
いくらぞや
  

汝は、代々実りを受けて、命を保ちながら、未だにそのことに気づかず、君に感謝の返礼もせず、詣(もう)さぬようでは、その罪が積もり積もって幾らぞや。

ぬけみちありや(39-55)
わがきみは かみならずやと


どうじゃ、抜け道があるか。まだ、わが君は神でないといえるか!と諭しました。

16. ヤマトタケは陸奥を許し年貢を捧げさせた(39-55~60)

このときに みちのくおよび(39-55)
みなふして まつろいくれば(39-56)
やまとだけ みちのくゆるし 


武日の説得に応じた、このとき、日高見陸奥はじめ全員がひれ伏して服(まつら)い来たので、ヤマトタケは日高見陸奥の罪を許しました。

なこそより きたはみちのく(39-56)
くにのかみ もがたのはつほ
さゝけしむ (39-57) 


勿来(なこそ)より北は、陸奥(みちのく)と名付け賜り、国神(クニツカミ)に新たに任命して、百県(あがた)から初穂(はつほ:年貢)を捧げさせました。

つかるゑみしは(39-57)
みちひこに なそがた。はつほ
さゝけしむ
 

津軽蝦夷(えみし)は、島津道彦に与えて、七十県から初穂(はつほ:年貢)を捧げさせました。

みなみはひたち(39-57)
かつさあわ みかさ。かしまに
たまわりて (39-58)


南は常陸(ひたち)、上総(かずさ)、安房(あわ)を「ミカサカシマ」(大鹿島)に賜わりました。

かしまひでひこ (39-58)
ときひこも おとひこみたり 
みはたまふ
 

鹿島秀彦、香取時彦、息栖乙彦の三人にはヤマトタケの御衣(みは:着物)を賜わりました。

くにづこゐたり(39-58)
かみのみち しいてもふせば
めしつれて いたる。にはりえ (39-59)


国造(くにつこ)の五人が、神の道を学びたいと強いて願い出るので、召し連れてニハリの宮へ向かいました。

後にこの5人はトリコ(捕虜)という記述になっており、宇治で釈放と書かれており(40綾-13)、大鹿島命(初代伊勢神宮)の添人にするが、勝手な振る舞いをするので5人を播磨、安芸、阿波、伊予、讃岐と別々に住まわせることになります。(40綾-64~66)

ゑみしから かぞにしきとは(39-59)
わしのはの とがりやもゝて
たてまつる 


エミシ(津軽蝦夷 島津道彦)からの献上品は、数峯錦(かぞみねにしき)十反と、」鷲の羽根の尖り矢(石のやじり)を百手(ももて)奉りました。


数峯錦(かぞみねにしき)とは、沢山の山を織りこんだ錦織のことであり、当時の大陸からの交易品と考えられる。既に、北方の交易が頻繁に行われていたことの証拠でもあります。
中国(支那)の北側にセレスという絹の国が存在していており、シルクロードの出発点であったことよりもうなづける。プトレマイオスの復元地図に記載されており、スキタイ人の住む二つの国を越えると高い城壁が取り囲むセレス人の国に到るとあります。




みちのく。よりは(39-59)
きかね。とを くまそやもゝて(39-60)
たてまつる  


ミチノク(日高見陸奥)からは、黄金を十斤と熊龍矢(クマソヤ:クマゲラ(鷲)の毛)を百手(ももて)奉りました。


「きかね」といっていた訓読みの黄色と金の漢字をあてはめていたのが、いつの間にか音読みで読まれるようになった例ですね。
黄金を十斤について、当時はどうか分かりませんが、一斤は約600gと仮定すると、十斤=約6kgfになり、1gが約三千円弱として現在の価値では1千8百万円近くになります。

金について、当時から貴重な財源として取り扱われていたことがわかります。それと同時に、ここ陸奥で金が採取されていたことは、ヤマト政権に頼らずとも独自の大きな権力を持っていたことが伺えます。後世の平泉中尊寺や奈良の大仏建立時の金に容易に結びつきます。

余談ですが、今、温暖化が叫ばれていますが、当時(?)縄文・弥生時代にかけて、現在より気温が5℃位温暖であったという研究報告を聞いたことがあります。そうであれば、仙台以北のこの地方は今よりも非常に温暖で住みやすく、逆にヤマトの方はかなり暑かったのかもしれません。
そして、紀元後、時代とともに、気温が下がってきて、エミシが南下して来ることに繋がった要因ではないかと考えます。


続く

ジョンレノ・ホツマ

39-34~36. 上総へ船で、嵐に遭いおとたちばな姫は竜の身代わりに

10. 上総へ船で、嵐に遭いおとたちばな姫は竜の身代わりに(39-34~36)

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とき。やまとだけ (39-34)
おゝいそを かづさえ。わたす 
いくさぶね  


ときにヤマトダケは大磯(吾妻神社)から上総国(かずさ湊)に軍船(大亀船)に乗ってわたりました。

たゞよふかぜを (39-34)
しつめんと おとたちばなは (39-35)
へにのぼり あめつちいのり 
わがきみの いつを。やまとに 
たてんとす 
 

そうしたら暴風にあい、暴風を鎮めようとオトタチバナ姫は舳先に上り、天地神に祈り、我が君(ヤマトタケ)が必ずや大和のために手柄をたてて欲しいと願いました。

われ。きみのため (39-35)
たつとなり ふねまもらんと (39-36)
うみにいる 


私は君(ヤマトタケ)のために、竜の身代わりになって、船が無事に着くようにと海に身を投げて走り水)しまった。
横須賀の浦賀水道に面した所に走水という地名が残っています。


もろ。おどろきて (39-36)
もとむれど ついにゑざれば 


皆、驚いて探しましたが、ついに見つけられませんでした。

なみなきて みふねつきけり (39-36

その後、波は凪いで船は無事に着きました。



11. 上総にて(39-37~38)

やまとだけ かづさにいれば (39-37)
さかきゑに かがみを。かけて 
むかひます  


ヤマトダケは上総に入って、榊枝に鏡を掛けてひたかみ国へと進軍しました。(皇軍:みやいくさ)

かとり。ときひこ (39-37)
ひでひこと いきすおとひこ 
かねてまつ おゝかしまより (39-38)
みあえなす 


香取時彦と鹿島秀彦と息栖乙彦が既に待っていました。大鹿島(国摩(くになず)大鹿島)は、多くの兵のために御饗(みあえ:もてなす)を盛大に開きました。

続く

ジョンレノ・ホツマ

39-21~23~36. 御幸狩り決定、おとたちばな姫を先に実家へ

6. 御幸狩り決定、おとたちばな姫を先に実家へ(39-21~23~36)

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話しが、また現在に戻ります。

たちばなひめと (39-21) 
ほつみてし さくらね。ましを 
さきにやり (39-22)


おとたちばな姫(ヤマトタケの3番目の奥方)と「ほつみてし」・「さくらねまし」(右大臣・左大臣)を先に実家(おとたちばな姫の実家:厚木)に行かせました。
ヤマトタケは「やまと姫」に挨拶のため伊勢の宮を経由しての別行動であった。

尾張までは後妻である4番目の宮づ姫を、尾張の実家迄送っていった記述が、後に出てきます。
それぞれのお妃を実家へ連れて行ったのは、死を覚悟していたから、万一のときは、後々、宮中で主のいない生活をさせないという配慮があったと考えますが如何でしょうか。

そして、御幸狩り(戦闘開始)の決定がなされました。

いくさくだれば (39-22)
ひたかみが まねく。もとひこ 
うなづかず さがむのおのに 
しろかまえ てしと。ましらと 
もりかたむ (39-23)


御幸狩り(戦闘開始)の決定がなされた御触れがでました。「みちのくのひたかみ」が橘元彦を味方に引き込もうとしましたが、元彦はうなづきませんでした(同意しなかった)。
橘元彦は相模の小野に館を構えて、「テシ」と「マシ」等(右近・左近)将兵を率いて守りを堅め、ヤマトタケの御幸狩りに来られるのを今か今かと待ち望んでいました。

「たじまもり」(田道間守):崇神天皇の時、新羅の王子「あめひぼこ」が来朝し、天皇に服つらい帰化した5代孫)・「おとたちばな姫」の実の父親
橘元彦(関東の厚木の小野神社を拠点)


7. 計略に遭うが秘密(火・水)の祓いで賊軍(あだいくさ)を焼き滅ぼす(39-23~26)

ゑみしのやから (39-23)
せめのぼる すそのに。であふ 
やまとたけ 


エミシの奴らの対応は素早く攻めてきました。富士の裾野でヤマトタケはエゾ等と出会います。

ゑぞらあざむき (39-23)
ののしかゝ いき。きり。たちて 始めの「の」は野を示す文字
ふみしだく しもとゆふして (39-24)
みちをしる のそみめぐりて 
かりたまえ 


エゾ等は言葉巧みに計略をはかりました。この辺は野性の鹿が群れを成して息が霧のように立ち昇り山を踏みしだいています(荒らしている)。木の枝の乱れ絡みで鹿の道が分かります。存分に鹿狩りを楽しんでください。


きみはげにとや (39-24)
ゆきもとむ あたのをやきて 
あざむけば しりて。きりひの (39-25)
むかいひに ひみつのはらひ (ひ:火)
みたびのる (24~25) 「み」は三を示す


きみ(ヤマトタケ)は「分かった」と言って鹿を求めて野に入っていきました。敵は頃合いを計って辺りの野に火をつけた。ヤマトタケは欺かれたことを知って、切り火を起こして迎え火を放って、秘密の祓いを三度唱えた(祈った)。

ここで、「むかいひ」、「ひみつ」の「ひ」は「火」を表す表意文字(今風の絵文字)になっています。

こちふきかわり (39-25)
にしけむり あだにおふえば 
くさをなぐ もえくさとびて (39-26)
あたいくさ やきほろぼせば 
やけづのや つるぎのなをも 「の」は野を示す文字
くさなぎて (くさなぎと:小笠原写本) 


秘密の祓いをしたら、風向きが東風にかわり西に煙が移りました。
仇(敵の頭上)に火が覆った。そして、きみ(ヤマトタケ)が草を薙ぎ払うと燃え草が飛び行きて賊軍(アダイクサ)を焼き滅ぼしてしまいました。
このときから、ここを焼けた野原(焼津)と言うようになりました。そして、むらくもの剣の名前も草薙の剣というようになりました。
草薙(草薙の剣)の語源と 焼津の語源もここから出ていると考えられます。

8. 相模の城へ南北に分かれて敵を挟み撃ち(39-26~31)

あしがらやまに (39-26)
せめいたる さかむのお野の (39-27)
しろせめを かたくまもれば 
あたやから よもに。たきぎを 
つみあげて なそか。ひでりに (ひ:日)
ひぜめなす (ひ:火)(39-28)


この事件により、相模の館の窮状を知り、急いで足柄山に至りました。相模の小野の城を敵が攻めているのを必死で守っていました。敵どもは四方に薪を積上げて、七十日間も日照りの続いた後に、火攻めを仕掛けてきました。

かわきもゆれば (39-28)
やまとだけ やぐらのたけに 
のぼりみて 


相模の館の方面が、乾ききって燃え広がているのを、ヤマトタケは矢倉岳に登って遠望して、緊急の作戦を取りました。

きびたけひこを (39-28)
おゝいそえ おゝとも。たけひ 
おゝやまの きたにめぐりて (39-29)
しろにいれ さねにわかちて 


まず、吉備武彦の軍を南側の大磯に向けて出発させて、大伴武日の軍を大山の北側から回って入城させ、南北に分かれて敵を挟み撃ちに追い詰め戦いました。

やまとだけ かみすき。きよめ (39-29)
しらかしの たちをはらみの
みはしらと いのるひみつの 
きよはらひ (39-30)


ヤマトタケは髪をすき身を清めました。(死を覚悟した) 白樫の木刀を富士山の御柱になぞらえて、秘密の災いを祓った。

たつたのかみの (39-30)
あらわれて このしろゐけの 
たつのあめ ふりひをけせば 


そうしたら、龍田の神(波沈めと火を沈める神)が現われて、このしろ池に竜の雨を降らせて火を消し止めました。

9. 「おとたちばな姫」と再会を喜ぶ(39-31~34)

みやいくさ いさみてあだを (39-31)
なかばうつ みな。にげちれば 
ときをあけ (31)


皇軍(みやいくさ)は勇み立って、敵を半ば撃ち殺しました。敗残兵は皆逃げたので、ときのこえ(戦勝宣言)を上げました。

むかひいるとき (39-31)
おとひめは きみのてをとり 
やすんぜて やつかれ。はじめ (39-32)
おのおのが まさにやけんと 
いのりまし 


城門が開き入城した時、オトタチバナヒメはヤマトタケに走りより、手を取り、労いの声をかけました。火攻めににあって焼け死ぬ状況の中で君の安否を祈って聞いて歩きました。

いまさいわひに (39-32)
おがむとて よろこびなんだ 
そで。ひたす (39-33)


今、こうして君のお顔を拝むことが出来ましたと、喜びの声でとめどなくなく流れる涙で、袖を濡らしました。

こゝにもとひこ (39-33)
よもにふれ まつろわざれば 
ころすゆえ おゝんたからが 
みかりこふ ことはじめとて 
しはすやか かくかご。たてゝ (39-34)
しるしと。す 


ここで「もとひこ」が 四方にお触れを出しました。従わない者があれば殺す。(死罪に処す)そうしたら、百姓たちが、み刈を願い出ました。事の始めとして12月8日にみかんを籠に入れて進軍しました。

軒先にみかんを入れた籠をたてることで従っている印としました。

日代40年の6月に大伴武日が上京して訴えてから、約3ヶ月後の10月2日に門出して、富士山の麓の反逆者を制覇して12月2日に凱旋の進軍をしている。馬を使ってのかなりの機動力であったことがうかがえます。
出発までの準備期間が3ヶ月というのも、80人分の馬、食料などかなりの量を、まかわなければならず大変であったと思う。


 続く

ジョンレノ・ホツマ

39-17~21. 橘元彦を味方につける

5. 橘元彦を味方につける(39-17~21)
ここで、突然、話しが昔に戻って、「かぐもとひこ」(橘元彦)に会いに行った「たじまもり」(田道間守)にふれています。

さきにたじまが (39-17)
のこしふみ くにそまざれば (39-18)
かぐのきを ゑんとおもえば 
たちばなの もとひこがやに 
としふりて なじみてめぐる 
ひたかみと しまずのきみに (39-19)
あひしりて やゝゑてかぐを 
ひかぬまに きみかみとなる
 

以前「たじまもり」(田道間守)の遺言書(のこしふみ)には、天皇(垂仁)の勅を受けて東国(ほつまえみし)へ視察に赴きました。講和を結びに行きましたが、先方のプライドが高いので、少なくとも表向きは「かぐの木」をもらいに行くことにしました。橘元彦の館で、じっくりと土地に馴染み親しんでいるうちに10年も経ってしまいました。
日高見君陸奥(仙台)と島津道彦(青森)とも馴染みになって(親しくなって)やっと念願が叶い「かぐの木」を得ルことが出来ました。そして、宮中に帰りましたが、時すでに遅しで君(11代垂仁天皇)は神となって天国へまかられていました。

ちゝくやみ いまわかみやに (39-19)
たてまつる きみやつかれが (39-20)
もとひこに むすぶしづくの 
みなもとを おぼしけほづま 
しろしめせ (19~20)


やっとの思いで戻ったら君は亡くなっていたことを知り、悔やんで悔やんで(千の千:非常に多いこと)、今の新しい天皇(12代景行天皇)に奉ります。君よ(天皇)、どうかやつかれ(私)が元彦の家で結ばれた兄弟の滴(しずく)の源流(みなもと)を思しめして、ほつま国と平和裏に国を治めて下さい。自分からは戦いをしないでくださいと願っています。
すなわち、たじまもり(田道間守)は、もとひこの妹のはなたちばな姫と一緒に住んでおり、夫婦であったことを暗に言っています。

ここにすべらぎ (39-20)
たけうちと かたりあわせて (39-21)
ほづまくに かぐもとひこを 
みなにして 


この遺言書を読んで景行天皇は「竹内すくね」と相談してホツマの国の「かぐもとひこ=橘元彦」を味方に引き入れてることにしました。

38綾(章)の下記を参照願いたく
15. 二十五年七月「たけうちまろ」にほづま巡察の詔(38-79~80)
16. かぐのやかた(もとひこ)に道を乞う(38-79~80)
18. もとひこは本音で語り合った(38-86)

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 続く

ジョンレノ・ホツマ

39-13~17.ヤマトタケ東征へ、ヤマト姫にあいさつ

4.ヤマトタケ東征へ、ヤマト姫から「むらくもの剣」を授かる(39-13~17)

おがみてきびの (39-13)
たけひこと おゝともたけひ 
したがえり なゝつかはぎを (39-14)
かしはでと かなつき。ふかに 
かどでして 


参拝して、いつも身際に控える吉備武彦と大伴武日を武将として定め従えて、ナナツカハギを食事係に決めました。そして10月(かなつき:神無月)2日に門出(出発)しました。このナナツカハギは会計も担当していたことが後(40綾-17)になって分かります

みちをよこぎり (39-14)
なか。いせの かみにいのりて 
いそのみや やまとひめにも (39-15)
いとまこい きみのおゝせに 
あたうちに まかるとあれば 
やまとひめ 


けものみちを真っ直ぐに突き進み(よこぎり)急ぎました。そして7日には伊勢神宮に戦勝祈願をした後、伊勢の宮の「やまと姫」にも挨拶に行きました。ヤマトタケは景行天皇の命によりあだ討ちにまかります(敵を退治にまいります)と「やまと姫」に報告(訴え)しました。

此処で、やまと(まきむき宮:景行天皇)を10月2日に出発して、10月7日(5日目)に伊勢で祈願している。当時の移動手段、時間を推定するのに一つの基準になる貴重な記載である。
また、天皇とこの伊勢の宮との関連でありますが、景行天皇が九州の熊襲征伐から帰ってきたときもこの伊勢の宮に報告に行っています。(38綾-76頁)


私見ですが、当時の天皇は、天地の「地」を守り、伊勢の宮(斎宮)は、天地の「天」を守っていたと考えられないでしょうか。
もっと、噛み砕けば、当時の天皇は、今の内閣総理大臣の立場のように実際の業務をされ、伊勢の宮は、今の天皇のように象徴的な存在を維持することと見れば、分かりやすくなるのではないでしょうか。

この伊勢の宮を守っていた二代目の斎女「やまと姫」の役割(天照大神を御守りする)を、大陸から見て、卑弥呼(「ひのみこ」=「日(天照大神)の御子」が「卑弥呼」と漢字化された)が日本という国の女王として君臨していたように見られていたこともうなづけます。
この卑弥呼考については、後日、やまと姫の章(36綾)のところで詳しく再考したいと思います。



にしきふくろと (39-15)
つるぎもち おみこにいわく (39-16)
あめみまこ そめしひみつの 
おんはらひ ひみづのさわり 
はらふべし 


やまと姫がヤマトタケに錦袋(錦織の袋で秘密の払いの呪文が書かれたものが入っていた)と剣を持ち出してヤマトタケ(おみこ=天皇になる人)に話しました。錦袋の中は、昔、あめみまこ(天孫ににきね)が自ら記した秘密(火・水)の祓いです。火の災難、水の災難にあったらこれらの障害を払いなさい。

「ひみつ」は、火の「ひ」と、水の「みづ」の二つを表しているのかなとも思います。忍者の術で、火炎の術、水団の術という言葉を聞きます。
でもまた、(39綾-38)にあるように、「ひみつ」の祓いで「しなどの風の神」が出てくるので、秘密の祓いがどういう内容であったかは計り知れません。 
ただ、此処で「秘密」という言葉の語源になったことは確かなものと思われます。

むかしいづもの (39-16)
くにひらく むらくもつるぎ (39-17)
これなるぞ つゝしみうけて 
あだむけよ な。おこたりそと 
さづけます 


昔出雲の国を開いた(つまりスサノウのこと)が使った「むらくもの剣」(やまたのおろちの尻尾から取り出した剣)がこれである。謹んで拝領して敵を退治してきなさい。くれぐれも注意を怠らないようにと言って授けました。


やまと姫がこの「むらくもの剣」を受け継いで持っていたことからも、現在発掘中の斎宮跡の規模の大きさからも、偉大な存在であったことがうかがえると思います。

「なおこたりそ」の「な」は否定を表している。韓国語でも単語の前に否定の「アン」という語をつける場合と、文章語尾で否定する場合の二通りあることを知り非常に似通っていることにびっくりしました。  
英語の「un-」も否定語であることも面白い現象だと思いました。
「no」にも発音が通じるようであり、もともと同じ出所だったのか、否定する場合の意思表示としては万国共通なのかなと思った次第。




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ジョンレノ・ホツマ

39-9~13. 景行天皇はヤマトタケに御矛を授けた

3. 景行天皇はヤマトタケに御矛を授けた(39-9~13)

景行天皇はヤマトタケに自分の反省と子供への思いを話されて授けました。

いまわれおもふ (39-9)
いましこぞ すがたきらしく 
ももちから ゆくにさわらず 
せめばかつ 


今、我思う 汝(いまし)こそは容姿りりしく端正である、百人力である。行く処、敵は無く(邪魔するものはない)戦えば必ず勝つ。

すなわちしれり(39-9) 
みはわがこ まことは。かみの (39-10)
われくらく むけざる。みよを 
つがしめて たえざらしむる 
なんぢこそ あめがしたしる 
くらいなり (39-11)


すなわち、私は今、気がついた。み(そなた)は我が子だが、本当は神が使わした子である。神が私の力不足(我暗く)で世の中の乱れを案じて、汝こそを天が降らした神の子に違いない。(次の天皇を途絶えないようにする汝が天皇の位である)

ふかくはかりて(39-11) 
いづにふせ めぐみになづけ 
ほづまなし かだましものを 
かんつよに まつろわせよと 
さづけます (39-12


深謀に(軽はずみな戦いはするな)、神の意向を持って説き伏せなさい。恵み物を与えてなづけなさい。(真っ向から戦ってはいけません。講和をしなさい。)秀真(ほつま)道で相手に対しなさい。不良人(かだまし者)を神の世に伴わせなさいと言って御矛(ホコ)を授けました。

ヤマトタケが覚悟を決めて東征へと出発の準備に進みます。

みほこをうくる (39-12)
やまとたけ むかしみたまの 
ふゆにより くまそをむけぬ 
いまもまた みたまによりて 
ふゆをかり あだのさかいに (39-13)
ゆきのぞみ まつろはざらば 
うつべしと 


景行天皇は御矛(みほこ:青銅製と思われる)をヤマトタケに授けました。御矛を受け取ったヤマトタケは「昔、天皇(=みたま)の御加護・恵み(=ふゆ)により、自分は熊襲を退治することが出来ました。
今、再び天皇の御加護・恵みを借りて、敵国(あだ)の前線(境)に向かいます。行って、もしも従わなければ、戦って討ち負かしてきます。」と誓いました。

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ジョンレノ・ホツマ

39綾 目次

39綾 目次

1. ヤマトタケがなぜ東征に(1~5)
2. ヤマトタケ東征に行く決意(5~9)
3. 景行天皇はヤマトタケに御矛(みほこ)を授けた(9~13)
4. ヤマトタケ東征へ、ヤマト姫から「むらくもの剣」を授かる((13~17)
5. 橘元彦を味方につける(17~21)

6. 御幸狩り決定、「おとたちばな姫」を先に実家へ(21~23)
7. 計略に遭うが秘密(火・水・土)の祓いで賊軍(あだいくさ)を焼き滅ぼす(23~26)
8. 相模の城へ南北に分かれて敵を挟み撃ち(26~31)
9. 「おとたちばな姫」と再会を喜ぶ(31~34)

10. 上総へ船で、嵐に遭い「おとたちばな姫」は竜の身代わりに(34~36)
11.上総にて(37~38)


12.勿来に行宮(あんぐう)を建て滞在、竹の湊で行く手を拒まれる(38~39)
13.大伴武日を勅使に、島津の神は降伏(39~40)
14大伴武日、日高見陸奥の言い分を聞く(40~46)
15.大伴武日が論証で日高見陸奥を説得(47~55)
16. ヤマトタケは陸奥を許し年貢を捧げさせた(55~60)


17. 東北からの帰途で(60~67)
18. つずうた発祥、早百合姫の歌(67~72)
19. つずうたの説明(73~79)
20. 神武天皇が日向に行ったときの流行(はやり)歌も(79~84)

21. 相模の館にて 虎柏(とらかしわ)鐙(あぶみ)を差し出す(84~86)
22. おとたちばな姫を祀る(86~89)
23. 大宮(氷川神)を建てる(90~91)


24. 関東をあとに、東の元(92~94)
25. 吉備武彦は越路へ、武日は土産を持って帝へ(94~95)

26. ヤマトタケは単独木曽路へ(95~98)
27. 美濃にて吉備武彦と再会(99~100完)

39-5~9 ヤマトタケ東征に行く決意

2. ヤマトタケ東征に行く決意(39-5~9)

ヤマトタケが東征に行く決意を表明したとき、景行天皇がエミシについての話を続けました。当時(紀元1~2世紀)の大和朝廷がエミシについて捉えていた内容です。

ときにすべらぎ(39-5) 
ほこをもち われきく。ゑみし(39-6) 
むね。しのぎ あれおさもなく 
むらきみら あいおかしゑる 
やまあらし かだましものや 
ちまたかみ(39-7) 


そのとき、景行天皇は矛を持ってこう捧げました。
私が聞いた所によると、エミシらは我先にと前に出て、村長(荘園主)もおらず、村の親分たちはお互いに犯し(領土を取り合って)あって、やまあらし(山賊)、かだまし(ふうてん)、岐(ちまた)神(生業もなくうろつき物を乞う)等である。

夜の巷(ちまた)に悪党が・・・の「ちまた」の語源でしょうね。

なかに。ゑみしら (39-7)
めおまぜて しむみちかけて 
あなにすみ けしゝをはみて 
けころもき めぐみわすれて 
あだをなし (39-8


なかでもエミシらは男女混じって身内同士乱婚している。穴居(*)生活して、毛の生えた四足の動物を食べ、毛皮を着ている。天への感謝を忘れて悪いことをしている。

あなにすみの穴居生活とは、当時すでに鉄を作っていた人種を示していると考えられる:東国の古代産鉄族オオ氏 柴田弘武氏より 詳細は後日再考したいと思っています。

あだをなし:あだ討ち、あだ姫(34綾-5)が語源となっていると考えられます。

ゆみもよくいる (39-8)
たちまいも たぐい。あつめて 
かくれんぼ のやまをはしる 
わざをゑて あめなる。みちに 
まつろはず (39-9)


更に、弓もよく射り(弓の名手)、剣による舞も優れている。一族を集めて野山に隠れて生活し、野山を駆け巡って猟をしている。そして、天なる道を関知していない。(大和朝廷を関知していない)

「かくれんぼ」という言葉がこの時既に出てきており、隠れて見つからないようにするしぐさの語源になっている。

「野やま」の「の」という文字(おしで文字)は「野原」などを表す絵文字(今風に言えば)で、他の「の」とは違っています。通常の「の」は漢字の「田」という字とそっくりだが、「野」を表すときは、真ん中の縦横の線が全て突き出ています。

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38綾(章)完- 39綾(章)へ 続く

ジョンレノ・ホツマ

39-1~5 ヤマトタケがなぜ東征に

1.ヤマトタケがなぜ東征に(39-1~5)



ヤマトタケがなぜ東征にも行くようになったか、日本書紀、古事記には表しきれていない内容がホツマツタヱを読む事により、非常に分かりやすく理解できると思います。

当時の天皇(すべらぎと言っていた)は景行天皇「人皇十二代ヤマトオシロワケ」で、ヤマトタケが天皇の勅使として東征に出向いた経緯が良くわかります。

まきむきの ひしろのよそほ(39-1) 
せみなつき ほづま。さわげば 
さかおりの たけひ。のぼりて 
みかりこふ (39-2)


まきむき(景行天皇)即位後、日代40年の蝉が鳴く月(6月)に、「ほづま地方」(関東・東北)が騒々しい(=乱れている)ので酒折を管轄している「大伴の武日」が上京して巡狩り(軍を差し向ける)してくださいと頼みに来ました。
蝉がじーじー鳴いてうるさい様子とほづまが騒いでいることを擬音化して、蝉をいれたように思われます。

きみもろあつめ(39-2)
のたまわく ほつまのゑみし 
かすめると たれびとやりて 
むけなんや


そこで、きみ(まきむき:景行天皇)が諸臣を集めて話されました。「ホツマにいるヱミシが自分たちの領土をかすめとっている。誰を将軍にして向けようか。」

もろひと。いわず(39-2) 
やまとたけ さきにはとみら(39-3) 
にしをうつ ひがしをうつは 
もちひとぞ 


誰も何も言わなかったので、ヤマトタケ(弟)が「先の戦いで部下を引き連れて西(九州・熊襲)を討ってきました。東(ほづま・えみし)を討つのは、もちひと(兄)ではないですか」と、進言しました。

ときにおほうす(39-3) 
わなゝなきて のにかくるゝを (の=野)
よびめして きみせめいわく(39-4) 
いまし。あに しひて。やらんや 
おそるゝの あまりとみのを 
まもらしむ
 

そうしたら、「大うす」(兄のもちひと)は、わめきだして野に隠れてしまいました。連れ戻されて、きみ(景行天皇)が責めて言うには、あえて卑怯さ、臆病さを分かった上で東征にやるつもりはない。「大うす」はあまりにも臆病なので美濃を守っていなさい。

ときやまとたけ(39-4) 
おたけびて にしむけ。まなく(39-5) 
またひがし いつかおよばん 
たとえとみ いたわるとても 
むけざらん (4~5)


その天皇の言葉を聞いたとき、ヤマトタケが大声で、「私は西(九州熊襲)で戦ってきて、休む間もありませんが、また今度も私が東(ほつま・えみし)に行きます。いつか、必ず平和なときが来ることを信じています。
帰ってまだ間がないので自分のとみ(部下)をいたわらなければなりませんが、自分が行かざるを得ません。」という決意を表明しました。

ヤマトタケの生い立ちは景行天皇が父親で、母親は中宮の「ハリマノイナヒ オイラツ姫」(吉備津彦の娘、播磨稲日大郎姫)です。双子で生まれ弟の方がヤマトタケです。江戸時代まではヤマトタケと称していたのが明治にはいってヤマトタケルと「ル」がついたとのことです。
兄はオウス(大碓)で真名(イミナ)はモチヒト(望人)と言い、弟(ヤマトタケ)はコウス(小碓)で真名(イミナ)はハナヒコ(花彦)といいました。

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 続く

ジョンレノ・ホツマ

ホツマツタヱ38綾目次

ホツマツタヱ38綾 
ひしろのよくまそうつあや
日代の世 熊襲討つ章

はじめに→

1. 「おしろわけ」 すべらぎに即位
 後世に景行天皇の諡号(おくりな)となる(38-1~3)

2. 即位二年目 「おいらつ姫」が双子を生む(38-3~6)
3. 即位三年目 紀州への御幸取りやめ(38-6~8)
4. 「たけうち」について(38-8)
5. 景行天皇 美濃に行き八坂入姫をお妃に(38-8~13)

6. 即位五年目 八坂入姫 「わかたり彦」を生む(3-13~16)
7. 八坂入姫が生んだ子供は十三人(38-16~18)
8. その他のお妃が生んだ子供(38-18~21)
9. 日向の御幸のときに生まれた子供(38-21~22)
10. 景行天皇の子供は総勢八十一人(38-22~24)

11. 「おおうす」に美濃の美人姉妹を宮中へ呼ぶよう遣わせたが(38-24~26)
12. 即位十二年目 景行天皇 熊襲へ御幸(38-26~29)
12-1. 「かんかし姫」が出迎え(38-29~30)
12-2. 「はなたれ」、「みみたれ」、」あさはぎ」、」つちおり」、「いおり」の
悪党どもを討ち取って下さい(38-30~33)


12-3. 「たけもろ」引き出物で悪党どもを誘き出し一網打尽(38-33~34)
12-4. 豊のながお(長峡)に仮宮(38-34~35)
12-5. 十月には早見村へ(38-35)
12-6. 鼠(ねず)の岩窟に二つの「つちぐも」(38-35~37)
12-7. 来田見村の仮宮で作戦を取る(38-38~38)

12-8. 岩窟のくも(賊)を討ち殺す(38-38~39)
12-9. 「やた」と「うちさる」を討つ(38-39~42)
12-10. 柏峡野の石について(38-42~43)
12-11. 十一月に日向の高屋に至る(38-43~44)
12-12. 十二月五日に熊襲を討つ計画を(38-44~45)

12-13. 「ふかや」と「へかや」二娘を召し入れる(38-46~48)
12-14. 姉の「ふかや」の行い許せず(38-48~50)
12-15. 妹の「へかや」を国造の跡継ぎに(38-50~51)
12-16. 筑紫を完全に平定するために六年間高屋に滞在(38-51)
12-17. 「みはかせ姫」をお妃に、生まれた子供の「とよくにわけ」は日向の国造へ(38-51~52)
12-18. 日代十七年の三月十二日、子湯潟のにもの(丹裳小野)に御幸(38-52~58)

12-19. 日代十八年三月帰途に向かって御幸狩り、ひなもりにて(38-58~59)
12-20. 泉姫の家で集いの用意(38-59~60)
12-21. 四月三日 「くまつひこ兄弟」を呼び召したが弟は来ず殺す(38-60~61)
12-22. 葦北の小島で水を求めたら清水が湧き出した(38-61~63)
12-23. 五月一日に船を馳せて八代に(38-63~64)
12-24. 不知火国と名付く(38-64~65)

12-25. 六月三日、高来県で土蜘蛛の頭を退治(38-65)
12-26. 六月十六日には阿蘇国に(38-66~68)
12-27. 七月四日「つくし」の高田行宮で大御木が倒れる(38-68~71)
12-28. 八女県 やつめ姫神(38-71~73)
12-29. 八月 いくば村 うくは(皿)の用意を忘れる(38-73~75)
12-30. 十九年九月 大和のまきむき日代の宮に帰る(38-75)

13. 二十年二月 伊勢の神に筑紫75)遠征を報告(38-75~76)
14. やまと姫、隠居し、斎宮をいもの姫に継ぐ(38-76~79)
15. 二十五年七月「たけうちまろ」にほづま巡察の詔(38-79~80)
16. かぐのやかた(もとひこ)に道を乞う(38-79~80)

17. かみのりがゐのあや(38-80)
17-1. 五柱(いはしら)祭り(38-80~82)
17-2. 大晦日のお祭り(38-82)
17-3. 一月七日は七草の味噌粥(38-82~83)
17-4. 一月の満月の日、五臓六腑を守るお祭り
17-5. つちぎみ(猿田彦)の身内(しむ)の祭り(38-83~84)
17-6. 長寿を全とうするたけうち文書(38-84~85)


18. もとひこは本音で語り合った(38-86)
19. 二十七年二月 景行天皇が「えみし」について申された(38-86~87)

20. 二十七年十月「くまそ」が再び背き、景行天皇は勅を出す(38-87~88)
20-1. 出征を命じられたヤマトタケ名射手を求める(38-88~89)
20-2. 美濃のおとひこを射手に従え行く(38-89~90)
20-3. 「くまそ」の「やすくら」に、「こうす」は乙女姿で紛れ込む(38-90~92)
20-4. 「くまそたける」は女装姿の「こうす」の手を携える(38-92)

20-5. 夜も更け、「こうす」は剣でたけるの胸に一刺し(38-92~93)
20-6. 「くまそたける」は「こうす」に汝は何者かと哀願(38-93~95)
20-7. 「くまそたける」は「こうす」にヤマトタケと名乗るよう託し命絶える(38-95~96)

20-8. 二十八年二月 「やまとたけ」 無事帰京(38-97~98)
21. すべらぎ(天皇:景行天皇)に「くまそ」征伐を報告(38-98~101完)


38-97~98 二十八年二月 「やまとたけ」 無事帰京

20-8. 二十八年二月 「やまとたけ」 無事帰京(38-97~98)

つくしより ふなぢをかえる(38-97)
あなときび わたりあらふる
ものころし なみはかしわの
ものやから みなころしゑて
ふそやほの きさらぎはつひ(38-98)
まきむきの みやこにかえる


筑紫より船で帰りました。長門(あなと)と吉備に上陸して荒ぶる賊を殺し、浪波(なみは)と柏原(かしわ)の悪党も皆征伐して二十八年二月の一日に「まきむき」の宮に無事帰りました。

前の年の十二月(日にちは不明)に出発していますから、1~2ヶ月の遠征ということになります。


21. すべらぎ(天皇:景行天皇)に「くまそ」征伐を報告(38-98~101完)


やまとだけ もふすかたちは(38-98)
すべらぎの みたまによりて
くまそらを ひたにころして(38-99)
ふつくむけ にしはことなく


ヤマトタケが申し上げたのは天皇(すべらぎ)の御霊(ご加護)によって、「くまそ」等を一途に殺して退治してきました。今後、西は平和になるでしょう。

たゝきびの あなとなみはの(38-99)
かしはたり あしきいきふき
みちゆくも わさはひもとむ(38-100)
あふれもの うみとくがとの
みちひらく


ただ、吉備と長門、浪波の柏原の海賊がけんかを吹きかけて(けんかを売って)きて、航路の妨げになっていました。災いの元凶はあぶれもの達でこれらの者も鎮め、海と陸(くが)との通行の安全を確保しました。
「なみは」は今の難波で当時は波が荒れていたようである。波の花が出来ていたと思われる。

 ときにすべらぎ
くにむけの いさをしほめて
たまものなしき(38-101完)


これを聞いたすべらぎ(景行天皇)は「やまとたけ」が国の乱れを正したことを褒め称えました。そして、沢山の賜物が与えられました。完


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38綾(章)完- 39綾(章)へ 続く
ジョンレノ・ホツマ

38-92~93 夜も更け、「こうす」は剣でたけるの胸に一刺し

20-5. 夜も更け、「こうす」は剣でたけるの胸に一刺し(38-92~93)


 よふけゑゝれば(38-92)
こうすきみ はたのつるぎを(38-93)
むきもちて たけるがむねを
さしとほす


やがて、夜も更け、「こうすきみ」(やまとたけ)は肌につけていた剣を抜き出して「くまそたける」の胸に刺し通しました。

20-6. 「くまそたける」は「こうす」に汝は何者かと哀願(38-93~95)

 たけるがいわく(38-93)
いましばし つるぎとゝめよ
ことありと まてばなんぢは(38-94)
たれひとぞ


「くまそたける」は哀願しました。今、しばし剣を留めて!お待ちを! そして、「こうす」が剣を刺すのを一旦待ったら、「くまそたける」は、汝は何者かと問いました。

 すべらきのこの(38-94)
こうすなり


すべらぎ(天皇・景行天皇)の子の「こうす」である。
(まだこのときはヤマトタケの名前はついていない)

 たけるまたいふ(38-94)
われはこれ くにのつわもの
もろひとも われにはすぎず(38-95)
したがえり


「くまそたける」が再び言った。我はこれ、国のつわもの(強者・武人)で誰一人として我に勝るものはおらず、皆、我に従ってきた。

 きみのことくの(38-95)
ものあらす 


きみのごときの勇者は今まで誰もいなかった。


20-7. 「くまそたける」は「こうす」にヤマトタケと名乗るよう託し命絶える(38-95~96)


やつこがさゝぐ(38-95)
なをめすや きみきゝませば
いまよりは やまとたけとぞ(38-96)
なのらせと いゝつおはれば


「くまそたける」は、奴(やっこ・自分を卑下して)が捧げる名前を召して下さいと言いました。そして、君(こうす皇子・このときまで)がこの願いを聞き入れると、「くまそたける」は今からはヤマトタケと名乗らせよと言いながら命絶えました。

やまとたけ おとひこやりて(38-96)
ともがらを みなうちおさむ
(みなうちおさめ:小笠原写本)


「やまとたけ」は直ちに「おとひこ」を差し向けて残党共を皆討ち殺しました。



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ジョンレノ・ホツマ

38-90~92 「くまそ」の「やすくら」に、「こうす」は乙女姿で紛れ込む

20-3.「くまそ」の「やすくら」に、「こうす」は乙女姿で紛れ込む(38-90~92)


 とりいしかやが(38-90)
かわかみに たけるのやから(38-91)
むれよりて やすくらなせば


「くまそ」(とりいしかや・くまその正式名)は川上で首領の「くまそたける」の一族が集って大宴会(やすくら・あぐらをして)を開いていました。

こうすきみ おとめすがたの(38-91)
みはのうち つるぎかくして
やすみせし おとめのみめに(38-92)
ましわれは


「こうす君」(きみ・これ以前は皇子であったのが此処からは君(天皇扱い)になっている)は乙女姿に変装して御衣(みは・着物)の中に剣を隠し持って、休息中の乙女達の見物客に紛れ込んでいました。


20-4. 「くまそたける」は女装姿の「こうす」の手を携える(38-92)


 たつさえいるゝ(38-92)
はなむしろ みをあげみけの
たわむれや (みをあげみきの:小笠原写本)


そうしたら、「くまそたける」は乙女姿の「こうす」(やまとたけ)に目が止まりました。
「くまそたける」は乙女姿の「こうす」の手を携えて室に入り、花むしろに座らせ、酔いも手伝って戯れました。

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ジョンレノ・ホツマ

38-89~90 美濃のおとひこを射手に従え行く

20-2. 美濃のおとひこを射手に従え行く(38-89~90)

 めせばおとひこ(38-89)
いしうらの よこたておよび
たごゐなぎ ちちかいなぎを
ひきつれて したがいゆけば(38-90)


「くまそ」らの国のさかしら(動静や地形などの様子)を偵察に行かせました。
勅使の「かつらぎみやぢ」は「おとひこ」に「やまとたけ」のお供をするよう召されました。
そうしたら、射手の「おとひこ」は弟子の「いしうらのよこたて」と「たごいなぎ」と「ちちかいなぎ」の三人を引き連れて、「こうす皇子」に従って行きました。

こうすみこ しはすにゆきて(38-90)
くまそらが くにのさかしら
うかゝえば


「こうす皇子」(やまとたけ)は十二月に出発しました。
「くまそ」らの国のさかしら(動静や地形などの様子)を偵察に行かせました。


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ジョンレノ・ホツマ

38-88~89 出征を命じられたヤマトタケは名射手を求める

20-1. 出征を命じられたヤマトタケは名射手を求める(38-88~89)


 こうすもふさく(38-88)
よきゐてを あらばつれんと


こうす皇子(後のやまとたけ)は名弓射手がいれば連れて行きたいと申しました。

みなもふす みのゝおとひこ(38-88)
ひいでたり (38-89)


そうすると、大臣たちは皆美濃の「おとひこ」が優れていると申しました。

かつらきみやぢ(38-89)(かつらきみやど:小笠原写本)
つかわして


そこで、「かつらぎみやぢ」を勅使として美濃に行かせました。



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ジョンレノ・ホツマ

38-87~88 二十七年十月くまそが再び背き、景行天皇は勅を出す

20. 二十七年十月くまそが再び背き、景行天皇は勅を出す(38-87~88)

 くまそそむきて(38-87)
またおかす


「くまそ」が再び背き、法を犯し、国民を苦しめ始めました。

 かなつきそみか(38-87)
みことのり こうすみこして(38-88)
うたしむる


十月十三日(二十七年の)に、景行天皇は勅を出しました。「こうす皇子」(後に「やまとたけ」と名乗る)に出征を命じました。



熊襲が再び背いたのは、景行天皇が戻られてから、八年経った時であることがわかります。

景行天皇は熊襲退治に十二年の八月五日に出発して、七年間御幸された後、十九年の九月八日に戻って来ています。


御自分が再び熊襲退治に行くのには大変であったのと、子供が成長して、まかせられると判断したからだと思います。
即位二年目の十二月十五日に「おおうす」「こうす」の双子の子供は生まれていますから、計算上、二十五歳の成人になっています。

(38-3~6)参照願います。

このとき、既に景行天皇は自分の跡を継ぐ者として、二十人力であった弟の「こうす皇子」に期待をかけていたことがわかります。

なぜなら、景行天皇自身が熊襲へ御幸される前に、兄である「おうす皇子」は、景行天皇の言い付けをすっぽかして、激怒させて宮に入れなかった経緯があります。
その言いつけとは、美濃に良い美人姉妹がいるから連れて来るようにということであったが、お使いに行った本人がぞっこんほれ込んでしまい帰ってこなかったからです。

(38-24~26)参照願います。



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ジョンレノ・ホツマ

38-86~87 二十七年二月 景行天皇が「えみし」について申された

19. 二十七年二月 景行天皇が「えみし」について申された(38-86~87)

ふそなきの そみかもふさく(38-86)
ひたかみは めおのこかみを
あげまきに みをあやどりて
いさみたつ すべてえみしの(38-87)
くにこえて まつろわざれば
とるもよし


二十七年二月十三日、景行天皇が申されるには日高見は男も女も髪をあげまきにしている。入れ墨をして勇猛である。
えみしの国はどこも全て土地が豊かで豊潤である。もし、逆らって従わないようならば国をとりあげるのも良かろう。



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ジョンレノ・ホツマ


38-86 「もとひこ」は本音で語り合った

18. 「もとひこ」は本音で語り合った(38-86)

ねこゝろを あかしかえりて(38-86)

本音(ねごころ・木の根の心)で「たけうちまろ」と語り合って、真実が明らかになったので、「たちばな元彦」は、えみし側から大和側にかえりました。
後日、ヤマトタケ東征のときエミシに言い寄られたが首を振らなかった。

かみのりがゐの綾の前から続くと思われます。



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ジョンレノ・ホツマ

38-80~85 かみのりがゐのあや

17. かみのりがゐのあや(38-80~85)

かみのりがゐのあや(38-80)

神に典(祈り・教え)して、粥占いする綾

粥占いの「かい」は甲斐の国の語源になったと考えられます。
詳細は32綾参照(後日ブログに掲載予定)

17-1. 五柱(いはしら)祭り(38-80~82)

ねのくにの おほぎのまつり(38-80)
かみのみけ ねしものすえの(38-81)
ゆみはりに かみのりがゐは
くろまめと うむぎとすめと
なゝのよね かゐにかしぎて


北陸(越)の国の「おほぎ」(豪族)が祀っている、神の御食は、十一月(ねしも・しもつき・木の根に霜が付く季節)の末の弓張り月(下弦の月・二十四日夜)の日に、神に祈るお粥は、黒豆と大麦(うむぎ)と小豆(すめ・あずき)と七升のお米でお粥を焚き上げ(かしぎ)ます。
「ねの国」は「ねのこえ国」とも言い、「こ」は蚕、「え」は桑の木を示し、養蚕が盛んであったことがうかがえます。

うけみたま ゐはしらまつり(38-82)

これが、受け御霊(おいなりさん)の五柱(いはしら)祀りです。五柱とは、五元素の 空(うつほ・天空の神)・風(すなとべの神)・火(はぐつきの神)・水(みずはめの神)・土(はにやすの神)のことを示しており、おしで文字の五つの母音を表している。

17-2大晦日のお祭り(38-82)

としごえは うむぎとすめと(38-82)
よねむます


年末・大晦日の年越しは大麦と小豆と米六升を焚き上げます(蒸します)。旧暦の二月三日節分(節を分ける)

 としのりやまさ(38-82)
おにやらゐ


としのり(たまめ神・五臓六腑を守る神)やまさ(やまさ神・八しょう神・とおかみえひため)を祭り、鬼を追い出す祭りをします。

鬼掃いについては「みかさふみ」に詳細記述があるそうです。
なお、「みかさふみ」は、この「ホツマツタヱ」と、対を成すもので、現在10章分しか我々の目に触れることが出来ないようです。

17-3. 一月七日は七草の味噌粥(38-82~83)

 むつきなあさは(38-82)
なゝくさの みそにゐくらや(38-83)


睦月(一月)七日の朝は、五臓六腑を守るために、七草の味噌のお粥をつくります。

17-4. 一月の満月の日、五臓六腑を守るお祭り(38-83)

もちのあさ むわたまつりは(38-83)
よねとすめ かみありかゆぞ


睦月(一月)の満月の日の朝、五臓六腑を守るための祭りはお米と小豆のお粥で霊験あらたかなお粥です。

17-5. 「つちぎみ」(猿田彦)の身内(しむ)の祭り(38-83~84)

つちぎみの しむのまつりは(38-83)
まめすめに さかめとなゝの(38-84)
よねかしぎ あまこのかみの
みしるがゐ


「つちぎみ」(猿田彦)の身内(しむ)の祭りは大豆、小豆にささげ豆と七升のお米を炊いてお粥を作ります。天のみなか主(天神八神)に捧げる御しる粥です。

17-6. 長寿を全とうするたけうち文書(38-84~85)

 みおしるわざの(38-84)
いくさわに としなからえて
よろびとの みちのしるべと(38-85)
あるふみを (ちちのしるべと:小笠原写本)


身の程を知る質素な食事をして、謙虚に生きることで、いついつまでも生きる長寿を全うして、万人の生き方の道しるべとなるための文書(竹内文書)を書きました。

 よゝにつたふる(38-85)
たけうちは ついにながらふ
みちとなるかな


代々後世に伝える「たけうちつくね」は長寿を得て実際にその道を示しました。

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続く

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