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8-13 初代 神武天皇 カンヤマトイワワレヒコ タケヒト

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魏志倭人伝の卑弥呼(ひみこ)とはいったい誰だったのでしょう?
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8-12 2代 綏靖天皇 カヌガワミミ ヤスギネ

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8-11 3代 安寧天皇 タマデミ シギヒト

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8-10 4代 懿徳天皇 オオヤマトヒコ スキトモ

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8-9  5代 孝昭天皇 カエシネ ミルヒト

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8-8  6代 孝安天皇 ヤマトタリヒコクニ オシヒト

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8-7  7代 孝霊天皇 ヤマトフトニ ネコヒコ

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8-6  8代 孝元天皇 ヤマトネコヒコクニクル モトギネ

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8-5  9代 開化天皇 ワカヤマトネコヒコ フトヒヒ

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8-4 10代 崇神天皇 ミマキイリヒコ イソニエ

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8-3 11代 垂仁天皇 イクメイリヒコ イソサチ

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8-2 12代 景行天皇 ヤマト・オシロワケ タリヒコ

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8-1神武天皇から景行天皇・ヤマトタケまで ホツマツタヱより抜粋(斎宮・いつき宮)

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 8. 人皇系図 


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 8. 人皇系図 

神武天皇から景行天皇までの全ての記述された人物を各天皇ごとに図に展開して、分かる範囲で相関関係をはっきりと表して見ました。配列は、景行天皇・垂仁天皇・崇神天皇・・・神武天皇と
 表の中に、その時々の記述も織り込みました。見落としや、思い込みによる間違いがあるかも知れません。

7. 追記  御杖村(みつえむら) 奈良県宇陀郡


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7. 追記  御杖村(みつえむら) 奈良県宇陀郡

本冊子にまとめた後、TVのニュース番組で、半夏生(はんげしょう)という今の時期だけに咲く、美しい花一面が映されていました。 花の名前の由来は、七十二候の「半夏生」(7月2日)の頃の開花に伴い、半夏生と呼ばれ、葉の一部も白くなることで知られているようです。
 この半夏生は、奈良県の準絶滅危惧種に指定されており、「御杖村」からという字幕スーパーが私の中に飛び込んできた衝撃が走りました。

  「御杖村」をインターネットで見ると、奈良県宇陀郡にあることを知り、さらに「御杖」という名前の村が実在していたことに驚きました。 伊勢本街道にそって、御杖小学校、御杖中学校、御杖村役場、御杖郵便局など。少し離れて御杖神社も位置していました。

「御杖村」のホームページを見ると、ヤマト姫の名前も登場しており感動を覚えました。
御杖村は天照大神をお祀りする場所を求めて旅していた倭姫命(ヤマト姫)が、候補地の一つとして杖を置いたとの伝承が残る村。自然との共存の中、変わらず脈々と伝えられてきた伝承、そして守られてきた文化財産があります。古人に思いを馳せながら、ゆっくりと伊勢本街道を歩き、倭姫伝説をはじめとした御杖村の歴史の中に、悠久の浪漫を感じてください。とあり、倭姫命(ヤマト姫)が天照神の御杖代であったことを裏付けていたことをホツマツタヱ以外にもあったことを知りました。
さらに、「やまと姫マラソン」(今年は新型コロナウイルスの感染拡大予防のため中止)という企画のあったことも知りました。

 魏志倭人伝の中の卑弥呼のことがずーっと気になっていたので、ホツマツタヱの中にも接点が在るはずと幾つかのキーワードを探しながら何度も読んでいるうちに、気が付いたらいつの間にか、卑弥呼とは、ホツマツタヱの中のヤマト姫ヨシコであると、呼びかけているように思えました。今までの霧が晴れわたりました。

6. 参考まで

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6. 参考まで

 ホツマツタヱを読み解くに当たり、歴代の天皇ごとに、お妃、皇子と皇女を一覧表(添付資料参照:人皇初代~12代)にして見ました
。膨大な人の中から、候補の方の生まれや流れなど明確になりました。一部、身内同士の婚姻など余計な流れも知ってしまうことにもなりました。

 国内の遺跡から卑弥呼の墓ではないかと言われているところとして
箸塚古墳・マキムキ遺跡・九州吉野ケ里遺跡などが候補
にされています。

① 箸塚古墳・・・モモソ姫(34綾)が祀られています。モモソ姫は神の告げが乗るという記載もありますが、年代が卑弥呼より年代が古く別人になります。
 余談ですが、モモソ姫は「大物主の妻となり、ミホドを突きまかる。」(34綾)というのは、女陰を突いて亡くなったという記述が独り歩きしています。
これは、タタラ操業の手伝いで、溶けた鉄を取り出すとき、炉の保土を突いたとき、保土が崩れて溶けた鉄が一気に流れ、焼け死んでしまったと思われます。
更に、余談ですが、ヤマトタケが帰路に「イフキ神」(伊吹山・鋳吹く)で、火傷を受けたのは、タタラ操業をしている現場に出向いたときに起きたことが覗えます。(40綾)

② マキムキ遺跡・・景行天皇の住まわれた宮(38綾)であり、卑弥呼の住まわれたところではない。

③ 九州吉野ケ里遺跡・・・当時は、ミネ国と言われ、渡来勢力であったヤツメ姫神が治めており、景行天皇の御幸のとき避けて通過している。(38綾)(2009年解読)

5.  「夫を持たず、男の弟(*5)がおり国の統治を助けている。」について


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5.  「夫を持たず、男の弟(*5)がおり国の統治を助けている。」について

 男の弟というのは、景行天皇のことを示しており、異母兄弟のお姉さんに当たるのが、卑弥呼すなわちヤマト姫ヨシコになります。熊襲や東北で乱れたり背いたりしたことが続き、何年も留守にしてしまっていたので、当然国の統治を助けているという表現がぴったりです。

 景行天皇という名前の通り、国中に出かけており、ヤマトタケが帰国できずに熱田神になったことを悔やみ、自分もヤマトタケが行ったところに出向いている。
当然、留守を守ったのが姉のヤマト姫ヨシコと映ったと思えます。

ヤマト姫ヨシコは天照神の御杖代として仕えたので一生独身であったことも理解できます。


4.  「鬼道〔きどう・巫術・妖術〕(*4)を行い、」について 4-1 ミカサフミより「アカキミチ」


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4.  「鬼道〔きどう・巫術・妖術〕(*4)を行い、」について

卑弥呼と言い、鬼道(巫術・妖術)を行い、よく人々を眩惑(げんわく)した。歳はすでに年配であるが、夫を持たず、男の弟がおり国の統治を助けている

この伊勢では、暦を作っており、そのための天体観測も行われていたことがわかります。
ヒヨミの宮にオモイカネがおり、息子のタチカラヲが継ぎ、その後「ムラクモ」が受けつぎ、アメフタエという名前を賜います


 鬼道を「き」の「みち」と読んで見ると、黄色の道、黄道であったと理解できます。現在でも黄道とは、見かけ上の太陽の通り道を示しています。当時、既に天体観測されており、暦を作っていましたから、、春分、夏至、秋分、冬至の日の出、日の入りの太陽の位置なども認識していた。月の満ち干も観測されていたことも分かります。
 伊勢で作られていた暦によって、ヤマトタケがエミシ征伐の切り札となって無血でひれ伏させることができた

4-1 ミカサフミより「アカキミチ」

ひのめぐり なかふしのとの あかきみち やよろとめちの
つきをさる つきのしおみち よよぢうち くにたまわたり


 日(太陽)の運行は「ナカフシ」の外側で、太陽が通る赤道は、地球の地上から八万トメヂ離れています。「アカキミチ」は赤黄・道とも読めます。
 月が通る潮道は四万トメヂ離れていて、「ナカフシ」の内側になります。潮の満ち干と関係していたことも分かります。

3. 「倭国は乱れて、(*3)(国々が)互いに攻撃しあうことが何年も続き」の記述を照らし合わせる 3-1   マキムキ日代12年筑紫が背き景行天皇は筑紫熊襲へ御幸。 3-2 マキムキ日代27年エミシからの朝貢(みつぎ)も途絶えて問題が起きていた 3-3  マキムキ日代27年再び熊襲が背き、景行天皇はコウス皇子に勅を出す 3-4 マキムキ日代40年「ほづま」が乱れていると酒折の大伴の武日が上京し巡狩りを乞う。 3-5  酒折の「大伴の武日」が上京して巡狩りを頼みに来る以前から、垂仁天皇の代から争いごとが起こっていた。 3-6  道中、富士の裾野で「ヤマトタケ」は、計略に遭うが秘密(火・水・土)の祓いで賊軍(あだいくさ)を焼き滅ぼし、難を逃れます。 3-7 途中、竹の水門で行く手を拒まれたが、武日が論証で日高見陸奥を説得し、全員がひれ伏しました。


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3. 「倭国は乱れて、(*3)(国々が)互いに攻撃しあうことが何年も続き」の記述を照らし合わせる

3-1   マキムキ日代12年筑紫が背き景行天皇は筑紫熊襲へ御幸。

 ホツマツタヱの38綾に景行天皇の代(マキムキ日代)にいくつかの反乱が続いていました。
 マキムキ日代12年7月筑紫の「くまそ」(熊襲)が背いて朝貢(みつぎ)をしませんでした。
君(景行天皇)の御狩りを乞う書状が矢継ぎ早に届けられま、12年8月5日に景行天皇は 熊襲へ御幸、


 つくしむけんと(38-51)むとせまて たかやのみやに
をわします


その後、筑紫を完全に平定するため(ヤマトに従うようになるまで)に、六年間という年月の間、高屋(宮崎県西都市高屋八幡)の行宮に滞在されました。 

  そこほながやか まきむきの みやにかえまず(38-75)
ふそさにゑ きさらぎよかに ゐものひめ くすこうちみこ(38-75)
いせのかみ まつるいわひは つくしむけ


マキムキ日代19年9月8日に君(景行天皇)は大和のマキムキ(現在は「まきむく」・近鉄桜井線)の日代の宮に無事に帰りました

翌年20年の「さにゑ」(当時の六十年ごとのえと)の2月4日に「ヰモノ姫クスコ」が内親王になり、伊勢の神(伊勢山田・宇治宮で天照大神)に筑紫(九州)遠征を祀る祝い(報告)をしました。


3-2 マキムキ日代27年エミシからの朝貢(みつぎ)も途絶えて問題が起きていた

マキムキ日代27年2月 景行天皇が「エミシ」について申された(38-86~87)この時、既にエミシからの朝貢(みつぎ)も途絶えて問題が起きていたことが覗えます。

ふそなきの そみかもふさく(38-86)ひたかみは めおのこかみを
あげまきに みをあやどりて いさみたつ すべてえみしの(38-87)
くにこえて まつろわざれば とるもよし


マキムキ日代27年2月13日、景行天皇が申されるには日高見は男も女も髪をあげまきにしている。入れ墨をして勇猛である。
エミシの国はどこも全て土地が豊かで豊潤である。もし、逆らって従わないようならば国をとりあげるのも良かろう。


3-3  マキムキ日代27年再び熊襲が背き、景行天皇はコウス皇子に勅を出す

 マキムキ日代27年10月13日 再び、熊襲(クマソ)が背き景行天皇はコウス皇子(後にヤマトタケと名乗る)に勅を出す(38-87~88)
景行天皇が筑紫を平定した8年後に、再び熊襲が背いたので、今度は息子のコウス皇子(後にヤマトタケと名乗る)に九州へ向かわせる。


  マキムキ日代27年12月出発し、 「クマソタケル」を成敗。「クマソタケル」から「タケ」という名を譲り受け「ヤマトタケ」と名乗ってください言い命絶る。 以降、コウス皇子は「ヤマトタケ」となりました。
マキムキ日代28年2月1日、「ヤマトタケ」は無事帰京。景行天皇)に「クマソ」征伐を報告
(38-98~101完)


3-4 マキムキ日代40年「ほづま」が乱れていると酒折の大伴の武日が上京し巡狩りを乞う。

マキムキ日代40年6月、「ほづま地方」(関東・東北)が乱れていると「大伴の武日」が巡狩りを頼みに来ました。(39綾)

そこで、ヤマトタケは九州熊襲の戦いから帰ったばかりだが、自分が行かざるを得ないという決意を表明しました。
 景行天皇は「ヤマトタケ」に神が私の力不足で世の中の乱れを案じて、汝を天降らした神の子に違いない。(汝が天皇の位である)と言って、御矛(ホコ)を授けました。

吉備武彦と大伴武日を武将として10月2日に門出(出発)しました。
吉備武彦(岡山出身:山陽道の勅使)景行天皇の中宮おいらつ姫は吉備津彦の娘
大伴武日(甲斐酒折:富士浅間神社:天孫ににきねの長男)武田信玄の先祖にあたる


そして7日には伊勢神宮に戦勝祈願をした後、伊勢の宮のヤマト姫に挨拶に行き「ヤマトタケ」は景行天皇の命により「あだ討ち」にまいりますとヤマト姫(垂仁天皇の子、景行天皇のお姉さんにあたる。)に報告(訴え)しました。
ヤマト姫は「ヤマトタケ」に錦袋(錦織の袋で秘密の払いの呪文が書かれたものが入っていた)と剣を授けました。
 錦袋の中は、昔、あめみまこ(天孫ににきね)が自ら記した秘密(火・水・土)の祓いです。火の災難、水の災難、土の災難にあったらこれらの障害を払いなさい。
 剣は、昔出雲の国を開いたスサノウが「やまたのおろち」の尻尾から取り出した剣がこれである。謹んで拝領して敵を退治してきなさいと授けました。


 3-5  酒折の「大伴の武日」が上京して巡狩りを頼みに来る以前から、垂仁天皇の代から争いごとが起こっていた。

11代垂仁天皇の勅を受けたタジマモリ(田道間守)が、東国(ホツマ国・エミシ)へ講和を結ぶために視察に行ったが、相手のプライドが高いので表向きは「カグの木」(橘)をもらいに行くことにした。橘元彦の館で土地に馴染み親しんでいる間に10年経ってしまい、日高見君陸奥(仙台)と島津道彦(青森)とも親しくなってやっと念願が叶い「かぐの木」を得ルことが出来ました。
しかし、宮中に帰りましたが、時すでに遅しで君(11代垂仁天皇)は神となって天国へまかられていました。 やっとの思いで戻ったら君は亡くなっていたことを知り、悔やんで悔やんで(千の千:非常に多いこと)、今の新しい天皇(12代景行天皇)に奉ります。君よ(天皇)、どうかやつかれ(私)が元彦の家で結ばれた兄弟の滴(しずく)の源流(みなもと)を思しめして、ほつま国と平和裏に国を治めて下さい。自分からは戦いをしないでくださいと願っています。

この遺言書を読んで景行天皇は「竹内すくね」と相談してホツマの国の「かぐもとひこ=橘元彦」を味方に引き入れてることにしました。


3-6  道中、富士の裾野で「ヤマトタケ」は、計略に遭うが秘密(火・水・土)の祓いで賊軍(あだいくさ)を焼き滅ぼし、難を逃れます。

このときから、ここを焼けた野原(焼津)と言うようになり、むらくもの剣の名前も草薙の剣というようになりました。

3-7 途中、竹の水門で行く手を拒まれたが、武日が論証で日高見陸奥を説得し、全員がひれ伏しました

ここで分かったことは、伊勢で作られている暦がここ日高見まで届いているということです。この暦のおかげで田植えの時期も分かり、民の糧も増えて生活できていることを気づかせたからです。

2-21 3代目御杖代・イモノ姫クスコ (景行天皇の娘、成務天皇の異母兄弟・妹)が生まれます 2-22ヤマト姫、隠居し、斎宮をイモノ姫に継ぐ 2-23 「ヤマト姫」はイソ宮に隠居されました。 2-24 天照神の2代目御杖代ヤマト姫ヨシコが魏志倭人伝の中の卑弥呼を示していた

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2-21 3代目御杖代・イモノ姫クスコ (景行天皇の娘、成務天皇の異母兄弟・妹)が生まれます

 またいわつくの このみづは いらつめみおの(38-18)
すけうむこ ゐものめくすこ うちおきみ


また、「イワツクワケ」の娘、「ミツハイラツ姫」(三番目のお妃)
みお(三尾、安曇川)のすけ妃が生んだ子は「イモノメクスコ親王」です。
「やまと姫」の斎宮の役目を引き継ぎます。

2-22ヤマト姫、隠居し、斎宮をイモノ姫に継ぐ

 ひめことしそよ やまとひめ ことしもゝやつ よろこびて(38-76)
 よはひいたれば われたりぬ わがやそものべ(38-76~77)
そふつかさ ゐものにうつし つかえしむ
 くすこをかみの みつえしろ たけのみやゐに(38-77)
つつしみて つかえはんべる


「ヰモノ姫」は今年十四才です。「ヤマト姫」は今年百八才になりました。長生きと斎宮の仕事を達成したことについて大変喜ばれました。
 私(ヤマト姫)は弱ってきたので、私は充分に出来ません。私が引き連れている八十神(人)のもののべと、十二人の役人を、これからは、「イモノ姫」に引き受けてもらい、天照大神に仕えてもらいます。
「イモノ姫クスコ」は天照大神の御霊を遷して(背中に背負って)生涯神祀りをします。「タケノ宮」(垂任天皇の宮があったところ)に謹んで(身を清めて)いつもお傍にお仕えしました。


2-23 「ヤマト姫」はイソ宮に隠居されました。

やまとひめ うぢはたどのゝ いそみやに(38-78)
 ひらきしづかに ひのかみを まつればながく うまなくぞ(38-78)


「ヤマト姫」は宇治宮の機織どの(絹を織る)のいそ宮に隠居されました。
行為は静かに(ひっそりと)天照大神の神祀りをいつまでも末永く行いました。

2-24 天照神の2代目御杖代ヤマト姫ヨシコが魏志倭人伝の中の卑弥呼を示していた

 魏志倭人伝の中から、「卑弥呼が死去したので、改めて男王を立てたが国中は服せず、卑弥呼の同宗の女性である壱与(イヨ)という13歳の子を立てて王となし、国中はようやく定まった。」
という、記述は、ヤマト姫ヨシコからイモノ姫クスコに引き継がれたことを示していると思われます。
 「イモノメクスコ→「イモ」の「姫」→イモ→イヨ」と伝えられたのではないでしょうか。
男王とは13代ワカタリヒコ・成務天皇を示していると思われますが、ホツマツタヱに記述にはありませんが、この時期ますます政情が不安定になっていたことが覗えます。
 ホツマツタヱは、景行天皇、ヤマト姫ヨシコが存命中までの記述で終わっています。

イモノ姫クスコが斎宮として活躍されていったと思います。政治とは関係なく今の天皇家の存在そのものであったような気がします。

上記より、魏志倭人伝の中の卑弥呼とはヤマト姫ヨシコであったことがわかります

2-17 垂仁天皇は和幣をなし、「トヨケ」の神(豊受神)への「さおしか」を定める 2-18 神の教える道 2-19 内宮(天照大神)外宮(トヨケ神・豊受神)の鰹木 2-20外宮の真意は厚く、国民に厳しい父の役割、内宮は、母の子供を慈しむような恵む教え

魏志倭人伝の卑弥呼(ひみこ)とはいったい誰だったのでしょう?
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2-17 垂仁天皇は和幣をなし、「トヨケ」の神(豊受神)への「さおしか」を定める

 きみよろこびて にぎてなし とよけのかみえ
さおしかは みわのみけもち いわひどは たにはみちうし(36-37~38)


きみ(垂仁天皇)は喜ばれて、自ら和幣(にぎて)をなし(成す:作る)ました。そして、「とよけ」の神への「さおしか(勅使)」として、大三輪の「みけもち」を定めました。
「いわいど(斎主)」は「たにはみちうし(丹波みちうし)」でした。


2-18 神の教える道

くにぬしの かみのおしえは おおんかみ つぎおおほして
いせのみち やおひとぐさを いけのぞむ(36-38~39


「おおくに主」の神の教えるところは、天照大神は継ぎが多くなるよう(子孫繁栄を願って)、いもせ(妹背:男女の)の道を定め、八百万人民を生き生きと生活できるよう(いけ)恵まれてきました。

2-19 内宮(天照大神)外宮(トヨケ神・豊受神)の鰹木

 かれかつおやぎ ちぎのうち そぐはうちみや
うちかろく やたみゆたかに(36-39~40)
またとよけ さかほこののり あめのほし こくらあらわし
かつおこぎ ちぎはとをそぐ かれとみや(36-40~41)


 それ故に、棟木の上に置かれる鰹木(かつおぎ)を八本(や)にして、千木(ちぎ)の内側をそぐ(削る)ので、うちみや(内宮:ないぐう)と言います。
 一方、「とよけ宮」は「さかほこ」(逆矛:刑罰)の「のり」(法)により、天の高天原の九星座(こくら:天にある九神)を表します。鰹木(かつおぎ)は九本(こ)です。
 千木は外側を削いでいるので「とみや」(そとみや:外宮)といいます。

現在の伊勢神宮内宮の千木は十本あります。外宮を祭っている「とよけ神」(豊受神)より、「天照大神」の方が偉いと勘違いされて、千木の本数を増やしたものと思われます。
うち(宮中)は軽く(質素にして)、八民(国民)が少しでも豊かになることを願うからです


2-20外宮の真意は厚く、国民に厳しい父の役割、内宮は、母の子供を慈しむような恵む教え

 うちあつくいつ たみのちゝ おそれみちゑよ(36-41)
うちみやは きみはゝのこを めぐむのりかな(36-41)


御心の内(神の真意)は厚く、国民に厳しい父の役割です。
おそれて(反発せずに)、その道を学びなさい。(教えに従いなさい。)
「うちみや」(内宮)は、天照大神が、母の子供を慈しむような恵む教えであります。

2-15 天照大神が「ヤマト姫」にお告げ 2-16 「ヤマト姫」は天照神のお告げを垂仁天皇に伝える

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2-15 天照大神が「ヤマト姫」にお告げ

 かみもよろこび つげいわく(36-36)

神(天照大神)も喜ばれて、「ヤマト姫」にお告げがありました。(天照大神が「ヤマト姫」に乗り移ったか、あるいは、夢にでてきた)

 むかしわかすむ さこくしろ しきなみよする
いせのみや ながくしづまり まもるべし
 とよけのかみと もろともぞ(36-36~37)

昔、我が住む(天照大神の時だから千年以上の昔になる)サゴクシロには「しきなみ」(重波)寄せている。
伊勢の宮は、未来永劫、鎮座して守るべしと告げられました。
「とよけ」の神(豊受神)と諸共ぞ。
豊受神の神のことを決して忘れてはいけない。以前、崇神天皇のが神を崇めるときに、天照神と大國魂を改めて祀ったが、豊受神を考慮していなかったことを天照神が伝えたかった。


2-16 「ヤマト姫」は天照神のお告げを垂仁天皇に伝える

 やまとひめより これをつぐ(36-37)

この天照大神の言葉が「ヤマト姫」に乗り移って、垂仁天皇に告げられました。

 私、天照神は、ご自分の祖父であり、名付け親であり、教育を受けてきた豊受神「トヨケ・トヨウケ神」をないがしろにしないように伝えています。
私、天照神があるのは豊受神のお陰であることを知って下さい。私、天照神を祀る前に豊受神を祀って下さい。「トヨケ・トヨウケ」-「イサコ・イサナミ」-「ワカヒト・天照神」

2-12 良い宮の候補が「さ」にあると、神の告げを受ける2-13 「ヤマト姫」は、宇治へ行き、三宝が祭られる場所と決める 2-14 たまき宮二十六年、天照大神が「サゴクシロウジ宮」にわだましされる


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2-12 良い宮の候補が「さ」にあると、神の告げを受ける

 よきみやところ さにありと(36-25)

もっと良い宮の候補地・都が「さ」にあると、「ヤマト姫」は神の告げをうけました。
「さ」は、通常、南と解釈できるが、ここでは「サゴクシロ」の「さ」を示していると思われます。また、「サルタヒコ」の「さ」と解釈も出来ます。

2-13 「ヤマト姫」は、宇治へ行き、三宝が祭られる場所と決める

やまとひめ うぢにいたりて みていわく これかんかぜの
いせのみや みくさはまつる みなもとゝ いやまひかえす あぐらいし(36-29~30)

早速、「ヤマト姫」は、宇治に行き、この地を見て、この地は神風の吹いた伊勢の宮の跡で、三宝が祭られる源(本来の場所)である。と、申されました。
おそらく、「サルタヒコ」が座った「あぐらいし:座石」を敬い、「サルタヒコ」を祀りました。
「いやまひ」の「いや」は、ますますの意味。いやまひ=敬い

2-14 たまき宮二十六年、天照大神が「サゴクシロウジ宮」にわだましされる

ふそむほの なづきそむのか おおんかみ ゐそすゝがわの
さこくしろ うぢにわたまし(36-34)

たまき宮二十六年九月十六日、天照大神が「いそすず川」(伊勢内宮)の「サゴクシロウジ宮」にわだまし(渡御:とぎょ、お入りになる)されました。
「サゴクシロ」とは、天上におられる神々のところで高天原とも言う。後の伊勢神宮。

そなかのよ みたけばしらを おさめしむ これすべらぎの みづからの(36-34~35)

明くる十七日の夜、御丈柱(背丈に合った天の御柱)を納められました。これは、垂仁天皇のご自身の背丈に合わせたものです。

2-10 ヤマト姫が伯母「トヨスキ姫」に仕える 2-11 「トヨスキ姫」は、御杖(ミツエ)の役を、「ヤマト姫」に見習わせる

魏志倭人伝の卑弥呼(ひみこ)とはいったい誰だったのでしょう?
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2-10 ヤマト姫が伯母「トヨスキ姫」に仕える

としこえて いでたつはつひ あけのはら いせたかみやに
いりませば おばとつかえて(36-22~23)

たまき宮二十三年の元旦になりました。新年の初日を、「あけのはら」(明野)で迎えました。
「ヤマト姫」は新しい伊勢の「たかみや」に入られました。
「ヤマト姫」は伯母の「トヨスキ姫」(垂仁天皇の異母兄弟・姉と推定)にお仕えしました。

2-11 「トヨスキ姫」は、御杖(ミツエ)の役を、「ヤマト姫」に見習わせる

みとせのち とよすきよはひ もゝみつで みつえならずと
みならわせ かねてねがえば(36-23~24)

三年後(たまき宮二十六年)、「トヨスキ姫」の歳は百三歳になり、これ以上御杖(ミツエ)の役が務まらないと、「ヤマト姫」に見習わせて、かねてからの願いを申し上げました。

このたびは よしこをうちの おみことし みたまげかつぎ
いゐのより いそべにうつし しつめます(36-24~25)

. 「オミコ」になった「ヤマト姫」は、御霊笥を飯野宮から「いそべ」に遷す(36-24~25)
この度は、「ヨシコ」(ヤマト姫ヨシコ)を、内宮の「オミコ」として、御霊笥(みたまげ:天照大神の御霊)を担いで飯野宮から「いそべ」(いそのみや:伊蘇宮)に遷して鎮めました。

2-7 2代目御杖代・ヤマト姫ヨシコ (垂仁天皇の娘、景行天皇の異母兄弟・姉)が誕生


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2-7 2代目御杖代・ヤマト姫ヨシコ (垂仁天皇の娘、景行天皇の異母兄弟・姉)が誕生

たまきみや こほなつきそむ きさきゆめ やまとおゝくに
かみのして たまへばはらみ つきみちて うまずにやめて(36-1~2)


 たまき宮(垂仁天皇)の九年九月(なつき:ここなづきの略)十六日に、お妃(カバイツキ姫)が夢で「ヤマトオオクニ神」(正式には「コトシロヌシ」にあたる)から、神の垂(しで)を賜わりました。
そして、孕みました(懐妊)が、月が満ちても生まれませんでした


みとせのち なつきそむかに うむみこの なはやまとひめ(36-2)

 その後、三年経った九月十六日にやっと生まれました。その子の名前は「ヤマト姫」と名付けました。
(「ヤマトオオクニ神」の夢にちなみ「ヤマト姫」と名付けられました)


2-8 「ヤマト姫」の母、「カバイ姫」が産後半月で亡くなる

あとやみて かなづきふかに はゝまかる(36-2~3)

しかし、母(お妃:カバイツキ姫)は、産後病になってしまい、十月(かなづき:神が並ぶ月)二日にお亡くなりになりました。

2-9 たまき宮二十二年「ヤマト姫」が御杖代(ミツエシロ)になる

 ふそふほしはす すえやかに やまとめよしこ ことしそひ かみにみつぎの
みつえしろ わかごおやこが ともなふて(36-21~22)


たまき宮二十二年十二月二十八日(末の八日)に、「ヤマト姫ヨシコ」は、今年、十一才になりました。そして、神様に身を捧げる(貢ぐ)「みつえ(御杖え)しろ」になられました。
「ミツエ(御杖え)しろ」:神のご意思に従って(神に代わって)、生涯、神様(天照大神)にお仕えする「つきの宮」のこと。
「わかご」(付き添い人)の親子が、「やまと姫」に伴いました。
まだ、「やまと姫」は年も若かったので付き添いが必要と思われます。

2-5 「トヨスキ姫」は、「ささはた宮」へ帰ります。2-6  再び「トヨスキ」に神の告げ

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2-5 「トヨスキ姫」は、「ささはた宮」へ帰ります。

 とよすきは さゝはたみやに かえります(36-19)

「トヨスキ姫」が、任務を終えた後、「ササハタ宮」(奈良県宇陀の山奥・篠畑神社)へ帰ります。

2-6  再び「トヨスキ」に神の告げ

またかみのつけ おおかみの かたみいたゞき あうみより みのをめぐりて
いせいゝの たかひをがわに すゞとゞむ たかみやつくり しづめます(36-19~21)


天照大神の御霊(かたみ)をいただき(身に付けて)、近江から、美濃へ行って、最後に伊勢の飯野の「たかひおがわ:高樋小川」(今の鈴鹿川)に、鈴(天照大神の霊)を留め、高宮をつくって鈴を鎮めました。「たかひおがわ」の「ひ」は、特別の意味(衣・機織りの飛)を持つ字になっています。

2-2 天照神の御霊を「トヨスキ姫」から「ヤマト姫」に移します。2-3 昔、「トヨスキ姫」に神の告げがあり丹後「よさ宮」に行く。2-4天橋立の松に雲が・・

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2-2 垂仁天皇の代、たまき宮25年3月8日、天照神の御霊を「トヨスキ姫」から「ヤマト姫」に移します。

やよいやか あまてるかみを とよすきは はなちてつける やまとひめ(36-15)



2-3 昔、「トヨスキ姫」に神の告げがあり丹後「よさ宮」に行く。

むかしとよすき かみのつけ みたまげかづき よざにゆく(36-16)

昔、「トヨスキ姫」(崇神天皇の娘で天照大神の斎宮)が、天照大神のお告げを受けて、御霊笥(みたまげ)を担いで、丹後の国の「ヨザ」(丹後よさ宮)「よさ宮」(現、籠:この神社)に行きました。

2-4 天橋立の松に大和の笠縫村から雲がたなびき、御霊がつながる

このはしたては かさぬいの ゑよりみやづの まつにくも たなびきわたす
(36-16~17)

 この美しい橋立(はしごの事):天の橋立は、「カサヌイ村」(やまと:天理市)の縁起の良い(ゑ方)方向から、宮津の天の橋立の松に、空高く雲がたなびいて渡されているかのように崇高で美しいものでした。
天橋立の松の枝に大和の笠縫村から雲がたなびいているようで、御霊が繋がったことを示しています。(丹後の埋葬地から大和の御霊が祀られているところまで)

2. 天照神の御杖代、トヨスキ姫(103歳)→ヤマト姫ヨシコ(11歳→108歳)→イモノ姫クスコ(14歳)の繋がりをホツマツタヱから 2-1 初代御杖代・トヨスキ姫(崇神天皇の娘、垂仁天皇の異母兄弟・姉)の誕生

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2. 天照神の御杖代、トヨスキ姫(103歳)→ヤマト姫ヨシコ(11歳→108歳)→イモノ姫クスコ(14歳)の繋がりをホツマツタヱから

2-1 初代御杖代・トヨスキ姫(崇神天皇の娘、垂仁天皇の異母兄弟・姉)の誕生

これのさき めくはしがうむ とよすきめ おゝあまがうむ(33-6)
ぬなぎひめ めくはしがうむ やまとひこ いむなゐそぎね


これの先(崇神天皇が各姫を娶ったこの後)、「メクハシ姫」(紀の国の「あらかとべ」の子)が生んだ子は「トヨスキ姫」です。「オオアマ」(尾張の連の娘の「オオアマ姫」)が生んだ子は「ヌナギ姫」です。「メクハシ」が二番目に生んだ子は「ヤマトヒコ」で実名が「イソギネ」です。(後の垂仁天皇の兄にあたります)

1-1  魏志倭人伝から卑弥呼に関連するキーワードから 1-2  「名を卑弥呼(ひみこ)(*2)という。」該当する人は一体誰なのか、魏志倭人伝の記述をホツマツタヱと照らし合わせる 

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1-1  魏志倭人伝から卑弥呼に関連するキーワードから

 魏志倭人伝の記述(魏志倭人伝の謎を解く 渡邉義浩著 中央公論新社発行より抜粋)から 卑弥呼の王権:現代語訳より

 倭国はもと男子を王としていた。(男王のもと) 七、八十年すると、
倭国は乱れて、(*3)(国々が)互いに攻撃しあうことが何年も続き、そこで一人の女性を共に立てて王とした。名を卑弥呼(ひみこ)(*2)という。
鬼道〔きどう・巫術・妖術〕(*4)を行い、よく人々を眩惑(げんわく)した。歳はすでに年配であるが、夫を持たず、男の弟(*5)がおり国の統治を助けている。

 卑弥呼が死去したため、大いに家〔つか・墓地〕を作った。(家の)径(けい)は百余歩〔約百四十四メートル〕、殉葬(じゅんそう)する者は奴稗(ぬひ)百余人であった。あらためて男王を立てたが、国中は服せず、相互に殺し合い、この時にあたり千余人を殺した。また卑弥呼の同宗の女性である壱与という、十三歳(の子)(*5)を立てて王となし、国中はようやく定まった。

1-2  「名を卑弥呼(ひみこ)(*2)という。」該当する人は一体誰なのか、魏志倭人伝の記述をホツマツタヱと照らし合わせる 

 魏志倭人伝の中に、景初3(239)年~正始8(247)年に、倭国からの4回の朝貢と曹魏の対応、および卑弥呼を親魏倭王に封建する制書(正式文書)が記載されているとあり、遣唐使のころに比べても日本と中国が密接な関係を持っていた時代であったことがわかります。

 ホツマツタヱが完成し12代景行天皇に献上したのが紀元241年頃と推定されています。そのため、11代垂仁天皇、12代景行天皇、13代成務天皇までの範囲の記述と思われます。

11代垂仁天皇のお妃、9名、娘4名、計13名、
12代景行天皇のお妃8名、娘7名いらっしゃいますが、
垂仁天皇とカバイツキ姫の間に生まれたヤマト姫ヨシコと、景行天皇とミヅハイラツ姫の間に生まれたイモノ姫クスコの2人になります。
 トヨスキ姫が候補ですが、垂仁天皇の異母兄弟(姉?)で、年代が経過しているのと他の記述と合わない個所がみつかります。
モモソ姫は更に遡っており卑弥呼の範疇ではない。

1.  天照神に貢ぎ御霊を祀る御杖代(斎宮)・ヒノミコが生まれた背景

魏志倭人伝の卑弥呼(ひみこ)とはいったい誰だったのでしょう?
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1.  天照神に貢ぎ御霊を祀る御杖代(斎宮)・ヒノミコが生まれた背景

 ホツマツタヱ33綾 神を崇めて疫病(えやみ)を治す綾に、崇神天皇の言葉に、

 「ヰトシヱヤミス ナカバカル ムトシタミチル」

  「ミズカキ宮5年、疫病が発生し、国民の半数が亡くなり、
   翌6年には民が散り散りになりました。」
という、記述があります。


 崇神天皇は民を治められないこの罪(助け)を神に乞い願っている様子が伺え、自分の代になって悲惨な状況が続くのは、神祀りが不十分で天に祈りが届いていない神の咎めと思い、ありとあらゆることを実行しました。

崇神天皇の取られたことが述べられています。

〇天照神と豊受神が葬られているアサヒノハラ(京都丹波)に御幸しました。

〇娘のトヨスキ姫に天照神の御霊を「かさぬい」(笠縫)に祀らせます。

〇トヨスキ姫の妹のヌナギ姫に大国魂の御霊をやまべの里に祀らせます。

〇三種の神器を新たに作り直します。鏡はイシコリドメの孫に、剣はアベヒトカミの孫に作らせ、神オシデも新たにしました。

〇天照神と大国魂の御霊をそれぞれ新たな宮に移して祀ります(33-13~14)。

 〇モモソ姫に助けを求めています。

 モモソ姫に神が乗り移り、「さつさつず歌」(ご神託)が告げられます。

「さ」るたみも つずにま「つ」らで をゑにみだる「さ

去る(死んだ)民も、続けて祀らなかったので、嘔吐(おえ)に乱れてきたのですよ。

この歌を教えてくれた神(モモソ姫に乗り移った)は「国つ神大物主」であることを知ります。
 崇神天皇はモモソ姫がご神託を告げたこの大物主の子孫であるオオタタネコを探し出します。そして、オオタタネコを斎主(イワイヌシ)に定め大三輪の神を祀り、「ナガオイチ」に大国魂の神を祀ります。
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