32-57~58.開化天皇のお妃が生んだ皇子たち
38.開化天皇のお妃が生んだ皇子たち(32-57~58)
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しはすそみかに(32-57)
ゆぎりのめ たけのひめうむ
ゆむずみの いみなこもつみ
(いさかわ七年)十二月十三日、「たには」(丹波)の「ゆぎり」の娘の「たけの姫」が「ゆむずみ」実名を「こもつみ」を生みました。
やほやよひ かすがをけつめ(32-57)
すけがうむ いむなあるづみ(32-58)
ひこいます
いさかわ八年三月、「かすがおけつめ」のすけ妃が生んだ皇子は、実名「あるずみ」で「ひこいます」です。
そほさのそふか(32-58)
うちみやの うむみこみまき
いりひこの いむないそにえ
いさかわ十年さつき(五月)十二日に、内宮「いきしこ姫」(旧称いかしこ姫)が生んだ皇子は「みまきいりひこ」実名「いそにえ」です。(後の崇神天皇になります)
ジョンレノ・ホツマ
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しはすそみかに(32-57)
ゆぎりのめ たけのひめうむ
ゆむずみの いみなこもつみ
(いさかわ七年)十二月十三日、「たには」(丹波)の「ゆぎり」の娘の「たけの姫」が「ゆむずみ」実名を「こもつみ」を生みました。
やほやよひ かすがをけつめ(32-57)
すけがうむ いむなあるづみ(32-58)
ひこいます
いさかわ八年三月、「かすがおけつめ」のすけ妃が生んだ皇子は、実名「あるずみ」で「ひこいます」です。
そほさのそふか(32-58)
うちみやの うむみこみまき
いりひこの いむないそにえ
いさかわ十年さつき(五月)十二日に、内宮「いきしこ姫」(旧称いかしこ姫)が生んだ皇子は「みまきいりひこ」実名「いそにえ」です。(後の崇神天皇になります)
ジョンレノ・ホツマ
32-51~57.母を犯すことになると「おおみけぬし」は忠告するが聞き入れられず蟄居
37.母を犯すことになると「おおみけぬし」は忠告するが聞き入れられず蟄居(32-51~57)
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これのさき きみめすときに(32-51)
おみけぬし いさめもふさく
中宮に立てる以前には、君(開化天皇)が「いきしこめ」を召される時に、「おおみけ主」(「おおたたねこ」のお爺さんかお父さん)が天皇に諌めて申し上げました。(忠告しました。)
きみきくや しらうどこくみ(32-51)
ははおかす
天皇よ、お聞きください。かって神代に先帝の「くらきね」(いさなぎの弟)が「しらうど」(白山出身の方)と「たみのさしひめ」の兄「こくみ」に問題を起こさせました。つまり、先帝の奥さん(母)と子を同時に犯させて侮辱しました。
この内容の詳細については別途記載の綾までお待ちを。
がないまにあり(32-52)
きみまねて がなをかふるや
悪(闇)名は今も伝えられています。「が」は悪・闇を意味する。
君は同じことを真似て悪名を被ることになりますが、それで良いのですかと「おおみけぬし」が抗議しました。
うつしこを こたえめいなり(32-52)
ははならず
「うつしこお」(先帝の中宮の兄)が天皇の代わりに答えて、姪であり母ではありません。(腹違いなのでこれも一理ある)
いわくいせには(32-52)
めとつぎて うみのおやなし(32-53)
「おおみけぬし」が反論し、「いせのみち」(「伊勢の道・鈴鹿の教え」天照神の教え・男女の道・夫婦道)の教えには、女性が嫁となって夫に嫁いだら、自分の生みの親は、もう親としては認められない。
夫の父母が自分の親になるという掟がある。
むかしをば めいいまはつづ(32-53)
うむこあり つらなるえだの
おしまこと はゝはたがひぞ
「おおみけぬし」はさらに続けて、昔は確かに伯母であったので「めい」にあたるかも知れない。
しかし、今は違う。実子が生まれているので、天皇との関係は血がつながっている「おしまこと」がいるではないか。母であるということは間違っている。
またこたえ あにつきひとつ(32-54)
はゝはつき しもめはほしよ
これをめす
「うつしこお」(先帝の中宮の兄)が反論します。
天(あ)に月は1つ(中宮は1人)である。母は月である。他の下女は星で母ではない。これ(星)を召したのだ。
なげきていわく(32-54)
おおんかみ あめのみちなす
「みけぬし」が歎いて言いました。
天照大神は天なる道を引き継いで範を示してきました。
よよのきみ つぎうけおさむ(32-55)
あめひつぎ なんぢがまつり
天皇として代々引き継いできて国を治めてきました。
「あめひつぎ」(「ひつぎ」の中には三種の神器が収まっている:皇位継承)の君が祀らなければなりません。
いさめずて おもねりきみを(32-55)
あなにする こころきたなし
きみいかん(32-56)
諌めなければ(忠告しなければ)、阿(おもね)るだけ(気に入られようとして自分の意見を言わないイエス・マン)であったら、君(開化天皇)をだめにします。自分の心が潔くなく卑怯に思えます(汚なし)。
君(開化天皇)はどう思われますか?
わがみおやかみ(32-56)
はなれんや けがれはまずと
いいおはり
我が(私:おおたたねこ)「みおやかみ」(先祖神)は、頑として守り通しました。このように汚れたことは受け入れられないと天皇に物申しました。
かえれどきみは(32-56)
これきかず みけぬしおやこ
つぐみおる(32-57)
しかしながら(自ら身を引いて帰ったが)、君(開化天皇)は、この忠告を聞き入れてくれなかったので「みけぬし」親子(おおみけぬし)は蟄居いたしました。ここの「子」は編纂者の「おおたたねこ」を示します。
ジョンレノ・ホツマ
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これのさき きみめすときに(32-51)
おみけぬし いさめもふさく
中宮に立てる以前には、君(開化天皇)が「いきしこめ」を召される時に、「おおみけ主」(「おおたたねこ」のお爺さんかお父さん)が天皇に諌めて申し上げました。(忠告しました。)
きみきくや しらうどこくみ(32-51)
ははおかす
天皇よ、お聞きください。かって神代に先帝の「くらきね」(いさなぎの弟)が「しらうど」(白山出身の方)と「たみのさしひめ」の兄「こくみ」に問題を起こさせました。つまり、先帝の奥さん(母)と子を同時に犯させて侮辱しました。
この内容の詳細については別途記載の綾までお待ちを。
がないまにあり(32-52)
きみまねて がなをかふるや
悪(闇)名は今も伝えられています。「が」は悪・闇を意味する。
君は同じことを真似て悪名を被ることになりますが、それで良いのですかと「おおみけぬし」が抗議しました。
うつしこを こたえめいなり(32-52)
ははならず
「うつしこお」(先帝の中宮の兄)が天皇の代わりに答えて、姪であり母ではありません。(腹違いなのでこれも一理ある)
いわくいせには(32-52)
めとつぎて うみのおやなし(32-53)
「おおみけぬし」が反論し、「いせのみち」(「伊勢の道・鈴鹿の教え」天照神の教え・男女の道・夫婦道)の教えには、女性が嫁となって夫に嫁いだら、自分の生みの親は、もう親としては認められない。
夫の父母が自分の親になるという掟がある。
むかしをば めいいまはつづ(32-53)
うむこあり つらなるえだの
おしまこと はゝはたがひぞ
「おおみけぬし」はさらに続けて、昔は確かに伯母であったので「めい」にあたるかも知れない。
しかし、今は違う。実子が生まれているので、天皇との関係は血がつながっている「おしまこと」がいるではないか。母であるということは間違っている。
またこたえ あにつきひとつ(32-54)
はゝはつき しもめはほしよ
これをめす
「うつしこお」(先帝の中宮の兄)が反論します。
天(あ)に月は1つ(中宮は1人)である。母は月である。他の下女は星で母ではない。これ(星)を召したのだ。
なげきていわく(32-54)
おおんかみ あめのみちなす
「みけぬし」が歎いて言いました。
天照大神は天なる道を引き継いで範を示してきました。
よよのきみ つぎうけおさむ(32-55)
あめひつぎ なんぢがまつり
天皇として代々引き継いできて国を治めてきました。
「あめひつぎ」(「ひつぎ」の中には三種の神器が収まっている:皇位継承)の君が祀らなければなりません。
いさめずて おもねりきみを(32-55)
あなにする こころきたなし
きみいかん(32-56)
諌めなければ(忠告しなければ)、阿(おもね)るだけ(気に入られようとして自分の意見を言わないイエス・マン)であったら、君(開化天皇)をだめにします。自分の心が潔くなく卑怯に思えます(汚なし)。
君(開化天皇)はどう思われますか?
わがみおやかみ(32-56)
はなれんや けがれはまずと
いいおはり
我が(私:おおたたねこ)「みおやかみ」(先祖神)は、頑として守り通しました。このように汚れたことは受け入れられないと天皇に物申しました。
かえれどきみは(32-56)
これきかず みけぬしおやこ
つぐみおる(32-57)
しかしながら(自ら身を引いて帰ったが)、君(開化天皇)は、この忠告を聞き入れてくれなかったので「みけぬし」親子(おおみけぬし)は蟄居いたしました。ここの「子」は編纂者の「おおたたねこ」を示します。
ジョンレノ・ホツマ
32-50~51.開化天皇は「いきしこ姫」を内宮にたてる
32-48~50.「ふとひひ」(開化天皇)の即位の礼「かすがいさかわ」に遷都
35.「ふとひひ」(開化天皇)の即位の礼「かすがいさかわ」に遷都(32-48~50)
ここからは開化天皇の代になります
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ときあすず いもむそほふゆ(32-48)
めのそふか かすがいさかわ
にいみやこ(32-49)
時は、あすず歴五百六十年の冬、十月(雌の月)十二日、「かすがいさかわ(春日之地率川)」(奈良市内)に新しい都をつくりました。(遷都しました)
みことしいそひ(32-49)
ねのそふか あまつひつぎを
うけつぎて(32-49)
皇子の年は五十一才で即位しました。
十一月十二日に「あまつひつぎ」を受け継ぎました。(皇位継承しました)
いむなふとひひ(32-49)
わかやまと ねこひこあめの
すべらぎと(32-50)
実名は「ふとひひ」と言い、名前を「わかやまと・ねこひこ」と言いました。天(あめ)の統率者(すべらぎ)、すなわち、天皇となられました。
たみにおかませ(32-50)
ははもあけ そふのきさきも
さきにあり
国民の前にお立ちになり、あら人神として拝ませました。即位を民に知らしめました。大嘗祭
先帝のお妃は皇太后に格上げされました。十二人のお妃が既に皇太子の時に揃っていました。
ジョンレノ・ホツマ
ここからは開化天皇の代になります
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ときあすず いもむそほふゆ(32-48)
めのそふか かすがいさかわ
にいみやこ(32-49)
時は、あすず歴五百六十年の冬、十月(雌の月)十二日、「かすがいさかわ(春日之地率川)」(奈良市内)に新しい都をつくりました。(遷都しました)
みことしいそひ(32-49)
ねのそふか あまつひつぎを
うけつぎて(32-49)
皇子の年は五十一才で即位しました。
十一月十二日に「あまつひつぎ」を受け継ぎました。(皇位継承しました)
いむなふとひひ(32-49)
わかやまと ねこひこあめの
すべらぎと(32-50)
実名は「ふとひひ」と言い、名前を「わかやまと・ねこひこ」と言いました。天(あめ)の統率者(すべらぎ)、すなわち、天皇となられました。
たみにおかませ(32-50)
ははもあけ そふのきさきも
さきにあり
国民の前にお立ちになり、あら人神として拝ませました。即位を民に知らしめました。大嘗祭
先帝のお妃は皇太后に格上げされました。十二人のお妃が既に皇太子の時に揃っていました。
ジョンレノ・ホツマ
32-46~48.孝元天皇は崩御され、六年後にご遺体を納め、喪から開放
33.孝元天皇は崩御され、喪に服す(32-46~47)
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いそなながつき(32-46)
ふかまかる すべらぎのとし
ももそなぞ(32-47)
五十七年九月二日に崩御されました。すべらぎ(考元天皇)の年は百十七才でした。
みこのもはいり(32-47)
いきませる ごとくみあえし
皇子(十六才で立太子になられた「ふとひひ」、後の開化天皇)は喪衣入りしました。先帝が生きておられるかのように御饗をささげました。
よそやすぎ まつりごときき(32-47)
四十八日目の夜を過ぎて(四十九日の喪に服す始まりが日本の仏教に取り入れられた)、祀りごと(政治)を再び復活しました。(聴きました。)
34.六年後に孝元天皇のご遺体を納め、女官も開放される (32-47~48)
むとせのち おもむろおさむ(32-47)
つるぎしま (32-48)
六年後に「つるぎしま」(剱池嶋上陵)に「おもむろ」(ご遺体:孝元天皇)を納めました。(納棺しました)
なつきすえよか(32-48)
めともやむなり
九月二十四日(末の四日)には、女官たちも喪から放たれました(殉死したわけでなく、喪から解放されました)。
ジョンレノ・ホツマ
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いそなながつき(32-46)
ふかまかる すべらぎのとし
ももそなぞ(32-47)
五十七年九月二日に崩御されました。すべらぎ(考元天皇)の年は百十七才でした。
みこのもはいり(32-47)
いきませる ごとくみあえし
皇子(十六才で立太子になられた「ふとひひ」、後の開化天皇)は喪衣入りしました。先帝が生きておられるかのように御饗をささげました。
よそやすぎ まつりごときき(32-47)
四十八日目の夜を過ぎて(四十九日の喪に服す始まりが日本の仏教に取り入れられた)、祀りごと(政治)を再び復活しました。(聴きました。)
34.六年後に孝元天皇のご遺体を納め、女官も開放される (32-47~48)
むとせのち おもむろおさむ(32-47)
つるぎしま (32-48)
六年後に「つるぎしま」(剱池嶋上陵)に「おもむろ」(ご遺体:孝元天皇)を納めました。(納棺しました)
なつきすえよか(32-48)
めともやむなり
九月二十四日(末の四日)には、女官たちも喪から放たれました(殉死したわけでなく、喪から解放されました)。
ジョンレノ・ホツマ
32-45~46.「ふとひひ」(後の開化天皇)の立太子礼が行なわれる
30.「ふとひひ」(後の開化天皇)の立太子礼が行なわれる(32-45)
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ふそふとし むつきそふかに(32-45)
よつぎなる ふとひひのみこ
ことしそむ
二十二年一月(睦みあう)十二日に世継ぎの立太子礼が行なわれました。「ふとひひ」の皇子(わかやまとねこひこ)は今年十六歳で皇太子になりました。
31.「おしまこと」は「たかち姫」を娶り「うましうち」を生む (32-45)
のちをしまこと(32-45)
おうちがと たかちえてうむ
うましうち
後に「いかしこめ」の子供の「おしまこと」は葛城豪族の「おうち」の妹の「たかち姫」を娶って生んだ子が「うましうち」です。
32.「うましうち」は「やまとかげ姫」を娶り、「たけうち」をを生む(32-46)
これきうつがと(32-46)
やまとかげ めとりうむこは
たけうちぞ
「うましうち」は紀(紀州)の「うつ彦」の妹の「やまとかげ姫」を娶って生んだ子が「たけうち」です。
これが「たけうち」の系図を示しています。
ジョンレノ・ホツマ
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ふそふとし むつきそふかに(32-45)
よつぎなる ふとひひのみこ
ことしそむ
二十二年一月(睦みあう)十二日に世継ぎの立太子礼が行なわれました。「ふとひひ」の皇子(わかやまとねこひこ)は今年十六歳で皇太子になりました。
31.「おしまこと」は「たかち姫」を娶り「うましうち」を生む (32-45)
のちをしまこと(32-45)
おうちがと たかちえてうむ
うましうち
後に「いかしこめ」の子供の「おしまこと」は葛城豪族の「おうち」の妹の「たかち姫」を娶って生んだ子が「うましうち」です。
32.「うましうち」は「やまとかげ姫」を娶り、「たけうち」をを生む(32-46)
これきうつがと(32-46)
やまとかげ めとりうむこは
たけうちぞ
「うましうち」は紀(紀州)の「うつ彦」の妹の「やまとかげ姫」を娶って生んだ子が「たけうち」です。
これが「たけうち」の系図を示しています。
ジョンレノ・ホツマ
32-44.「はにやす姫」が「はにやす」を生む
32-43.孝元天皇の内妃「いかしこめ」が「おしまこと」を生む
32-42~43.「いかしこめ」が孝元天皇の内妃に召される
27.「いかしこめ」が孝元天皇の内妃に召される(32-42~43)
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めのいかしこめ(32-42)
かしはでに めすうちきさき(32-43)
ことしそよ(32-43)
(物部氏の)娘の「いかしこめ」が「かしわで」(食事のお皿・膳・食事の席)に、はべらせて応対いたしました。そして、この「いかしこめ」を内妃(うちきさき)に召されました。そのとき、「いかしこめ」の年は十四才でした。
(天皇が御幸される時、豪族は自分の娘を食事等のもてなしに使い、天皇に気に入られようとした。後にこの若さ故、天皇が亡くなられた後、皇太子の内妃になり、後世に混乱を引き起こすことになります。)
ジョンレノ・ホツマ
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めのいかしこめ(32-42)
かしはでに めすうちきさき(32-43)
ことしそよ(32-43)
(物部氏の)娘の「いかしこめ」が「かしわで」(食事のお皿・膳・食事の席)に、はべらせて応対いたしました。そして、この「いかしこめ」を内妃(うちきさき)に召されました。そのとき、「いかしこめ」の年は十四才でした。
(天皇が御幸される時、豪族は自分の娘を食事等のもてなしに使い、天皇に気に入られようとした。後にこの若さ故、天皇が亡くなられた後、皇太子の内妃になり、後世に混乱を引き起こすことになります。)
ジョンレノ・ホツマ
32-42.「へそぎね」の館へ御幸したとき「とと姫」を生む
32-40~41.おほみけ主は祀り臣に、各地で「かぜふ」の祀りが行なわれる
32-37~39.雨が降り続き琵琶湖が氾濫、稲熱病になった稲を「かぜふの祓い」で蘇らせる
24.雨が降り続き琵琶湖が氾濫、稲熱病になった稲を「かぜふの祓い」で蘇らせる(32-37~39)
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こほのなつ あめよそかふり(32-37)
やましろだ あわうみあぶれ
さもみもち(たもみもち) なげきつぐれば(32-38)
九年の夏、雨が四十日降り続きました。山城や田に降った雨で淡海(琵琶湖)が溢れ、南(田)の稲はいもち病になってしまったことを歎き申し出ました。
みことのり みけぬしおしに(32-38)
いのらしむ あわくにみおに
たなかかみ はれをいのりて
詔が発せられました。「みけぬし」勅使に祈らせました。淡国の三尾(水尾)の「たなか」神に晴れるよう祈りました。
次の頁(32-39のみ)が訳本によって記述に違いがあるため、古い和仁估安聰本と、小笠原長弘本を別々にしてみました。
仁估安聰本
はらひなす かぜふまつりは(32-39)
おおなむち いつもたなかの
ためしもて みなつきそむか
まつりなす そのおしくさの
風で雨雲を掃う「かぜふの祀り」を、「おおなむち」が出雲たなか神の前例に則って、六月十六日に祀りをしました。そのおし草(ごまの葉草)の祓いの(まもりによって、稲は再び蘇りました。)
小笠原長弘本
かぜふなす これおおなむち(32-39)
たなかのり みなつきそむか
おこなひは みもむそうたひ
おしぐさに いたみもなおる
「かぜふ」の祀りをしました。これ(「かぜふ」の祀り)は「おおなむち」の「たなか」の典り(教え、教典)です。六月十六日に行なわれました。三百六十回唄いました。そうしたら、おし草(ごまの葉草)で、稲の傷みも治りました。
まもりもて たにぬかづけは(32-40)
よみかえり やはりわかやぎ
みづほあつ たみかてふえて
にきわえば
おしくさ(ごまの葉草)のお祓いの守りによって、いもち病になって下に伏していた稲は元気を取り戻し再び蘇りました。
水穂(うるち米)は豊作になり、民の食糧が増えて賑わい国が裕になりました。
ジョンレノ・ホツマ
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こほのなつ あめよそかふり(32-37)
やましろだ あわうみあぶれ
さもみもち(たもみもち) なげきつぐれば(32-38)
九年の夏、雨が四十日降り続きました。山城や田に降った雨で淡海(琵琶湖)が溢れ、南(田)の稲はいもち病になってしまったことを歎き申し出ました。
みことのり みけぬしおしに(32-38)
いのらしむ あわくにみおに
たなかかみ はれをいのりて
詔が発せられました。「みけぬし」勅使に祈らせました。淡国の三尾(水尾)の「たなか」神に晴れるよう祈りました。
次の頁(32-39のみ)が訳本によって記述に違いがあるため、古い和仁估安聰本と、小笠原長弘本を別々にしてみました。
仁估安聰本
はらひなす かぜふまつりは(32-39)
おおなむち いつもたなかの
ためしもて みなつきそむか
まつりなす そのおしくさの
風で雨雲を掃う「かぜふの祀り」を、「おおなむち」が出雲たなか神の前例に則って、六月十六日に祀りをしました。そのおし草(ごまの葉草)の祓いの(まもりによって、稲は再び蘇りました。)
小笠原長弘本
かぜふなす これおおなむち(32-39)
たなかのり みなつきそむか
おこなひは みもむそうたひ
おしぐさに いたみもなおる
「かぜふ」の祀りをしました。これ(「かぜふ」の祀り)は「おおなむち」の「たなか」の典り(教え、教典)です。六月十六日に行なわれました。三百六十回唄いました。そうしたら、おし草(ごまの葉草)で、稲の傷みも治りました。
まもりもて たにぬかづけは(32-40)
よみかえり やはりわかやぎ
みづほあつ たみかてふえて
にきわえば
おしくさ(ごまの葉草)のお祓いの守りによって、いもち病になって下に伏していた稲は元気を取り戻し再び蘇りました。
水穂(うるち米)は豊作になり、民の食糧が増えて賑わい国が裕になりました。
ジョンレノ・ホツマ
32-36.妃(うつしこめ)が「ふとひひ(開化天皇)」・「わかやまとねこひこ」皇子を生む
32-36.「うつしこめ」は内宮(うちみや:妃)に、「うつしこお」は「けくに」に
32-35~36.「いほどみや」(考霊天皇)のご遺体を馬坂陵に納める
32-35.「やまとあえくにおおひこ」が生まれる
32-34.「やまとくにくる」(考元天皇)は「かるさかひばら」に遷都
32-32~34.「やまとくにくる」(考元天皇)の即位の礼
17. 「やまとくにくる」(考元天皇)の即位の礼(32-32~34)
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ときあすず いもよほむつき(32-32)
そよかきみ あまつひつぎを(32-33)
うけつぎて
時はあすず歴の五百四年の一月十四日に天君は天日嗣(あまつひつぎ)を受け継ぎました。(皇位継承)
やまとくにくる(32-33)
あまつきみ
「やまとくにくる」(考元天皇)という名前になり、あまつ君(天皇)になられました。
あめのみまごの(32-33)
ためしなり
天の御孫(天孫ニニキネ)のならわし(前例)に従い即位の礼をとりおこないました。
かさりをたみに(32-33)
おがませて
かざり(三種の神器、装束、宝飾など)を民に拝ませ、支持を受けました。(=即位の礼、天孫ニニキネ以降続いている)
みうえきさきと(32-34)
ははをあげ
先帝の中宮を御上妃(みうえきさき:大政皇后)の母(尊御母)にたてました。
そふのつぼねに(32-34)
きさきたつ
十二の局にお妃をたてました。(お妃は十二人と決められていた)
ジョンレノ
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ときあすず いもよほむつき(32-32)
そよかきみ あまつひつぎを(32-33)
うけつぎて
時はあすず歴の五百四年の一月十四日に天君は天日嗣(あまつひつぎ)を受け継ぎました。(皇位継承)
やまとくにくる(32-33)
あまつきみ
「やまとくにくる」(考元天皇)という名前になり、あまつ君(天皇)になられました。
あめのみまごの(32-33)
ためしなり
天の御孫(天孫ニニキネ)のならわし(前例)に従い即位の礼をとりおこないました。
かさりをたみに(32-33)
おがませて
かざり(三種の神器、装束、宝飾など)を民に拝ませ、支持を受けました。(=即位の礼、天孫ニニキネ以降続いている)
みうえきさきと(32-34)
ははをあげ
先帝の中宮を御上妃(みうえきさき:大政皇后)の母(尊御母)にたてました。
そふのつぼねに(32-34)
きさきたつ
十二の局にお妃をたてました。(お妃は十二人と決められていた)
ジョンレノ
32-30~32.考霊天皇は崩御される
16.考霊天皇は崩御される(32-30~32)初めてのページへ
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なそむとし きさらきやかに(32-30)
きみまかる としももそやぞ(32-31)
くろだいほど宮七十六年二月八日に天君(考霊天皇:やまとふとに)は崩御されました。年齢は百十八歳でした。
みこのもは よそやにぬぎて(32-31)
とみととむ むとせたつまで
みあえなす いますことくに
うやまひて(32-32)
皇子(は身を低くして)の喪衣(喪服)は四十八日目の夜(四十九日の喪に服す始まり)に脱ぎました。臣たちはそのまま留まりました。
そして、六年間、そこに天君がおられるように御饗を捧げて敬いました。
とみもよをさり(32-32)
かりとのみ おやにつかふる
まことなるかな
お仕えしていた臣も世を去りました。
仮の宮にとどまって、六年間も親に仕えるように敬い、真に偉大なものでした。
ジョンレノ・ホツマ
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なそむとし きさらきやかに(32-30)
きみまかる としももそやぞ(32-31)
くろだいほど宮七十六年二月八日に天君(考霊天皇:やまとふとに)は崩御されました。年齢は百十八歳でした。
みこのもは よそやにぬぎて(32-31)
とみととむ むとせたつまで
みあえなす いますことくに
うやまひて(32-32)
皇子(は身を低くして)の喪衣(喪服)は四十八日目の夜(四十九日の喪に服す始まり)に脱ぎました。臣たちはそのまま留まりました。
そして、六年間、そこに天君がおられるように御饗を捧げて敬いました。
とみもよをさり(32-32)
かりとのみ おやにつかふる
まことなるかな
お仕えしていた臣も世を去りました。
仮の宮にとどまって、六年間も親に仕えるように敬い、真に偉大なものでした。
ジョンレノ・ホツマ
32-28~30.西の争いに「いんべ主」を派遣する
15.西の争いに「いんべ主」を派遣する(32-28~30)
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いそみとし にしなかおえず(32-28)
(くろだいほど宮)五十三年、西の方は仲が定まらず(背負えなかった、安定せず)争い事が絶えなかった。
ちのくちと はりまひかわに(32-29)
いんへぬし やまといさせり
山陽道と山陰道の入り口(ちのくち)から、播磨、斐伊川(島根、山陰)に韻部主(神武天皇のとき出来た役)を派遣しました。「やまといさせり」(やまとくにか姫と考霊天皇の子供)をたてました。
これにそえ えわかたひこ(32-29)
きびかんぢ とわかたけひこ
きびしもぢ そのわけときて(32-30)
まつろわす
「やまといさせり」に添えて、兄の「えわかたけひこ」(はえ姫と考霊天皇の子供)を吉備の上路(山陰道)へ、弟の「とわかたけひこ」を吉備の下路(山陽道)へ、その道理を説いて降伏(服従)させました。
いささわけえは(32-30)
ひこさしま こしくにをたす
福井敦賀へは「ひこさしま」(はえ姫と考霊天皇の子供)を派遣して、越の国を治めさせました。
ジョンレノ・ホツマ
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いそみとし にしなかおえず(32-28)
(くろだいほど宮)五十三年、西の方は仲が定まらず(背負えなかった、安定せず)争い事が絶えなかった。
ちのくちと はりまひかわに(32-29)
いんへぬし やまといさせり
山陽道と山陰道の入り口(ちのくち)から、播磨、斐伊川(島根、山陰)に韻部主(神武天皇のとき出来た役)を派遣しました。「やまといさせり」(やまとくにか姫と考霊天皇の子供)をたてました。
これにそえ えわかたひこ(32-29)
きびかんぢ とわかたけひこ
きびしもぢ そのわけときて(32-30)
まつろわす
「やまといさせり」に添えて、兄の「えわかたけひこ」(はえ姫と考霊天皇の子供)を吉備の上路(山陰道)へ、弟の「とわかたけひこ」を吉備の下路(山陽道)へ、その道理を説いて降伏(服従)させました。
いささわけえは(32-30)
ひこさしま こしくにをたす
福井敦賀へは「ひこさしま」(はえ姫と考霊天皇の子供)を派遣して、越の国を治めさせました。
ジョンレノ・ホツマ
32-28.「たまがわ」の神宝文を出雲に納める
14.「たまがわ」の神宝文を出雲に納める(32-28)
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かんたから いつもにおさむ(32-28)
神宝(「たまがわ」の「神宝文」)は、出雲大社に納められました。
なぜ、この時、やまとではなく、出雲に納めたのでしょうか?出雲が書官庫のような役割を担っていたのか、やまとの政情が不安であったので安全なところに隠したか、あるいは、ご本人が高齢になったので遺産相続のように分散したのでしょうか。たった、一行の記述であるからこそ何か本当の事は言えない理由が潜んでいるように見えます。
後に崇神天皇のこの神宝を見たいという詔で、出雲では神主の兄が神宝を渡してしまった弟を切りつけて殺してしまいます。その兄も宮中に背いたかどで処刑されます。(34-49~61)
ジョンレノ・ホツマ
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かんたから いつもにおさむ(32-28)
神宝(「たまがわ」の「神宝文」)は、出雲大社に納められました。
なぜ、この時、やまとではなく、出雲に納めたのでしょうか?出雲が書官庫のような役割を担っていたのか、やまとの政情が不安であったので安全なところに隠したか、あるいは、ご本人が高齢になったので遺産相続のように分散したのでしょうか。たった、一行の記述であるからこそ何か本当の事は言えない理由が潜んでいるように見えます。
後に崇神天皇のこの神宝を見たいという詔で、出雲では神主の兄が神宝を渡してしまった弟を切りつけて殺してしまいます。その兄も宮中に背いたかどで処刑されます。(34-49~61)
ジョンレノ・ホツマ
13. 32-27~28.考霊天皇は「たけとめ」に「竹筒(たけづつ)草の祭り」(粥占い)を継がせる
13. 考霊天皇は「たけとめ」に「竹筒(たけづつ)草の祭り」(粥占い)を継がせる(32-27~28)
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きみえみて このたけとめを(32-27)
とみにこふ たけづつくさの(32-28)
まつりつぐ たけだのおやぞ
天君(孝霊天皇)は、大層喜ばれて、「たけひてる」の子供の「たけとめ」を「竹筒(たけづつ)草の祭り」を継ぐように臣に申されました。大臣に取り上げられました。
これが、「たけだ、竹田、武田」の祖になります。
また、この「竹筒(たけづつ)草の祭り」は、「粥占い」(かゆ=かい)のことであり、「甲斐」の国の語源にもなりました。
それまでは、「すわ・さかおり」と呼ばれていました。 (32-19)
ジョンレノ・ホツマ
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きみえみて このたけとめを(32-27)
とみにこふ たけづつくさの(32-28)
まつりつぐ たけだのおやぞ
天君(孝霊天皇)は、大層喜ばれて、「たけひてる」の子供の「たけとめ」を「竹筒(たけづつ)草の祭り」を継ぐように臣に申されました。大臣に取り上げられました。
これが、「たけだ、竹田、武田」の祖になります。
また、この「竹筒(たけづつ)草の祭り」は、「粥占い」(かゆ=かい)のことであり、「甲斐」の国の語源にもなりました。
それまでは、「すわ・さかおり」と呼ばれていました。 (32-19)
ジョンレノ・ホツマ
32-26~27.「たけひてる」が「たまがわ」の神宝文を奉る
12.「たけひてる」が「たまがわ」の神宝文を奉る(32-26~27)
(「たけだ」の祖がわかる)
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ときたけひてる(32-26)
たまがわの かんたからふみ
たてまつる (32-27)
まさにこの時、「たけひてる」は、「たまがわ」(神々の御霊、意向が川の流れのように拡がる)の神宝文を奉りました。
これあめみまこ(32-27)
はらおきみ そのこかみよの
みのりえて いまにながらえ
この文は「あめみまこ」(天孫ニニキネ)、「はらおきみ」(天孫ニニキネの子供、ほのあかりの命)、その子の神代の御法(みのり)を得て今に永らえています。今日まで続いています。
この文で、「たけひてる」が、天孫ニニキネの子孫であることが分かります。
ににきねーむめひと・はらをきみ-たけひてるーたけとめ
ジョンレノ・ホツマ
(「たけだ」の祖がわかる)
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ときたけひてる(32-26)
たまがわの かんたからふみ
たてまつる (32-27)
まさにこの時、「たけひてる」は、「たまがわ」(神々の御霊、意向が川の流れのように拡がる)の神宝文を奉りました。
これあめみまこ(32-27)
はらおきみ そのこかみよの
みのりえて いまにながらえ
この文は「あめみまこ」(天孫ニニキネ)、「はらおきみ」(天孫ニニキネの子供、ほのあかりの命)、その子の神代の御法(みのり)を得て今に永らえています。今日まで続いています。
この文で、「たけひてる」が、天孫ニニキネの子孫であることが分かります。
ににきねーむめひと・はらをきみ-たけひてるーたけとめ
ジョンレノ・ホツマ
32-25~26. 考霊天皇は、帰路、四神をむめ宮から野洲河原へ移す
11. 考霊天皇は、帰路、四神をむめ宮から野洲河原へ移す(32-25~26)
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みなみぢを みやこにかえり(32-25)
(天君(孝霊天皇)は富士山を下山され)、南路(東海道)を経由して都に帰りました。
むめみやの はふりほつみの(32-25)
おしうどに いづあさまみこ(32-26)
やまづみの よかみうつして
やすがわら(32-26)
途中、「むめ宮:むめおおみや(富士浅間神社)」の「はふり」(神主)「ほつみ」(おおやまずみの子孫:祝主)の「おしうど」に
一、 いづ(天孫ニニキネ)
二、 浅間(このはなさくや姫)
三、 御子(むめひと:ほのあかりむめひと)
四、 やまつみ(おほやまつみ:このはなさくやひめの父親)
の四神を野洲の川辺(淡海富士:琵琶湖)に移して、ねんごろにお祀りしました。
ジョンレノ・ホツマ
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みなみぢを みやこにかえり(32-25)
(天君(孝霊天皇)は富士山を下山され)、南路(東海道)を経由して都に帰りました。
むめみやの はふりほつみの(32-25)
おしうどに いづあさまみこ(32-26)
やまづみの よかみうつして
やすがわら(32-26)
途中、「むめ宮:むめおおみや(富士浅間神社)」の「はふり」(神主)「ほつみ」(おおやまずみの子孫:祝主)の「おしうど」に
一、 いづ(天孫ニニキネ)
二、 浅間(このはなさくや姫)
三、 御子(むめひと:ほのあかりむめひと)
四、 やまつみ(おほやまつみ:このはなさくやひめの父親)
の四神を野洲の川辺(淡海富士:琵琶湖)に移して、ねんごろにお祀りしました。
ジョンレノ・ホツマ
32-22~25. 考霊天皇は「はらみ山」を新たに「ふじのやま」と命名する
10. 考霊天皇は「はらみ山」を新たに「ふじのやま」と命名する(32-22~25)
(現在の富士山の語源となる)
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なかはふり なかばわきつつ(32-22)
このやまと ともしづまりの(32-23)
このやまよこれ
中央の主峰は古びて(時代の経過で)噴火がおさまり静かであるが、中は溶岩が湧いており情熱的で調和がとれている素晴らしい山です。
ヤマトの国も古くから続き今鎮まっているのは、この山と全く同じであり、日本のシンボルである。
(もう一つ解釈として、主峰は雪が降り積もりって美しく、中央からはまだ噴煙が湧きたっている。裾野では清水が湧き出ている。 ジョンレノ)
かくよみて やまのさらなと(32-23)
おほすとき たこのうらびと
ふぢのはな さゝぐるゆかり(32-24)
はらみえて なをうむみうた
天君(孝霊天皇)はこのように歌を詠み終えて、山の名前を新しくつけようと思われました。その時、地元の田子の浦の民が、天君(孝霊天皇)に藤の花を捧げられ(献上され)ました。
そこで、このはらみ山に因んで縁のある名前の歌を次にように詠まれました。
はらみやま ひとふるさけよ(32-24)
ふじつるの なをもゆかりの
このやまよこれ(32-25)
はらみ山は、この藤の花の長い房が永遠(ふる:一気に咲け)に咲き連なっているように、この藤蔓(ふじつる)の名前に因んで末永くつながるという思いを込めて、藤という名をこの山につけることにしよう。この山に誠にふさわしい名前ではありませんか。
これよりぞ なもふじのやま(32-25)
これ以降、はらみ山という名前から「ふじのやま」(富士の山)という名前に命名されました。
藤の花の房は長く、御世も末永く続くことを願っている。さらに、藤の花が美しいだけではなく、藤蔓は長く、柔軟でありながら強度があるため、今では考えられないほど身近で重要な役割(今でいう基幹材料)があったと思われるからです。
また、後世の資料につき、当時産鉄がどこまで進んでいたか不明ですが、藤蔓で編んだ網で砂鉄をふるい分けになくてはならない存在であったことも、製鉄炉の底に敷く材料としても藤(藤蔓)の木が重用されていたようです。
また、藤蔓が船の錨のロープ(鎖)として、遣唐使船に使われていた記述もあります。
記述されたものは見当たらないが、吊り橋を渡す素材としても使われていたようです。
ジョンレノ・ホツマ
(現在の富士山の語源となる)
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なかはふり なかばわきつつ(32-22)
このやまと ともしづまりの(32-23)
このやまよこれ
中央の主峰は古びて(時代の経過で)噴火がおさまり静かであるが、中は溶岩が湧いており情熱的で調和がとれている素晴らしい山です。
ヤマトの国も古くから続き今鎮まっているのは、この山と全く同じであり、日本のシンボルである。
(もう一つ解釈として、主峰は雪が降り積もりって美しく、中央からはまだ噴煙が湧きたっている。裾野では清水が湧き出ている。 ジョンレノ)
かくよみて やまのさらなと(32-23)
おほすとき たこのうらびと
ふぢのはな さゝぐるゆかり(32-24)
はらみえて なをうむみうた
天君(孝霊天皇)はこのように歌を詠み終えて、山の名前を新しくつけようと思われました。その時、地元の田子の浦の民が、天君(孝霊天皇)に藤の花を捧げられ(献上され)ました。
そこで、このはらみ山に因んで縁のある名前の歌を次にように詠まれました。
はらみやま ひとふるさけよ(32-24)
ふじつるの なをもゆかりの
このやまよこれ(32-25)
はらみ山は、この藤の花の長い房が永遠(ふる:一気に咲け)に咲き連なっているように、この藤蔓(ふじつる)の名前に因んで末永くつながるという思いを込めて、藤という名をこの山につけることにしよう。この山に誠にふさわしい名前ではありませんか。
これよりぞ なもふじのやま(32-25)
これ以降、はらみ山という名前から「ふじのやま」(富士の山)という名前に命名されました。
藤の花の房は長く、御世も末永く続くことを願っている。さらに、藤の花が美しいだけではなく、藤蔓は長く、柔軟でありながら強度があるため、今では考えられないほど身近で重要な役割(今でいう基幹材料)があったと思われるからです。
また、後世の資料につき、当時産鉄がどこまで進んでいたか不明ですが、藤蔓で編んだ網で砂鉄をふるい分けになくてはならない存在であったことも、製鉄炉の底に敷く材料としても藤(藤蔓)の木が重用されていたようです。
また、藤蔓が船の錨のロープ(鎖)として、遣唐使船に使われていた記述もあります。
記述されたものは見当たらないが、吊り橋を渡す素材としても使われていたようです。
ジョンレノ・ホツマ