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29-12 「たけひと」九州宮崎より大和へ向け出航

29-7 「たけひと」九州宮崎より大和へ向け出航(29-12)
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 あすすきみえに(きみえの:小笠原)(29-12)
かんなみか あみこみづから
もろひきて


あすず歴「きみえ」(ほつま歴 51/60後の甲寅きのえとら)の年の十月三日に「あみこ」(たけひと)自ら指揮して諸々の武将やお伴を引き連れて出航しました。

ジョンレノ・ホツマ
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29-11~12 「たけひと」(後の神武天皇)は九州から大和へ東征に向かう決意を 

29-6 「たけひと」は九州から大和へ東征に向かう決意を (29-11~12)

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しほつちの おきなすすめて(29-11)
にぎはやか いかんぞゆきて
むけさらん


この歌を知った「しほつち」(世襲の名前、鹿児島)の翁は「たけひと」に東征(九州から大和へ)を勧めました。「にぎはやひ」とその臣たちの勝手な振る舞いは許されない。
「たけひと」汝が行って成敗(平定)しなさいと力強く支援の言葉を受けました。


 もろみこもげに(29-11)
いやちこと さきにおしての
こたえつら きみすみやかに(29-12)
みゆきなせ



居並ぶ諸神(神武天皇は四男だったので兄たち)も異口同音に賛同しました。先の「子宝のおしで」(世嗣紀)を盗み写した事の答えもあるではないか。君(たけひと)よ、一刻も早く我ら率いて御狩に発たれよ。

ジョンレノ・ホツマ

29-10 大和で流行った「たけひと」を乞う歌が九州まで広まる

29-5 大和で流行った「たけひと」を乞う歌が九州まで広まる(29-10)
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 よにはやるうた(29-10)

ところが、世間に流行り歌が蔓延しました。


 のりくだせほつまぢ
 ひろむあまのいわふね(あまもいわふね:小笠原)



乗り下せ、ほつま(秀真)路、弘む天の磐船

ここで、磐船とは岩でできた舟ではなく、「いわわれ」すなわち「清められた」という意味です。当時、舟は楠の木で造られていました。
「いわわれひこ」すなわち「かんたけ」(神武天皇)に、清められた舟に乗って、ほつま路(天の御心に沿った道・大和へ)に来て、早く平和にして欲しいという願いが込められています。

磐船の始まりは、天孫ににきねの兄の「くしたまほのあかり」が仙台から大和に天下ったとき、つくもから舟に乗ったのが最初。

ジョンレノ・ホツマ

29-6~10 「たけひこ」(後の神武天皇)が、先祖神の下に平和で光輝いていた昔の話をします

29-4 「たけひこ」(後の神武天皇)が、先祖神の下に平和で光輝いていた昔の話をします(29-6~10)

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ものがたり むかしのみおや(29-6)
たかむすび ひたかみうみて


ここから、「たけひと」が昔の話をします。
昔、「みおや」(ここでは天神、先祖の神々)の「たかむすび」(たかみむすび、「ひたかみ」を結ぶ、旧陸奥の国、仙台、後の伊勢外宮「とよけの神」)が「ひたかみ」の国を創りました(生みました)。

「たかみむすび」の娘の「いさこ」さん(いさなみ)と金沢出身の「たかひと」(いさなぎ)が結婚されて生まれたのが天照大神であります。


も(お)ますよほ すぎてあまひの(29-7)
おおんかみ あめなるみちに
たみをたす


一千万年過ぎた後(昔々のその昔)、天日の御大神(天照大神)が生まれて「天なる道」(天の御心に沿った道、「とのおしで」という法典)に従って民を治めました。
も(お)=百、ます=十万、又は億、よ=万、ほ=年、才
お(「おおんかみ」)=天皇に対する最高位の敬語
み=それ以外の敬語


 みこのおしひと(29-7)
ゆづりうく


天照大神の日嗣の皇子の「おしひと」(おしほみみ)が天なる道を譲り受けました。(皇位継承しました)。

「おしひと」(おしほみみ)は仙台で生涯送られ、おくり名を「はこね神」といい箱根神社に祭られている。(箱は子宝、根はルーツという意味になっている、二人の子供は「ほのあかり」と「ににきね」)


 みまこきよひと(29-7)
またうけて わけいかつちの(29-8)
あまきみと


そして、御孫(天孫)の「きよひと」(弟)が更に皇位を引き継ぎました。そして、「わけいかつち」の天君となられました。(上賀茂神社)
「いかつち」(かみなり)を分けて治水(水田開拓)に成功させたの意味があります。


 あめのいわくら(29-8)
おしひらき いづのちわきに
おさまりて


天の岩倉を押し開いて神の意向(いず)に沿って道・進路を開くことができました。
(岩を砕いて、開拓して灌漑用水を切り開いたことを意味しています。古代は賀茂川のことを石川と言っていた。すなわち、水田開発に成功したことを言っています。)


 みおやにつかふ(29-8)
みちあきて(29-9)
 ひかりかさぬる(29-9)


御祖(「ひこほほでみ」、みおやにつかう天君4代目、その後の5代目「うがやふきあわせず」)に皇位を引き継ぎました。未来に道をつなぎました。
そして、国が光り輝きました。
水田に満々と潤った水が太陽に反射した光りと重なって輝いているようでした。


としのかす ももなそこよろ(29-9)
ふちよもも なそほへるまで
おちこちも うるはふくにの


平和な年月が続き、百七十九万二千四百七十年経るまで、四方八方国の隅々まで潤っている国です。
(こよみ:この世のわざをかんがみる)
百七十九万二千四百七十年:もも=百、な=七、そ=十、こ=九、よろ=万、ふ=二、ち=千、よ=四、ほ=年

きみありて あれもみだれず(29-10)
あめのみち


君(天皇)がおられて、村々(人々)も乱れず、天の御心に沿った道が貫かれていました。(法治国家でありました)

ジョンレノ・ホツマ

29-5~6 九州で「たけひこ」(後の神武天皇)が「あびらつ姫」を娶る

29-3 九州で「たけひこ」(後の神武天皇)が「あびらつ姫」を娶る(29-5~6)

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 ときにたけひと(29-5)
あびらひめ めとりうむみこ(29-6)
たぎしみみ きみとしよそい



一方、九州では「たけひと」(後の神武天皇)が「あびら姫」(最初のお妃)を娶り、そこで生まれた皇子が「たぎしみみ」です。そのとき、君「たけひと」の年は四十五才でした。

ジョンレノ・ホツマ

29-3~5 大和では掟を乱す者が現われ、不穏な空気になる

29-2 大和では掟を乱す者が現われ、不穏な空気になる(29-3~5)
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ここで話が変わります。神武東征のきっかけになります。

 かくやまのとみ(29-3)
ながすねが ままにふるえば(29-4)
さわがしく



ところが、香久山の臣と名乗る「ながすねひこ」が、掟を乱す勝手な振る舞いをするようになり、世の中が不穏な空気に包まれて騒がしくなってきました。中心に居るべき天皇が九州へ行っていたので、勝手な振る舞いをしても注意する者がいなかった。
「ながすね」は、「あめふとたま」の孫、「とよけ」(たかみむすび系)の神の孫



 はらのおきみは(29-4)
かてととむ



「はら」親王(おきみ)は、初穂(年貢:かて)の上納を停止(とどめる)しました。

「はら」親王(おきみ)(富士見山市浅間神社の前身)は関東・東海を治めており、「ながすね」の行為にけじめをつけるために、上納を停止したということであり、今まで「やまと」に上納をしていたことが分かります。



 かれにながすね(29-4)
ふねととむ



それを知った「ながすね」は舟の通航を止めてしまいました。

「ながすね」は武力により当時の河川の要であった山崎(サントリーワイナリーの付近)の関を封鎖するという敵対行為に及びます。
(三十綾に詳細が出てきます)

 

おおものぬしが(29-4)
うたんとす(29-5)



「ながすね」の敵対行為を知った大物主(「くしみかたま」:「そさのう」の七代目)が、「ながすね」を討とうとしました。



 たがのおきみは(29-5)
おとろきて つくしにくだり
ともにたす


多賀親王(いつせ皇子)は、この武力騒動に驚いて「筑紫」(現在の九州の総称)に下って、弟「たけひと」の居る所へ逃げ、そこで共に(一緒に)政治を執られました。
この時においては、多賀(滋賀県)が全国の中心であった。


 ものぬしひとり(29-5)
たみおさむ



そのため、大物主(くしみかた)一人が民を治めることになりました。

物主は全国の物部(兵)の指揮をとっていました。「ものぬし」は「そさのう」の末裔にあたり、このときの「ものぬし」は「くしみかたま」と言いました。

ジョンレノ・ホツマ

29-1~3 「たけひと」(後の神武天皇)は父の臨終で遺言を授かりに九州へ行く

たけひと(後の神武天皇) 大和討ち の綾
29-1 「たけひと」(後の神武天皇)は父の臨終で遺言を授かりに九州へ行く(29-1~3)
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かんやまと いわわれひこの(29-1)
すべらぎは みおやあまきみ
よつのみこ



「神やまといわわれひこ」の「すべらぎ」(天皇)は「みおやあまきみ」(父御祖天皇:うがやふきあわせず命)の四番目の御子として生まれました。
この時点では「たけひと」と呼ばれており、後の神武天皇のことであります。



 はゝはたまより(29-1)
あにみやの いつせはたがの(29-2)
おきみなり



神武天皇の母は「たまより姫」です。
兄宮の「いつせ皇子」は「たが」親王(おきみ)です。



 みおやあまきみ(29-2)
つくしたす そとせおさめて


「みおやあまきみ」(父御祖天皇:うがやふきあわせず命)は筑紫(現在の九州の総称)に御滞在になり、十年間もの長きにわたり筑紫を治めてきました。
それまでの九州にいた勅使が絶えてしまったので治まらなくなり、天皇、自らが出向きました。



ひたるとき あまきみのにを(29-2)
たけひとに さづけあひらの(29-3)
かみとなる


その父「みおやあまきみ」(御祖天皇:うがやふきあわせず命)がご臨終のとき(ひたる:太陽が沈む、海の彼方に沈む)、遺言で「あまきみ」(天皇)の荷(地位、役割)を「たけひと」(神やまといわわれひこ、後の神武天皇)に授けられました。
つまり、「みおやあまきみ」(うがやふきあわせず命)は遺言を言うために、滋賀県の多賀にいた「たけひと」(後の神武天皇)を九州まで呼んだことになります。
「みおやあまきみ」(うがやふきあわせず命)は、遺言を授けた後、洞に自らお入りになり「あひら」の神となられました。
「あひら」(うがやふきあわせず命)は吾平山上陵:九州大隅半島中央部にあります。



 きみみやざきに(29-3)
たねこらと まつりとるゆえ
しつかなり


君(たけひと)は宮崎(宮崎神宮)で「たねこ」(春日大社「あめのこやね」の子供の「おしくも」の子供)という補佐役たちが九州の国政を担ったので国は豊かで平和で安定していました。

「みおやあまきみ」(父御祖天皇)が農業開発と治安に努めた政治を執られたあとをしっかりと引き続いたことが読みとれます。

ジョンレノ・ホツマ

ホツマツタヱ 31綾 目次

ホツマツタヱ 31綾 直入神 三輪神 の綾 目次
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神武天皇が正式に天皇の位についた後の内容です

31-1 全国を無事治めてきた勅使「高倉下」に紀伊国(きのくに)の国造(くにつこ)の大連(おおむらじ)の称号を与えられる(31-1~4)
31-2 高倉下は再度反乱の越後に行き説得、越後の国守と弥彦神の称号を与えられる(31-4~6)
31-3 神武天皇は久米の娘を妃にしようとしたが中宮に咎められる(31-6~7)
31-4 中宮の「いそすず姫」が皇子を生む(31-7~8)
31-5 神武天皇は「やひこ神」(高倉下)に酒の肴に「ゆり姫」を賜る(3-9~11) 
31-6 神武天皇は久米の館で「いすきより姫」(後の「ゆり姫」)と出会う(3-11~13)
31-7 神武天皇の息子「たぎし皇子」が、君の局(つぼね)に恋焦がれる(3-14~16)
31-8 神武天皇はゆり姫を高倉下に賜う(3-16~17)
31-9 ほほま(おおま)の丘に御幸され、神武天皇は大和の国を見渡して感激する(3-18~20)
31-10 神武天皇は「かぬながわみみ皇子」を世継ぎ皇子に定める(3-20~22)
31-11 神武天皇は遺言を残し神になりました(3-22~25)
31-12 神武天皇の葬儀を「たぎし皇子」が仕切る (31-25~26)
31-13 「たぎし皇子」の陰謀を「いそすず姫」が察知、我が息子に危機を知らせる(31-27~29)
31-14 若宮(かぬかわみみ皇子)は母親の歌に隠された暗号を読みとる(31-30~32)
31-15 若宮(かぬかわみみ皇子)は「たぎし皇子」の先手を討って行動を起こす(31-32~34)
31-16 兄の「かんやい皇子」は手足が震え、弟の「かぬかわみみ皇子」が「たぎし皇子」を射ち殺す(31-34~36)
31-17 「かんやい皇子」は自分たちが殺した「たぎし皇子」を手厚く葬り、「みしりつひこ」と名前を変える(31-36~38)

人皇2代 綏靖(すいぜい)天皇

「かぬがわみみ」実名「やすぎね」(たかおか宮)の綾
31-18 「かぬかわみみ皇子」が天皇に即位する。(綏靖天皇になります)(31-38~41)

31-19 神武天皇の「おもむろ」を埋葬、殉死者は三十三人に(31-41~44)
31-20 「かぬがわみみ」(綏靖天皇)のお妃たち(31-44~47)
31-21 大神神社(おおみわ)の御祭神の起源について(31-47~50)
31-22 筑紫より御幸の要請、「なおりなかとみ」が派遣される(31-51~54)
31-23 「住吉の神」、「直入物主」、「直入中臣」の三人は直り神として崇められる(31-54)
31-24 宇佐に「いとう」(善知鳥)の三女神 (31-54~55)
31-25 「ひこゆき」を「祀りの臣のすけ」にする(31-55)
31-26 みしりつひこ(「かぬがわみみ」綏靖天皇の兄)が亡くなる(31-55~56)
31-27 「かぬがわみみ」(綏靖天皇)の子供たち(31-56~57)
31-28 「あめたねこ」が亡くなる(31-57~59)
31-29 「かぬがわみみ」(綏靖天皇)が亡くなり喪に服す(31-59)

人皇3代 安寧(あんねい)天皇

「しぎひこ」実名「たまでみ」(うきあな宮)の綾
31-30 「たまで皇子」は喪明けで輪抜けで身を清める(31-60)

31-31 代が代わり、臣も全て新しく代わる(31-60~62)
31-32 「たまでみ」皇子誕生のとき、「たまでひこ」に取り上げられた(31-62~65)
31-33 綏靖天皇のご遺体を「つきだおか」に(31-65~66)
31-34 「たまでみ」(安寧天皇)のお妃が生んだ皇子たちと臣たち(31-66~71)
31-35 「よしひと」(おおやまとすきとも、後の懿徳(いとく)天皇)世継ぎ皇子になる(31-71~72)
31-36 三代目安寧天皇がお亡りになる(31-72~74)



人皇4代 懿徳(いとく)天皇

「おおやまとひこ・すきとも」実名「よしひと」
(かるまがりお宮)の綾
31-37 四代目懿徳(いとく)天皇が皇位継承(31-74~77)

31-38 安寧天皇をお送りする (31-76~77)
31-39 懿徳(いとく)天皇のお妃とその皇子たち(31-77~80)
31-40「かえしね皇子」を世継ぎ皇子に(後の孝昭天皇になる)(31-80)
31-41 懿徳天皇)はお亡くなりになる(31-81~83)


人皇5代 孝昭(こうしょう)天皇

「かえしね」実名「みるひと」
(かたきわきがみ・いけこころ宮)の綾
31-42 「かえしね天皇」(孝昭天皇)が天つ日嗣を受け継ぐ(31-83~85)

31-43 孝昭天皇のお妃たち(31-85~87)
31-44 孝昭天皇の中宮に「よそたり姫」(31-87~88)
31-45 中宮「よそたり姫」の兄が「けくに」臣に(31-88~89)

31-46孝昭天皇の中宮の「よそたり姫」が皇子を生む(31-89~90)
31-47孝昭天皇は次男の「おしひと」を若宮(立太子礼)に(31-91)
31-48孝昭天皇は長男の「おしきね」を「かすが親王」に(31-91)

31-49「かえしね」(孝昭天皇)がお亡くなりになる(31-92)
31-50皇子の神祀りに、兄の「かすが親王」は納得する(31-92~94)


人皇6代 孝安(こうあん)天皇

「やまとたりひこくに」実名「おしひと」
(むろあきつしま宮)の綾
31-51  孝安天皇は天つ日嗣を受け継ぐ(31-94~96)
31-52 孝安天皇のお妃(31-96~97)
31-53 孝安天皇は「むろあきつしま」に遷都(31-97)

31-54 稲穂虫が大発生し、孝安天皇自ら風ふの祀で祓う(31-97~98)
31-55 子宝に恵まれずやむなく春日親王の娘を内宮に(31-98~99)
31-56 孝昭天皇のご遺体を博多の洞に納める(31-99~100)
31-57 待望の「ねこひこ」皇子が生まれる。後の孝霊天皇になる(31-101)
31-58 「ねこひこ」皇子は世継ぎ皇子に(31-101~102)

31-59 駿河宮より「はらみ山」(現富士山)の絵を賜わるが受け取らず(31-102~103)
31-60 孝安天皇が亡くなる(31-103~104)
ジョンレノ・ホツマ

31-103~104 孝安天皇が亡くなる

31-60 孝安天皇が亡くなる(31-103~104)
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 みよももふとし(31-103)
むつきこか きみまかるとし
ももみそな
 


御世は、孝安百二年(むろあきつしま宮百二年)一月九日、君(「おしひと」孝安天皇)はお亡くなりになりました。年は百三十七才でした。



みこもはおさむ(31-103)
よそやのち わかみやにいて
まつりかと(31-104)


皇子「ねこひこ」(後の孝霊天皇)は喪に服しました。四十八夜の後、若宮に入り神祀りをしました。

 ながつきみかに(31-104)
おもむろを たまでにおくり


孝安百二年(むろあきつしま宮百二年の)九月三日に、ご遺体を「たまで」に送り埋葬いたしました。



いたりおふ ともにおさめて(31-104)
あきつかみかな


五人のお供の方が後を追って(生きたまま)、一緒に埋葬されました。「あきつしま神」(孝安天皇)でありました。

31綾完

来週以降、31綾の目次(各ページにリンク)を完成させてから、次回29綾に飛びたいと思います。
というのは、29綾・30綾・31綾の前編は神武天皇についての記述なので、29綾からの方が流れがわかりやすいと感じたからです。

今日、2010/11/20読売新聞主催の纒向フォーラムがあり、遺跡の調査報告のみ聴いてきました。
発表者はホツマツタヱを多分御存じないが、ホツマツタヱの記述を裏付ける遺跡からの発見がいくつか報告され、ますますこのホツマツタヱの解読が楽しくなりました。

ジョンレノ・ホツマ

31-102~103 駿河宮より「はらみ山」(現富士山)の絵を賜わるが受け取らず

31-59 駿河宮より「はらみ山」(現富士山)の絵を賜わるが受け取らず(31-102~103)

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 こそふとしはる(31-102)
するがみや はふりはらのえ
たてまつる


孝安九十二年(むろあきつしま宮九十二年)春、「駿河宮」の「はふり」(神主、祝主)が「はらのえ」(はらみやま、現富士山の絵)を奉りました。



 みこもふせども(31-102)
きみうけず(31-103)


皇子「ねこひこ」(後の孝霊天皇)は受け取るよう申しましたが、君(「おしひと」孝安天皇)は受け取りませんでした。

後日、孝霊天皇が高齢になってから、富士登山されることになりますが、その時、昔この富士山の絵を見たがあまり良くなかったから捨てたという記述があります。

ジョンレノ・ホツマ

31-101~102 待望の「ねこひこ」皇子が生まれる。後の孝霊天皇になる

31-57 待望の「ねこひこ」皇子が生まれる。後の孝霊天皇になる(31-101)

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いそひとし ながつきはつひ(31-101)
きさきうむ いむなねこひこ
おおやまと ふとにのみこぞ


孝安五十一年(むろあきつしま宮五十一年)九月一日、妃(「おし姫」)が待望の皇子を生みました。(初めての皇子です。一人っ子です)
皇子の名は、実名「ねこひこ」で「おおやまとふとに」と言います。後の孝霊天皇になります。



31-58 「ねこひこ」皇子は世継ぎ皇子に(31-101~102)


なそむとし はるむつきいか(31-101)
ねこひこの としふそむたつ(31-102)
よつぎみこ


孝安七十六年(むろあきつしま宮七十六年)新春一月五日、皇子の「ねこひこ」の年が二十六才で世継ぎ皇子に立たれました。

ジョンレノ・ホツマ

31-99~100 孝昭天皇のご遺体を博多の洞に納める

31-56 孝昭天皇のご遺体を博多の洞に納める(31-99~100)
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 みそみとしのち(31-99)
はつきそよ おくるみうえの
おもむろを はかたのほらに(31-100)
おさむのり


三十三年後、八月十四日、御上(先帝:「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)のご遺体を「はかた」(博多:奈良県御所市)の洞(ほら)に納めました。



 とみめのからも(31-100)
みなおさむ いきるみたりも
おひまかる あめみこのりや


天君にお仕えした臣や女官たちの亡きがらも一緒に納めました。生きていた三人も後を追って亡くなり(追い枯れ)納められました。天君(神)に仕える子供のとる典(掟:おきて)です。

ジョンレノ・ホツマ

31-98~99 考安天皇は「かすが親王」の娘を内宮に

31-55 考安天皇は「かすが親王」の娘を内宮に(31-98~99)

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 ふそむとしはる(31-98)
きさらそよ かすがおきみの(31-99)
おしひめを いれてうちみや
ことしそみ



孝安二十六年(むろあきつしま宮二十六年)春二月十四日、「かすがおきみ」の娘の「おし姫」を内宮にいれました。今年、まだ十三才でした。


この記述は、大問題を秘めていますが、あえて何も触れずに事実だけをそーぅと残してあります。

というのは、「かすが親王」というのはこの孝安天皇の実の兄(四才年上)で、その兄の娘を弟が自分のお妃にしてしまったことになります。今でいう、近親婚にあたります。

なぜ、このようなことをせざるを得なかったのか?

それはそれまで二人十二人のお妃がおられましたが、二十五年間も、子宝に恵まれず、このままでは後継ぎがいなくなるという大問題をかかえていたことが理解できます。

何が何でも世継ぎ皇子をもうけなければならなかったため、苦渋の決断であったと思います。
そのため、実の兄の娘をお妃にしてでも世継ぎが欲しかったため、兄の方を春日の姓にかえて表向きの整合性を持たせたような気もいたします。


後世、日本書記や古事記に日本の国史が編纂されるとき、このことは外国・唐(中国)にはどうしても伏せておかなければという発想があったからだと思います。

そのため、日本書記・古事記の編纂者は、この内容に気がつき、この部分を削除せざるを得なかったものと思います。
欠史八代と言われるようになった真相だと思います。



当時すでに近親婚は野蛮なものとして見ていたことが、後に「やまとたけ」が景行天皇の命を受けて「えみし征伐」に行く時、景行天皇が「えみし」についての情報を教えたとき、そのなかの一つに近親婚を今でもしているので野蛮だということが出てくるからです。


2011/11/19 二十五年を十五年に訂正
2011/11/24 元に戻す二十五年でOK、お妃は名前の分かっているのが二人で全てで十二名いた。

ジョンレノ・ホツマ

31-97~98 稲穂虫が大発生し、孝安天皇自ら風吹の祀で祓う

31-54 稲穂虫が大発生し、孝安天皇自ら風吹の祀で祓う(31-97~98)

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 そひほむれくも(31-97)
ほおむしを つくれはきみの
みつからに はらひかぜふの(31-98)
まつりなす



孝安十一年(むろあきつしま宮十一年)、むら雲が太陽をさえぎり、稲穂虫が大発生したという訴えがありました。それを聞いて、天皇自らお祓いをして、風吹(かぜふ)の祀りをいたしました。




 かれよみかえり(31-98)
みづほあつ



お陰さまで、稲穂は再び元気に蘇えり、豊作になりました。




 よりてほづみの(31-98)
まつりなす



よって、「ほづみ」(八月一日に神を感謝する)祀りをいたしました。

ジョンレノ・ホツマ

31-94~97 「孝安天皇は天つ日嗣を受け継ぎ「むろあきつしま」に遷都

人皇6代 孝安(こうあん)天皇
「やまとたりひこくに」実名「おしひと」
(むろあきつしま宮)の綾

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31-51  孝安天皇は天つ日嗣を受け継ぐ(31-94~96)


ときあすす みもふそむとし(31-94)
はつのなか あまつひつぎを(31-95)
うけつきて


時、あすず歴三百二十六年、正月の七日、天つ日嗣を受け継ぎました。



 たりひこくにの(31-95)
あめつきみ いむなおしひと
くらひなる かさりをたみに
おがませて(31-96




「やまとたりひこくに」天君が即位されました。実名を「おしひと」と言います。そして、天皇の位である三種の神器を民に拝ませました。孝安天皇になります。



31-52 孝安天皇のお妃(31-96~97)


 しぎながはえが(31-96)
ながひめを おおすけきさき



「しぎのながはえ」の娘の「なが姫」が「おおすけ妃」になりました。



とちいさか ひこがいさかめ(31-96)
うちきさき ながはしにいて
おしてもり(31-97)


「とちいさかひこ」の「いさか姫」が「うち妃」になり、長橋に住まわれて神璽(おしで)を扱う役を担いました。


 すへてそふなり(31-97)

孝安天皇のお妃は全て揃って十二名おられました。



31-53 孝安天皇は「むろあきつしま」に遷都(31-97)

ふとしふゆ むろあきつしま(31-97)
にいみやこ


孝安二年(むろあきつしま宮二年)の冬、「むろあきつしま」に遷都しました。(新しく都をつくりました。

ジョンレノ・ホツマ

31-92~94 皇子の神祀りに、兄の「かすが親王」は納得する

31-50皇子の神祀りに、兄の「かすが親王」は納得する(31-92~94)

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  みこかみまつる(31-92)
としみそい おやにつかえて(31-93)
たみおさむ


皇子(皇太子、実名「おしひと」、「やまとたりひこくに皇子」)が、神(亡くなられた孝昭天皇)を祀りました。皇子の年は三十五才になりました。
祖(亡くなられた孝昭天皇、天孫)に仕えて、民(国政)を治めました。



 かれあにおきみ(31-93)
うえなひて


しかるが故に、弟(皇太子、実名「おしひと」、「やまとたりひこくに皇子」)の方針を知り、兄の「春日親王」は納得いたしました。



 そのこををやけ(31-93)
あわたおの かきもといちし
そとみまめ (31-94



春日親王の子は「おおやけ」、「あわた」、「おの」、「かきもと」、「いちし」で十人臣は忠義心を持っていました。



 きみとしごとの(31-94)
はづきいか やよのもまつり(31-94)
まことなるかな



君は年ごと(毎年)八月五日、八夜にわたる喪祀りが、とり行われました。

ジョンレノ・ホツマ

31-92 「かえしね」(孝昭天皇)がお亡くなりになる

31-49「かえしね」(孝昭天皇)がお亡くなりになる(31-92)
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やそみとし あきはつきいか(31-92)
きみまかる としももそみぞ


孝昭八十三年(いけごころ宮八十三年)秋、八月五日、君(「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)がお亡くなりになりました。年は百十三才でした。



とみきさき みなととまりて(31-92)
もにつかふ


臣と妃は皆、君の遺体に留まってお遣いしました。

殉死されたことを言っているものと思います。

ジョンレノ・ホツマ

31-91 孝昭天皇は次男の「おしひと」を若宮に、長男の「おしきね」を「かすが親王」に

31-47孝昭天皇は次男の「おしひと」を若宮(立太子礼)に(31-91)
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むそやとし むつきそよかに(31-91)
おしひとを わかみやとなす
としはたち


孝昭六十八年(いけごころ宮六十八)年一月十四日に、次男の「おしひと」を若宮(立太子礼)にいたしました。年は二十でした。



31-48孝昭天皇は長男の「おしきね」を「かすが親王」に(31-91)


 あすをしきねを(31-91)
おきみとし かすがをたまふ


後日、長男の「おしきね」を「おきみ」(親王)として、「かすが」姓を賜いました。(かすが親王)
「あす」を文字通りとれば翌日を意味するが、ここではどうも「後日」という意味合いのように思われる

ジョンレノ・ホツマ

31-89~90 孝昭天皇の中宮の「よそたり姫」が皇子を生む

31-46孝昭天皇の中宮の「よそたり姫」が皇子を生む(31-89~90)
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よそいとし さつきそいかに(31-89)
きさきうむ いむなおしぎね
あまたらし ひこくにのみこ



孝昭四十五年(いけごころ宮四十五年)五月十五日に妃(中宮よそたり姫)が皇子を生みました。実名「おしぎね」で「あまたらしひこくに皇子」です。
当時の年をそのまま計算すると、「よそたり姫」は二十五年間子供が授からず、四十才十五年間子供が授からず、三十才で初産になります。



よそことし きみえはつひに(31-90)
きさきうむ いむなおしひと
やまとたり ひこくにのみこ
うむときに あさひかかやき


孝昭四十九年(いけごころ宮四十九年)、「きみえ」(ほつま歴 51/60後の甲寅きのえとら)の年、元旦に妃(よそたり姫)が(二人目の)皇子を生みました。実名「おしひと」で「やまとたりひこくに皇子」です。生まれた時、ちょうど朝日が輝きました。
弟であっても元日生まれで、生まれた時朝日が輝きとあれば、後に世継ぎ皇子になったのもうなずけます。

それにしても「よそたり姫」四十四才三十四才で生んだ子供になります。

私はこの個所でも当時の一年は今の半年であった可能性があるように思えます。今の暦に当てはめれば、七~八才で妃になり、二十で初産、二十二で二人目を生む、これの方が自然に思えますが・・・。一つの推論にすぎませんので、これ以上詮索するのはやめます。

2011/11/19太字訂正
ジョンレノ・ホツマ

31-87~89 孝昭天皇の中宮に「よそたり姫」その兄は「けくに」臣に抜擢

31-44 孝昭天皇の中宮に「よそたり姫」(31-87~88)
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ふそことし きしえはつみか(31-87)
きさきたつ よそたりひめの
としそいぞ



孝昭二十九年(いけごころ宮二十九年)、
「きしえ」(ほつま歴 31/60後の甲午きのえうま)の年の正月三日、
妃(中宮)をたてました。「よそたり姫」で年は十五才です。



 むかしやひこに(31-87)
ゆりひめを たまえはうめる(31-88)
あめいだき このあめをしお
まこむすめ よそたりはこれ



昔、神武天皇が弥彦神(たかくらした)に「ゆり姫」を賜わった時、生まれたのが「あめいだき」の子の「あめおしお」の孫娘がこの「よそたり姫」です。

「やひこ」に「ゆり姫」を賜う
「たけひと:後の神武天皇」が九州に行った留守に「やまと」は乱れます。「にぎはやひ」の勝手な振る舞いを平定するため、「たけひと:後の神武天皇」は東征に向います。そして、熊野から「やまと」へ向かう時、「たかくらした」が神武天皇に「くにむけ」の剣を届け、「やたからす」などと行動を共にし、全てがおさまり、「橿原宮」に即位されます。
平定後、越後の反乱を鎮めるため「たかくらした」が赴きます。反乱を治め、「やひこ」(弥彦)神の称号をあたえられます。

「ゆりひめ」について
神武天皇は「ゆり姫」をお妃にしようとしたが中宮の「いそすず姫」に咎められ、隠れて会っていたようです。
「ゆり姫」は神武天皇の最初の息子「たぎし皇子」(あびらつ姫の子供)に恋焦がれられてしまうほどの絶世の美人だったんでしょうね。(親子で取り合い!?)そんな訳かどうかわかりませんが、「たかくらした」に賜わりました。「たかくらした」に賜わった時「ゆり姫」はまだ二十でした。



31-45 中宮「よそたり姫」の兄が「けくに」臣に(31-88~89)


みそふとし うちみやのあに(31-88)
(みそひとし)小笠原写本
おきつよそ なるけくにとみ(31-89)



孝昭三十二年(いけごころ宮三十二年)(三十一年:小笠原写本)、内宮(よそたり姫)の兄の「おきつよそ」は「けくに」臣に抜擢されました。

「けくに」は後世の「お稲荷さん」

ジョンレノ・ホツマ

31-85~87 孝昭天皇のお妃たち

31-43 孝昭天皇のお妃たち(31-85~87)
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 わかみやのとき(31-85)
わかはえが ぬなぎめはすけ(31-86)



天君(「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)がまだ皇太子であったとき、「わかはえ」の娘の「ぬなぎ姫」が「すけ妃」になりました。



さだひこが めのおおいめは(31-86)
ながはしに おしてあつかふ
かりすけよ



「さだひこ」の娘の「おおい姫」は「ながはし」で神璽(おしで)を扱う仮の「すけ妃」になりました。



うちはべむたり(31-86)
しもよたり あおめみそたり(31-87)


その他に、内女(内侍)は六人、おしも女(下女)は四人、女官(青女)たちは三十人いました。


ジョンレノ・ホツマ

31-83~85 人皇5代「かえしね天皇」(孝昭天皇)が天つ日嗣を受け継ぐ

人皇5代 孝昭(こうしょう)天皇
「かえしね」実名「みるひと」
(かたきわきがみ・いけこころ宮)の綾


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31-42 「かえしね天皇」(孝昭天皇)が天つ日嗣を受け継ぐ(31-83~85)


ときあすす ふほよそみとし(31-83)
つみえはる むつきつうえは
こかきしえ あまつひつぎを(こかきみえ:小笠原写本)
うけつぎて(31-84)


時は、あすず歴の二百四十三年、
「つみえ」の年(ほつま歴 3/60後の丙寅ひのえとら)の春、
「つうえ」の月(ほつま歴 23/60後の丙戌ひのえいぬ)の正月の
九日「きしえ」(ほつま歴 31/60後の甲午きのえうま)の日、
九日「きみえ」(ほつま歴 51/60後の甲寅きのえとら)(小笠原写本)
天つ日嗣を受け継ぎました。



 かえしねあめの(31-84)
すべらぎみ かさりおがませ


「かえしね」という天のすべらぎ(天皇)になられて、三種の神器を民に拝ませました。



うつきいか みうえきさきと(31-84)
ははをあげ



四月五日、先帝の母(あめとよつ姫)を太政皇后に格上げしました



 かたきわきかみ(31-84)
いけこころ みやこうつして(31-85)


「かたきわきがみ・いけこころ宮」に新しく都を移しました。



はつとしに いづしこころを(31-85)
けくにとみ


孝昭元年(いけごころ宮初年)に「いづしこころ」を「けくに」臣に任命しました。

「けくに」の「け」は(みけないもうすおもち神)の「みけ」という神への食事、「くに」は国、国政のこと。すなわち、天皇と食事を共にして、国政を話す役職。



 きみとしみそひ(31-85)
さかいおか


天君(「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)の年は三十一才です。
「さかいおか」に居られました。(堺?不明)

ジョンレノ・ホツマ

31-81~83 懿徳(いとく)天皇はお亡くなりになる

31-41 懿徳(いとく)天皇はお亡くなりになる(31-81~83)
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みそよとし ながつきやかに(31-81)
きみまかる



(懿徳:いとく三十四年)まがりお宮三十四年九月八日に君(おおやまとひこ・すきとも・四代懿徳天皇)はお亡くなりになりました。



 わかみやかみに(31-81)
つかえんと もはひとほまて
みあえなす いきますごとく



若宮(「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)は、神にお仕えしようと、喪に一年間服しました。まだ生きておられるかのように御会えをされました。



あくるふゆ おくるうねびの(31-82)
まなごたに なそよにまして
おくるとみ とわずかたりや
わかみやも おくりおさめて
みなかえします(31-83)


あくる年の冬、ご遺体を畝傍山(うねび)の「まなご」谷に葬りました。
七十年、在世されました。
送る臣は問わず語らず無言のまま先帝と心を同じくした者、自ら洞に入って殉死されました。
若宮が送りおさめて(見納めて)、みなを天へ返しました。

「なそよにまして・・・」は、懿徳天皇が天つ日嗣を受け継いだのが三十六才のときで、この天皇の「まがおり宮」の年号が三十四年で終わっているのでちょうど七十才で亡くなられたことに合います。よって、「七十年、在世されました。」ということを言っていたことを理解しました。

ジョンレノ・ホツマ

31-80 「かえしね皇子」を世継ぎ皇子に(後の孝昭天皇になる)

31-40「かえしね皇子」を世継ぎ皇子に(後の孝昭天皇になる)(31-80)
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ふそふとし きさらつしとは(31-80)
そふおしえ かえしねみこを
よつぎなる ことしそやなり


(懿徳:いとく二十二年)まがりお宮二十二年二月「つしと」(ほつま歴 44/60後の丁未ひのとひつじ)の一日から「おしえ」(ほつま歴 55/60後の戊午つちのえうま) の十二日までの間に、「かえしね皇子」を世継ぎにしました。皇太子になられました。今年十八才でした。


ジョンレノ・ホツマ

31-77~80 懿徳(いとく)天皇のお妃とその皇子たち

31-39 懿徳(いとく)天皇のお妃とその皇子たち(31-77~80)

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むつきいか かるまがりおの(31-77)
にいみやこ うつしきさらぎ
そひにたつ あめとよつひめ
うちつみや(31-78)



一月五日、「かるまがりお」(軽・曲峡)に新しい都を移しました。(遷都しました。)そして、二月十一日に「あめとよつ姫」を中宮に立てました。


 しぎいでがめの(31-78)
いづみすけ



「しぎ」(磯城)の「いで」の娘の「いずみ姫」をすけ妃にしました。


 ふとまわかがめ(31-78)
いひひめを ここたえいとし
やよひゆみ すみえにみゆき



「ふとまわか」の娘の「いひ」姫を「ここたえ」という役目にしました。「ここたえ」の「ここ」は菊、「たえ」は麻の着物の意味?
懿徳(いとく)「まがりお宮」五年三月弓の日(弓張りの日、上限の月の日)住之江(住吉神社:現大阪市大和川下流付近)に御幸されました。


みるをみて うちのうむみこ(31-79)
かえしねの いみなみるひと



海松(みる:海藻)を見て、中宮「あめとよつ姫」が生んだ皇子の名前は「かえしね」で実名「みるひと」と言います。

「かえしな」:帰りしな、帰りのときに、「海松(みる)」を見たことを言っている。この「みるひと」は後の孝昭天皇になります。

海松(みる):ミル科の緑藻。干潮線から水深約30メートルの岩上に生え、高さ20~40センチ。体は丸ひも状で二またに分枝を繰り返し、扇状となる。食用。


うちのちち いきしおおきみ(31-79)


中宮「あめとよつ姫」の父は「いきし大親王」と言います。



いいひめが たけあしにうむ(31-79)
たぢまみこ いみなたけしい(31-80)



三番目のお妃「いい姫」が「たけあし」という所で生んだ皇子は「たじま皇子」で実名を「たけしい」と言います。


ジョンレノ・ホツマ

31-76~77 安寧天皇をお送りする 

31-38 安寧天皇をお送りする (31-76~77)

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 みおやおくりの(31-76)
ほつみひと しわすのむかと
もはにいり



「みおや」(先祖神:安寧天皇)をお送りする供養は八月一日(ほつみひと)、(ほつみまつり、ほずみ、後の八月朔)と十二月六日(亡くなった日)に行なわれました。



 ながつきそみか(31-76)
ははをあげ みうえきさきと(31-77)



九月十三日、先帝の母(ぬなそ姫)を太政皇后に格上げしました。

ジョンレノ・ホツマ
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