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40-25~28~33 ヤマトタケ葬儀のとき白い鳳が舞う

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12. ヤマトタケ葬儀のとき白い鳳が舞う(40-25~28)

 もろにのりして(40-25)
かみをくり ときに。をもむろ
なる。いとり いづれはもろと
みさゝきの みひつをみれば


ここで、葬儀の様子の描写になります。
君(景行天皇)は諸臣、民(もろとみ、たみ)に詔(みことのり)して、神おくり(神酎浴)をとりおこなう事にしました。
葬儀のときのことです。ヤマトタケの遺骸(おもむろ)が白い鳳凰(いとり)に化けて舞い上がったのを見て、人々は陵(みささぎ)の御棺(みひつ:保管する所、墳墓、石室)を見に行った所

かんむりと さくと。みはもと(40-26)
とゝまりて むなしきからの
しらいとり をいたづぬれば
やまとくに ことひきはらに
おは。よえた をきてかわちの(40-27)
ふるいちに またよは。をつる


御棺(みひつ)の内には冠と笏(さく:板片)と衣装(は)だけが残っていて、死体は既に消えて空っぽで、白凰(しらいとり)になって飛び去った後でした。
追いかけて尋ねていったら、大和国の琴弾原(ことひきはら:奈良県御所市)に、尾羽が四支(えだ)置き残されていました。次に、河内の古市にも又、四羽落ちていました。


そこ。ここに なすみさゞきの(40-27)
しらとりも つひにくもいに


その、二ヶ所に陵を築き祭ったら白鳥はついに天高く舞い上がり雲のなかに隠れてしまいました。

とびあがる おばは。あたかも(40-28)
かみのよの よはきしぞこれ


白凰(しらいとり)の尾羽はあたかも神の世の世箒花(よはきし)のように散り広がり正に掃き清める乗(しで)のようでした。

きつもみな たせば。まかれる(40-28)
あめのりぞ 


東(き)西(つ)の乱れを平定した後、死んでいったのでヤマトタケの天命であったに違いない。

13. 景行天皇の二人の子供の時の思いで(40-28~30)

このきみひしろ(40-28)
すべらぎの ふのみこはゝは
いなひひめ しはすのもちに
もちつきて もちはな。なして
ふたごうむ おうす。もちひと(40-29)
とはこうす はなひこもこれ
あめのなぞ(40-30)


景行天皇(日代朝すべらぎ)の二人のお子さんの母上は「イナイ姫」(吉備津彦の娘で播磨稲日太郎姫)といいます。この「イナイ姫」が師走の餅つきのお祝いの時、餅花を作っていたとき、産気づいて双子を生みました。兄を大碓(おおうす)望人(もちひと)、弟(と)は小碓(こうす)花彦(はなひこ)と名付けました。これも天の与えた名前であろうか。

14. 熊襲(くまそ)退治の時の思いで(40-30~33)

 ひとなるのちに(40-30)
くまそまた そむけば。こうす
ひとりゆき をとめすがたと
なりいりて はだのつるぎで(40-31)
むねをさす 


成人した後、熊襲が再び背いたので「こうす」が一人で行くことになった。(実際には弓の名手も連れている)そして、乙女の姿に変装して肌の剣で熊襲タケルの胸を刺した。

たけるしばしと(40-31)
とゝめいふ なんちはたれぞ
われはこれ いますべらきの
この。こうす(40-32)


クマソタケルは暫しと止めを言った。「汝は何者だ。」
ヤマトタケは「我は今の天皇(すべらぎ)の子の小碓なり。」

 たけるがいわく(40-32)
やまとには われにたけたは
みこはかり かれみなつけん
ききますや ゆるせばささぐ


クマソタケルが曰く、大和には我に勝けた皇子がいることを、今、知った。故に、ヤマトタケと名乗ってください。お聞きいただけるでしょうか。聞いていただけるのなら名前を捧ぎます。

やまとたけ みこ。なをかえて(40-33)
うちおさむ あめのほまれや


ここで、「こうす皇子」からヤマトタケ皇子に名を変えました。そして、クマソを討ち治めました。天の誉れです。

ジョンレノ・ホツマ
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40-12~13~25ヤマトタケ野褒野(のぼの)に着いた時は重症

5 ヤマトタケ野褒野(のぼの)に着いた時は重症(40-12~13)

いささかに なくさみゆけど(40-12)
あしいたみ みゑにまがれは
みゑむらぞ つゑつきざかも
やゝこえて のほのにいたみ
おもければ(40-13)


このように、慰みを作って進んでいったが、足が更に痛み二重の足も三重に曲がるほどの痛みだったので、此処を三重村と言います。杖をついて歩いた杖衛坂(つえつき)も過ぎ野褒野(のぼの)に着いたときは重症でした。

6. とりこ5人を鹿島命の添え人に(40-13)

 とりこ。ゐたりを(40-13)
うぢにやり かしま。みことの
そえびとぞ


日高見から連れてきていた、捕虜の五人を釈放して、宇治に送り、大鹿島命(初代伊勢神宮)の添え人にしました。

7. 吉備武彦はヤマトタケの手紙を持って都路へ(40-13)
 
きびたけひこは(40-13)
みやこぢえ のぼせ。もふさく


吉備武彦は都路(景行天皇のまきむき宮)へ参上してヤマトタケからの手紙を手渡しました。このとき迄、吉備武彦はヤマトタケに同行していたことがわかります。

8. ヤマトタケ病に倒れた無念さを手紙に(40-14~16)

そのふみに はなひこもふす(40-14)
とみむかし みことをうけて
ぼづまうち あめのめぐみと
いづにより あらふるかみも
まつろえば ふつくおさめて(40-15)


景行天皇に宛てたその手紙の内容は「はなひこ(ヤマトタケの生まれたときの名前)は申し上げます。昔、君(父上:景行天皇のこと)の詔(みことのり)を受けて東夷征討(あづまうち)に行きました。天の恵みとご加護を受けて、逆らう神も服従させ、全て収めて参りました。

いまこゝに かえればいのち(40-15)
ゆふづくひ こいねがわくは
いつのひか みことあえさん


今、ここに帰ってきました。しかし、私の命は夕暮れの落日で余命幾ばくもありません。乞い願わくは、いつの日か自ら父上にお目にかかりたいです。

のにふして たれとかたらん(40-16)
をしむらく まみゑぬことよ
あめの。のりかな


野(戦場)に伏して(病に倒れ)、心から語り合える人もないまま、お目にかかることもできずに死んでいくのが無念です。天命でしょうか。

9. 武将たちに はなふり(賃金)を分ける(40-17)

ふみとめて きみ。いわく。われ(40-16)
きつをむけ ことなれはみを(40-17)
ほろぼせる かれらやすます
ひもなきと なつかはぎして
はなふりを みなわけたまひ


ここで、ヤマトタケは父上への手紙を書くのを一旦やめて、こう言われました。
私は東(き)西(つ)の平定(むけ)に成功(成就:ことなれ)しましたが、わが身を滅ぼしてしまいました。彼ら従者たちを一日も休ませることもありませんでしたので、ナツカハギに命じて軍資金の花降り(砂金、銀)を皆に分け与えてください。

10. ヤマトタケ辞世の歌を読み神となる(40-18~21)

うたよめは あつたのかみと(40-18)
はやなると ゆあみはをかえ
さにむかひ ひとみ。いなむの
うたはこれぞと


歌を詠みました。「熱田の神と早なると」とのたまい、斎浴(ゆあみ=みそぎ)を済ませ衣(は)を新しく着替えて、南(さ)に向かって正座しました。
「人間(人身:ひとみ*)、死に臨んでの辞世の歌はこれなり」
*ひとみ:ひとみ草(朝鮮人参)、はらみ草として不老長寿の薬草として大陸に伝わったと思われ、徐福伝説へとつながったと思われます。

あつたのり 
いなむとき きつのしかぢと(40-19)
たらちねに つかえ。みてねど
さこくしろ かみの。やてより
みちうけて むまれ。たのしむ(40-20)
(うまれたのしむ:小笠原写本)


熱田宣(のり)辞(いな)む時(死に臨んで)、東(き)西(つ)の鹿路(けもの路、勅使(さおしか)の役割との掛け言葉)と父母(たらちね)に仕え満てねど(十分でなかったが)天上の精奇城(さごくしろ:48神の天国の宮)の八神(と・お・か・み・え・ひ・た・め)から八相(やて)の導き(みち)を受けて人生(むまれ)も楽しく送りました。

かえさにも いざなひ。ちどる(40-20)
かけはしを のぼり。かすみの
たのしみを くもゐにまつと
ひとにこたえん(40-21)


天国に召される時(昇天:かえさ)も、神の誘いのまま、心地よく千鳥足で天の御(み)柱(かけはし)を登り、霞の彼方に楽しみを求めて雲居に待つ(先に行って待っています)と人々に答えます。

もゝうたひ ながら。めをとぢ(40-21)
かみとなる 


何度も何度も(もも:百)繰り返して歌いながら、目を閉じて神となりました。

なすことなくて(40-21)
いとなみす うたはおはりえ


側近の者はなすすべ(こと)がなく、葬送の営みをしました。ヤマトタケが歌ったこの歌は尾張の宮簀姫へ届けられました。

11. 景行天皇は嘆き悲む(40-22~25)

きび。のぼり ふみさゝたれば(40-22)
すべらぎは ゐもやすからず
あぢあらず ひめもすなげき


吉備武彦は上京して、遺し文を奉げたところ、すべらぎ(景行天皇)は心(ゐ)が高まり、食事はのどが通らず(何を食べても味がなく)、終日嘆いてばかりおられました。

のたまわく むかしくまそが(40-22)
そむきしも まだあげまきに(40-23)
むけえたり まてにはべりて
たすけしに ほづまをうたす
ひとなきを しのびてあだに
いらしめば (40-24)


そして、おっしゃるには、昔、熊襲が反乱を起こしたときはまだヤマトタケは揚巻(総角姿)だったのに報えることが出来た。
本来なら、私の近くにいて補佐させたかったのに、ほづま(東夷)を討たす人が他にいなかったから、堪えに堪えて空しく(あだに)遠征させてしまった。

あけくれ。かえる(40-24)
ひをまつに こわそもなんの
わざわひぞ ゆぐりもなくて
あからめす たれと。みわざを
おさめんや(40-25)


明けても暮れても帰って来る日を待っていたのに、これは一体何たる禍いだ。
親子の縁(ゆかり)を温める間もなく天国に召されてしまった。誰に私の成務を継がせれば良いのだ。


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ジョンレノ・ホツマ

40-9~11尾津の一松の話(松を誉めた歌)

4 尾津の一松の話(松を誉めた歌)(40-9~11)

此処で突然、尾津の一松(市松)が出てきます。


 おづのひとまつ(40-9)
これむかし ほつまくたりの(40-10)
みあえどき ときをくつるぎ
まつのねに おきわすれしが
ながらえり かれにあげうた


昔、ヤマトタケがホツマ国へ下っていたときのこと、食事をした時、松の根元に剣を解いて、置き忘れたまま旅立ってしまったが、今日まで、そこにずーっと待ち続けてくれていたので、再会できました。故に、挙(あ)げ歌(献上歌)を歌いました。

この剣は、誰にも見つからなかったのか、誰か見つけても恐れ多くてそうっとしておいたものと思います。

おわすれど たゞにむかえる(40-11)
ひとつまつ あはれひとまつ
ひとにせば きぬきせまじを
たちはけまじを


ヤマトタケが松を誉めたうたです。
置忘れど 一途に守ってくれた 
一本の松よ あわれ(ふびんにも)人待つ(一松)
もし出会っていたら 衣着(きぬ)を着せて
太刀佩けまじを(刀を持たせてやれたのに)



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ジョンレノ・ホツマ

38-71~73 八女県 やつめ姫神(改定1、2009/10/19)


12-28-八女県 やつめ姫神(38-71~73)

やつめ姫神が住んでおられる所が、吉野ヶ里であることが、ホツマツタヱのこの38綾の「やつめひめかみ みねにあり」の記述 と「地図でみる西日本の古代」平凡社の参考資料の古代地図より「三根」(みね)という古代の郡名の位置が一致し、吉野ヶ里の場所であったことが確認できました。

よって、吉野ヶ里は「やつめ姫神」が治めていた「八女国(やつめ:やめ)」であったと考えて良いと思います。


 やつめをこえて(38-71)
まえやまの あわみさきみて(38-72)
きみいわく たゝみうるわし
かみありや


八女県(やつめ)を越えて、まえやま(眉山)のあわみさきを見て、君(景行天皇)は、畳の目ように山の峰が重さなりあっている所だ。うるわしい国神ありやとお聞きになりました

 みぬさるおうみ(38-72)
もふさくは やつめひめかみ
みねにあり(38-73)


このとき、「みぬさるおうみ」(水沼県猿大海・福岡県三瀦(みずま)郡大川市)が申し上げるには、「やつめ姫神」が此処を治めています。
「三根」(みね)におられます。
この「みね」三根は現在の吉野ヶ里遺跡の場所です。



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ジョンレノ・ホツマ

40-1~9熱田神。世を辞む綾

「あつたかみ」よをいなむあや
熱田神。世を辞む綾


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ホツマツタヱ最終綾です。景行天皇は我が息子「ヤマトタケ」に先立たれ、「ヤマトタケ」を熱田神として祀ります。
その後、景行天皇が「ヤマトタケ」の東征で平定(むけ)した国々を巡った記述で終わっています


1. ヤマトタケ木曽路より尾張の連の館に着き滞在(40-1~5)

まきむきの ひしろのこよみ(40-1)
よそひ。はる ヤマトタケきみ
きそぢより いたるおわりの


景行天皇朝(纏向き:奈良県桜井市)の日代の御世で
41年の春(新年)に、ヤマトタケの君は木曽路より尾張にたどり着きました。

たけどめが まごのむらじの(40-2)
ゐゑにいる つま。みやずひめ
みやこより をくりて。ちゝが
ゐゑに。まつ 


「たけどめ」(たけひてるの息子)の孫の連(むらじ:国神)の館(現在の熱田神宮)に滞在しました。
妻の宮づ姫(のちのつま、後妻)は都(纏向:まきむき)よりヤマトタケを美濃まで送った後、ずうーっと実家で待っていました。

「たけどめ」:「たけひてる」の息子。考霊天皇が富士登山されたとき、たけひてるが山を案内したことにより、息子「たけとめ」を宮中に召し上げた。そして、「たけとめ」が宮中の青竹筒の粥占い(かゆうらない、かいうらないとも言う)の神事を継ぎました。それまでは、諏訪・酒折(甲府)と称していましたが、「たけどめ」の代以降、甲斐というようになりました。(かゆ→かい)

「たけひてる」:「このはなさくや姫」の長男の子孫。

いま。きみ。こゝに(40-2)
つきをこす(40-3)


今、君(ここではヤマトタケのこと)はこの館で一月以上滞在しました。

きみ。のたまわく(40-3)
さかおりの みやはむかしの
はらのみや なを。ながらえり
わがねがひ うつしてひめと
たのしまん(40-4)


君(ヤマトタケ)が宣(のた)まうには、酒折の宮は昔のハラの宮(蓬莱宮:天照大神が生まれた所)で現存している。我が願いは、あのまま宮をこちらに移して、姫(宮簀姫)と一緒にこの地で楽しく住みたいものだ。

 むらじもふさく(40-4)
とみゆきて ゑかきうつさん
きみゑゝす むらじくたりて
さかおりの みやをくわしく
ゑにうつし かゑことすれば(40-5)


連(むらじ)が申しました。臣(とみ:大臣)が現地に行って館を写生してきます。
君(ヤマトタケ)は大喜び(ゑゝす)しました。
早速、連(むらじ)は出向いて行きました。そして、酒折の宮を詳しく写生して持ち帰って報告しました。

2. ヤマトタケ伊吹山へ行き、命からがら脱出(40-5~8)

此処で話しが変わります。

やまとたけ あらふるかみの(40-5)
あるをきゝ つるぎときおき
かろんじて いたるかみぢに


ヤマトタケは荒神(無法者:大和朝廷に反抗する無法者、治外法権者という認識)がいるとの知らせを聞き、軽率にも剣を持たないで(解いて置いたままで)神路(伊吹山)に入りました。


にぎてなく ゆきすぐみちに(40-6)
いふきかみ おをろちなして
よこたわる かみとはしらず
やまとたけ をろちにいわく


にぎて袋も持たずに、行過ぎてしまった道に、伊吹神が「おろち」に化けて横たわっていました。神とは知らずに乗り越えて行きました。
ヤマトタケは「おろち」に向かって言い放ちました。

にぎて=にぎて袋=ぬさ袋=道中の安全を祈るため、道祖神に捧げる幣を入れてたずさえた袋、幣(ぬさ)とは祈願をし、または、罪・けがれを払うため神前に供える幣帛(へいはく)。紙・麻・木綿(ゆう)などを使う。みてぐら


これなんぢ あれかたかみの(40-7)
つかひなり あにもとむるに
たらんやと ふみこえゆけば
いふきかみ つららふらして


これ汝、お前はどうせ荒神の召使だろうと。
どうせ、取るに足りないだろうと踏み越えていくと伊吹神が氷柱(つらら)を降らしました。

かをうはふ(40-8)
しいて。しのぎて
おしあゆみ わづか。いでゆく


光を奪い行き手を遮りました。
強いて(強行して)脱出して押し進みました。

「あらふる」神というのは、私は当時すでにたたら製鉄が行なわれており、これらの産鉄民であったのではないかと思います。
「あら」は鉱、砂鉄を採取している神を示しているということを吉野裕氏は「風土記世界と鉄王神話」のなかで述べておられます。農耕民からみると産鉄民は砂鉄を採取するため、山を切り崩し不要な土砂が川にはきだされ、まさに無法者に見えたのであったと思われます。

私見ですが、この伊吹神は鋳吹く神でタタラ製鉄の溶鉱炉の神を意味しており、この溶鉱炉のことをオロチ(大蛇)と称していたのではないかと推測します

すなわち、ヤマトタケは、溶鉱炉の中に、防熱具をつけないで無防備にも入ってしまい、全身におおやけどを負ってしまい、特に足元はひどかったのではないかと考えれれます。

たたら製鉄の炉の中の湿気が完全に取り除かれていないと、いわゆる水蒸気爆発が生じたことがあったようです。

伊吹山からは銅鐸が出土したり、たたら製鉄の適した跡であったことも分かっています。
よって、ヤマトタケはこれらの産鉄民を知っていたのではないかと私には思われます。鉄を扱っているものは、当時から国を動かすほどの勢力があったと考えられるからです。
何処かで繋がっていたように考えられます。

これらの考えは、柴田弘武氏の「産鉄族オオ氏」や「風と火の古代史」、吉野裕氏の「風土記世界と鉄王神話」、山内登喜夫氏の「和鋼風土記」、鉄山必要記事などを読んでいるとなぜか結びついてくるのです。
しかしながら、多くのホツマツタエをご存じない方がいきなりホツマツタエの話を聞かされても、直ぐには理解できず納得できないと同様に、この産鉄民の話を持ち出してもにわかに納得できないかも知れません。


3. ヤマトタケ足を痛めてしまい直接伊勢へ向う(40-8~9)

こゝろゑひ もゆるごとくに(40-8)
あつければ いづみにさます
さめがゐや(40-9


心が酔ったようにふらつき、燃えるような高熱に襲われてしまい、泉で冷ました。この冷ました所を醒ヶ井泉と言います。

 みあしいたむを(40-9)
やゝさとり おはりにかえり
みやづめの ゐゑにいらずて
いせのみち


足が痛むのは重症であると悟り、尾張に帰ってきましたが、宮簀姫の家(熱田神宮)には行かずに、直接伊勢路へと向かいました。もう自分の命が危ないと悟り、宮簀姫には会いたいが、一刻も早く都へ戻らなければと思ったのでしょう。

宮簀姫への思いを込めて書き記された歌がいくつか後で出てきます。ここでも、私見ですが、全身におおやけどを負ってしまい、変わり果てた自分の姿を宮簀姫に見せたくなかったという気持ちも働いていた気がします。

ジョンレノ・ホツマ
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