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40綾 目次

40綾 目次

「あつたかみ」よをいなむあや
熱田神。世を辞む綾


ホツマツタヱ最終綾です。景行天皇は我が息子「ヤマトタケ」に先立たれ、「ヤマトタケ」を熱田神として祀ります。
その後、景行天皇が「ヤマトタケ」の東征で平定(むけ)した国々を巡った記述で終わっています

1. ヤマトタケ木曽路より尾張の連の館に着き滞在(40-1~5)
2. ヤマトタケ伊吹山へ行き、命からがら脱出(40-5~8)
3. ヤマトタケ足を痛めてしまい直接伊勢へ向う(40-8~9)

4. 尾津の一松の話(松を誉めた歌)(40-9~11)
5. ヤマトタケ野褒野(のぼの)に着いた時は重症(40-12~13)

6. とりこ5人を鹿島命の添え人に(40-13)
7. 吉備武彦はヤマトタケの手紙を持って都路へ(40-13)
8. ヤマトタケ病に倒れた無念さを手紙に(40-14~16)
9. 武将たちにはなふり(賃金)を分ける(40-17)
10. ヤマトタケ辞世の歌を読み神となる(40-18~21)

11. 景行天皇は嘆き悲む(40-22~25)

12. ヤマトタケ葬儀のとき白い鳳が舞う(40-25~28)
13. 景行天皇の二人の子供の時の思いで(40-28~30)
14. 熊襲(くまそ)退治の時の思いで(40-30~33)

15. ヤマトタケの家族構成(40-33~38)

16. 宮簀(みやづ)姫の出迎えにヤマトタケの歌と返歌(40-38~42)
17. 宮簀(みやづ)姫に残した歌(40-42~48)
18. 愛知田(あいちだ)に新宮を落成祝いの詔(40-48~51)
19. 御幸の行列、野褒野(のぼの)から愛知田まで(40-51~57)
20. 宮簀(みやづ)姫は御食を捧げ、白凰が食いばむ(40-57~62)

21. 神送りの儀式(40-62~64)
22. えぞのとりこ5人を分散(40-64~66)
23 「わかたりひこ」七草の見あえに参加せず(40-66~68)
24. 「わかたりひこ」を世継ぎの皇子に(後の13代成務天皇)(40-68~69)
25. 妃の「いらつ姫」の葬儀(40-69~74)

26. 「やさかいり姫」が中宮に昇格(40-74~75)
27. 景行天皇は「こうす」が平定した国々を巡ることを決意(40-75)
28. 景行天皇は尾張の宮でにぎてを捧げた(40-75~77)
29. 景行天皇が夢の中で(40-77~83)
30. 迷いを諭す神の啓示(40-84)

31. 告げによりヤマトタケを熱田神に(40-85)
32. 景行天皇は東国相模で、まし・てしと涙す(40-86
33. 虎柏(とらがしわ)現れ目黒を賜る(40-87~88)
34. 景行天皇は船で上総へ渡る(40-89)
35. うむぎ(はまぐり)のなますを食す(40-90~91

36. 景行天皇は鹿島かぐらを楽しむ(40-91~93)
37. 景行天皇は伊勢から日代の宮へ戻る(40-93~94)
38. 三輪のタタネコが編纂したあとがき(40-94~98)


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40-94~98 三輪のタタネコが編纂したあとがき

38. 三輪のタタネコが編纂したあとがき(40-94~98)


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このときに みわのたたねこ(40-94)
みよのふみ あみてかみよの
ほづまぢと よそあやなして


まさにこのとき三輪のたたねこが神代からの文を編纂(あみて)してほづまの路を四十綾にまとめました。

くになづ。に しめせばたがひ(40-95)
みかさふみ みわえしめして
あひかたり あらたにそめて
ふたやより あげたてまつる


この編纂したものを「くになづ大鹿島命」(春日系)に、一方「くになづ」が纏めた「みかさふみ」を「三輪たたねこ」にお互いに示し合いました。内容をあい語り合い確認しました。新たに書き直して(染めて)右大臣・左大臣両方から献上いたしました。

このふみは むかしものぬし(40-96)
みことのり うけてつくりて
あわみやに いれおくのちの
よよのふみ まちまちなれは
みんひとも あらかじめにて(40-97)
なそしりそ


この文(天の巻き・地の巻き)は昔「ものぬし」(ふしみかた・神武天皇時代の右大臣)が詔を受けて作ったものをあわみや(滋賀県あわちの宮・現多賀神社?)に奉納した後、多くの文がまちまちになってしまい、見る人も困っているので、再び元から正して新たによみがえり本当のことを知ることができるようになったでしょう。

 ももちこころみ(40-97)
はるかなる おくのかみちえ
まさにいるべし


百回、千回と読めばはるかな奥の神の路に近づくことが出来るでしょう。

ときあすす やおよそみほの(40-98)
あきあめか これたてまつる
みわのとみ すゑとしをそれ
つつみてそむ すゑとし(完


あすず暦(神武天皇)八百四十三年、秋吉日(あめ:吉)にこれを景行天皇に献上奉りました。三輪の大臣すえとし(おおたたねこの実名)が謹んでこれを書き上げ(染む)ました。



ジョンレノ・ホツマ

40-93~94 景行天皇は伊勢から日代の宮へ戻る

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37. 景行天皇は伊勢から日代の宮へ戻る(40-93~94)

しはすにのほり(40-93)
いせのくに いろとのみやに
おわしまし ゐそよほ。なづき
みそかには ひしろのみやに
かえりますかな(40-94)


十二月に上京して、伊勢の妹の宮に着いてしばらく滞在しました。
五十四年九月末(ここなづき=なづき)には、まきむきの日代の宮にお帰りになりました。


ジョン・レノ・ホツマ

40-91~93 景行天皇は鹿島かぐらを楽しむ

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36. 景行天皇は鹿島かぐらを楽しむ(40-91~93)

 かしまかぐらの(40-91)
ししまいを とえはときひこ
これむかし いよにわたりて
ししはむを つちきみ。とりて
たてまつる(40-92)


鹿島神楽の獅子舞をご覧になりました。景行天皇は香取時彦に問いたところ、これは昔伊予に渡ったとき、獅子が人を食い殺すというので、猿田彦が捕まえて天照大神に献上しました。

 きみたのしみの(40-92)
かぐらしし やおろかしまに
あるかたち さわりなかれと
もてあそぶ さるたのかみの
なにしあふ (40-93)


天照大神は大変喜んで神楽(神様を喜ばす)獅子としました。八万年鹿島に伝わりました。
景行天皇は食いつかないでくれと言って遊びました。これは猿田神の名にふさわしいことです。


ジョン・レノ・ホツマ

40-90~91 うむぎ(はまぐり)のなますを食す

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35. うむぎ(はまぐり)のなますを食す(40-90~91)

なますもよしと(40-89)
むつかりが がまたすきして(40-90)
とる。うむぎ なますになして
すすむれば かしはともへと
なおたまふ おほひこのまご
いわかなり(40-91)


なますにすると美味しいと「むつかり」(おおひこの孫、崇神天皇の孫)が、がまの穂でたすきを作り海に入ってうむぎ(はまぐり、う:大きい、むぎ:むき貝、二枚貝)を取り、なますを作って差し上げたら、「かしわともべ」という名前を賜りました。千倉にたかべ神社(料理)に「かしわともべ」を奉っています。
「おおひこ」の孫は「いわが」となりました。

ジョン・レノ・ホツマ

40-89 景行天皇は船で上総へ渡る

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34. 景行天皇は船で上総へ渡る(40-89)

みふね。かづさえ(40-89)
あほのはま みさご。ゑはむを
たみにとふ あれはうむぎと
しづがはむ 


御船は上総湊へ向かい富津付近の浜(あほ=あわ)へ着きました。みさご(雎鳩(しょきゅう)、州鳥(すどり)、うおたか、とも言う)がえさを取っているのを見て漁民に聞いた所、あれはうむぎ(う=大きい、むぎ=むき貝、ハマグリ)といって貧しい(しづ)人が食べる(はむ)ものです。

ジョン・レノ・ホツマ



40-87~88 虎柏(とらがしわ)現れ、目黒を賜る

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33. (40-89)

ここで、虎柏(とらがしわ)が景行天皇の前に現われます。

とらがしは さかき。みすがた(40-87)
たてまつる きみ。みたまえば
やまとたけ いけるすがたに
あふごとく ひとたびあひて(40-88)
よくにたる かれはめぐろと
そのさとを なつけたまわる


虎柏は榊にヤマトタケの御姿の人形を献上しました。景行天皇が、これを見てヤマトタケがまるで生きているようによく出来ている。まるで再会したようだ。一回会っただけなのによく似ている。しかるが故に、この地を目黒と名付け、そしてこの土地を賜りました。

かみすがた おほやまみねに(40-88)
やしろなす (40-89)


ヤマトタケの榊みすがたを大山の峰に社を作ってお祀りしました。

ジョンレノ・ホツマ
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40-86 景行天皇は東国相模で、まし・てしと涙す

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32. 景行天皇は東国相模で、まし・てしと涙す(40-86)

あづまぢえ ゆけばさがむに(40-86)
みあえなす まし。てし。おがみ
なき。いわく ひめほろぼして
まみえ。ゑす きみもなんだに(40-87)


景行天皇が東路へ旅立ち、相模の小野の館(おとたちばな姫の実家、厚木市)で接待を受けました。「さくらねまし」(左大臣、左近)、「ほつみてし」(右大臣、右近)は拝謁して泣きながら申し上げるには、姫(おとたちばな姫)を亡くしてしまいました。
景行天皇もこれを聞いて涙しました。


ジョンレノ・ホツマ
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40-85 告げによりヤマトタケを熱田神に

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31. 告げによりヤマトタケを熱田神に(40-85)

むかしいわくは(40-84)
ひとはかみ かみはひとなり
なもほまれ みちたつのりの
かみはひと ひと。すなほにて(40-85)
ほづまゆく まことかみなり


景行天皇が思いだしながら、昔、「はなひこ」(ヤマトタケ)がこう言いました。
人は皆、神であり、また、神は人である。手柄を立て、名をあげて人の模範となる生き方を教え示した者が神と崇められる。人は素直に秀でた真のほづまの道に従えば自ずと神の路へ入れます。

つげにより なもあつたがみ(40-85)

君(景行天皇)は夢の中で神の告げを受けてヤマトタケをここで熱田神と名付けました。(今の熱田神宮のことです。)

みやずひめ いつきにくらべ(40-85)
かんぬしも みやづかさ。なみ(40-86)


宮づ姫(ヤマトタケの後の妻)は伊勢のいつきの宮に較べる位の立場でありました。そのときの神主も伊勢神宮並みの力がありました。


ジョンレノ・ホツマ
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40-84 迷いを諭す神の啓示

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30. 迷いを諭す神の啓示(40-84)

きみさめいわく(40-83)
かみのつげ われはいやしき
ひかわがみ もとにかえると
めぐみこる まよひをさとす(40-84)
しめしなり 


君(景行天皇)が夢から覚めておっしゃるには、これは神のお告げである。本当は私は賤しい氷川神です。望みを達した今、元の所(氷川)に帰ります。と、親子の恵(溺愛、拘り)に凝り固まっているのを断ち切るために、私の迷いを諭す啓示です。


ジョンレノ・ホツマ
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40-77~83 景行天皇が夢の中で

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29. 景行天皇が夢の中で(40-77~83)

 そのよのゆめに(40-77)
つしまもり しらいとりなる(40-78)
やまとたけ いわく。おゝがみ
そさのおに いわく。いかんぞ
くにたぞむ あめのりなせば
くにのかみ おしえのうたに(40-79)


その夜、夢の中で津島守(社)からヤマトタケが白凰になって現われて言いました。天照神が、ソサノウに如何ぞ国望がと言って天の宣(のり)をして国の神(ソサノウ)を教えの歌で諭しました。

あめがした やわしてめぐる(40-79)
ひつきこそ はれてあかるき
たみのたらちね


この天の宣(のり)は国の指導者たる者、天下(天が下)あまねく平等に巡る太陽や月のように晴れて明るく照らして民の父母と慕われるようでなければなりませんという諭しです。

これとけず つみにおつるを(40-80)
いふきがみ ひきて。かみとす


しかし、ソサノウはこの教えが解けずついに宮中から追放されてしまい、下民(したたみ)に落ちてしまいましたが、伊吹神に拾われて神になりました。(帰り咲きました)



ににぎねは このこころもて(40-80)
ほづまゑて あまきみとなる

天孫ニニキネはこの天照神の精神を持って、民を豊かに国を平和に導いたのでホツマ国を与えられて天君(あまきみ)となられました。

うらやみて かりの。おやこぞ(40-81)
みことうけ


ソサノウは天君になったニニキネが羨ましくて、仮の親子としてみことのりを受けてこの世に帰ってまいりました。父(景行天皇)の子(ヤマトタケ)になりました。

 き。つ。むけ。かえる(40-81)
かみしづか まみえてほぞち
あつさたす たらちのめくに
うまざるや (40-82)


東(き)西(つ)を平定(むけ)して、父の元に帰った今、神の心は安らぎ静かです。目見える(まみえる)ことが出来、まくわうり(ほそち)を頂いていると、あの熱さも嘘のように癒されました。


おりかぞえうた(40-82)
わがひかる はらみつにしき
あつたがみ もとつしまはに(は:衣)
おれるかひかわ


数え歌
我が光る 蓬菜参錦織(はらみつにしき)で飾られた熱田神(ヤマトタケ)に納まっていますが、本当は貧しい氷川の放浪者に似つかわしい綴れ(つづれ)布を織ってもらいたかったです。

みたびのべ しづのすがたに(40-83)
くもがくれ 


三度この歌を述べると賤(しず)の姿に身を変えて雲へ隠れてしまいました。(ここまでは景行天皇が夢で見た内容です)


ジョンレノ・ホツマ
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40-75~77 景行天皇は尾張の宮でにぎてを捧げた

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28. 景行天皇は尾張の宮でにぎてを捧げた(40-75~77)

なさんと。いせに(40-75)
みゆきなり をはりつしまに
いたるとき むらじ。むかえば(40-76)
このごとく
 

まず、伊勢に詣でました。そして、尾張の津島に着いたときのことです。尾張の連(むらじ)が出迎えに伺うと、君(景行天皇)は我が子に再会できたようにお喜びになりました。

ともに。おほまの(40-76)
みやにいり みつからつくる
にぎてたて いわくおやこの
ゆぐりなふ わかれあわねば(40-77)
わすられず みずから。きたり
にぎてすと やゝひさしくぞ
いたましむ


そして、お二人でおほま(愛知田:熱田神宮)の宮に入り自らお作りになった和幣(にぎて)を御前に立てました。
ここには既にヤマトタケ(景行天皇の息子)が祀られているところです。
親子でゆっくり過ごすこともなく、先立たれて分かれに遭わなければならないということが忘れられないので、こうやって自ら来ました。
こうして和幣(にぎて)を捧げましょう。と長い間、神の前に居られるのはお痛ましいお姿でした。

ジョンレノ・ホツマ
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40-75 景行天皇はこうすが平定した国々を巡ることを決意

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27. 景行天皇はこうすが平定した国々を巡ることを決意(40-75)

いそみほ。ほづみ(40-74)
みことのり かえりをもえば
やむひなし こうすがむけし
くにめぐり


五十三年八月、君の詔がありました。顧り思えば悲しみが一日として止む日はなかった。こうす(ヤマトタケ)が平定(むけ)した国々を巡ってみようと思い立ちました。

ジョンレノ・ホツマ
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40-74~75 やさかいり姫が中宮に昇格


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26. やさかいり姫が中宮に昇格(40-74~75)

あふみなか やさかいりひめ(40-74)
うちつみや 


七月七日「やさかいり姫」は中宮(うちつみや)に昇格しました。


ジョンレノ・ホツマ
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40-69~74 妃のいらつ姫の葬儀

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25. 妃のいらつ姫の葬儀(40-69~74)

ゐそふほさつき(40-69)
すえやかに きさきいらつめ
かみとなる (40-70)


まきむき宮五十二年五月二十八日(末の八日)に中宮(きさき)の播磨おいらつ姫(ヤマトタケの母親)がお亡くなりました。

みをくりのりは(40-70)
あつたのり をほたんやわけ
みけかしぎ ちりひるめしと
もるひらで ぬのをしひめに
いたゞかせ (40-71)


葬儀の典(のり、式典)は熱田典(ヤマトタケの時と同じやり方)で行いました。おほたんやわけ(崇神天皇の子供)はみけを蒸し(かしぎ)て、霊在(ちり)日霊飯(ひるめし)を器(陶器、ひらで)に盛りました。
そして、ぬのし姫(景行天皇のお嬢さん)がこの器(ひらで)を神に捧げました。

ここからは葬儀の行列の様子の説明です。

そふたんやわけ(40-71)
さきかりに つぎは。ひめみこ
すけうちめ をしもあおめら
みそりそふ


祖父の「おおたんやわけ」が行列の先頭(さきがり)に立ちました。次は姫の御子さんが続き、すけ妃、うちめ、おしも、女官たち(あおめら)三十人が添うように続きました。

 つぎ。もともとの(40-71)
やいろはた かみことよそや(40-72)
(かみのとよそや:小笠原写本)
わけそめて きびのいゑとみ
もちならふ たてものくもに
かけはしと かすみにちどり


次は元々の八本の八色で染めた幡に神様の名前四十八(よそや)音(あ・か・は・な・ま・・・・・・・し・ゐ・た・ら・さ・や・わ)を書いています(染めて)
吉備津彦の家臣たちがこの幡を持って並びました。立ち並んだ幡(旗)は天(雲)への架け橋のように思われました。空には霞みに千鳥が鳴いていました。


きび。はりま えとのたけひこ(40-73)
よはぎしを まてにならびて
みはしらは うちみやのとみ
みこしまえ みこはみおすえ


吉備武彦と弟の播磨おと(弟)武彦は世箒(よはきし:世を清める)を持って両手(左右)に並んで行きました。
御(天)柱(霊が行き来する)は中宮の直属の大臣が柩の前を進みました。皇子(景行天皇の)は遺体の後に続きました。

おしかとは うつよひのをみ(40-74)
こしにのる もろ。をくりけり


勅使は太陽を映すことを司る大臣で神輿に乗って参列しました。庶民たち(もろ)も続いてお送りしました。

ジョンレノ・ホツマ
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40-68~69 わかたりひこを世継ぎの皇子に(後の13代成務天皇)

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わかたりひこを世継ぎの皇子に(後の13代 成務天皇)(40-68~69)



はづきよか わかたりひこを(40-68)
よつぎみこ たけうちすくね(40-69)
むねのとみ みこ。と。たけうち
をなひどし 


八月四日に「わかたりひこ」を皇太子(世継ぎ皇子)に昇格しました。(後の13代成務天皇になる)
「たけうちすくね」を棟梁(統率者、むね)の臣に取り上げました。皇子(わかたりひこ)と「たけうちすくね」は同い年です。

ジョンレノ・ホツマ
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40-66~68. わかたりひこ七草の見あえに参加せず

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23. わかたりひこ七草の見あえに参加せず(40-66~68)

よそむほのはる(40-66)
なゝくさの みあえにうたの
ひかずへる
 

まきむき四十六年の春(新年)、七草がゆのお祝い(みあえ:祝い、宴会、接待、見合い)のとき歌で遊んで何日も経って(経る)しまいました。

わかたりひこと(40-66)
たけうちと うちにまいらず(40-67)


「わかたりひこ」(後の成務天皇)と「たけうち」はこのお祝いに参加しませんでした。

かれめして とえばもふさく(40-67)
えらくひは あそびたわむれ
ことわする くるえどあらば
うかゞわん (40-68)


しかるが故に(かれ)二人を呼んで、来なかった理由を問いただしたらこう返事しました。宴会(えらく:悦楽)で遊び戯れていると、人の心もなえて大切なものを忘れてしまいます。(葬儀後まだ一年も経っていないのに)狂ったもの(悪魔)が狙っているかも知れません。


かれにみかきを(40-68)
まもりをる きみきこしめし
いやちこと あつくめくみて


というわけで(かれに)垣(御垣、垣根)を守っていました。君(景行天皇)はこれを聞いてまさにその通り(いやちこ:同意)と心から誉めました(褒章を与えました)


ジョンレノ・ホツマ
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40-64~66 えぞのとりこ5人を分散

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22. えぞのとりこ5人を分散(40-64~66)

いせにそえいる(40-64)
ゑぞゐあり いやまいあらず
やまとひめ とがめみかどえ
すすめやる みもろにをけば


大鹿島命(初代伊勢神宮)の添え人になった伊勢にいる蝦夷の五人は敬いの心がないので、「やまと姫」は咎めて帝へ送り直接監視しました。

ほどもなく きを。きりたみを(40-65)
さまたげる きみのたまわく
ゑみしらは ひとこゝろなく
をきがたし まゝにわけをく
はりま。あき あわいよ。さぬき(40-66)
さえきべぞ 


理由(ほど)もなく木を切り、住民に迷惑をかけている。
君(景行天皇)がおっしゃるにはこの五人の蝦夷たちは人としての心を持ち合わせていないのでこのまま置いておく訳にはいかない。距離をおいて分けて置くことにする。
播磨、安芸、阿波、伊予、讃岐に一人づつばらばらに配置し、後に佐伯という名前になりました。

ジョンレノ・ホツマ
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40-62~64 神送りの儀式

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21. 神送りの儀式(40-62~64)

をほまとのより(40-62)
みやうつし さおしか。にぎて
みことあげ このとき。おしか
たゝねこと をはりむらしと(40-63)
にいはらの をほまのかみと
なづくなり
 

大真殿より新宮(現在の熱田神宮)へ霊を移して勅使(天皇のさおしか、清い鹿)がにぎて(しで)を持って詔(のりと)をあげました。このときの役をたまわったのが大田根子と尾張の連の二人で、この二人を新しい宮(熱田神宮)の大間の神と名付けました。

かみをくるとき(40-63)
よをいなむ ちりひるめしと
のこるなり (40-64)

神送り(葬儀)のとき世を辞む高希な食事(霊在(ちり)日霊飯(ひるめし)とのりとを唱えました。

ジョンレノ・ホツマ
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40-57~62 宮簀(みやづ)姫は御食を捧げ、白凰が食いばむ


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20. 宮簀(みやづ)姫は御食を捧げ、白凰が食いばむ(40-57~62)

よにますごとく(40-57)
みやずひめ きりひのかゐを
もる。ひらべ いたゞき。さきに(40-58)
いりまちて みまえに。そなえ
もふさくは


生前と同じように(よにますごとく)宮簀姫は、自ら切り火を起こして、神饌用のご飯を炊いて、平瓮(ひらべ)に盛って頭上に捧げ(頂き)ました。先導して大真殿に入って、皆が揃うのを待って、神前にお供えして申し上げました。

 このみけむかし(40-58)
いぶきより かえさにさゝぐ
ひるめしを みづからかしぎ(40-59)
まちをれど よらでゆきます
ちゝくやみ いま。またきます
きみのかみ むべうけたまえ


この御食(みけ)は昔、伊吹山からのお帰りの時に捧げるつもりだった昼飯です。
あの日、自ら食事を炊いでお待ち申し上げたのにどうして、私の元にお立ち寄りされずに遠くへ行ってしまわれたのでしょうか。私も君の後を追って行くべきだったと今は千々(ちぢ)に悔やまれてなりません。今宵は又、君は私の元に神の君となってお帰り下さるのですね。どうぞごゆっくりお召し上がりください。(むべ:果物、おいしいもの、良いもの、むべなるかな)

これは宮づ姫の十九歌(つづうた)です

ありつよの あいちだにまつ(40-60)
きみがひるめし


君が生前(ありつよ)の居られるままの愛知田で待ち続けた私の作った日霊飯(ひるめし)でございます。

みたびのり いざよふつきの(40-60)
ほがらかに しらいとりきて
これをはみ なるしらくもに(40-61)
かみのこえ こたふつヾうた


宮づ姫は霊前で三度宣(のり)して渡しました。
空は十六夜月が明るく照らして透き通っていました。
何処からともなく白凰(しらいとり)が舞い降りてきて御食(みけ)をついばみ(はみ)、再び舞い上がって白雲の彼方に消えていきました。
そのとき、神の声の十九歌が答えられました。

ありつよの はらみつほしき(40-61)
ちりをひるめし


生前の世(ありつよ)の腹一杯食べたかったが(ハラミヤとかけている)霊在(ちり)を日霊飯(ひるめし)(心のこもった食事を頂きたかった)
「ありつよの」が同じで「きみがひるめし」と「ちりをひるめし」が対応しています。

くしひるを まことにをそれ(40-62)
をがみさる 


くしひる(天照大神)の霊妙な奇跡を皆おそれ(感極まって)いたたまれなくなって(尊敬の念を含めて)宮簀姫を残したままその場を去りました。

ジョンレノ・ホツマ
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40-51~57 御幸の行列、野褒野(のぼの)から愛知田まで

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19. 御幸の行列、野褒野(のぼの)から愛知田まで
(40-51~57)


ここからヤマトタケの葬儀の神輿の行列の説明です。

ひしろ。よそよほ(40-51)
やよひそひ たそかれよりぞ(40-51)
みこしゆき のぼのをひかし
もろつかさ かたむ。たひまつ
さきかりは さかきにふそり
そえかふど


日代の宮の四十四年三月十一日の黄昏より、神輿が能褒野(のぼの:三重県)を発って東の愛知田の宮(後の熱田神宮)へと進みました。大勢(もろ)の司(つかさ:国史)達は、松明で白神輿を囲んで守りました。先駆(さきがり:先頭)は、榊を持った二十人の副神主(そえかふど)が行きました。

 さるたひこかみ(40-52)
みかほあて かふどやたりを(40-53)
やもとはた をゝかふどのは
かふり。みは みはしらもちて
とみやたり をしやますくね
かふり。みは よはきしもちて(40-54)
とみむたり 


猿田彦神は天狗のお面(みかほ:御顔)を当てた神主八人が八元幡(と・お・か・み・え・ひ・た・み・八神を祭る八色の幡)を掲げて進みました。
大神主殿(おおかふどの)は冠をつけ正装(みは:御衣)して御柱(天国へ送るため)を持って大臣八人が進みました。穂積氏忍山宿禰(おとたちばな姫の親になった)は冠をつけ正装(みは:御衣)して進みました。大臣六人は世箒(よはきし:世を清める)を持って進みました。

きびたけひこも(40-54)
をなじまえ をゝたんやわけ
かふり。みは つるぎさゝげて


吉備武彦も同じ衣装で進みました。大多牟爺別(おおたんやわけ)は冠をつけ、正装(みは:御衣)して剣を捧げて進みました。

とみそたり みこし。あをほひ(40-55)
おさのとみ いえばとみそり
みおずへは きぬふたながれ
よたけやた みこみおすえに
すがりゆく(40-56)


大臣十人は、神輿に傘(あ:天を覆う)を掲げていました。長老(おさ)の大臣に使用人三十人が従っていきました。御緒末(みおずえ)は神輿に四丈八尺の絹で括って玉の緒の先(御子御緒末)に縋りついて送って行きました。


 あまてるかみの(40-56)
のこるのり いわいさおしか
とみそふり つぎみゆきもり
もろづかい みなをくりゆく
よなかまで (40-57


天照神をお送りした時と同じ典(のり:法典)に従いました。葬儀(いわい)を仕切る勅使(さおしか)は大臣十二人で行きました。次に御幸の時の道路奉行、大勢の司達が御幸守を兼(送り行く)ねました。行列は夜中まで続きました。

かくむよいたり(40-57)
はらみやの をほまのとのに
みこします 


このようにして六日の夜を過ぎて(初七日)、ハラ宮(新装なった、亡くなってから建てた)の大間の殿に神輿を据えました。




ジョンレノ・ホツマ
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40-48~51 愛知田(あいちだ)に新宮を落成祝いの詔

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18. 愛知田(あいちだ)に新宮を落成祝いの詔(40-48~51)

ここで場面が変わります。

ちゝははらみの(40-48)
ゑをうつし みやこに。のぼり
わかみやの ねがひのまゝを
もふしあげ あいちだにたつ(40-49)

宮づ姫の父むらじは、ハラ宮(蓬莱宮:浅間神社)の建物を絵に書き写し取り都に登り(戻り)ました。若宮(ヤマトタケ)の願い通りに申し上げて許可を取り、愛知田(愛知県(あがた):熱田神宮)にハラ宮と同じように宮殿を建てました。

みやなりて わたましこえば(40-49)
みことのり たゝねこいはふ
さをしかど むらじ。かふとの


宮殿が出来上がり、新築落成(わたまし)を祝って、景行天皇は詔をされました。大直根子(タタネコ)は斎主(いわいぬし:いわう=葬儀の時も使った)として勅使人(さおしか)を務めなさい。尾張の連(むらじ)は神主(かんどの:かふとの)を務めなさい。

みこたちを みゆきのそなえ(40-50)
をごそかに 


皇子たちは神幸(みゆき)の備えに当たりなさい。そうして、厳かに進められました。


ことひきはらの(40-50)
みさゝきに をちしおはよつ
ふるいちの おはよつともに
もちきたり(40-51)


琴弾原(ことひきはら:奈良県御所市)の陵(みささぎ)に落ちた尾羽四枚と、河内の古市の陵に落ちた尾羽四枚も、共に持って来ました。

 のぼのの。かふり
さくみはも みたまげにいれ
しらみこし (40-51)


能褒野(のぼの:三重県地名)の君(ヤマトタケ)の冠、笏(さく)、御衣装(みは)の三点も御霊笥(みたまげ:ひつぎ)に入れて白神輿に納めました。

ジョンレノ・ホツマ
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40-48~51 愛知田(あいちだ)に新宮を落成祝いの詔

18. 愛知田(あいちだ)に新宮を落成祝いの詔(40-48~51)

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ここで場面が変わります。

ちゝははらみの(40-48)
ゑをうつし みやこに。のぼり
わかみやの ねがひのまゝを
もふしあげ あいちだにたつ(40-49)


宮づ姫の父むらじは、ハラ宮(蓬莱宮:浅間神社)の建物を絵に書き写し取り都に登り(戻り)ました。若宮(ヤマトタケ)の願い通りに申し上げて許可を取り、愛知田(愛知県(あがた):熱田神宮)にハラ宮と同じように宮殿を建てました。

みやなりて わたましこえば(40-49)
みことのり たゝねこいはふ
さをしかど むらじ。かふとの


宮殿が出来上がり、新築落成(わたまし)を祝って、景行天皇は詔をされました。大直根子(タタネコ)は斎主(いわいぬし:いわう=葬儀の時も使った)として勅使人(さおしか)を務めなさい。尾張の連(むらじ)は神主(かんどの:かふとの)を務めなさい。

みこたちを みゆきのそなえ(40-50)
をごそかに 


皇子たちは神幸(みゆき)の備えに当たりなさい。そうして、厳かに進められました。


ことひきはらの(40-50)
みさゝきに をちしおはよつ
ふるいちの おはよつともに
もちきたり(40-51)


琴弾原(ことひきはら:奈良県御所市)の陵(みささぎ)に落ちた尾羽四枚と、河内の古市の陵に落ちた尾羽四枚も、共に持って来ました。

 のぼのの。かふり
さくみはも みたまげにいれ
しらみこし (40-51


能褒野(のぼの:三重県地名)の君(ヤマトタケ)の冠、笏(さく)、御衣装(みは)の三点も御霊笥(みたまげ:ひつぎ)に入れて白神輿に納めました。


ジョンレノ・ホツマ

40-42~48. 宮簀(みやづ)姫に残した歌

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17. 宮簀(みやづ)姫に残した歌(40-42~48)

また、此処で辞世の歌がいくつか挿入されています。

やまとたけ をばよりたまふ(40-42)
くさなぎを ひめのやにおき(40-43)
(むらぐもを ひめがやにおき:小笠原写本)
いぶきやま かえさはいせぢ
(かえりいせぢに:小笠原写本)
いたはれば みやこ。おもひて


ヤマトタケが、伯母さん(ヤマト姫)より賜った、草薙の剣を宮簀姫(ミヤヅヒメ)の家に置いたまま、伊吹山に登り足を痛めてしまい、宮簀姫の家に寄らなかったので家族を心配しながら、都に早く戻らなければならないという思いをはせて歌ったづづ歌(十九音)です。

「むらぐも」が「くさなぎ」に名前が変わったのは富士の裾野でエミシに騙され火を放たれた時、草を薙いだ所からです。(39-26)参照 
多分どちらかの何代目かの写本で虫食いがあり、その部分が読めず前後関係から推測したものと思われます。その他にも、何箇所かありました。

はしきやし。わきべの(40-43)
かたゆ。くもいたちくも(40-44)


愛(は)しきやし 我家辺(わきべ)の
方ゆ雲居(くもい)立ち雲

のこしうた みこやうからに(40-44)
をりあひの つずはやかたで
いでたつは たびやにあえる
まろびとゝ まよひのこさぬ(40-45)
さとしうた ふかきこゝろの
みちびきぞこれ


この遺歌(のこしうた)は自分の皇子(みこ)や親族(うから)に折り合いの十九(つず)は館(「か」が真ん中の10番目のこと?)で出で立つは旅館(たびや)で会える客人(まろびと)と思いなさい。
迷いを残さぬように諭した歌で、深き君の御心の導きです。

のぼのにて かみなるときに(40-45)
のこしうた みやづひめえと(40-46)
あいちだの をとめがとこに
わがをきし いせのつるぎの
たちわかるやわ


能褒野(のぼの:三重県地名)で神上がられるとき(神になる)に宮簀姫に歌を遺しました。
愛知田の乙女が床に私(我)が置いてきた伊勢の剣の立ち別るやわ

このわかは いもせのみちは(40-47)
つらなりて たちわかるれど
つりのおは きれはせぬぞと
みちびきを たつるあめのり


この歌は妹背(愛し合う女と男。夫婦)の道は連綿と続いて、たとえ我が剣のように、別れても吊りの緒は決して切れはしない、という導きをはっきりさせた神の教示です。

みやずひめ もたえたえいり(40-48)
やゝいけり 


宮づ姫は、悲しみのあまり息も絶え絶えに悶え泣き、生きているのがやっと(漸:やや)でした。


ジョンレノ・ホツマ

40-38~42宮簀(みやづ)姫の出迎えにヤマトタケの歌と返歌

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16. 宮簀(みやづ)姫の出迎えにヤマトタケの歌と返歌(40-38~42)

此処から、話は生前の時に戻ります。

みやづひめ ねまきのまゝに(40-38)
いでむかふ ひめのもすそに
つきおけの しみたるをみて(40-39)
やまとたけ みしかうたして


君(ヤマトタケ)が尾張の宮へ帰ってこられたとき宮簀姫(ミヤヅヒメ)は生理にあたっていました。うれしさの余り、寝巻き姿のまま出迎えてしまいました。そうしたら、寝巻きの裾に月経血(つきおけ)の染みているをみてヤマトタケは即座に歌を作って知らせました。

ひさかたの あまのかぐやま(40-39)
とがもより さわたりくるひ
ほそたわや かひなをまかん(40-40)
とはすれど さねんとあれは
をもえども ながきけるその
つきたちにけり


久方の天の香具山、遠鴨よりさ渡り来る日 細手弱や 腕(かいな)を巻かんとはすれど さ寝んとあれば 思えども 汝が着ける裾の 月経ちにけり。
生理(月経)のことを「つきたち」と言っていたことがわかります。

ひめかえしうた(40-41)
たかひかる あまのひのみこ
やすみせし わがをほきみの
あらたまの としがきふれば(40-41)
うえなうえな きみまちがたに(40-42)
わがきける をすひのすそに
つきたゝなんよ


宮簀姫(ミヤヅヒメ)は直ぐに返歌をされました。
高光る 天の日の皇子 休みせし 我が大君の
新玉の 年が来、経れば 宣えな宣えな 君待ち難たに 我が着ける 襲いの裾に 月経たなんよ


ジョンレノ・ホツマ

40-33~38ヤマトタケの家族構成

15. ヤマトタケの家族構成(40-33~38)

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以降ヤマトタケの家族構成です。

やまとたけ いますのまごの(40-33)
たんやがめ ふたぢいりひめ
うむみこは いなよりわけの(40-34)
たけひこと たりなかひこの
かしきねと ぬのをしひめと
わかたけぞ


1番目のお妃:
坐増王(イマス)の孫大多牟爺別(タンヤワケ)の娘の(1妃)両道入姫(フタジイリヒメ)が生んだ御子さんは
1男:稲依別王(いなりよりわけ)の建彦、
2男:足仲彦・仲哀天皇(たりなかひこ)の香椎杵(かしきね)
1女:布忍入姫(ヌノヲシヒメ)と
3男:稚武王(わかたけ)です。

 きびたけひこが(40-34)
あなとたけ うちつまに。うむ(40-35)
たけみこ。と ときわけ。となり


2番目のお妃:
吉備武彦の娘の(2妃)穴戸武姫(あなとたけ)が内妻で生んだのは武見児王(たけみこ)と十城別王(ときわけ)でした。

おしやまが をとたちはなを(40-35)
すけつまに わかたけひこと
いなりわけ あしかみかまみ(40-36)
たけこがひ いきながた。わけ
ゐそめひこ いがひこ。らうむ


3番目のお妃:
穂積氏忍山宿禰の養女(3妃)緒止立花姫(オトタチバナヒメ 紀:弟橘媛・記:弟橘比賣)は典妻(すけつま)になって生んだ御子さんは
1男:稚武彦王(わかたけひこ)と
2男:稲入別王(いなりわけ)、
3男:葦敢蒲見別命(あしかみまみ)、
4男:武養蚕命(たけこがひ)、
5男:息長田別命(いきながたわけ)、
6男:五十目彦王命(いそめひこ)
7男:伊賀彦王(いがひこ)たち男7人を生みました。

をはりがめ みやづひめまた(40-36)
のちのつま たけたとさえき(40-37)
ふたりうむ そよを。ひめあり


4番目のお妃:
尾張の姫の(4妃)宮簀姫(ミヤヅヒメ)は後の妻(後妻)が生んだ御子さんは
1男:武田王(たけだ)、
2男:佐伯命(さえき)を生みました。

ヤマトタケは合計十四男と一女を儲けました。


後妻のことを「後(のち)の妻」と言っていたのが漢字が当てはめられた結果、いつの間にか音読みになってしまったようです。

この宮簀姫(ミヤヅヒメ)と他の3人のお妃「先の妻」と区別するために「後の妻」といったのが元になったと思います。

さきのつま みなかれいまは(40-37)
みやづひめ ひとりあわんと
はらみより こゝろほそくも(40-38)
かけはしを しのぎのぼれば


先の妻(1妃)両道入姫(フタジイリヒメ)、(2妃)穴戸武姫(あなとたけ)、(3妃)緒止立花姫(オトタチバナヒメ)の3人は皆死んで(かれる)亡くなっており、今は宮簀姫(ミヤヅヒメ)一人がはらみより心細くとも天の懸け橋を耐えて(偲んで)登りました。

人間が死ぬことも枯れるという表現をとっていたことが分かります。

ジョンレノ・ホツマ

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