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箱根の語源

ホツマ・エッセイ 箱根の語源 24綾(201412up)

ホツマツタヱ24綾に、箱根の語源がありましたので紹介します。合わせて「はらから」(同胞)の語源も同じところにありました。

箱根の由来は、「箱根神社」に祀られている御祭神の「箱根神」からきています。では、この「箱根神」とは誰のことでしょうか。
「天照神」と「さくなだり・せおりつひめ・ほのこ」(通称、むかつ姫)との間に生まれた子供の「おしほみみ」(天忍穂耳尊)のことであることが分かります。なぜ「箱根」という名前が付けられたという話になります。「おしほみみ」が死ぬ直前に自らを「箱の根」と名付けられたことが記されています。

「おしほみみ」は、生まれながらにして体が丈夫でなかったため、寒い時期には禊ぎも真似をするだけで済ませていたという記述があります。
父の「天照神」と比べても、息子の「はら」親王・(天孫ニニキネ)と比べても、今まで私が読んだ範囲には、活躍した記載は見当たりません。あまり表に出ることがなかったのは病弱であったことが容易に推測されるからです。

以下、24綾の内容を抜粋して現代風に書き換えてみました。

 晩年、帝(おしほみみ)は二人の皇子を日高見宮(今の仙台地方)へ召されるよう伝えられて宮入りしました。そこで、父である帝(おしほみみ)は、二人の皇子に詔りをしました。

「私は年を取り老いてしまいました。今後、兄皇子を大和飛鳥親王と命名します。弟皇子を「はら」親王と命名します。二人は、お互いに仲たがいすることなく共に睦まじく民を守りなさい。」
「大和飛鳥親王よ、弟「はら」親王よ、しっかりと聞きなさい。国民を決して我が物(私物化)してはいけません。君は国民の園であり、民のための君です。
「た」(父)は、箱の中の根っこです。自分(父・おしほみみ)は陽の目を見なかったので、子供二人には二枝の恵みを受けて、陽の目を受けて万人を愛でてください。私は邪欲もないし、二心もありません。
神の鏡である天照神の日嗣の君として、私(おしほみみ)は箱の根となり、二人が二本の枝となって、地上で民を守っていけるよう見守ります」

その後、寿命が尽きると悟った「おしほみみ」は、伊豆雄走山に洞穴を自ら掘り、箱根神となられました。

「はら」親王・(天孫ニニキネ)は、箱根神を「いづさきみや」(伊津崎宮)に3年間祀りましたとあります。今で言う、三回忌の起源であったかも知れません。

時代と共に風化されてしまい、現在箱根神社の御祭神は、ご本人の「おしほみみ」(天忍穂耳尊)ではなく、息子(弟の方)の天孫ニニキネ(瓊々杵尊・ニニギノミコト)とそのお妃の「このはなさくや姫」(あしつ姫)・(木花咲耶姫命)と、二人の間に生まれた三つ子の末っ子の「ひこほほでみ」(うつきね)・(彦火火出見尊)になっています。

正に、箱の根から表に出て枝となり開花したこと、つまり親が出来なかったことを自分の息子夫婦と孫が成し遂げてくれたことを「おしほみみ」(天忍穂耳尊)も納得され喜んでいることと思いました。
ジョンレノ・ホツマ
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一つ目小僧と「つるぎ」(剣) 

一つ目小僧と「つるぎ」(剣) 23綾(200803up)                 ジョンレノ・ホツマ

 三種の神器には、「勾玉」と「鏡」と「剣」があります。
今回は、その中の「つるぎ」(剣)をとりあげてみました。
「つるぎ」(剣)の生まれた背景、「つるぎ」(剣)のもつ意味合いがホツマツタヱの中に記述されています。後世になって、この「つるぎ」(剣)を作った人が一つ目小僧と呼ばれるようになったことが分かります。

① 「つるぎ」(剣)が生まれる元になったのは、「天」の「鉾」(ほこ)を示していました。
「クニトコタチ」までの大昔の人々は、皆素直で法を守っていたので鉾など不要のものでした。平和な時代が続いていました。
 
 天神4代の「ウビチ二」の世になり陰りが生じ、天神6代の「オモタル」の代になると、「とき者」(目先の利く者、隙を狙う者、盗人)が現れ、他人の物を奪うようになりました。
この「とき者」に対処するため、斧を使って斬り、そして治めました。
 
斧は木を切る道具だったので、「かねり」(鍛冶人)に鉾を作らせました。この鉾(ほこ)で「とき者」を斬ったら、世継ぎがいなくなってしまいました。逆鉾(さかほこ)とは、逆らう者を治めるという意味になります。
 世継がいなくなったということは、天神6代「オモタル」で代が途絶えてしまったことを言っています。
「アメミオヤカミ」(天祖神)・・・「アメミナカヌシ」・・・「クニトコタチ」・・・「クニサッチ」・・・「トヨクンヌ」・・・「ウビチニ・スビチニ」・・・「オオトマエ・オオトノチ」・・・「オモタル・カシコネ」・・X

 天神7代として、新たに豊受神が世継として、イザナギ(タカヒト・カミロギ)を探し出します。 仲人を立て娘のイザナミ(イサコ)と夫婦になり、両神(ふたかみ)となります。
 その後、天照神の代になり、「つるぎ」(剣)が登場します。

②「つるぎ」(剣)のそれぞれの文字の意味は、

 「つ」は、木の年齢(よわい)のことで、「あ」(天)に尽きて(つきて)の「つ」を意味しています。天命が尽きる「つ」です。

 「る」は、柴(雑木)が、枯れ木になって燃えるように「るぎ」の炎のことです。「る」は木の霊です。

 「ぎ」は木が枯れて、寿命が尽きて思い残すこと(生への執着)がない状態を言います。

③ 天照神は10人の鍛冶人(かねり)に「つるぎ」(剣)を作らせます。その中の一人に秀でた者がおり、左右の眼に活き枯れがあることを教えます。
 「汝が作った「つるぎ」(剣)の刃は良く鋭利である。しかしながら、左右の眼(まて・両方)の活き枯れのあることを知らないようなので教えましょう。」

 「た」(左)の眼は春の生き生きとした気力があります。「た」(左)目の生気(眼力)を入れ込んで「つるぎ」(剣)を練り上げて(鍛造して)造り上げると、出来上がった「つるぎ」(剣)は、生き身(活気身・善人・罪なき者)に近く、枯れ身に疎いものになります。
 使い方を誤れば、生き身(活気身・善人)を斬り殺すことになり恐ろしいことになります。

 一方、「か」(右)の眼は秋の枯れていく「気」(気配・自然の流れ)になります。この「か」(右)の眼力で「つるぎ」(剣)を練り上げて(鍛造して)造り上げれば、出来上がった「つるぎ」(剣)は、枯れ身に近く(親密で)、生き身(活気身)に疎いものになります。


「か」(右)目の眼力を入れ込んで鍛造した「つるぎ」(剣)は、「枯れ身」(罪人)を好み、「生き」(善人)を恐れます。この「つるぎ」(剣)は、悪に立ち向かい、善には見向きません。

 「か」(右)目の眼力を入れ込んで鍛造した剣こそが、青人草(民)を治める宝物です。「た」(左)の眼を閉じたまま、「か」(右)目だけの気を入れて「つるぎ」(剣)に叩ぎあげなさい(鍛造しなさい)と宣いました。

④ 鍛冶人は、畏れ多く思い、100日の物忌み(祭事において神を迎えるために,一定期間飲食や行為を慎み,不浄を避けて心身を清浄に保つこと)をしました。心身とも清浄になり、「か」(右)目だけで「つるぎ」(剣)を鍛造しました。
 そして、八振り(八本)の「つるぎ」(剣)が出来上がりました。

 天照神は、出来上がった「つるぎ」(剣)を前にして、詔りをされました。
「今、この目の前にある「つるぎ」(剣)は、我が心に良く叶っており、今のこの世を治めるにふさわしい宝物です。名前も八重垣の「つるぎ」(剣)と名付けることにします。」

 ⑤天照神は、この「かねり」(鍛冶人)を褒めて、天目一箇(あまめひとつ)の神という名前を賜われました。

 この天目一箇(あまめひとつ)の神が、おとぎ話や伝承に「一つ目小僧」という名前になったものと思われます。
 この場所は、火を使っており危険でもあり、神聖な場所であったので、近づけないようと、お化け伝説にされたことも分かります。

⑥ この出来上がった八本の「つるぎ」(剣)は、「かなざき」と六将神「ふつぬし・たけみかづち・かだまろ・いふきぬし・たちからを・くまのくすひ」の6人に賜わりました。残りの一本は天照神が持っていて、後に「くしひこ」に賜うことになります。

 この剣の功績は「つるぎ」(剣)の持つ勢い(威力)によるものでした。
枯らさなければならない者(罪ある者)は枯らして(剣自身が殺すべき者は殺し)、生かさなければならない者(罪なき者)は、生き(生)を得ました(剣自身が生かす者は殺さない)。
 
 例えば、林を切り開くとき、切り出して邪魔になった木を焚く(燃やす)とき、「こたま」(木の霊・精霊)が既にいなくなっているように、斬るべき咎(罪)は、全て斬りつくされることによって、思い残すことはありません。

 自分自身の驕りを守る垣が八重垣の剣です
もし、民が驕り身の程を忘れて、遂には「つるぎ」(剣)を受けるようなことにでもなったときに、受けさせてはならないと判断するのが身を守る垣になります。

 もしも、司(国神)に驕りが生じて(自分の勝手で)、民を枯らす(殺す)ようなことにでもなったら、非常に罪が重いものになります。

 このような時には、緯糸役(織物に例えて、たて糸が命令系統であるのに対して、よこ糸は第三者の目として監視することを示している)である緯部(よこべ)が、「あらためて」(検察して)その民を生かします。(殺すことが正しいかどうか取り調べて明らかにします)

 臣・小臣は、自分自身の驕りを表に出すことなく、こらえて、天成道を守りなさい。
常に天成道を守る心がけでいることが、自分自身を守る垣になり、まさに八重垣の剣とはこのことです。

「イセの道」と「スズカの道」とオホナムチが出雲を去った経緯 

ホツマエッセイ (ホツマツタヱの解釈より)
「イセの道」と「スズカの道」とオホナムチが出雲を去った経緯 13綾(201808up)

 仙台の多賀の国府で「オシホミミ」(天照神の日嗣皇子・後の箱根神)は「タクハタチチ姫」(スズカ姫)と結ばれました。
 この婚礼で、「オシホミミ」は、伊勢に居られる天照神の「みことのり」を伝える三種の神器・「やさかにの勾玉」(八坂瓊曲玉)・「やたのかがみ」(八咫鏡)・「やえがき」(八重垣剣)を、勅使の「ワカヒコ」(カスガマロ・アメノコヤネ)から賜われました。
 「やさかにの勾玉」(八坂瓊曲玉)は、「くしひる」(竒し霊、霊妙)として用いれば、「なかご」(自分の基準軸、信念)を正しく保てます。考えが揺らぐことはありません。
「やたのかがみ」(八咫鏡)は「たて」(左大臣)に、「やえがき」(八重垣剣)は、「つ」(右大臣)に預けなさい。三種の神器を「われ」(天照神)と思って政り事を行ない天下を治めなさい。
そして、貴方が娶った「タクハタチチ姫」と相共に、常に睦まじく、威厳をもって威光を放ちなさい。
 
 ホツマツタヱの13綾では、婚礼後の暑いある日、お酒を賜わる暑気払いの席が設けられ、「ワカヒコ」が「イセの道」と「スズカの道」について説く場面が登場します。
その席に、
「ヒタカミ・ウオキミ」(日高見大君、タカギ・タカミムスビ7代目)
「カルキミ」の翁(出雲に居られた「オホナムチ」)ソサノオとイナダ姫の子供、クシキネ、大国魂主、大黒様とも呼ばれる。180人と共に津軽へ渡り、後に「ツカル・ウモトの神」・東日隅大元神・「ヒスミ君」と呼ばれる。
「カトリカンキミ」(フツヌシ)香取神君、「カシマキミ」鹿島君、「ツクバ」筑波神、
「シホカマ」塩竈神、が列席していました。

1 「イセ」の道とは

 「イセの道」について、若君「オシホミミ」は父天照神が「イセの道」を説いたが、もう少し詳しく説明してほしいと問われ「ワカヒコ」が説明するところから始まります。

「イセ」とは「いもせ」・「いもおせ」とも言います。
「イセ」(男女の仲)「いもせ・妹背」・「いもおせ」の道とは、男女の仲の在り方を解いています。今でいう夫婦道になります。
神の教える「イセ」のみちとは、天の浮橋を渡り(仲人を通じて)結ばれることにより、男女の仲の道(夫婦道)の前途が開けます。

 男(ヨオ)は太陽に例えています。嫁(ヨメ)は月に例えています。
 月は自ら光を放ちませんが、太陽の光(ひかげ)を受けて、月は輝きます。夫婦の関係も同じで、夫の力次第で、妻は一層光り輝きます。
 男は外で働き務めます。女は家の中の家事一切を治めます。糸を紡ぎ、機織りし、絹を綴り、衣服を作ります。

 家督・家を継ぐ(「イセ」を治める)のは、本来は兄ですが、病気や親の意向に沿わないときは弟に継がせて吾子(あこ・嫡子)とします。世継ぎの者は、家督を譲り受け、仲人を立てて結婚し、睦まじく暮らし、子供を生み育て、子々孫々家督を譲って行きます。

1-1「女性(妻)の心がけ・立場について」

メ(女・妻)はヨ(世・外の世・男の世界)に住める場所はありません。
妻は美しく優雅で華やかにいなさい。夫の優しい妙の言葉に愛を信じなさい。
生涯の連れ合いになった夫に操を立てなさい。
嫁は夫の「オナカ」(腹心)にいつも居るように心がけていれば、それが操・貞節です。
 
 女性は他家に嫁げば今までの自分の名前(姓)がなくなります。夫の家の姓を名乗り、誰れそれの家内と言います。嫁いだ男一人が自分の太陽であり、他の男に目をくれてはいけません。 

 夫の両親は生みの親と思って尊敬しなさい。 
毎日朝夕には美味しいもの(ムベの果実:不老長寿の伝説の果物)を差し上げなさい。
 老いたる者には良く仕え、年長者の言うことを聞きなさい。

1-2「妾について」 ここの内容は、紀元前660年以上昔の縄文晩期の日本のことです。

 妻が子供(世継ぎ)を生まないときに、家名を継ぐために許されるなら、子孫が絶えないように夫は外の女性を娶り妾としなさい。

1-3「夫のとる心がけについて」

本心から夫は自分に隠し妻(妾)がいるなどと、妻が腹立たしたくなるような意地悪い言葉を言ってはなりません。
妻の腹(心)が病まないように(夫婦喧嘩にならないように・離婚にならないように)お互いに納得するまで優しく諭しなさい。

具体例が出てきます。「オキツヒコ」が浮気し、妻が荒れ、離婚したが、マフツの鏡に映された姿は煮捨て窯の様相であり、その後、父から諭され、自分を磨き(心を入れ替え)全国を行脚する。天照神から竈神(かまどかみ)の名を賜わる。仏教の荒神様にも関連しており神仏習合の一つの例と思う。

 月は夜輝きます。妾を愛すると言えども、夜、妻との営みを疎んではなりません。
又、家の事に口出しする妾の言葉を聞き入れてはなりません。 妾の役割は子を生むことです。

例え、妾がどんなに美しくとも、宮内(家)の中に入れてはなりません。
 天の原(天空)に月が二つ並ぶことはありえないことです。国が乱れます。それと同じように、妻と妾を同じ一つ屋根の下(一軒の家)に住んではなりません。いさかいが絶えず、家の中が乱れます。

1-4「妾の務めについて」

 妾となる人の大切な務めは常に妻(本妻)を尊び礼を尽くして敬うことです。
妾となる人は、夜空に輝く星に見立てることが出来ます。星は美しく光っていますが、月の明かるさには到底及びません。妻は月になぞられるからです。

1-5「子供を授かる方法について」

「シオカマウシ」(塩竈)は私には子供がいないと願い出ました。
「カスガ」は、大嘗祭の「アユキ」(天の祭場)、「ワスキ」(地の祭場)の祀り主に頼んで、自分の魂返しの神祀りをします。そうすれば、苦しんでいる魂の緒も解けて、魂(たま、霊)は「ムネカミ」(宗神宮)に帰り、魄(しい、肉体)は「ミナモト」(源宮)へとそれぞれ帰り着き、魂と魄が天上の「サゴクシロ宮」に戻って神となります。しかし、この幸運は大嘗祭に於ける「たまゆら」でめったにないことです。
子孫を授かりたいと願うなら、夫婦ともに睦まじく、仕事に精を出して業を務めることが、真の「イセ」の道(夫婦道)でしょう。
 「イセ」の道を説いた天照神が居られる伊勢の国が、この道を学ぶところです。

2 「スズカ」の道について

 人間は天から命を授かり、この世で最善を尽くして生き、そして再び、天に帰ります。

 子孫の繁栄を思えば、夫婦に驕る心の戒めが必要で、戒めの心がないと魂の緒が乱れ、生活は乱れ憂き目を見ることになります。
 人の心も、戒めの心をもって、欲望(我欲)を捨て去り、清く正しく美しく生きることを「スズカ」(鈴明、鈴鹿)と言います

人の心を与えられた者は、寿命を迎えて再び天上に帰るとき、素直に生を全うすれば再び次の世でも良い生を与えられます。
他人の幸い(財宝)を見て自分は迷います。羨みを、嫉みを持つかも知れません。人間は生きている間は幸せであっても、あの世に行ってから、神から死の苦しみを受けます。

 我々は天から命を授かり、この世で最善を尽くして生き、そして再び、天に帰るのです。
「タマギネ」(豊受神)も、無心(無我の境地)でホシ(欲・欲求)を貪ぼる心は全く無く、「ユキキの道」(行き帰りの道・天と地の往来の道、天御柱の道)も覚え知ることが出来ました。
天上のモトアケ(天地創造の元神)の守護により、「メ・オ」(男女)が結ばれて、新しい命を授かり、
人の心を与えられた者は、寿命を迎えて再び天上に帰るとき、素直に生を全うすれば再び次の世でも良い生を与えられます。

しかし、邪欲を持つ者は再びこの世には帰れません。仮に貪欲な人間が、運よく(あやかりて)人に再び生まれたとしても、魂の緒が乱れ苦しんで人の道を忘れ去っていますので、神罰を受けます。
人間として満ち足りず心が安らぎません。みじめな生き地獄が待っています。他人から見ると、光り輝いている物を欲しがる人、羨む人が常に現れる(かむ・噛みつく)ので、霊の緒(たまのを)が乱れてしまいます。
神が直接手を下して討ち殺すわけではありません。死の苦しみの縁に突き落とされる夢も、死後に受ける苦しみと同じことです。
人の嫉みが「魂の緒」に覚え刻まれてしまい、己(おのれ)の良心が責められることになるのです。 それが、長い悪夢となって現われるのです。
 
 神祭りを怠れる者は、願いが天に届かず、天祖神(アメミオヤ神)の恵みから漏れて人間の世界から漏れ落ちてしまうことになります。人は常に天の正しい道を敬い、天神を祀りなさい。
 各々、カバネ(姓)の先祖の霊を祀る宮にカンクラ(神楽)を申せば(奉納すれば)、魂の緒も解けて人の霊に帰ることが出来ます。

 心に渦巻いている欲望(ホシ)から逃れることとは、財を「捨てず、集めず」の術を知りなさい。物を無駄にせず、集め過ぎず、ほどほどの術を身につけなさい。
財宝を倉一杯に満たしても、ただ置いておくだけでは人の役に立たず、塵(ちり)や芥(アクタ・ごみ、滓、屑)も同然です。
 財宝を塵のように集めて偉そうに世にのさばると、その財を羨むものが現れます。この財産を嫉み羨む者が鬼となって財産家を噛む(牙をむく・噛み殺す)ので、この苦しみから魂の緒が乱れ、死んでも、帰る宮(処)が無く子孫も絶えてしまいます。

 先日、仏教の教えにも「邪心(邪気)をとれば無心になり、無心になれば元気(元の気に戻る)になる。欲得にとらわれずあるがままに過ごせばよい」と同じ意味があることを知りました。


3 「オホナムチ」が、出雲を去ることになった経緯と「スズカ」の関連について

 出雲を去ることに決めたとき、本心からは納得できなかったが、息子に従ったことが分かります。
 カルキミ公(オオホナムチ)が、何で、私の財宝が皆から咎められなければならないのですか。人は皆、私の財宝を褒め称えています。と「カスガ」に申し立てました。

 「カスガ」は、他人の幸いは我が迷い。他人の幸い(財宝)を見て自分は迷います。羨み、嫉みを持つかも知れません。人間は生きている間は幸せであっても、あの世に行ってから、神から死の苦しみを受けます。 民の規範となるべき上の位のものが、財に物を言わせて、欲望や快楽に走れば、下の位の者はなおさら満たされぬ欲望が強く渦巻きます。

 この「カスガ」の話を聞いたとき、「オホナムチ」は、息子の「クシヒコ」(コトシロヌシ・えびすさん)が、私を諌めて(誤りを忠告する)言った「スズカ」の教えの真の意味が今やっと解けました。と納得されました。

 当時、出雲は他の国々より際立って繁栄していたことが、残されている遺跡からも読み取れます。

 古代出雲本殿跡で発掘された非常に大きい建物の基本部分は高さが48mあったと推測されており、本殿には階段を昇りつめて行くような想像図を見たことがあります。北極星(北緯37°)の向こうに神が居られると見ていたと推定されます。

 銅鐸や銅剣が大量に発見されていることからも、当時の最先端を行っていたことも窺えます。
(加茂倉遺跡から発見された39体の銅鐸については、ホツマツタヱから「オホナムチ」が出雲を去って後は39の銅鐸(ミカラヌシ)を谷に埋めて神祭をしなくなった。という記述とも一致します)



4 オホナムチが出雲を去った経緯をホツマツタヱ10綾より抜粋

①葦原中国では、二十五すず歴九十三枝年「さあゑ」の夏、橘の木の枝が枯れたため、「ふとまに」で占なったところ「はやもり」(羽矢が漏れる・謀反がある)という卦が出て、北西の方角(出雲)に原因ありと出る。

②「よこべ」(検察官)を派遣し、出雲の国は満ち満ちて道理が隠れてしまっているという報告を受ける。

③出雲宮は玉垣内宮(たまがきうちみや)で、天照神の皇室に匹敵する豪華な造りの大宮殿(九重の大宮)を築いているという報告を受ける。

④「よこべ」(検察官)の報告を受けて、「七代目タカミムスビ」は、「かみはかり」(神議)を新しくなった今宮で行う。出雲を糺(ただ)すために「ほひのみこと」(「天照神」の長男、すけ妃「もちこ」との間の子供)を派遣することに決める。

⑤「ほひのみこと」は出雲の国神にへつらい媚びて(機嫌を取ることに終始)しまい、三年経っても帰ることはなかった。母親の実家にも近く、羽を伸ばしてしまったものと思われる。

⑥次に、「おおせいい・みくまの」(ほひのみことの子供)を派遣したが、父の言いなりで、帰って来ず。

⑦再び、「かみはかり」(神議)を行い「あまくに」の「アメワカヒコ」以外にないと決める。そして、「たかみむすび」が「かごゆみ」と「羽羽矢・ははや」を賜い、出雲へと向けさせる。
しかし、今度こそと思った「アメワカヒコ」も、任務に忠実でなく、こともあろうに、出雲を治めていた「オホナムチ」の娘「タカテル姫」を娶ってしまう。
挙句の果てに、自分が派遣された葦原中国を乗っ取ろうと野心を持ち、八年経っても帰って来ず。

⑧隠密(きぎす、雉)を飛ばす決断を下す。
隠密は、「アメワカヒコ」の優雅な暮らしぶりに変わり果てた姿を見てしまい、つい、「ほろほろ」と鳴いてしまう。(声を立ててしまった)。物音に気付いた「さくめ」(探女)が不審者を告げ、「ワカヒコ」は、「羽羽矢」を射る。矢は雉(隠密)の胸を通り抜け、遥か遠くまで飛んで、葦原中国の「タカミムスビ」の前に落ちる。

⑨雉(隠密)が「けんけん」と鳴くことも無く(様子を聞くことも無しに)死んでいったことを、血で染まった羽羽矢を見て「タカミムスビ」は知る。そこで、「タカミムスビ」は咎めの返し矢を放つ。返し矢は「ワカヒコ」の胸に命中して、あえなく死んでしまう。

⑩「タカミムスビ」の決断で、驕る出雲の「オホナムチ」を征伐しに行く門出の「かしまたち」の宴がとり行われる。「タケミカヅチ」と「フツヌシ」の二神が出雲征伐へと向かう。
 
 ここでの「かしまたち」は、「か」=右大臣(出雲のオホナムチの役職、「しま」=国(なわばり)、「たつ」=絶つ・断つ)と捉えられる。後に「タケミカヅチ」は「カシマ」(鹿島・鹿嶋)」という名前を賜ったので、鹿嶋を立つたという意味合いに代わってしまったようである。


⑪「タケミカヅチ」と「フツヌシ」は、出雲杵築宮の前で、「みほこりて あさむくみちを ならさんと われらつかふぞ そのこゝろ まゝやいなやゝ」
 自らを誇って、国に欺く行為を思いとどまらせるために、出雲を糺すために、我ら二神は遣わされてやって来た。おぬしの心は従うのか従わないのか。

⑫出雲の「オホナムチ」は、何が何だか分からず、宮中から帰国し鯛釣りを楽しんでいた息子の「クシヒコ」(コトシロヌシ)に状況を確認する。

 息子「クシヒコ」(コトシロヌシ)は、「私の心は「すずか」で欲得もなく清いものです。此処に及んでは、もはや、「ち」(地)の鯛(まな板の上の鯉)も同然です。自分では成す術はありません。あがいてもどうしようもないことです。魚として切られ料理されるのは愚かなことです。」

 「高天(たかま、宮中)は、民が「えみす鯛」(民が鯛を釣り上げて喜べる姿)に存在します。」(国民が不満を持たず満足している姿であること)と「えみす顔」(えびす顔)で答えました。(ゑびす様の語源)
「ことしろぬし」(「オホナムチ」の息子、「クシヒコ」)は「我が父がこの出雲を去るのであれば、私も一緒に国を去ります。」と答えました。

 父「オホナムチ」は、二神(「タケミカヅチ」と「フツヌシ」)に、「我が子は出雲を去ってしまった。私も去ります。今、私が出雲を去るにあたり、誰かまた力ずくで叛(そむ)く者が出てこないとは限らない。降伏の証として、我が「くさなぎ」の矛(ほこ)を用いて国を生(な)らしてください」と言って矛を置いて去って行きました。

⑬「タケミカヅチ」と「フツヌシ」は「かしまたち」に成功し諸神共々引き連れて、「アメヤスカワの宮」(天の野洲川の宮・滋賀県)に帰り、「タカミムスビ」に戦勝報告をしました。

⑭出雲を降伏させた論功により、「フツヌシ」は「あわうわ」(天神地祇・てんじんちぎ)の導きを良く守り神威(しんい)を高揚してくれた。「フツヌシ」は既に香久山を司る「カトリ」神を賜っている。「タケミカヅチ」は、このとき「かしま」神の神部(かんべ、おしで)を賜いました。

⑮「タカミムスビ」は「オホナムチ」に、津軽の「アソベ」(阿曽部)の「アカル宮」(岩手山神社)を「あふゆ」(天の恵み、天恩)によって賜わる。この時に「カルキミ」翁と言われていたことが分かります。

⑯「オホナムチ」は津軽の「あかる宮」を建立し「ウモト宮」(天日隅・阿曽部岳の大元宮)の建立を進め、「ウツクシタマ」(顕国玉神)と称えられ、「オホナムチ」は「ツカル・ウモトの神」(東日隅第元神)となり、神上がりました。

「オホナムチ」は、「クシキネ」・「ヤシマシノミ」・「大国主命」・「大國魂神」・「大黒様」とも呼ばれ、
「ツカル・ウモトの神」・「東日隅大元神」・「津軽の君」・「ヒスミ君」とも呼ばれた。
以上
ジョンレノ・ホツマ

天皇陛下 生前退位について

ホツマエッセイ  天皇陛下 生前退位について (201607up)

ニュースで天皇陛下が生前退位を表明され、過去にないからということで周りが物議をかもしていることに違和感を覚えました。

私自身は定年前の肩たたきで早期退社しましたが、定年のない会社経営者でも退任時期には後継者に譲るのが普通であり、今の天皇陛下は生涯現役でいなければならない大変なことと認識しました。

ホツマツタヱを読むと生前退位はごく自然のことであると分かり、古代の天皇は、自らが老齢になったと感じられたとき、ご自分で次に天皇になる人を選び、日嗣をしておられます。
やっと、昔の自然のままの元通りに戻ったという感じです。今は、ご本人のご都合や考えでなく、法律の制約という取り巻きの都合で決められてしまっているように見えるからです。

日嗣とは今の天皇から、次に天皇になられる方に引き継ぐ儀式であり、三種の神器を引き継ぎ、大嘗祭を執り行います。

古代の生前退位された例の一つとして、天照神の孫の次男の天孫ニニキネ(別雷神)を取り上げてみます。生前退位後の記述に興味がありましたので抜粋します。

天孫ニニキネ(別雷神)は、三男のヒコホホデミの大嘗祭が終わって、自分は「おゝゑきみ」(太上天皇)という名前になります。これにより天孫ニニキネ(別雷神)の生前退位が行われたことを示します。

瑞穂宮での任務の終わった「おゝゑきみ」(太上天皇)は、瑞穂宮から貴船の山奥に隠れ住んでいた息子の正妃のトヨタマ姫を説得した後、「むろつ」(兵庫県たつの市御津町室津)で、遺言を残します。その後、亀舟という大きな舟に乗り、宮崎に上陸した後、鹿児島に向い「そお」(曽於)国の高千穂の峰(霧島山)につき、そこで神上がりします。

なぜ、鹿児島に向かったのかについてですが、天孫ニニキネが、昔、筑紫(九州)全土を開拓しながら巡ったことがありました。「そお」(曽於の国・鹿児島)から招きを受けていたのですが、訪問の約束を果たせないまま帰国してしまったことが心残りであったと伺えるからです。

 高千穂の峰に立ち、「あさま」(富士山・浅間神社・ほつま国)の方角から日の出(朝日・日の霊)を祈るので、この地を「ひむかう国」(日向国)と名付けられました。

 高千穂の峰とは、霧島山を示していると思われます。霧島山の幾つかの峰々の内、この曽於市の方角から手前に見える山に高千穂という名前がついているからです。


「ほつま国」に居られる姫(このはなさくや姫)の霊は、月が沈む西の方角の高千穂の峰(霧島山)に沈み、神となられました。

姫が亡くなられたのは、「ほつま国」ですが、死後の霊魂は「おゝゑきみ」(太上天皇)の居られる高千穂の峰(霧島山)に向かわれたことを言っています。

「おゝゑきみ」(太上天皇)を太陽と見て、月をお妃「このはなさくや姫」に例えていることが分かります。また、月に帰るという昔話、「かぐや姫」の話とも何か重なるものを感じます。

天国で会う日を決めておられたお二人が、西と東で遠く離れていてもお互いの方を向いて同時に神上がり(お亡くなり)しましたともあります。
「おゝゑきみ」(太上天皇)である「いづの神」*は、高千穂の峰の神となられました。

*「いづの神」21綾にニニキネのことを二荒れの逸(稜威・いづ)の神と称しています。
新たにいづる・誕生すると解釈されたのでしょうか。
高千穂の峰の神となられ、神上がりされたという記述の意味が、新たに神が誕生されたように漢字化されて伝えられているようです。


現天皇におかれても、生前退位された後、やり残したこと、心残りのあることなど、自分のための新たな人生を謳歌していただきたいと願った次第です。

以上


ジョンレノ・ホツマ

 古代の舟

ホツマエッセイ 古代の舟 27綾(201603up)

京都市の北の鞍馬に貴船神社という神社があります。
なぜこんな山奥に海もないのに何で貴船神社という舟という字のついた神社があるのか、子供の時から不思議でたまりませんでした。
ホツマツタヱの27綾に、「きふね」という言葉を見つけたとき、前後関係から、古代の舟の誕生の背景も意味するところが分かり、当時の生活環境を知り、目からうろこが落ちました。

 「たみづをまもり ふねをうむ きふねのかみは ふなたまか」 とあったからです。
直訳すれば、「きふね」の神は、田水を守り、舟を生む、舟魂ですよ。とあります。
自分なりの解釈を付け加えれば、当時から既に、洪水から田んぼを守り、常に水が行き渡るよう取水のために川に井堰を作って開墾していました。そのためには川に筏や舟を浮かべ丸太や石などを運んでいたと思いました。

ここで「きふね」と読まれた「貴船神社」は、当時、「みづは宮」(みづはめ)と呼ばれており、水に関連していたことが分かりました。

また、この綾に「舟」を生みだした記述がありました。
 ふねはいにしゑ しまつひこ くちきにのれる うのとりの あづみかわゆく いかだのり さおさしおぼえ ふねとなす このおきつひこ かもをみて かいをつくれは まごのしが ほわになすなよ かなさきは おかめをつくる そのまごの はでかみのこの とよたまと みつはめとふね つくるかみ むつふなたまぞ

舟を作りだした起源ですが、太古の時代に①「しまづひこ」という方が安曇川(今の滋賀県琵琶湖の西側)に流れていた朽木(くちき・枯れ木)に乗った鵜の鳥を見て、筏(いかだ)を作ったのが始まりです。
そして、竿を指すことを覚えて、舟としました。今でも、観光地の長瀞のように竿を突いて川下りをしている所を見受けます。当時の風景を思い起こすようです。

次に「しまづひこ」の子供の②「おきつひこ」は、鴨が水中で足を前後に動かしているのを見て、櫂(かい)を作りました。鴨舟と呼ばれました。鴨のように静かに水面を進んでいく様子が手に取るように分かります。このとき、既に、丸木を半割にしてくり抜いて使っていたのでしょうか。豊玉姫の乗った「かも舟」が割れて渚を泳ぎ切ったという記述があったからです。

その次に「しまづひこ」の孫の③「しが」(志賀神)は、帆を作り、「わに舟」を作り上げました。速度は速いものの揺れが大きかったようです。
外観はワニに似ていたのでしょうか。日本にも「ワニ」が生息していたことからも推測できます。大阪近郊の豊中市と池田市の間の待兼山町からワニの化石が出てきてマチカネワニと命名され全長6.5mと推測されているからです。

さらに、④「かなさき」は、大亀舟を作りました。形が亀の甲羅のようなイメージであったと推測します。大きな樫の木で作ったという記述もあります。
更に、大亀舟を造った「かなさき」の孫の「はで神」の子の⑤「豊玉姫」と⑥「みづはめ神」(罔象女)が、舟を作られた神と称せられ、6人の舟魂(貴船の神)となります。

⑤の豊玉姫は誕生間近の子供を孕んだ状態でしたが、「ヒコホホデミ」の日嗣のためにお妃として、かも舟に乗り北九州の志賀の浦から北陸の敦賀まで行きますが、途中で「かも割れて」とあるように舟が割れてしまいます。海に溺れかかり、あられもなく肌を見せてしまったにもかかわらず、必死に浜まで泳ぎ切りました。
その後、ワニ舟を見つけ、無事敦賀に着くことが出来き、未完成であった産屋で子供を無事生みました。
しかし、あられもないでいた寝姿を君に見られてしまい、もう二度と会せる顔がないと恥ずかしさのあまり逃げ隠れてしまいます。その隠れていたところが山奥の貴船神社でした。後に、めでたく晴れて瑞穂の宮に中宮として返り咲きました。
豊玉姫は亡くなられて、この貴船神社に祀られています。

⑥の「ミヅハメの神」は「水の神」を言い、「ホ・カグツチの神」は「火の神」、「ハニ・ハニヤスの神」は「埴・土の神」、「ウツホ・ウツロイの神」は「空の神」、「カゼ・シナトベの神」は「風の神」と合わせて5神の一人です。

かも舟、わに舟、亀舟の速度の比較ですが、北九州の志賀の浦から北陸の北の津・敦賀までの時間を聞いている個所に、大亀舟なら1か月以上かかる。かも舟なら約1か月、大ワニ舟ならもっと早く着きますという記述があります。
直線距離で約600kmですが、当時は海岸線に近い磯に沿って竿を海底に突いて進んでいたと考えられます。そのため入り組んだ海岸線の長さは倍の1200kmと見ると、1日に進む距離は約40km、8時間が実移動時間とすれば、時速5km/hrで速足と同じぐらいになります。いずれにせよ、大変なことであったんですね。
以上

歌は心を洗う トヨタマ姫とヒコホホデミ

ホツマ・エッセイ 歌は心を洗う トヨタマ姫とヒコホホデミ 26綾(201506up)

古代の人は、禊ぎは身体の穢れを落とし、歌は心を洗うと言っていました。
今回、歌の持つ偉力を実感した二つ目のケースとして、取り上げてみました。二人の間が行き詰っても、最後に解決したのが歌だったからです。
ホツマツタヱ26綾からの抜粋になります。

「ヒコホホデミ」と「トヨタマ姫」との話です。今風に言えば、波乱万丈の物語です。
ヒコホホデミは、「天孫ニニキネ」と「このはなさくや姫」との間に三つ子の末っ子として富士山の麓で生まれ、かっては山幸彦とも呼ばれていました。
一方、トヨタマ姫は九州出身で、ハデヅミ(住吉の神の孫)の娘になります。
当時、九州を治めていたヒコホホデミに、瑞穂の国(滋賀県)に居られた父親である天孫ニニキネから、「天つ日嗣」を譲る(天皇の位を引き継ぐ)ので至急戻ってくるよう伝令が入ります。

天孫ニニキネは、「天つ日嗣」を受け継いで別雷神(わけいかつちの神)となられておりましたが、「天つ日嗣」をヒコホホデミに譲ることに決めました。
天孫ニニキネは日嗣を譲ってからは大上君と称せられます。
この伝令が「おしか」(勅使)によって、筑紫(九州)の親王(おきみ)であったヒコホホデミに伝えられます。
九州を治めている32神は、今までお遣いしていたため、別れることを惜しみました。しかし、日嗣が決められた以上32神は「よろとし」(万・歳)と祝いました。
そして、ヒコホホデミは、筑紫(九州)から、淡海(琵琶湖)の瑞穂の宮に向けて御幸することを決めました。

志賀の浦(志賀島・博多湾)から日本海を北津(敦賀)へ舟で戻ることになりますが、その時、お妃であったトヨタマ姫は妊娠しており、臨月間近になっていました。
そこで、ヒコホホデミは一番速い「大ワニ舟」に乗り、先に行って産屋(うぶや)を作っておくことにしました。
「大ワニ舟」に乗ったヒコホホデミは、志賀の浦から北の津(敦賀)に着き、上陸後、「いささわけ」(伊佐々別神社・気比大神)を経由して、滋賀県の「みつほ・瑞穂」の宮にご帰還されました。
「わけいかづち」の天君も、臣たちも共に、ヒコホホデミの無事のご帰還を喜びました。

一方、お妃(トヨタマ姫)は、生まれてくる子供のためにも、揺れが少なく乗り心地の良い「カモ舟」で北の津(敦賀)まで後から追い駈けて行くことにしました。

ヒコホホデミは北の津(敦賀)に到着するやいなや、松原に産屋を作り始めました。しかし、棟(天上部分)がまだ完成する前に妃(トヨタマ姫)を乗せた舟が到着してしまいました。
臨月を迎えていた妃は、完成まで待っていられないので、そのまま産屋に入って皇子を生んでしまいました。

しかし、この妃の乗ったカモ舟は途中の渚で座礁して割れて、皆、海に落とされてしまう事故に遭います。しかし、溺れることなく、姫はお腹の中の子種を守ろうと必死で磯まで泳ぎ着きます。
その後、磯で見つけた釣り船に乗り、美保崎(島根県三保関)でワニ舟を見つけて乗ることが出来ました。そのため予定より早く到着出来ることになりました。

当時は沖合ではなく、渚に近い(海岸線に近い)ところを航行していて座礁して舟が割れてしまったのだと思います。

さて、ここから大問題が生じます。

男は産屋を覗いてはいけないと注意されていました。更に、当時、産後75日間は母体が元通りになるまで性交渉はいけないとされていました。

君(ヒコホホデミ)は、この北津の松原に涼みに来て、産屋の様子が気になったので、覗いて見ると、たまたま隙間が開いており、あられもない妃の姿を間近で見てしまいました。何も着ておらず、腹這いになって寝ていたからです。

見てはいけないものを見てしまい、慌てて開いていた戸を閉めてその場を立ち去りました。しかし、妃はこの物音で眠りが覚め、あられもない姿を見られた恥ずかしさで一杯になり、居ても立ってもいられなくなってしまいました。

恥ずかしさのあまり、もうここには居られないと、生まれたばかりの赤ん坊を抱きかかえ、弟の「たけづみ」と産屋を後にして、遠敷(おにふ・福井県小浜市東小浜)の宮に行き着きました。
 この遠敷の宮で、母(トヨタマ姫)は皇子を抱きしめ、眉・目を見つめながら、皇子に向かって、母は恥をさらしてしまい、もうここにいることは出来ないので、国に帰ります。もう二度と貴方にお目にかかることはないでしょう。 と別れの言葉を言い残し、皇子を置いて行きました。

この皇子は後に「カモヒト・ナギサタケ・ウガヤフキアワセズ」の命という長い名前を賜わり、神武天皇のお父さんになられる方です。

皇子を置き去りにした、トヨタマ姫と弟の「たけづみ」は、朽木川(滋賀県高島市朽木村・安曇川の支流)の添って登り、山を越えようやく三日目に「わけつち山」の北側の「みずはめの社」(貴船神社)に着き、休むことが出来ました。

この事態が「みつほ」宮に伝え知らされたため、皆驚き、「ほたかみ」(穂高見・トヨタマ姫と兄弟)に、トヨタマ姫がその場所(貴船神社)から、一歩も動かないよう説得に向かわせました。
穂高見は朽木谷(滋賀県高島市朽木村・安曇川の支流)を西から南へと、山を越えて、トヨタマ姫のいる「みつは」の宮(みつはめ・貴船神社)に行き着きました。
トヨタマ姫に「瑞穂宮」に帰るよう説得しますが、ガンとして聞き入れませんでした。やむなくトヨタマ姫と一緒にいる弟の「たけづみ」に、この場所を動かないようにと言い含めて、一旦、馳せ帰りました。

心を閉ざしたトヨタマ姫の頑なな気持ちを説得するために、というよりも、日嗣の儀(大嘗祭)をとりおこなう大事な時を前に、お妃がいなければ事が進まないからです。正に緊急事態であったからです。
事態を重く見た「瑞穂宮」は、遂に九州に居るトヨタマ姫の父親の「はでつみ」とトヨタマ姫の妹の「おと玉姫」を、一番速度の速いワニ舟で上京させました。
父親と妹は、瀬戸内海を舟で西の宮に着き、そこから「やましろ」(山背国・京都・貴船神社)に到着し、娘のトヨタマ姫に会います。
父親の「はでつみ」は、君のいる「瑞穂宮」に行くよう説得しますが、トヨタマ姫は国へ帰るので上京はいたしませんと頑なに拒否しました。

トヨタマ姫は、父親に私の代わりに妹の「おと玉姫」を君に捧げてくださいと頼みました。やむなく、父親の「はでつみ」と妹の「おと玉姫」は、共に都へ上京して、このことを申し伝えました。
君(ヒコホホデミ)は、この申し出を受け入れて、妹の「おと玉姫」を妃に召上げました。

大上君は、天の日嗣を若宮(ヒコホホデミ)に捧げるため、「シノ宮」(ヒコホホデミが住まわれていた)に、お出ましになり、瑞穂宮(滋賀県)では、新治宮(茨城県)の前例に倣って「ゆき」・「すき」の宮を作り、大嘗祭をとり行いました。

君(ヒコホホデミ)は、トヨタマ姫に戻るよう説得してきましたが、「みつはめの宮」(貴船神社)を出ることはありませんでした。
 
明くる年になり、大上君は、わけつち山から、葵と桂の枝葉を袖に掛けてトヨタマ姫のいる貴船神社に行き着きました。

大上君は、持ってきた葉を示して、どちらも左右対称の双葉で片方が欠けている葉はありません。葵も桂も左右対称の双葉だからこそ、葵の葉であり桂の葉と言えるのです。

貴女は世を捨てて人の道を欠いているのではありませんか。と問われ、トヨタマ姫は、自分の取っていた行動に気が付き、恐れながら、人の道を欠いているとは思いませんでした。と答えます。
舟が割れて海に落ち、着ているものを脱ぎ捨て、渚を必死で泳ぎましたが、肌をさらしたあざけりを受けました。産屋では身に何もまとわないで腹這いになっている所を見られてしまい恥を更に重ねてしまいました。どうして、今更、宮に上ることが出来るでしょうか。とトヨタマ姫は答えました。

大上君は、貴女の言うことは恥でも何でもありませんよ。
勝手神が以前申されていたように、覗く恥は貴女にではなく、覗いた君が悪いのです。
しかしながら、左右一対の葵桂の葉のように伊勢の道(男女の道)を得れば、「ひとい」(人の意・相手の気持ち)を悟ることになります。

葵の葉は女性を表し、桂の葉は男性を表していることが分かります。

この大上君の御幸に美穂津姫が付き添ってきておりました。
美穂津姫とはクシヒコ(コトシロヌシ・二代目大物主・通称恵比寿様)の妻です。

大上君が美穂津姫に意見を求めたところ、うなずかれ大上君に御心を痛めることはありません。君ヒコホホデミと姫(トヨタマ姫)とは、日(太陽)と月の関係のように共に睦まじくなさりますよ。なくてはならない関係です。と申されました。

これを聞いて、大上君は喜び、「たけづみ」に豊玉姫を養生させよと河合の国(京都市左京区、高野川と加茂川の合流付近)を賜わりました。

その後、大上君は、貴船神社の山奥の谷を出て、「むろつ」(兵庫県たつの市御津町室津)に着き、ここで遺言をされ、亀舟の到着を待ちました。
「むろつ」で、大上君の御幸の門出を見送り、亀舟に乗った大上君は瀬戸内海を経由して鹿児島に向い、「そお」(曽於)国の高千穂の峰に敬意を捧げました。

大上君は高千穂の峰(霧島山)から「あさま」(朝間・浅間神社・富士山)の方から昇る太陽(日の霊・日の出)に向かってご来光を祈ります。
そこで、この地を「ひむかう国」(日向国)と名付けました。

「ほつま国」に居られる姫(このはなさくや姫)は、「あさま」(朝間・浅間神社・富士山)から、月が沈む西の方角に向かって、月の霊にお辞儀をして敬意を捧げました。
月が西に沈むように、妃(このはなさくや姫)の御霊は、高千穂の峰(霧島山)に沈み、神となられました。
このはなさくや姫は、生前、「あさまの神・浅間神社」や「子安神」と称せられました。

時同じく「いづの神」は、別雷神(わけいかづち)の「すべら神」とも称せられ高千穂の峰の神となりました。
西と東で遠く離れていてもお互いの方を向いて同時に神上がり(お亡くなり)しました。御霊は同じところに居られると言っているようです。

このお二人の神上がりを知ったトヨタマ姫は「わけつち山」(別雷神山)で、48日の喪に服し、その後の一周忌では御饗(みあえ)をして祀りました。

天君(ヒコホホデミ)が、このトヨタマ姫の行いを知り、天児屋根に「よりを戻す」良い方法は何かないものかを尋ね、父上と母上の時の前例があることを知り、更に美穂津姫に詳しく聞いたところ、歌を詠むことを勧められました。

そこで、早速、君(ヒコホホデミ)は、歌にしたため、その歌札を美穂津姫が自分の孫の「いそより姫」に遣わせました。

トヨタマ姫は「いそより姫」を迎い入れ、君からの歌を詠みました。

沖つ鳥 鴨着く島に
我が寝ねし 妹は忘らじ
世(夜)の事々も

沖つ鳥が餌を探し求めてさ迷い歩いているかのように、鴨舟が島に着いたとき(天下・神々から下々まで範疇にして)以来、私はずうっと貴女を探し求めているのです。
私は愛を語らい寄り添って一緒に寝たときの貴方のことは今でも忘れられません。その夜のことも一日たりとも忘れたことはありません。

「いそより姫」は、更に美穂津姫から預かった歌も詠みました。

忌みといい 汚れを絶つる
日の本の 神の心を
知るひとぞ神

出産後の忌み(穢れを避けて謹慎すること)として、穢れを断つために、身を隠してこられました。75日も過ぎ、謹慎期間は既に終わっており、晴れて日の当たる表に出られては如何ですか。
太陽の元の神は君のことであり、君の心を知る人こそ神ですよ。

この歌を受け取ったトヨタマ姫は、返し歌をしたためて、葵の葉に包み、君の歌を桂の葉に包んで、水引草で結び、文箱におさめました。

「ミヒキ草」(水引草・ミズヒキ)とは、紅白に見える花序(かじょ・赤白の花の配列)が水引に似ていて、後に寿に水引が使われるようになった原型がここにあったことを知りました。

この文箱を「いそより姫」は持ち帰り、君に捧げました

君は自ら受け取った文箱の結びをほどき、トヨタマ姫からの歌を詠みました。

沖つ鳥 鴨(天下・神々から下々まで)を治むる
君ならで 世(夜)の事々を
えやは防せがん

さ迷い歩いている沖つ鳥のように貴方が、鴨舟が島に着いた(天下・神々から下々まで範疇にされた)とき以来、貴方以外には今までさ迷ってきた私の「えや」「えやみ・疫病・心の病)を取り除いてくれる人はおりません。


このトヨタマ姫からの歌を三度詠まれた君は涙が止まらず、膝の上に置いていた葵葉に涙が落ち、裳が染まりました。この歌によって二人の気持ちが通じて、お迎いの御輿にトヨタマ姫を乗せて、宮入りし、天下晴れての中宮となられ、万人が喜びました。

今でも、歌は心を癒してくれますが、親子二代にわたって二人が結ばれた、心に響く歌と、この波乱万丈の話に感動し、ホツマ・エッセイとしてまとめてみました。

この宮入りを祝して、こ葵の御衣を錦綾織に残し、菊散(ここちり)と、山葉止色(やまはといろ・山葉留彩)の綾錦を合わせて三つを神の装いとして代々伝えられることになりました。

PS: 「天孫ニニキネ」、「わけいかづち」の天君、「いづの神」、別雷神(わけいかづち)の「すべら神」、大上君は全て同一人物です。
ジョンレノ・ホツマ

海幸彦・山幸彦の物語 その2

 海幸彦・山幸彦の物語 その2 (2015/7/24up)

この二人の背景や行動に何が隠されているのか、興味をもっていました。

海幸彦・山幸彦は天照神の曾孫に当たる三つ子の次男と三男ですが、ホツマツタヱ25綾の中に、ほんの一部分だけが取り上げられているからです。

昔話に出てくる海幸彦・山幸彦の原点ですが、
北の津(敦賀)を治めていた海幸彦と山幸彦ですが、ある日のこと、兄の海幸彦がお互いの持ち物を交換してみようと言い、弟の山幸彦も、うなずきました。

兄は弓矢を受け取り山へ狩りに行きました。弟は海に行き釣りをしました。しかしながら、二人とも何の成果もなく空しい結果でした。
兄は弓矢を返し、弟に「ち・鉤」(釣り針)を返すよう求めました。しかし、弟は釣り針を魚に取られてしまい返すことが出来ませんでした。

どうしようもなく、新しい釣り針を探し求めて渡しましたが、兄は受け付けませんでした。何としても、元の釣り針でなければならないと徴(はた)りました。(催促しました)
弟はやむを得ず、「太刀」を潰して「ち」(釣り針)を沢山作り、「ひとみ」に盛って返しましたが、それでもなお怒り、沢山は要らない。元の「ち」(釣り針)でなければならないと強く督促しました。


弟は成すすべもなく、浜でうな垂れて憂いていました。そして、浜辺に雁が仕掛けられていた罠に引っ掛かっていたので逃してやりました。「かりわなにおつ」は、罠に引っ掛かかるという内容で、弟が罠に掛かったことを暗示しているようにも思えます。


これを「しほつつ」(塩土)の翁(おじ)が見ており、理由を聞きました。
弟(山幸彦・三男うつきね)は、ありのままの出来事を一部始終話しました
翁(おじ・塩椎神)は、そんなに落ち込んで心配することはないよ。
事がうまく運ぶように計画を立ててあげるから、まかしておきなさいと言いました。
翁(おじ)は、そう言うと、「めなしかたあみ」(間無堅網・目の込んだ網)を鴨舟に入れ、歌詠み札と一緒に君(うつきね)も船に乗せて、帆を上げて、「ともづな」(纜・船尾にあって舟を陸地に繋ぎとめておく綱)を解き放ちました。


「めなしかたあみ」とは、目の込んだ網、目が細かく隙間のない網・籠の意味とのことです。一体、何を取ろうと意図したのでしょうか?
「うまし」の浜とは「鵜戸の浜」(鵜戸神宮)のことのようです。
鵜戸の浜に着いてから、鴨船、網(間無堅網・目の込んだ網)を置いたまま捨てて、丘の方に向かいました。
そこでは、「そお」(日向)の「はで神」の瑞垣の高台が陽に輝いていました。
やがて、日が暮れてきたので、「はえば」(うらじろ)や「ゆづり葉」(楪・譲葉)を敷き詰めて、寝て夜が明けるのを待ちました。


「はえば」は「うらじろ」のことで、昔の山師は金鉱脈を探すのに「うらじろ」が群生している所を目安にしていたようです。

前述の「うてなかがやく」という「かがやく」は金のことを暗示していたことが分かります。

「かがやく」という言葉が、
どの紋であったか、後日見直しますが、仙台地方の金華山のところでも同じ表現があったような気がします。

後の29綾にも神武天皇が「ながすねひこ」と戦っている所で「こかね うのとり ・・・ そのひかり てりかがやけば・・」とあるようにここでも「金」が見え隠れしています。
熊野(紀州鉱山)で産出される銅は金の含有が多かったようで、どちらも、「金」にまつわっていることが分かって来ました。


そういう気で読み直すと、「しきもして」と「いねもせて」には、「敷き詰めて、寝て夜明けを待つ」という本来の意味の他に、「もして」は「燃す」という、金鉱石の精錬が行われていた暗示があるようにとれます。
更に、「いね」は稲の他に鋳ものの鉱石を暗示しているようにも思えます。なぜなら、この付近には金鉱脈があったと考えられるからです。現在でも鹿児島県の菱刈鉱山の金の産出量は日本一だそうです。
朝日とともに、海女たちが、戸を開けて、群がって出てきました。その中の「わか姫」が、「まり」(鋺・椀、水や食物を入れる器。椀や柄杓(ひしゃく)の類)を持って、井戸から若水を汲もうとしました。
そのとき、井戸のつるべが跳ね上がったとき、人影が映ったのを見て、驚いて中に入り、父親にそのことを知らせました。
 「そらつ」(空の津・天上)の方か、高貴な方がおられます。と「わか姫」は、父に告げました。
父(はで神)は、着ている衣裳を遠くから覗み見て、早速この主のために八重の畳を用意して敷き、部屋の中に入るよう申し上げました。そして、事情をお聞きになりました。
君(山幸彦・三男うつきね)は、今までの出来事を全てお話されました。それを聞いて「はで神」は暫し考えこんでしまいました。
そこへ、鵜戸守(見張り)が、「はで神」の元へ来て、浜に誰のものか分からない堅網の入った鴨舟が漂着していますと報告しました。新年早々、舟の中を見ると歌札が染められており(書かれて)添えられており、取り出してみると、和歌が記されていました。
塩土(しおづつ)が、間無堅網(目の込んだ網)を用意しました。春の魚(べら・すずき科)を釣り上げようとして、釣り針を取られてしまい、君は探し求められています。神風でこの舟を「はで」の神のところまで無事着いて、探してもらえないものだろうか。

「みちひのたま」の「たま」は君(山幸彦・三男うつきね)のことを言っているようにも思えました。
塩土(しおづつ)の翁は、君(山幸彦・三男うつきね)が、以前筑紫の親王であったことを知ったから、「はでのかんかぜ」で締めくくったと考えたからです。

別解釈の1(途中)
塩土(しおづつ)が、間無堅網(目の込んだ網)。はるべらや
この「たま」(地球)には、「みちひ」(満潮・干潮)があります。
「はで」の神風はこの満ち干のときに吹く風です。

「みちひのたま」は、干潮になった時、自然水銀が玉のように現れることを暗示しているようにも思えます。特に有明海は干満の差が大きく、水銀も産出していたことが窺えるからです。「たま」を地球と自然水銀の両方をかけていると思いました。

「へら」で干潮で現れた水銀を引き寄せて、目の込んだ網に取り込む。

「へら」とは、金属などを細長く薄く平らに削り,先端を少しとがらせた道具の事。
あるいは、ヘラ鮒とか魚の「べら」と掛け合わせている。

別解釈の2(更に途中)
可能性があるかどうか分かりませんが、後半部分で「みちひのたま」を投げるという記述があります。
もし、投げた場所が、琵琶湖であるならば、琵琶湖の海抜が85mあることを利用していたことの暗示のように考えてしまいます。
インクラインの原型が何かあったのかも知れないと推測しました。
そこで「はで神」は、海女を皆集めて、取られた釣り針をどう探すかを聞きました。
「ひきめ」(曳き女)は「あらこ網」(地引網)を曳くのはどうでしょうと言いました。
「くちめ」(口女)は、釣り上げてはと言いましたが、今一つ良い方法とは思えませんでした。
「あかめ」(赤女)の一人が鴨船に積まれている「めなしあみ」(間無堅網)を使ってみたらどうでしょうかと提案しました。

かなり、無理がある内容というか、何か表に出せないことを避けるため、話の辻褄を合わせていくための物語にしているような気がするのですが・・・・・。
「はで神」は、この赤女の考えに同意して、海女皆を赤女と一緒に「めなし網」を使って探すことにしました。
「めなし網」を使って、大きな鯛の四方全てのヒレ(尾びれ・背びれ・腹びれ・胸ひれ・尻ひれ)を捕まえてみると、この鯛が「ぐち」(スズキ目ニベ科の魚)を噛み加えていました。
そして、鯛は赤女の前に現れました。

鯛がひれ伏したことを表しているようです。
赤女は「ぐち」に引っ掛かっていた以前から探し求めていた鉤(ち・釣り針)を得ることが出来ました。
鯛を生簀に入れておきなさいと言いました。
(ひれ伏した鯛に生簀で待つようにと言いました。)

ここでは、モトチを元(モト・以前)のチ(鉤・釣り針)と解釈せざるを得ない。

鯛を擬人化しています。敦賀で取られた釣り針が九州にまでこの「ぐち」が泳いで流れ着くことがあり得るのだろうか??

赤女がこのことを「はで神」に告げると、既に夢で知っていました。
鯛が私の所に来て、
「我は、魚のよしなしのために「ぐち」を捧げます。私を神の御饌にしてください。」

これを聞いて、君(うつきね)は詔りをしました。
鯛は魚の中の王君である。神の御饌にしましょう。紋は鱗を三つの山に描いて、返しました。
三ツ山の紋所はこの鯛のことです。
しかし、「ぐち」は忌むことになり、神の御饌には用いなくなりました。
君(うつきね)は、赤女を褒めて、「よと姫」と名を賜わりました。
君(うつきね)は、探し求めていた「ち・鉤」(釣り針)を手にすることが出来、やっと喜ぶことが出来ました。

「よと姫」という名前は、「よもひれとれば」の「よもひれ」の「よ」と「とれば」の「と」から、「よと」姫と名付けられたようです。
探し求めていた「ち・鉤」(釣り針)を見つけたので、早速、「しがの神」に返しに行ってもらう事にしました。
「しがの神」は「わに舟」(王位の大きな舟・一番速い舟)に乗って行き、大津の「しの宮」で「やまくい」(比叡山を築いた)を招き、お付きの者も一緒に鵜川(滋賀県高島市)に行きました。

大津の「しの宮」は、ウツキネが主となっている宮になります。
「やまくい」を招いたのは、「しの宮」で「ウツキネ」留守の役をしていたからだと思います。
鵜川(滋賀県高島市)の兄の「すせり宮」(海幸彦)に会いに行ったところ、何事かと聞かれ、「やまくい」は、昔、君(うつきね・山幸彦)が「ち・鉤」(釣り針)を借りたとき、魚に取られたものをやっと見つけたものです。
とられた魚からとりかえしましたので、急ぎ、弟君に代わって「しがの神」がお届けにきたものです。と言って、「しがの神」は「ち・鉤」(釣り針)を掲げて奉りました。
「すせり宮」(次男・さくらぎ)は、様子をうかがい乍ら確かに私の「ち・鉤」(釣り針)です。と言って、そのまま、その場を立ち去ろうとしました。
その態度に、「しがの神」は、ちょっと待ちなさいと言って「すせり宮」の袖を持って引き返そうとするのを止めました。
すると、「すせり宮」は怒り、理由もなくてなぜ我を呪う(言いがかりをつける・文句を言う)のだと言い放ち、私(兄・ゑ)には弟が直接持ってきて然るべきだと答えました。
そう答えるや否や「しがの神」は、「ち・鉤」(釣り針)を貸すときには、口糸を新しく取り換えて貸すのが常識である。そのぐらいのことを知って初めて幸彦という名前に値するものだ。
そんなことも知らないようならば、弟の「こまばい」になって詫びるべきだと強く言いました。
すると、更に怒り狂った「すせり宮」は、舟を出して沖へ漕ぎ出しました。
 
そこで、「しがの神」が、「干」(ひ・干潮)の「たま」を投げると湖は干上がってしまいました。

「しが」(しがの神)は、追って行き船に乗り込みました。「みや」(すせり宮・海幸彦)は、慌てて船から飛び降りて逃げました。
「やまくい」も、一緒に追いかけ、逃げる「みや」(すせり宮・海幸彦)の手を捕まえて引き戻しました。
「しがの神」は、今度は「満」(みち・満潮)の「たま」を投げると、今度は湖の水が溢れだし、「すせり宮」は溺れそうになりました。

塩土の翁が歌った歌にある「みちひのたま」と関係がありそうです。

しほづゝが めなしかたあみ(25-16)
はるべらや みちひのたまは
はでのかんかぜ

この場所は、琵琶湖での状況にしては、理解に苦しみました。
先の「みちひ」というのは、満潮干潮の満干(みちひ)を言っていることも考えられ、特に有明湾の満潮干潮の差が大きいことを示している可能性を最初に考えました。そうであれば、干潮時に純粋銀が玉状になって現れていたことが推測できるからです。満潮になったら水没してしまうことを言っているように思えます。

もう一つは、琵琶湖であれば、琵琶湖の海抜が85mあることから、インクラインの原型が何かあって、水門を開けたり(上流・下流)閉じたり(下流・上流の水門)たのかも知れないと推測しました。とすれば、舟で大阪湾から琵琶湖まで航行出来たことになるのですが???
すると、「すせり宮」は、お前ら!助けてくれ!と言い、我は、生涯、弟の「こま」のようになって、糧を受けます。(言うとおりにします)
ここで、二人は「すせり宮」を許しました。
そして、仲直りして、迎いの船に乗り「すせり宮」は「鵜川の宮」に帰り、「しが神」は筑紫の宮に帰りました。

迎いの舟に乗るということは、やはり遠方まで行っていたことになるようです。

「むつみてぞさる」 の「さる」には、深い意味が隠されているような気がします。後に、日嗣が山幸彦(うつきね)に、譲られる布石のように思えるからです。
************
海幸彦はホノススミ・サクラギと言い、スセリという名前もついています。
山幸彦はヒコホホデミ・ウツキネと言い、
たニニキネはシノ宮(三男坊のウツキネ)に筑紫の親王になるよう命じます。九州を統率する最高責任者です。


、二人の息子(この、海幸彦・山幸彦)に北の津(今の敦賀・)に行くよう命じています。
ここでも、渡来系の人との間でもめ事が起きていたからだと思われます。

この北の津(今の敦賀)で、二人はある日のこと、持ち物を交換しようという話の展開になります。
日光二荒山のふもとの宇都宮に住んでいました。


「ち」を釣り針と読んでいるが、他の意味も隠されていることが次第に分かってきます。

弟は成すすべもなく、浜でうな垂れて憂いていました。すると、雁が仕掛けられていた罠に引っ掛かっていたので逃してやりました。
これを「しほつつ」(塩土)の翁(おじ)が見ており、理由を聞きました。塩椎神

「かりわなにおつ」は、罠に引っ掛かかるという内容で、弟が罠に掛かったことを暗示しているように思えます。



               ジョンレノ・ホツマ

海幸彦・山幸彦の物語 その1 生い立ち

 海幸彦・山幸彦の物語 その1 生い立ち(2015/410up)

この物語は、児童書や絵本の古典としても有名ですが、詳しくは覚えていなかったので図書館にある児童書を借りてストーリーに目を通して見ました。
今、解読中のホツマツタヱ25綾に、この海幸彦・山幸彦が出てきたからです。

この綾の解読が難解なのに面白いのは、表向きに作られた話と、表沙汰に出来ない当時の機密事項が重ね合わせていると思われるようです。
また、立場上、触れたくない内容、不具合な状況など、簡単に事実のみ一言二言書いているだけで、省略されていたり、時間の経過が前後していたり、話が突然とんでいたりするから良く分からない所があるからです。

何が隠されていて、この話にひきつけられるのか、この二人の背景や行動を整理して見れば、問題点が浮かび上がってくるのではないかと思いました。

物語にでてくる主人公である、海幸彦・山幸彦は三つ子の次男と三男です。天照神の曾孫に当たります。
父親は天孫ニニキネ(天照神のお孫さん)になります。母親は「このはなさくや姫」と言います。

生い立ちの始めですが、父親になる天孫ニニキネが、八洲巡り(日本全国の現状を把握)のため、馬に乗った80人ものお伴を従え、開拓しながら御幸していました。
途中、一行を迎えた酒折宮で、ニニキネに御膳を捧げたアシツ姫(大山祇園の下の娘・後の「このはなさくや姫」)と、旅先で一夜の契りを結ぶことになります。
アシツ姫は妊娠し、途中いろいろなことがありましたが最後にハッピーエンドに収まります。この詳細は、以前の「このはなさくや姫」の物語にありますのでここでは省略します。

さて、主人公の一人、海幸彦は三つ子の次男でホノススミ・サクラギと言い、スセリという名前もついています。
吹き出物が出来、酢芹草(スセリ)で掃き清めたら枯れ癒えたのでスセリとも言うようにもなりました。
住まいは、当初、新治宮(茨城県)に住んでいましたが、後に滋賀県の高島市、鵜川(琵琶湖の西側)に移ります。

三男の山幸彦はヒコホホデミ・ウツキネと言い、日光二荒山のふもとの宇都宮に住んでいました。
ウツキネの「ウ」は、卯の花の「う」から来ており、住んでいたところをウツキネのウツを取って「ウツ」の宮とも呼ばれ、今の宇都宮の語源にもなっています。

鵜川(琵琶湖の西側)に住みたいと申し入れたが許されず、滋賀県大津市の「シノ宮」(磯の宮・琵琶湖の南側)という所に移ります。

なお、三つ子の長男はホノアカリ・ムメヒト(梅仁)というハラ君でハラミ山(蓬莱宮・現富士山)の麓に構えていました。

さて、話がかわり、筑紫(九州)で反乱が起きているので皇子に来るよう要望があり、時の天皇であったニニキネはシノ宮(三男坊のウツキネ)に筑紫の親王になるよう命じます。九州を統率する最高責任者です。

この後、話が飛んでおり、このシノ宮(三男)が兄(長男)のハラの宮(ムメヒト)にあいさつに行き、暇を乞い願いに行っています。
頭の中で辻褄が合わず如何したものか考えあぐんでいましたが、やっと納得できるようになりました。
それは、任命されて、筑紫(九州)へ馳せ参じて向かったものの、手に負えず、すごすごと引き下がってきたから、そこの記述が一切触れられていないことを知ったからです。

父親に報告する前に、兄のハラ宮(ムメヒト)へ助けを求めに行ったものと分かりました。そこから、兄のムメヒトと一緒に瑞穂の国に居られる天君(ニニキネ)に謁見に行っています。

報告を聞いて、筑紫(九州)での反乱について、食糧不足が原因であるから、解決までには長期間かかると見ています。天皇(ニニキネ)自らが行って解決しなければと判断されます。
紀元前2500年ごろ九州で大戦乱の跡が残っているのはこの時のことかも知れません。背景には、人口増加によるものと考えられ、大陸から大挙して渡来してきた人たちとの間で食料の取り合いでもめていたものと考えられます。そのため、根本解決のため水田開拓に精を出されます。弥生時代の始まりにも結び付きます。

天皇自らが九州へ行くと同時に、二人の息子(この、海幸彦・山幸彦)に北の津(今の敦賀・今回選抜高校野球で優勝した敦賀気比高校の地元)に行くよう命じています。
ここでも、渡来系の人との間でもめ事が起きていたからだと思われます。

この北の津(今の敦賀)で、二人はある日のこと、持ち物を交換しようという話の展開になります。

次回に続く。

               ジョンレノ・ホツマ

「このはなさくや姫」の物語

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ホツマ・エッセイ 「このはなさくや姫」の物語(2014/11/6up) ジョンレノ・ホツマ

この物語は、ホツマツタヱ24綾から抜粋したもので、天照神の孫に当たる天孫瓊々杵尊(以下天孫ニニキネ)と、大山祇命の末娘葦津姫(以下アシツ姫)が出会うところから始まります。
天孫ニニキネが80人のお伴を従え水田開発のため全国各地に立ち寄った帰り道、アシツ姫と出会います。 そこで一夜の契りを結んだ姫は妬まれ、逆境に遭い、桜の木に誓いを掛けましたが、疑いが晴れず、焼身自殺を図ります。

この話は継母の虐めに遭うシンデレラ姫に例えられており、よく似ているようにも思えましたので以下に物語として取り上げてみました。

天孫ニニキネが現在の富士山の北側の麓の酒折の宮に滞在されたとき、宴席で御膳(みかしわ)を捧げたのがアシツ姫です。姫のしとやかさに惹かれ一夜を共に過ごされ契りを結びます。アシツ姫はこのとき懐妊したことが後にわかります。

さて、天孫ニニキネは翌日酒折宮から新治の宮(茨城県筑波)に帰り、大嘗祭をとりおこないますが、やはりアシツ姫のことが気になり、再び伊勢に向かうことにします。

伊勢への途中で再会した天孫ニニキネは、アシツ姫から懐妊したことをこっそりと打ち明けられます。
これを聞き天孫ニニキネは喜び、伊勢に居る天照神に告げようと早速旅支度をしました。
しかし、これを遮るかのように、アシツ姫の母が、姉を連れて来ているのでお目通りを乞い願いました。アシツ姫の母は、私が慈しんで育てた美しい姉がいます。と言葉巧みに言い寄り、天孫ニニキネを惑わせました。
天孫ニニキネは、その気にさせられてしまい、妹と姉の方にも、二心を起こしてしまいました。

その晩、姉のイワナガ姫を召されましたが、姉の様相は厳つく、見た目も悪く、一瞬で醒めて、やはりアシツ姫でなければと宣ったところ、父の大山祇命は驚いて妻を叱りつけ、早く三島へ帰れと追い返してしまいました。
さあ、大変!母と姉は立場がなくなり、この仕打ちに対して、恨みを晴らすため、下女を使って妹を落とし込もうと企みました。

たった一晩のいとなみで妊娠したというのはあり得ないことだ。妹が孕んだ子は、他の素性の分からない男の子供であると偽りを言いふらしました。

伊勢に向かう天孫ニニキネがアシツ姫を連れて白子の宿まで来たとき、このよからぬ噂が届きます。この噂を信じてしまった天孫ニニキネは、たった一晩の契りで子供が出来たことに疑いを持ち、姫を一人残したまま、あわてて夜半に出発してしまいました。

置いてきぼりにされたアシツ姫は一人寂しく後を追い駈けることにしました。しかし、松坂で関止められてしまい、止む無く白子の宿まで戻りました。

母と姉から妬まれていることを知ったアシツ姫は、この疑い・陰謀を晴らそうと、私を陥れたこの恥をすすげと一本の桜の木に誓いました。

「桜の木よ、心あらば、我が孕み もし仇種ならば 花しぼめ
正種ならば 子を産むときに 花よ咲けと 花に誓って」

12か月後、臨月を迎えたアシツ姫は、6月1日に無事、三つ子を生みました。

三つ子が生まれたこと、三つの胞衣(えな)に、それぞれ梅、桜、卯の花の模様があることを告げましたが、何の返事もなく、未だ、疑いが晴れていないことを悟りました。

そのため、アシツ姫は、子供と出入り口のない小屋に入り、この子供たちが仇種と言うならば、もう生きてはいけませんと死ぬ覚悟(焼身自殺)で、小屋に火を付けました。しかし、子どもは炎の熱さにもがき苦しみ這い出ようとしました。

これを見たハラミ山(富士山)の峰に住む竜が水を吹きかけ雨を降らせ、子供を小屋の中から無事に這い出させました。
諸人は驚き、火を消し止めて中にいた姫を引きずり出しました。そして、神輿を用意し、アシツ姫と三つ子を乗せて、酒折宮に送り届けました。この様子は伊勢に告げられました。

一方、アシツ姫が白子で祈願を掛けた桜は、子供を生んだ日(6月1日・旧暦)も咲き続けて絶えることはありませんでした。

天孫ニニキネは、この桜の花が咲き続けていることを知り、アシツ姫の子供は自分の子供に間違いないと悟り、鴨船を飛ばして興津浜に着き、そこからは雉(伝令)を飛ばして、到着した旨を酒折宮に告げました。

アシツ姫は、裏切られた天孫ニニキネのことをまだ恨んでいました。「ふすま」(掛け布団)を頭から被ったまま、伝令に返事をしませんでした。

天孫ニニキネは暫し考えて和歌を短冊にしたため、興津彦命(おきつひこ)を勅使として、この短冊をアシツ姫に届け捧げました。


「おきつもは 辺(へ)には寄れども
さ寝床も あたわぬ鴨よ
浜つ千鳥よ」

(興津浜に)置き去りにした妹(貴方)は、傍まで寄りそうと追いかけてきてくれましたが、私たちは、愛を語らい交わり添い寝することも叶わず、夫婦になれなかった鴨のようです。あちこち、さ迷い続けている浜千鳥のようです。

この歌を詠んでアシツ姫は、今までの恨んでいた涙は溶け落ちて胸にキュンときて、興津浜の天孫ニニキネのところまで富士の裾野を裸足で駆け走りました。
アシツ姫の喜び勇んだ顔を見て、天孫ニニキネも喜びました。

幸せを勝ち取った二人は神輿に並べて乗って酒折宮へと向かいました。

また、アシツ姫は子供を生んで母親になった日から、花が絶えず咲き誇るようになったので、姫の名を木花之開耶姫(這花咲耶姫・このはなさくや姫)と呼ぶようになりました。
「このはなさくや姫」は、乳母を必要とせず、自分の乳だけで3人の子供を一人前に育てあげましたので、子安の神とも称えられました。

なお、三つ子の名前には胞衣に現れた花模様を付けることにしました。
最初に出てきた子供の名を火明尊(ほのあかり)、実名を梅仁(うめひと)と、
二番目に生まれた子は火進尊(ほのすすみ)、実名を桜杵(さくらぎ)と、
末の三番目の子は彦炎出見尊(彦火火出見尊・ひこほほでみ)、実名を卯杵(うつきね)と名付けました。


古事記・日本書紀と対比してある三書比較「定本ホツマツタヱ」(展望社発行)で、見比べてみました。この個所は部分的であっても取り上げられていますので、既にご存知の方がいらっしゃるとは思います。しかし、内容的に細かいニュアンスなどは、五七調のやまと言葉で書かれたホツマツタヱに勝るものはないと改めて思った次第です。
以上

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高畠精二先生のホツマツタヱのHP

高畠精二先生のホツマツタヱ勉強会が、2012年10月より再開いたしました。
以前の勉強会の様子ですがご覧になれます。

ホツマツタヱ勉強会は、現在15綾を学習中です。食物の話の中で、この後、ココリ姫・西王母・夏の国という名称なども登場します。

次回9月10日(火))になります。8月はお休みです。
 時間は、18:30~20:30です。会場は「なかのZERO」西館3階学習室4です。
東京都中野区中野2-9-7 JR中野駅南口より東に線路沿いに約10分ぐらいです。

参加ご希望の方は直接会場にお越しください。参加費は500円(テキスト代込み)です。
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 「万歳(才)!」と「ヨロトシ」 

ホツマ・エッセイ 「万歳(才)!」と「ヨロトシ」  (2014/10/16up)      ジョンレノ・ホツマ

ホツマツタヱの記述の中に、「ヨロトシ」という言葉が22個所に出てきます。

今の世は ただう「ヨロトシ」生きなるる(1綾)
ます「ヨロトシ」の寿も(23綾)
寿も もも「ヨロトシ」ぞ(23綾)
「ヨロトシ」を祝いて(26綾)
賑わいて「ヨロトシ」歌ふ(27綾)
「ヨロトシ」満ちて(28綾)
寿(ことほぎ)ぎし「よろとし」歌ふ(30綾)

などの「ヨロトシ」は、内容的に見て現在の「万歳(才)」の意味合いに通じる言葉で、「ヨロトシ歌ふ」とは、万歳(才)三唱を意味しているようです。

このことから、古代の人は、御祝い事のときに「ヨロトシ・ヨロトシ・ヨロトシ」と言っていたものが、漢字が渡来して「よろ」は「萬」、「とし」は「歳」という漢字が当てはめられ、時代と共にいつしか訓読みから音読みに変化し、「バンザイ」と呼ばれるようになったと考えられます。
元々は、「喜ぶ」という意味の「ヨロ」であったことを改めて認識しました。

また、数字の単位で、「ヨロ」は「万」の意味があります。なお、「十」は「ソ」、「百」は「モモ」、「千」は「チ」と言っていました。

そこで、今まで、数字と一緒に書かれている記述について、単純に解釈していましたが、年数がどうも大きすぎて合わないという疑問がありました。
今回、数字と共に表記されている「ヨロトシ」の「ヨロ」は、「よろ」こばしい(喜ばしい・慶ばしい・悦ばしい)とか、「よろしい」(宜しい)とかいう言葉とも共通性のある「喜ぶ」という意味に理解しました。

ヤヨロトシ(6綾)⇒八万年⇒平穏無事で喜ばしい八年間、
ムヨロトシ(21綾)⇒六万年⇒平穏無事で喜ばしい六年間、
モモヨロトシ(23綾)⇒百万年⇒平穏無事で喜ばしい百年間、
ソヨロトシ(24綾)⇒十万年⇒平穏無事で喜ばしい十年間、
ミソヒヨロトシ(26綾)⇒三十一万年⇒平穏無事で喜ばしい三十一年間、
ヨソイヨロトシ(27綾)⇒四十五万年⇒平穏無事で喜ばしい四十五年間、、
フソイヨロトシ(28綾)⇒二十五万年⇒平穏無事で喜ばしい二十五年間、、
ソヤヨロトシ(28綾)⇒十八万年⇒平穏無事で喜ばしい十八年間
というように今までの自分の解読内容を置き換えることにしました。

以上

 卑弥呼と邪馬台国 

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以下の内容は2014年の時に思い込んでいたものです。現在、魏志倭人伝の中の邪馬台国・ヤマタイコクは、場所を特定するよりも、黄金の国、ジパングのことと広く捉えたいと思っています。2019/8/21

ホツマ・エッセイ 卑弥呼と邪馬台国  (2014/6/13)
           ジョンレノ・ホツマ

先週、NHKのTVで、歴史秘話ヒストリア古代史ミステリ!なる番組が目に留まりました。
卑弥呼や邪馬台国をメインにしていましたが、推論しか出てこず、残念で空しく思えました。途中で電源を切ってしまいましたが、世間ではホツマツタヱのことが知られていないのと、例え知っていても表ざたできない制約が、今も昔も取り巻いていると悟りました。

現在、我々庶民を取り巻いている政治の世界も、原子力の世界も、放射能汚染の問題も、医療の世界も、食の問題もいずこも、権力者にとって都合の悪いことは伏せられて表に出せない現実があることを改めて思い起こした次第です。

他の人が知らなかったり気が付かない事実を自分が知っていれば教えたくもなり、分かってもらいたいと思い、ホツマツタヱの記述の観点から解説させていただきます。

一つは、現在発掘中の大規模な宮殿跡の纏向遺跡と卑弥呼の関係:
番組では、この纏向遺跡を卑弥呼の住まいであったのではないかと推測しています。神殿の作り方は九州の遺跡と同じで関連があったと考えられ、更には、この遺跡からは、全国各地からの陶器も発見されており、各地と交流があったことを解説していました。

ホツマツタヱ38綾を読めば、纏向遺跡は景行天皇(人皇12代・ヤマトオシロワケ)の住まいであり、いわゆる卑弥呼とは関係がないことが明らかになるのですが、・・・。
景行天皇のお妃たちは、播磨の吉備津彦の娘「おいらつ姫」、紀の国のうじまろの娘「やまとかけ姫」、美濃の「やさかいり姫」、その他、三尾(安曇川)など、更に九州時代の日向には「みはかせ姫」も含め8人おられました。お妃として嫁ぐときに、地元の陶器も持参されてきていると考えれば出土して当然のことと考えられます。
景行天皇は父垂仁天皇の皇子で、ヤマトタケを含めてお子さん総勢81人も居たことが記されています。

では、卑弥呼とは誰?という疑問について、まず漢字が分かりにくくしています。
ホツマツタヱを読んでいると、「ヒミコ」とは、「ひのみこ」・「ヒ」の「みこ」、すなわち、日・太陽の皇子という意味から、天照神の子孫のこと、天上の神をお祭りする役目でもあることが読み取れます。つまり、個人名ではなく、役目につけられた名前のことです。

この天照神の御霊を守る役目であり、後に斎女と呼ばれており、魏志倭人伝の書かれた頃の斎女(ひのみこ)は「やまと姫」の事を示していると考えます。

この斎女は初代が「とよすき姫」、2代目が「やまと姫」3代目が「いもの姫」と続きます。
丹後・宮津の「あさひ宮」に祀られていた天照神の御霊と豊受神の御霊は伊勢に移されます。

斎女「やまと姫」は腹違いですが景行天皇の姉にあたります。

「やまと姫」が引退して「いもの姫」に引き継がれる時、80人の物部と12人の役人が一緒であったことが分かります。景行天皇の妃・子供たちとほぼ同じ人数を引き連れていたことになります。伊勢の斎宮跡が今後発掘されてくれば、今の纏向遺跡の規模に勝るとも劣らないものではないかと推測しています。

更にここでは暦も作っていたという記述から、天体観測もしていたと思われ、魏志倭人伝の鬼道を占うという表現とも合致します。
「いもの姫」は引継いだ時の年齢が14才とあり、魏志倭人伝の年齢13才の記載はとほぼ同じと見なせると思います。
ですから、斎宮が「ひみこ」の住まいであったと言えると思います。

では、問題の邪馬台国の所在はどこか?について、畿内説、九州説と相変わらず盛んですが、見当違いの思い込みで言い争いをしているようで残念です。大和朝廷の目から見ての考察が主になっており、紀元前からの整然とした歴史の流れをホツマツタヱから読み解いていくと自ずと見えて来るのですが、今までのご自分の立場を守るためにもホツマツタヱを無視せざるを得ない状況であるから已むを得ないと思っています。

今までの自分が理解している範囲ですが、
現在、伊勢神宮の外宮に祀られている豊受神は、生まれ育ったところは仙台・日高見です。イザナミ・イザナギを結びつけて、当時の天皇家の代が途絶えそうになったことを救い、孫に当たる天照神を教育してきました。
更に、西王母が二度も豊受神の所に教えを請い訪れているという、俄かには信じがたい記述もあり、豊受神の日高見、今の仙台地方が、まさに日本の中心であったと分かります。

「やまたい国」の「やまたい」ですが、現在の漢字の仙台の人偏をとれば、山台となります。「やまたい」と呼ばれていた地名に、後世漢字を当てはめ、時代と共に音読みに変わったと考えることが出来ます。

ここで、「やまたい」の「い」を敷(鴫)居や鴨居のように居場所と捉えれば、「やまた」のいた所、ある所、在り処と理解できます。

「やまた」という地名が仙台市に存在します。仙台市太白区山田という地名も存在します。付近には古代遺跡も多数点在しているようです。

次に、この「やまた」の意味ですが、「やま」は山、「た」は宝の「た」から、山の宝、金や銀などの貴金属、或いは、銅や鉄などの金属も含まれるかも知れません。正に黄金が山の中にあるという場所を言い表していることに気が付きました。金が埋もれている所が「やまたい」という表現になったと考えます。
漢字化され、山田とも表されていますが、田は田んぼの田で、掘り起こして(耕して)、金属を取り出し、山から取り出した宝の意味と捉えていたことが分かります。

天照神は「いぶきど主」に「やまた縣(あがた)」と「いふき主」という名前を賜わっています。「いふき」には伊吹山もそうですが、鋳物を吹くという意味合いがあり、まさに精錬していたことも分かります。

西王母が2度も日本に来たのは、ホツマに記載されている表向きの理由とは別に、マルコポーロより以前の紀元前にも黄金を土産にしたかったのではないかと思いを馳せました。

これらのことから、「やまた」・「やまたい」は、この豊受神の日高見、今の仙台地方を示していたことになると思います。
分かりやすく言えば、現在の伊勢神宮の外宮の御祭神である豊受神が政治をとっていたところが「やまたい国」であったということになります。

また同じ「やまた」でも「やまたのおろち」の「やまた」の意味も山の宝のことで、「おろち」はこの宝、銀・銅・鉄などを精錬するとき、付近に鉱毒による汚染の危害が及び大量死を招き大蛇のように恐ろしい悪者が現れたというのが本来の意味合いであったのではないかと思います。

なお、三重県にも宇治山田という「やまた」が、大山田村と伊賀地方にもあり、「いぶき」とも関連あると考えられますが、更に解読が進んだ次の機会にいたします。

以上

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高畠精二先生のホツマツタヱのHP

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古代の日本の馬について

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ホツマエッセイ                           ジョンレノ・ホツマ 2013/10/18
古代の日本の馬について

古代日本には馬はいないと歴史で習った記憶がありました。しかし、ホツマツタヱ19綾には、馬に乗る記述があり、縄文・弥生の古代から、馬を活用して日本全国を駆け巡っていたことがわかりました。

5・7調の歌になっているので読み取るのが難解ですが、何度も読むと、何となく情景が浮かび上がるのが不思議です。

馬の乗り方から、馬への対応の仕方、馬具の個々の説明など、記述が生き生きしており、古代に書かれたものとはとても信じられない内容です。当時は、馬のことを「むま」とか「こま」と言っています。
馬術の専門用語も、当時の言葉が、そのまま今に引き継がれていることに驚くばかりです。
馬には全く縁遠い小生ですが、乗馬の心得など、今でも相通じるものを感じます。乗馬の心得のある方に、ぜひとも目を通してもらいたいと思いました。

1. 前半部分から、いつ頃のことか、どんな人物が出てくるのか、文中より列記してみました。

 「ふたかみ」(両神、いさなぎ・いさなみ)も、国中を「たづな」(手綱)を引いて乗り巡り、国を治めてきました。
この乗り技は「いふきとぬし」(伊吹戸主)や「そさのお」といった全ての神々に伝わりました。
 「ひたかみ」(日高見)の「とよけ神」が「をばしり」神に乗馬について教えます。
「とよけ神」は、豊受神で現在伊勢神宮の下宮に祀られ、「をばしり」神は鹿島神になり、「たけみかづち」と名付けられています。
 「つきすみ」国(筑紫・九州)の「おおくまど」が、「おしひと」(天照神の子)に蹄(ひづめ)の青い白馬を奉りました。「たかぎ」が黄金色の蹄の黒馬を奉りました。

これらの記述より、天照神の前後を含めた時代であることがわかります。
s020馬

2. 馬の乗り方について

2-1. 基本の技・心得

 馬に乗ることは、「ちみち」(地道、じみち・馬を普通の速さで進ませる基本動作)を常とします。
 「まこ」(馬子)に「たつな」(手綱)を引かせておいて、「むま」(馬)の右より踏み登ります。
 馬の背に、「くら」(鞍)を敷いて乗りやすくします。そして、「あぶみなわ」(鐙縄)を取り付けます。「まち」に「ゐき」(居木)あげを試します。
 馬体の「もも」(腿)に「はるび」(腹帯)を付けたときの緩さ加減に気を付けます。
「はるび」は腹帯(はらおび)とも言い、鞍橋(くらぼね)を置くときに馬の腹にめぐらす帯、布又は麻縄(おなわ)を用います。
 馬の足取りに息を合わせます。
 腰を据えて馬に乗るときに、物腰が物柔らかくしなやかであれば、馬の足取りとも息が合います。
 馬に乗るときの最も重要なことは、常に馬に対して心を落ち着かせることです。
 馬は生まれてから、人間を乗せたこともなく何も知らないので、訳も分からず走り出してしまいます。乗った途端に落とされてしまうので注意が肝心です。前もって良く訓練して教えておけば、思い通りになるものです。

2-2.「いつのり」(逸乗り・巌乗り)、「あらのり」(荒乗り)、「のりゆみ」(乗り弓・流鏑馬)の技に関して

「いつのり」(逸乗り・巌乗り)、「あらのり」(荒乗り)、「のりゆみ」(乗り弓・流鏑馬)の技でもって、「よこしま」(道から外れたこと・道理から外れたこと)を打ち抜いて不正を取り除きました。

 「いつのり」(逸乗り・巌乗り・厳しく威力ある乗り方)は、馳せるとき・速く走るときです。
 「しとなめくら」(鞍)を敷き帯にし、「はるび」(腹帯)は緩めません。
 馬のひじ除けの「たれかわ」が、「うは」(浮羽・う衣・打ち仰ぐ羽)になり、溝にはまってしまいそうになったとき、「あふみ」(鐙・あぶみ)でその「たれかわ」を打ち仰げば、風に乗り羽となって、飛び越すことが出来ます。
 馬を操って乗っている人の心に「ゆぐり」(余裕)がなければ無理に飛んではいけません。
 「くつわ」(轡)に付ける引綱を「ひとぬきのま」(一貫の間)と名付けます。(ちょっと、手を抜く加減) 今で言う、自動車のハンドルの遊びとでも言うのでしょう。
 「うつろ」(空)から、「くつわ」(轡・口輪・手綱をつけるため馬の口にかわせる金具)を通して地球の中心までを、一貫きのまっすぐな緒で貫かれていると心得えなさい。そうすれば、たとえ騎乗で馬の中心から多少外れたとしても、乗り落ちることは有りません。
 馬を慌てさせないように、わが心を人馬一体となって、一つに貫らぬかれている「たづな」(手綱)を引くことです。
 「うは」(浮羽)の「あおり」(障泥)を、打ち仰いでも、「つな」(綱・手綱)が強いと、馬は飛び越えることが出来ません。一方、「つな」(綱)が緩いと、馬はつんのめって前足を折って倒れ込んでしまいます。
 「たづな」(手綱)の引き加減には、「いず」(巌・きつく)と「ゆる」(穏・やさしく)が陰陽のように両極端だけはなく、その中間の引き加減があります。この適度の「ほとらい」(程らい・具合)を知る必要があります。 
 
3.「あれのり」(荒れ乗り)の三十九手(通り)の「はなわざ」(離れ技・花技)も、また、慣れ染み(慣れ親しんで)ました。「いづのり」(逸乗り・厳乗り)の五十九連発もの「さつめ」(早詰)の「たえわざ」(妙技・曲芸)を披露しました。

4.「ますびと」(益人・役人)が乗馬しようと群がったが、「むつの神」が「おしで」を賜り払いのけました。乗馬は誰にでもできるわけではなく、ごく限られた人であったことが分かります。

今までの歴史書にあるように、地方、地方で閉鎖されていた社会ではなく、全国規模で伝達されていた事実にも納得できる一端になってくると思います。歴史の見直しの一端になればと願っております。 

ほつま・エッセイ  気象神社 

ほつま・エッセイ  気象神社                 ジョンレノ・ホツマ 2012/2/2

JR高円寺駅の近くに氷川神社があります。脇に小さな摂社の気象神社という神社があることを最近になって知りました。
名前からしてそれほど古くはないと思い、何気なく由緒書きを見たら、昭和19(1944)年4月10日に陸軍気象部の構内に造営され、戦後の神道指令で除去されるはずが、連合軍宗教調査局の調査漏れで残ったとありました。気象神社なるものは、日本で一つだけだそうです。
気象神社

更に、驚いたのは、御祭神が思兼(おもいかね)命と知ったからです。なぜだか、微笑ましく思えました。
というのは、この「おもいかね」というユニークな名前の謂われについて、「ほつまつたえ」に記述があったのを思い出したからです。
「あちひこ」なる人物が、天照神のお姉さんの「わか姫」の許へ勅使として来た時、「わか姫」は一目見て恋焦がれてしまいました。「わか姫」は胸の思いを歌冊(うたみ)に染めて(書いて)思い余って(思い兼ねて)、この恋文(歌)を差し出してしまいます。
「あちひこ」はつい受け取ってしまい、突然の告白にどう返事をして良いか窮してしまいます。

きしいこそ つまをみきわに ことのねの とこにわきみを まつそこいしき

この恋文を漢字まじりにすると、
紀州こそ 妻を身際に 琴の音の 床に吾(我)君を 待つぞ恋しき
(紀州にいらしてください。私は貴方の妻となって、いつも、御そばで琴を奏でて差し上げましょう。寝床を敷いて貴方が来られるのを恋しい想いでお待ちしています。)

この恋文は、上から読んでも下から読んでも同じで、回文(廻り歌)になっています。受けたからには返事(かえこと)が出来ない、受けざるを得ない歌であったのです。

しいこそつまをみきわにことの
き              ね↓
 しいこそつまをみきわにことの   
←←←←← ←←←←←←← 

 このことがあって、二人は夫婦になり、「あちひこ」は「おもいかね」という名前になり、天照神のお姉さんであった「わか姫」は「したてる姫」と名乗り、妹の立場に引き下がった経緯があったからです。

では、なぜこの「おもいかね」がここの御祭神になったのか、不思議だったのですが、どうやら、天照大神が天の岩屋戸に隠れられて、世の中が暗闇(日食)になったときの出来ごとに関連していたようです。「おもいかね」が、松明を焚いて暗闇を明るくしたように、空をいつも明るくして欲しいという願いであったと思われます。
また、氷川神社の御祭神である「そさのお」も、この「おもいかね」も、関東には全く関係なく、同じ出雲に関係していたからかも知れません。 
でも、この神社を設立された方は、この「おもいかね」という名前の由来は御存じでは無かっただろうなと思った次第です。 以上

古代の刑罰、「ほつまつたえ」より  

古代の刑罰 「ほつまつたえ」 7綾、23綾より(201101up)               ジョンレノ・ホツマ

紀元前の古代日本は立派な司法国家であったことが、「ほつまつたえ」より読みとれますので紹介します。

一つは「くらきね」という「いさなぎ」の弟が亡くなってからの話からです。

「くらきね」は北陸を治めていましたが、亡き後「しらひと」なる者が、ますひと(代官)になりました。勝手な行動が目に余ると訴えられます。
その「しらひと」は、邪魔になった母(さしみめ、「くらきね」の妻)とその子供(くらこ姫)を「こくみ」という者の所へ追い出し、「こくみ」は二人を同時に犯して辱めました。
代官の「かんさひ」はこれを正せずにいるという内容です。詳しくは「ほつまつたえ」の7綾(7章)を参照下さい。
直ちに出頭を命じられ、裁判にかけられ判決が言い渡されます。

「こくみ」に対して
1.君(くらきね)の恩を忘れ、葬送の祭りを怠った罪、百科(ももくら)
2.母の厚情による支援を裏切った罪、二十科(ふそくら)
3.母を犯す罪、百科(ももくら)
4.「おしで」(証文)に対する偽証の罪、百科(ももくら)
5.姫をないがしろにした罪、五十科(いそくら)
罪状全てで、三百七十科を申し渡す

「しらひと」に対して
1.君・母からの恩を忘れた罪、二百科(くら)
2.妻を追い出し流浪させた罪、百科
3.母娘を踏み荒らす(狼藉)罪、五十科
4.賄賂(わいろ)を掴(つか)む罪、六十科
罪状全てで、四百十科


ここで、罰則について、「とほこ」の法というが基になっています。
「とほこ」とは、「と」の導き、「と」の教えのことで両大神が天神から授かったもの、そして、「ほこ」は「さかほこ」(栄桙)を示しています。

具体的には、全天、三百六十度を三百六十科としており、三百六十度を四つに割って、

最初の四つ割の一つ、三百六十度の四分の一、すなわち 九十科で「所を去る」
次に四分の二、百八十度(科)で「流離う」(島流し)
次に四分の三、二百七十度(科)で「人との交わり去る」(追放刑)
四つ割の全て、三百六十度(科)で「命去る」(死刑)と罰則が決められていました。

今回の罪は四つ割(三百六十科:死刑)を越えている
よって、「ほころびと」(死刑)の制裁を加える。「つつが」(牢獄)に入れよと申し渡されました。

後日、「もちこ」という天照神の妃の恩赦により罪が半減され、「ひかわ」(斐伊川、島根県)に流刑の身となります。

また、「そさのお」の時の判決についても、同じ7綾の中にあります。

「そさのお」の罪状が言い渡され、罪状は千科もありました。天の巡りで決められた罪状は三百六十科が死罪ですから、何と死罪の三倍も残忍で、三段死(みきだがれ)という三回死ぬ程の惨い死刑を言い渡しました。

刑が執行され、髪の毛は抜かれ、爪も剥ぎとられようとしていて、まさに殺されようとしていた時です。「むかつ姫」(中宮、せおりつ姫)の申し出が勅使より告げられました。

「うけもの」(倉稲神・うけみたま)に祈ったので「はなこ」の御霊は無事天国へお送りしました。よって「はなこ」殺しの四百科は償われましたので、罪を白紙に戻すようお願
いします。「そさのお」の性格は生まれつきの遺伝です。ですから、本人には罪は無いので牢獄から出してやれないものでしょうか。
「ことのり」(情状酌量を願う減刑要請)を諸神が審議した結果、天の理に背く重罪ではあるが、身内の好しみにより、罪を半減して、「まじわりさる」(追放刑)に処することにしました。

紀元前の日本に、この「とほこ」の法という、公平で分かり易い立派な司法制度があったことに驚きます。
自分の認識では、今の交通違反の反則点数のように、罰則規定が、何点になったらどうなる、というのが、この時既に、法が公けになっていたということになります。

紀元前にすでに文字があったからこそ、こういう記録が残ったわけです。
何と素晴らしい文明国であったかと誇らしく思います。

「ほつまつたえ」に見る神武天皇のお人柄

「ほつまつたえ」に見る神武天皇のお人柄(201107up)

「神武天皇」は、自分に負わされた使命感により、最後まで諦めることなく、困難に打ち勝っていく強さに感動しました。しかし、奥さんには頭が上がらなかった様子に親しみを覚えたので紹介したいと思った次第です。

九州で政治を執っていた父の遺言を受けるために、「やまと」にいた「たけひと」(後の神武天皇)は九州へ行きます。
父の亡き後を継いで「たけひと」は九州でしばらく政治を執りますが、「やまと」が乱れているので早く帰って治めて下さいと云うはやり歌が「たけひと」の耳に伝わります。
「やまと」に戻ることを決意した「たけひと」は、途中、宇佐、吉備、などを経由して浪速から生駒越えを試みますが敵の抵抗に遭い、作戦を変え、海から紀伊半島を大きく廻り熊野から攻め込むことにします。

同行していた兄たちは敵の矢で射られたり、台風に巻き込まれて海に投げ出されて熊野に上陸する前に3人とも亡くなってしまいます。決死の思いを乗り越えて、敵と相対することになります。
そして、天照神の印した「神おしで」を両方が持っており、敵と思っていたのが実は身内同士であったことを知ります。「たけひと」こそが正統な後を継ぐ人であることが認められます。

さて、ここからが、本題です。

晴れて天下に知らしめた神武天皇は、新しいお妃に「たたらいそすず姫」を迎えます。この「いそすず姫」は右大臣の妹にあたり、神武天皇はどうも頭が上がらなかったようです。
既に九州でお妃にされていた「あびらつ姫」は、お年は召され従順であったように見受けます。一人皇子「たぎしみこ」がいました。

神武天皇は、この「いそすず姫」との間に、子宝が授からからなかったためかどうか分かりませんが、若い「いすきより姫」を3番目の妃に迎い入れようとします。このときは、世継ぎ皇子を途絶えさせないために、12人までお妃を持つことが出来ていたので、当然の行動と思われます。
しかし、内妃「いそすず姫」に咎められ、迎い入れることを諦めます。のちに二人の皇子をもうけたので、結果は良かったわけですが、かなり実権を持っていたように見えます。

妻に子供が出来ない時には、妾を置いて子種を残しなさい。という記述もあるようですが、許されなかったようです。
結局、この「いすきより姫」は、殿中に入ることが許されませんでした。神武天皇がお忍びで姫の館にお出かけになり、そこで交わっておられました。姫の名前も「ゆり姫」と変えていました。

そんな中、神武天皇の先妻の長男「たぎしみこ」が、この「ゆり姫」(二十才前)に一目惚れしてしまいます。一騒動ありますが、このままにしておくわけに居かないと心を痛めていたことが伺い知れます。

「ゆり姫」が息子の「たぎしみこ」にガツンと貴方の入り込む隙はないと拒否したので事なきを得ました。もし、そうでなかったとしたら、一人の女性を父と息子で取り合いするわけにもいかず、父が息子に譲ることになっていたのでしょうか。許されなかったと思います。

タイミング良く、越後の謀反を治めて帰ってきた高倉下(後の弥彦神)に、神武天皇は褒美として、この「ゆり姫」を、酒の肴に賜いましたと結んでいます。
今では、セクハラで訴えられてしまいそうですが、当時としては粋な計らいであったと思います。お手付きではありましたが、多分単身者であった70才過ぎの高倉下にとっても、うれしかったと思います。

神武天皇もほっとされたことと思いました。

余談ですが、高倉下と「ゆり姫」との間に子供ができ、その子孫の「よそたり姫」が人皇5代の孝昭天皇の中宮になっています。

以上

ホツマエッセイ 「スズ」は「竹」も意味している

ホツマエッセイ 「スズ」は「竹」も意味している(201805up)

こんにちは
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 鈴について、なぜ神社の正面に鈴が祀られているかについて私の感じ取ったことを、前回、雑談として話させていただきました。
 この鈴のもとおりは、鉄分を含んだ泥が葦の根っこに溜まり、長い年月を経て球状の層が出来、褐鉄鉱と呼ばれています。根っこは涸れて中は空洞になり、中の枯れた根っこが塊となり振ると音がするので鈴石と言われるようになりました。この葦原の湿原にできた鈴石が鈴の原型となったと考えられます。
 水酸化鉄「FeO(OH)」でできたこの褐鉄鉱は350~400℃という鉄よりかなり低温で分解・溶融が始まります。鈴が神社の正面に祀られているは、縄文時代に火力が充分に得られなかった時であったから、この鈴石を集め、溶かして生まれてできた鉄は非常に貴重なものであったと考えられ、尊ばれていたと思われます。

 次に、今回取り上げた「スズ」には、「鈴」以外に「竹」を示す意味が隠されていたことを知ったからです。

 スズ竹と呼ばれる竹の存在を「室井綽著 竹の世界 Part1,2 地人書房」により知りました。
本書で、スズ竹は鈴竹、根曲竹(ネマガリダケ)とも呼ばれていることを知り、この鈴竹の他にも、竹の偽年枝や、竹の開花と寿命について興味ある事柄を知りました。
 また、「両神の民俗的世界:埼玉県秩父郡旧両神村小森谷民俗誌」より、ここの方は、笹のことを「すず」鈴と呼んでいることも知りました。

① スズ竹
 紀伊半島には、スズ竹の群生地が多く、ズズ竹はミスズとも呼ばれ、ミは尊称である。この筍は春の山菜中、味の王様と呼ばれ、成長した竹稈は各種のザルとして強く美しく、山民の生活と密着しているものはない。
 著者は篠懸(すずかけ)というものを調べたとき、それは山伏が修行で大台ケ原や大峰山に登るときに着用していたコートで、雨露を防ぎ、笹葉で手足が傷つくことを防ぐためのもので、両縁と下部に小さい菊綴りがついている。実際に、大台ケ原へ実際にスズダケが群生しており覆いかぶさるなかを登山し、特に葉の長さが40cmもあり、イガスズと特別視されているスズダケは葉巾が広く見事であるとあり、もし、この道中に篠懸というコートを着用していなかったら全身傷だらけになっていただろうと感想を記されている。
 なお、信濃の枕詞にある「みすず刈る・・・」は鈴竹の必需品に対する尊称であったからと言われています。
尚、余談ですが灰田勝彦が歌っていた「鈴懸の径」の鈴懸はプラタナスのことです。


② 竹の偽年枝

 木には年輪と言うものがあり、伐採して幹を見れば年輪があり、おおよその木の年数が数えられます。竹の場合は、年輪がなく、年齢を数えるのは不可能であると思っていました。
s05-竹の世界 室井

 
 図のように、1年生、2年生、3年生と枝の出方で区別でき、外観で枝の節を数えて年が分かることを知りました。

 本書に、偽年枝と年齢の関係で驚くことに、竹は偽年枝(偽年輪)と呼ばれて、気象条件によって、伸長生長を1年に2回繰り返すということがわかりました。
 夏、日照りが続き、水不足などにより、枝の先端の葉が枯れてしまっても、秋になり慈雨にあうと、枯れ葉の基部から翌年伸びるはずの小枝の芽を伸ばし、葉を2,3枚つけ

ホツマエッセイ 神社の鈴の生い立ち

ホツマエッセイ 神社の鈴の生い立ち(201805up)
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 神社の正面に鈴が祀られているのは、鈴の音が神様の御霊を引き付けるためという説明が一般的のようですが、生い立ちについては、触れておらずはっきりしていないようです。
 
 ホツマツタヱを読んでいくうちに、日本の創世記の葦原中国(あしはらなかくに)という言葉と、この鈴(すず)が結びついているような気がしました。
 
 「鈴」の生い立ちについて、古代の鉄とか金属関連を調査された方々の書物などから「鈴石」であることは承知していました。鈴石と言うのは中が空洞で振ると音がする石のことで、褐鉄鉱と呼ばれる水酸化鉄「FeO(OH)」のことですが、錫とも呼ばれていたようです。

 褐鉄鉱は、場所や形状によって、鈴石、鳴石、針鉄鉱、岩壺、高師小僧とも呼ばれているようです。
  
 火山国日本で、葦原の生茂っている茶色に色づいている水辺は鉄分が多く、長い年月をかけて葦の根元に鉄分が吸い寄せられ、水酸化鉄の被膜となって根の周りで成長し鈴の外側のようになり、やがて中に閉じ込められた葦の根は涸れはて中で固まり、振ると音が出るようになりました。鈴の原型と言えます。
 
 葦は、河川や湖沼の水際に背の高い群落を形成し、水流の少ないところに育ち、多数の茎が水中に並び立つことから、その根本には鉄分を含んだ泥が溜まりやすくなっているようです。
 
 根っこより茎の部分に纏わりついて細長いのが高師小僧と呼ばれているものです。この形の違う高師小僧も同じ水酸化鉄でできています。鉄鐸と呼ばれているものにそっくりです。
 
 では、なぜ、鈴が神社の正面に祀られているのか。それは、この鈴石を溶かして生まれた鉄は非常に貴重なものであったからです。
 昭和の時代までは「鉄は国家なり」と言われてきましたが、このホツマツタヱの前半がまとめられた紀元前660年より以前の紀元前1000年以上も昔から「鉄は国家なり」であったことが推測できます。これは、縄文時代の話になります。

 さて、この褐鉄鉱と呼ばれている水酸化鉄という化合物について、驚く事実を再確認しました。今まで、漠然と見過ごしてしまっていましたが、水酸化鉄は350~400℃で分解を始めます。

 縄文土器の焼成温度は500~600℃からサンプルによっては700~800℃であったと報告されています。土器を焼く温度より低い温度で溶融できるわけです。鉄の分子そのものが完全に熔解するのではなく、不純物と分離して液状になっていきます。
 この水酸化鉄を鉄ではなく錫という表示している方もおられました。融点が低かったので勘違いされても当然だと思いました。
 私も、鉄(Fe)の熔解温度は800℃ですので、褐鉄鉱でも同じ程度の温度が必要であると思い込んでいました。今まで、想像していた以上に低い温度で溶け始めていたことを改めて認識しました。


 では、この鈴石・褐鉄鉱である水酸化鉄をどういう方法で溶融していたかですが、今までは具体的にどのような方法をとっていたか思いつくことが出来ないでいましたが、大型の縄文土器に入れて加熱していたということに合点がいきました。

  大型の縄文土器の華麗に装飾された外観は、土器の中に入れた鈴石・褐鉄鉱に少しでも速く熱が伝わり溶融するよう多くのヒレを作って表面積を大きくしたと考えられます。以前は、縄文土器のダイナミックな外観にただ感心していただけでしたが、用途が分かった上で改めて見ると納得できる外観に感心しました。

 この褐鉄鉱で作られた鉄は、権力者の象徴として、斧などに形を変えてより一層ゆるぎないものになっていったものと考えます。

ただ、ここでの完成品は通常我々が目にしている800℃以上で熔解された鉄製品とは違い、例えて言えば、漆喰のような感じのものではなかったでしょうか。硬さは得られても、耐久性については今一つと言ったところではないでしょうか。そのため、これらの製品が現存していない理由も理解できます。

 時間の経過とともに、あちこちで縄文土器によって褐鉄鉱の溶融が出来るようになると、原料となる褐鉄鉱取りつくしてしまい、探すことも大変になって来たと推測されます。多くの臣や民の時間と労力を要して出来上がった象徴として、鈴を献上し、引き続き鈴が得られるように願ったものと考えます。

 しかし、時代と共に、この葦の根や茎に付着していた鈴石を取りつくしてしまったら、今度は褐鉄鉱が成長するまで気が遠くなるほどの時間待たなければなりません。
 早く葦原で再生できるよう土の神や水の神に祈った化身が、銅鐸となり、鉄鐸となったのではないでしょうか。

 併せて、大陸に褐鉄鉱を求めて、あるいは新たな製鉄方法を求めていたことが考えられます。
後に、大陸から大量に砂鉄を使ったタタラ製鉄が導入されるからです。

 これは、当時の産業革命です。
褐鉄鉱・鈴石を何十年、百何十年と待つことなしに、川砂に含まれている砂鉄から鉄を作り出すことが出来るようになったからです。
 
そうなると、鈴石が早く成長できるようにと祈っていた銅鐸の存在価値が忽然と消えてしまいました。

 ここで、新しいたたら製鉄を採用する者と、今までの鈴石からの方法にこだわっていた者の間で、いろいろな争いごとが起こります。






 ホツマツタヱ34綾に「いずもをまつってください」という歌が暗示しています。

    ねみかがみ みそこたからの (み=3、そ=10、こ=9→39)
    みからぬし たにみくゝりみ
    たましづか うましみかみは
    みからぬしやも

 賀茂岩倉遺跡から39の銅鐸が出現しましたが、ホツマツタヱの記述の中に、「39体の「みからぬし」(銅鐸のこと言っていると思う)を谷底に置いたままになっている」が、まさにこの状況であったと思われます。

 このホツマエッセイのきっかけは「御柱祭 火と鉄と神と 縄文時代を科学する 百瀬高子著 渓流社 2006年7月」を読んで今まで漠然としていた個所がはっきりしたからです。
ありがとうございました。

ホツマエッセイ・図表・書感の目次

ホツマエッセイ・図表・書感の目次

1 豊受神と天照神の誕生と背景を図表にしました。

2 「箱根神(オシホミミ)の背景」天照神+中宮ムカツ姫

3 神武天皇誕生の経緯と背景

4 斎宮(いつきの宮)の誕生の背景

5 古代の日本人が見ていた宇宙感に驚きます!「ミカサフミ」(神戴山書紀・高天原成る綾)に記載されていることが分かり、理解できる範囲で図解して見ました

6 ホツマツタヱ勉強会より13綾を話の展開ごとに区切り、それぞれに小目次をつけてみました。

7 魏志倭人伝の中の卑弥呼をホツマツタヱから読み解く(=4)

8 「タタラ」について  ホツマツタヱ15綾6ページより

9 剣(つるぎ)について、ホツマツタヱの記述より抜粋

10 「乙訓(おとくに)」、「羽束師(はづかし)」、「向日(むこう)」の語源をホツマツタヱから



以下(順不同)は順次取り込んでいきます。
(年月up)とあるのは、ホツマツタヱ勉強会の資料としてにまとめた時か、
他の処(本の会など)に投稿した時のものです。



11 「天照神の誕生」(201206up)

12 続 天照神 (201403up)201211up)

13 「因みあう」 14綾(201211up)

14 神社の鈴の生い立ち 34綾?(201805up)

15 「スズ」は「竹」も意味している 8,13綾(201805up)

16 神武天皇のお人柄(201107up)

17 古代の刑罰 7綾、23綾(201101up)

18 気象神社(201202up)

19 古代の日本の馬 19綾(201310up)

20  卑弥呼と邪馬台国 2(201406up)


21 「万歳(才)!」と「ヨロトシ」 (201410up)


22 このはなさくや姫 24綾(201411up)

23 海幸彦・山幸彦の物語 その1 25綾(201504up)

24 海幸彦・山幸彦の物語 その2 25綾(201507up)

25 歌は心を洗うトヨタマ姫とヒコホホデミ 26綾(201506up)

26 古代の舟 27綾(201603up)

27 天皇陛下 生前退位について(201607up)

28 「イセの道」と「スズカの道」とオホナムチが出雲を去った経緯 13綾(201808up)

29 一つ目小僧と「つるぎ」(剣) 23綾(200803up)


30 箱根の語源・同胞(はらから)の語源 24綾(201412up)

31 箱根の語源 その2 箱の意味 6綾(201501up)

32 3つの雲(201009up)

33 「雷を呼ぶ男」とは 24綾(20141213up)

34 書感 古代日本の超技術 志村忠夫著(201303up)

35 書感 富士山噴火の歴史 都司嘉宣著(201312up)

36 書感 古代の朱 松田壽男著(201502up)

37 書感「病から古代を解く」を「大同類聚方」槇佐知子著から(201703up)

「因(ちな)みあう」



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ホツマエッセイ・書感です・・・リンクがうまくつながらずちょっとお待ちを!


ホツマ・エッセイ  「因(ちな)みあう」  14綾(201211up)                    2012/11/7
ジョンレノ・ホツマ

今、小生が解読中のホツマツタヱの14綾には、受精してから胎児になるまでの、妊娠した時の体内の様子も記されており、紀元前に既にこんな捉え方をしていたのかと、知れば知るほど驚嘆した次第です。
更に、幾つかの言葉が、現在の語源にもなっている事を知り奥の深さを感じています。

まず、精子のことを「なみ・うるなみ・し」と言い、卵子のことを「ち・に」と言っていたようです。もちろん、「ち」には「血」の意味もあります。
また、受精後の卵子は「あかち」とも呼んでいたようです。

「因なむ・因みあう」という言葉は、本来、この精子と卵子が合体する行為が、男女の親密な行為を示すことを知ると、なるほどと納得できることに感心します。
受精後の卵子を「あかち」というところから、赤ちゃん・赤ん坊の語源にもつながると思います。

以下に57調の歌で綴られている本文を解読してみました。

父の「なみ・うるなみ」(精子)と母の「あかち」(卵子)が因みあい受精します。(14-19)
 受精卵となり動き始めます。昼間は「ち」(卵子)が上に昇り、夜は「なみ」(精子)が上に昇ります。 これは、ちょうど、太陽と月の動きと同じです。
そして、受精卵は最初の日にゆっくり一周します。(14-20)
 2日目は2回転します。その次の日は3回転と速くなります。
 1ヶ月目には、1日当たり30回転まで動きを速めます。
 64日目には回転が限界に達します。総回転数は1,080回で回転は止まります。
 そして、やっと「みとりこ」(胎児)の姿が出来上ります。(14-21)
胞(え)衣(な)の形(胎盤)は、川車(水車)のようです。
臍の緒は御天柱(みはしら)のように丁度良く守っています。(14-22)
 その後、(64日目以降)は1日に1回転づつ動きが遅くなります。
 3月(3ヶ月後)には、動きは39回転になります。3月雛祭りにも因みます。
 「うつき」(4月)にも達したら、新緑を迎えるように、胎児も順調に育っていきます。
 「さつきさ」(5月上旬)の頃には、再び胎児の動きは元の一回転に戻っています。(14-23)

この時になると、妊婦は「さつさ」の腹帯を巻き付けます。それは、「いわた」(五臓、五つの臓器)が形を成してくるので固定するためです。 現在でも、妊娠5ヶ月目の戌の日に「いわた帯」を巻く習慣が残っています。漢字で岩田帯となっていますが、元々は内臓(五つの臓器)を固定するための意味で、紀元前から既に行なわれていたことが分かります。
 へその緒(なかくだ)を通して、「天(あめ)の火(ほ)」(聖霊)と「両親(たらちね)(精子と卵子)の火」と陰陽(めお)を胎児の中に招き入れます。
「むつ」(1月の妊娠に至ったときの睦まじい)因みの「つゆ」(羊水)が溢れます。(14-24)
 「みなつき」(6月、水無月)に入ると羊水が無くなります。そして、へその緒へ直接「ちしる」(血液)が流れ胎児を育てます。
 胎内に送られる「ちしる」(血液)は胎児の細胞を完成させていきます。(14-25)
そして、五色(いついろ)(5臓)の「はに」(埴、土台)の面を最初につくります。
 「ふづき」(7月)には「くら」(5臓)が群がって出来てきます。
「はづき」(八月)には「わた」(6腑)が出来ます。
 「ふづき」は「ふみつき」と言い、胎児が足を踏ん張り始め、「はづき」は胎児の歯が付き始める月にも当たります。
 
「なかつき」(9月)は「みめ」(見目・眉目・顔立ち)が出来てきて、「しむそよべ」(気血の運行の十四経)を作りあげます。「そ」=10、「よ」=4
 「しむそよべ」(十四経)とは、現在、漢方でも人体の気血の運行を14の経(けい)に分けたものの総称で、人体の気血を陰陽に分け、それぞれに3種、手の3陰3陽、足の3陰3陽、合わせて12経、それに任脈と督脈を加えたものです。
中国から伝わったものという認識でしたが、紀元前に既に日本に存在していたことになります。
 あわうたの48音全ての言葉の発音(声)と96通りの表情が備わります。(14-26)
 「そふ」(12月)には、胞衣を脱いで子供が誕生します。

また、別の綾(章)には
 男の欲求があっても、母の胎内を守るために、因みあってはいけません。慎みなさい。という言葉が途中何度も出てきます。(16-18)

更に、男の呼吸数は一日当たり、13,680回で、女の呼吸数は一日当たり、13,186回とあります。
計算して見ると、男は1分当たり9.5回、女は1分当たり9.2回になり、理科年表の男10.1~13.1回/分、女10.4~13.0回/分とかなり近いことに驚きます。
受精すると、母の呼吸が速くなり、一日当たり360回増え、翌日は720回、3日目には1,080回に増えます。以降、30日目には10,800回、38日目には、13,680回になると続きますが、ここから先は今の処お手上げです。

数も、全てオシデ文字という古代の文字ですので、ひらがな表記(ひ・ふ・み・よ・ゐ・む・な・や・こ・と・ち・よろ)を読むのと同じで、ひんぱんに出てくるので、すらすらとは読めず難儀しました。 原本の話が57調の歌で、あちこちにとんでいるので、小生の理解が追い付かず、まとめ難い内容でした。  以上

 続 天照神   

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ホツマ・エッセイ 続 天照神                 ジョンレノ・ホツマ

ホツマツタヱは、5・7調の歌で、同じような内容のことがあちこちに点在しており、正しく理解するのが困難な所があります。そこで、天照神の誕生までの経緯と背景の部分を拾い上げ一つの図表に展開してみたところ、今まで曖昧であった関連が明確に見えてきました。
天照神を大文字に区別し、天照神誕生までを中心にして展開したものです。

特に、図右上の方の「タカミムスビ5代目」別の名を「タマギネ・トヨウケの神」(豊受神)が、天照神誕生のキーパーソンであったことが読み取れることです。

① 天照神を生んだ「イサナギ」と「イサナミ」の二人を、仲人を通して結びつけた方であったこと。
② 「ワカヒト」が天なる道を「タカミムスビ」から学んで、後に天照神になったこと。

「トヨウケ」(豊受神)は、伊勢神宮の外宮の御祭神です。現在は、食物・穀物を司る神様となっています。
これは、ホツマツタヱは漢字文化の到来以前の古代のものですが、後に漢字が到来し、「トヨウケ」という音に豊受という文字を当てはめたために意味が限定されてしまって現在に至ったものと考えます。

更に、この「トヨウケ」の居られた日高見(仙台付近)という地が、当時の日本の文明の中心であったことも推測できます。

ここでは、まだ解き明かし切れませんが、「仙台」を、音読みでなく、古代に呼ばれていただろうと思われる訓読みで読んでみるとどう読めるでしょうか?

真実は仮説より奇なり!謎解きがますます楽しくなります。           
         以上


「天照神の誕生」 


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2012/6/12
ホツマ・エッセイ「天照神の誕生」                    
ホツマツタエの2綾に「天照神の誕生」が歌われています。内容が、記紀の内容とはかけ離れているので、納得いかない方がいらっしゃるとは思いますが、私はこのホツマツタエに書かれていることが、より忠実な史実と思っています。
古事記が今から1300年前に書かれたものとされていますが、ホツマツタエの2綾を含む前半部分は、それより更に1300年以上昔に遡った紀元前660年頃に編纂されたものです。

1. 天照神の両親「いさなぎ」と「いさなみ」が出会うまでの背景です。( )は写本の(綾-頁)

1-1. 天神6代の「おもたる神」、「かしこね神」の間には世継皇子が出来ずに代が途絶えてしまいます。(2-18)

1-2. この事態を心配した「たかみむすび5代目」(とよけ神・実名たまきね・ひたかみ国)は、「あめよろず神」の子孫の「あわなぎ」の子どもの「かむろぎ・たかひと」に次の天神に継がそうと自分の娘「いさこ」を嫁がそうと働きかけます。(2-21~25)

1-3. 仲人を立てるが、二人とも状況が理解できずにもの別れになります。最初の仲人が「はやたまのお」と言いました。(2-25)

1-4. その後、二人目の仲人の「ことさかのお」が取り持ち二人は結ばれます。(2-25)

1-5. そして、二人は筑波の「いさ宮」(現筑波神社)に住まわれます。「いさ宮」に因んで「いさなぎ」・「いさなみ」と名乗ることになります。後にこの二人は「ふたはしら」・「ふたかみ」(両神)と呼ばれます。(2-26~27)

1-6. この時の背景として、男神「いさなぎ」の父親の「あわなぎ」は「ね国」(北陸)から「ちたる国」(山陰)を治めていました。「いさなぎ」は金沢の出身です。

1-7. 一方、女神「いさなみ」の父親「たかみむすび」(とよけ神;豊受神)は日高見(仙台、多賀城付近)の出身です。
「やまて宮」とありますが、後に漢字化されたとき、仙台という字が当てはめられたと考えられます。

2 「いさなぎ」と「いさなみ」のお子さん達 (1姫3男)

2-1. 「ふたはしら、ふたかみ」(両神)が結ばれて、最初に生まれた子の名前は「ひるこ」と言い女の子です。
しかし、父親「いさなぎ」は40才、母親「いさなみ」は31才で二人とも天の節目(厄年)に当たっていました。厄年に生まれた子どもが、女の子であれば父親に汚れが宿り、男の子であれば母親に災いを受けることになります。(3-4~5)

2-2. 厄を祓うために、三才にも成らないうちに子供を「いわくす舟」に乗せて川に流します。これは、儀式で、川下(にしとの)では翁「かなさき・住吉の神」が拾い上げて「ひろた」成人するまで育てることになります。(3-5)

「にしとの」(西ノ宮神社、住吉の神が住まわれていた)
「ひろた」(広田神社、幼い「ひるこ姫」を拾い上げた所)

2-3. 「ふたはしら」(「いさなぎ」と「いさなみ」は世継ぎの男の子を生む決意をします。(3-3)

2-4. 二番目に妊娠した子は、「はらめど つきみてす えなやふれうむ」とあり、未熟児のまま胞衣が破れ流産してしまいます。(3-7~8)
2-5. 「ひよるこ」(未熟児)は泡となって流れ去りました。葦舟に乗せて流しました。流した場所が「あ・はち」、吾(あ)恥(はじ)→淡路(島)と思われますが、大阪市東淀川区にも淡路という地名が残っています。(3-8)

「いさなみ」の産屋が5つあるのに、子供は4人と数が合わない理由ですという記述があります。(3-21)

2-7. 日嗣の君になられる皇子を欲しいという願いが遂にかなって「ひのかみ」(日の神)が生まれました。(3-15) 名前を「うほひるぎ」と称えました。(3-16)
「う」・「うほ」=大きい、偉大な、高貴な 「ひる」の「ひ」は太陽(ひ)の御霊を背負ったという意味。

2-8. この皇子が生まれ、国は麗しく威光が隅々まで差し、神威と威光がただ事でないことを知った「いさなぎ」・「いさなみ」は天(高天原)に送りました。(3-16)
別名「くしひる」の子(=奇しき日の霊(る)より生まれた子)とも呼ばれました。

そして、「とよけ」は「わかひと」という実名(いみな)を捧げます。「とよけ」(豊受神)は「いさなみ」の父親、即ちこの「わかひと」後の天照神のお祖父さんに当たります。

2-9. 両神は「つくし」(九州)で二人目の皇子(つきよみの神)を生みます。(3-18)

2-10. 厄のとれた「ひるこ姫」が成長され「わかひるめ」となって宮中に戻ります。
この時点で、「ひるこ姫」「わか姫」「わかひるめ」と3つの名前をもっていることになります。
 「わか」は和歌山県の語源と考えられます。

2-11. 末っ子の「そさのお」が「そさ国」(現南紀)で生まれます。
「そさのお」は、国や民を困らせます。これは、母親の「いさなみ」が自分の「おえ」(くま)によるものと身に受けて、息子の厄を覗くために「くまの宮」を建立しました。(3-19~21)

3. 幾つかの混乱する記述について(天照神が女神にすり替わった要因)

お姉さんが「わか姫」、天照神が「わか仁」と漢字化した時、一文字の違いだけで入れ替わってしまう!?。
またお姉さんが厄払いのために流されたのと、その次の未熟児で死産し流されたのが混同した可能性があります。さらに、ややこしいのが、お姉さんは結婚され「したてる姫」と名を変えて、姉の立場から天照神の妹の立場に退いています。(1-30)

更に伊勢神宮の内宮外宮の役割についての記述が混乱を招いているようです。(36-39~41)
豊受神を祀っている外宮の神の真意は厚く、国民に厳しい父の役割とあり、天照神を祀っている内宮は、母の子供を慈しむような恵む教えとあります。この記述だけを見て、天照神は女神であると間違えてしまったのでしょうか。

また、天照神の12妃のうち「ますひめ・もちこ」と「こますひめ・はやこ」は従兄妹婚で、儒教では野蛮人のすることと見られていました。更に「こますひめ・もちこ」が生んだ3女神「おきつしまひめ」・「えつのしまひめ」・「いちきしまひめ」は「そさのお」との浮気によって出来た子のようです。
これらのことは、記紀に取り入れることは出来ず、天照神を女神にして神話化すれば、うまく納まると思われたのでしょう。ですから、記紀の編纂後「ほつまつたえ」の存在は許されなくなったのが事実だったと思われます。

「ほつまつたえ」の記述を読んで行くと、上記の結論に至りました。   以上

エッセイ・図表・書感



1 豊受神と天照神の誕生と背景を図表にしました。

2 「箱根神(オシホミミ)の背景」天照神+中宮ムカツ姫

3 神武天皇誕生の経緯と背景

4 斎宮(いつきの宮)の誕生の背景

5 古代の日本人が見ていた宇宙感に驚きます!「ミカサフミ」(神戴山書紀・高天原成る綾)に記載されていることが分かり、理解できる範囲で図解して見ました

6 ホツマツタヱ勉強会より13綾を話の展開ごとに区切り、それぞれに小目次をつけてみました。

7 魏志倭人伝の中の卑弥呼をホツマツタヱから読み解く(=4)

8 「タタラ」について  ホツマツタヱ15綾6ページより

9 剣(つるぎ)について、ホツマツタヱの記述より抜粋

10 「乙訓(おとくに)」、「羽束師(はづかし)」、「向日(むこう)」の語源をホツマツタヱから



以下(順不同)は順次取り込んでいきます。
(年月up)とあるのは、ホツマツタヱ勉強会の資料としてにまとめた時か、
他の処(本の会など)に投稿した時のものです。



11 「天照神の誕生」(201206up)

12 続 天照神 (201403up)201211up)

13 「因みあう」 14綾(201211up)

14 神社の鈴の生い立ち 34綾?(201805up)
15 「スズ」は「竹」も意味している 8,13綾(201805up)
16 神武天皇のお人柄(201107up)
17 古代の刑罰 7綾、23綾(201101up)
18 気象神社(201202up)
19 古代の日本の馬 19綾(201310up)
20  卑弥呼と邪馬台国 2(201406up)
21 「万歳(才)!」と「ヨロトシ」 (201410up)
22 このはなさくや姫 24綾(201411up)
23 海幸彦・山幸彦の物語 その1 25綾(201504up)
24 海幸彦・山幸彦の物語 その2 25綾(201507up)
25 歌は心を洗うトヨタマ姫とヒコホホデミ 26綾(201506up)
26 古代の舟 27綾(201603up)
27 天皇陛下 生前退位について(201607up)
28 「イセの道」と「スズカの道」とオホナムチが出雲を去った経緯 13綾(201808up)
29 一つ目小僧と「つるぎ」(剣) 23綾(200803up)
30 箱根の語源・同胞(はらから)の語源 24綾(201412up)
31 箱根の語源 その2 箱の意味 6綾(201501up)
32 3つの雲(201609up)
33 「雷を呼ぶ男」とは 24綾(20141213up)
34 書感 古代日本の超技術 志村忠夫著(201303up)
35 書感 富士山噴火の歴史 都司嘉宣著(201312up)
36 書感 古代の朱 松田壽男著(201502up)
37 書感「病から古代を解く」を「大同類聚方」槇佐知子著から(201703up)

28綾 目次 今まで、解読した部分のみ

きみとみ のこしのり のあや

28綾 君臣遺し典の綾

君(天皇)と臣が共に遺し(後世に残す)法典を決めました(天照大神の遺言)

28-1 暦が変わりました (28-1~3)
28-2 暦の起源と年数の数え方について (28-3~8)
28-3 「いさなぎ」と「いさなみ」が結ばれました(28-8~9)
28-4 「いさなぎ」と「いさなみ」に継ぎ子が出来ず(28-9~10)
28-5 元旦の日の出と共に天照神の誕生(28-10~12)

28-6 「胞衣」を「ね」(北)に納める恵那ヶ岳(28-12~14)

28-7 「わかひと」(天照大神)は日高見で「みち」を学ぶ(28-14~15)
28-8 「あまひのみこ」(天照大神)となられる(28-14~15)
28-9 天照大神は子孫が途絶えないように12人のお妃を置く(28-15~16)
28-10 天照大神、「おしひと」、「おもいかね」が関東、仙台、野洲を治め平和に(28-16~18)

28-11 「つきよみ」は遠い国を、「しらやま」は北(北陸)を、住吉の神が「つきすみ」を治めた(28-18~19)
28-12 天照神は「いさわ」で政治をとり、「いせのみち」を教えた(28-19~20)
28-13 うらみ・ねじけを持った「はたれ」が国を乱す(28-20~21)
28-14 「すみよろし」、「かとり」、「かしま」、「いふきぬし」、「かだ」、「たちからを」、「くすひ」の神達は「はたれ」を討った(28-21~22)
28-15 天照神の詔、おしひとの皇子「ほのあかり」に十種の神器と飛鳥宮を(28-22~23)

28-16 弟の「きよひと」は「にはり」で水田開拓し、後に三種の神器を賜わる(8-23~25)
28-17 地神三代「わけいかづち」が誕生する(8-25~26)
28-18 「ににきね」の三つ子の胞衣(えな)を四人の県主に(28-26~27)
28-19 地神四代「うつきね」(ひこほほでみ)は筑紫(九州)で水田開拓をする。(28-28~29)
28-20 地神四代「うつきね」は、本国(守山市みずほの宮)に戻り、「けゐの神」を賜る(28-29~30)

28-21 地神五代「かもひと」(うがやふきあわせず)は滋賀県の多賀の宮へ (28-30~31)
28-22 「うつきね」は「みおやあまきみ」の名前を賜わる(28-31~32)
28-23 伊雑宮に居られた天照神の十二妃も神となる(28-32)
28-24 「せおりつ姫」と天照大神は宮を移し天命を知る(28-32~34)
28-25 「さるた」に天照神は「まない」(あさひ宮)に自分の入る穴を掘らせ、諸神驚く(28-34~36)

28-26 長生きし世に尽くしてきたことを歌に遺す(28-36~37)
28-27 われはかんむり ひとぐさは みみちかきおぞ(28-37~41)
28-28 返しの「のと」(祝詞、のりと)の歌
28-29 「さるたひこ」に遺言(28-43)
28-30 妃(せおりつ姫・むかつ姫)に遺言(28-44)

続く
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