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ホツマエッセイ 魏志倭人伝の中の卑弥呼をホツマツタヱから読み解く

ヤマト姫が魏志倭人伝の卑弥呼
 古代日本の歴史の中で、卑弥呼、邪馬台国、銅鐸について、はっきりと解明されていないと、中学校の教科書に載っていたことが記憶の片隅にありました。
 当時は、魏志倭人伝が唯一の糸口と思っていました。その後、ホツマツタヱの存在を知り、どこかに糸口があるものと思いながら読み解いているうちに10年経っていました。

 魏志倭人伝での卑弥呼は、ホツマツタヱのなかで誰の事を言っているのか、改めて読み直してみました。

 ホツマツタヱの中では、「ヒミコ」と言う名称は存在しませんが、全巻を読み通していくと「ヒのミコ」という意味であったと炙り出しのように浮かび上がってきます。
 「ヒのミコ」を当時の大陸の人が伝え聞いた音声「の」が省略され、漢字を当てはめて卑弥呼という文字になったことが分かります。
 つまり「ヒ」とは「天・神」で天照大神を意味しています。「ミコ」とは皇女を言っています。
「ウチのオミコ」という表現も使っています。「ウチ」は内宮、「オ」は(御・大きい)皇女を意味しています。

 ホツマツタヱの記述の中では、「神の御杖代(みつえしろ)」(神のご意思に従って・神に代わって、生涯、天照大神にお仕えする「つきの宮」のこと)という役目がでてきます。天照大神の御霊を祀り続ける役目であったことを示しています。
 今で言うと「ヒミコ・ヒのミコ」・「神の御杖代(みつえしろ)」とは個人名ではなく神から賜われた役職名であったことがわかります。
 歌舞伎役者でも相撲の行司でも代々名前を襲名していくのと同じようなしきたりと考えます。宮司、大司教という呼び名も同じ意味合いであったと思います。
初代御杖代 「トヨスキ姫」
2代御杖代 「ヤマト姫ヨシコ」
3代御杖代 「イモノ姫クスコ」
がホツマツタヱの記述の「ヒのミコ・御杖代・斎女」になります。

 さて、この「神の御杖代」という役目が登場したのは、⑩崇神天皇の代になって、疫病が流行り、国民の半数が死滅したことにより、神の御霊を祀るのが不十分であったのではないかと判断されました。
 そのため⑩崇神天皇が、娘の「トヨスキ姫」(妃はメクハシ姫)に笠縫で天照神の御霊を祀らせます。
 最初の斎(いつき)の皇女になります。
 更に娘の「ヌナギ姫」(妃はオオアマウチ姫)には、山辺の里で大国魂の御霊を祀らせます。

 この「トヨスキ姫」は一生天照神の御霊を祀り続けます。

「トヨスキ姫」は、天照大神のお告げを受けて、御霊笥(みたまげ)を担いで、丹後の国の「よさ宮」(現、籠:この神社)「天の橋立」に行きました。
この美しい橋立(天の橋立)は、「かさぬい村」(やまと:天理市)から、宮津の天の橋立の松に、空高く雲がたなびいて崇高で美しいものでした。

「トヨスキ姫」が103歳になったとき、もう神の御杖代を続けられないと「ヤマト姫」に見習わせます。このとき、「ヤマト姫」は未だ11歳でした。
たまき宮二十二年十二月二十八日(末の八日)に、「ヤマト姫」は、「みつえ(御杖え)しろ」になりました。
この「ヤマト姫ヨシコ」は垂仁天皇と「カバイツキ姫」の間の皇女になります。

 この「ヤマト姫」(ヤマト姫ヨシコ)が、魏志倭人伝の卑弥呼に合致する人物と分かります。いくつか一致する記述を抜き出してみます。

 垂仁天皇の代に、任那より使者が来日、国交が開かれるという記述があります。
それより以前に「もろすけ」(新羅の皇子「あめひぼこ」の長男)が臣に,「あめひぼこ」は国を巡った後、但馬に住み「またおお姫」を娶るという記述もあります。

これらのことから、魏志倭人伝に伝えられた背景にもなったと考えられます。

「魏志倭人伝」には
 倭国はもと男子を王としていた。7~80年すると、倭国は乱れて、互いに攻撃し合うことが何年も続き、そこで一人の女性を共に立てて王とした。名を卑弥呼という。鬼道(巫術・妖術)を行い、よく人々を眩惑した。歳はすでに年配であるが、夫を持たず、男の弟がおり国の統治を助けている。・・・・

とあり、ここでの弟とは景行天皇のことを示していると思われます。
「ヤマト姫ヨシコ」と景行天皇とは異母兄弟です。

 崇神天皇の代に謀反が発生しています。「タケハニヤス」と「アダ姫」が反旗をひるがえして軍(いくさ)を起こし、「イサセリ皇子」が逢坂山で打ち破ります。遠隔地ではまだ争いが絶えず、ヨモノオシエド(将軍・四方の教導人)を発たせました。
 当時、疫病が発生して、民の半数が死滅したという背景があります。「倭国は乱れて」という記述を裏付けています。

「ヤマト姫」の記述から

「ホンヅワケ」(垂仁天皇とサホ姫の子)が生まれながらにしてものを言わなかった(声を出さなかった)ので、「ヤマト姫」に祈らせた。
 その時、白鳥が飛ぶのを見て「ホンヅワケ」は、初めて声を発した。「ユカワダナ」がこの白鳥を捉え「ホンヅワケ」に贈り、「ユカワダナ」に「とりとり」の名前を与えられる。
「ヤマト姫」は粥占いで、「ホンヅワケ」を祈ったとあります。
「ヤマト姫」の母、「カバイ姫」が産後半月で亡くなる

 ヤマト姫を、内宮の「おみこ(御神子):御杖(みつえ)の役」として御霊笥(みたまげ:天照大神の御霊)を担いで飯野宮から「いそべ」(いそのみや:伊蘇宮)に遷して鎮めました(安置してお守りしました)。
 良い宮の候補が「さ」にあると、神の告げを受けます。
「さ」は、南と解釈できますが、「さごくしろ」の「さ」を示していると思われます。
 宇治へ行き、神風の吹いた伊勢の宮の跡で、三宝(三種の神器)が祭られる本来の場所であると申しました。
  宮を建てるため整地をします。八十人もの供達に命じて、いそすず原の草を刈らせ、山の木を切らせ整地させました。そして、 宮が完成し落成式が執り行われました。

 まきむき宮二十六年九月十六日、天照大神が「いそすず川」(伊勢内宮)の「さごくしろうじ宮」(高天原)にわだまし(渡御:とぎょ、お入りになる)されました。
御丈柱(背丈に合った天の御柱)を納められました。

 天照大神も喜ばれ、「やまと姫」に、伊勢の宮は、トヨケの神と未来永劫、鎮座して守るべしと告げられました。この天照大神の言葉は「やまと姫」に乗り移って、垂仁天皇に告げられました。

 景行天皇は九州の熊襲が背いたので征伐に行きます。帰って来るまでに7年間要していました。戻ってきて、報告を伊勢の神に報告しています。伊勢の神とは天照神が祀られており、このとき、ヤマト姫は108歳になり、14歳になった「イモノ姫」が引き受けます。
 
 蝦夷が背いたので、景行天皇の息子のヤマトタケがエミシ征伐に向かう時、伊勢に立ち寄り、ヤマト姫にあいさつに行き、錦袋(秘密の祓いの呪文が書かれていたものが入っていた)と、昔ソサノオが取り出した「むらくもつるぎ」を授かります。
 この二つの事例でも、伊勢の方が国の中心と思われていても不思議ではない気がしました。

以上
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