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邪馬台国はどこにあった?

邪馬台国はどこにあった?
1魏志倭人伝にある邪馬台国(ヤマタイコク)はどこにあったのでしょうか?


 昨年、魏志倭人伝の中の卑弥呼を、ホツマツタヱの記述と照らし合わせたとき、明快に「ヤマト姫ヨシコ」であることが確認できました。

 今まで、卑弥呼が誰であるか探せ出せなかったのは、多くの方の誰もが卑弥呼を個人名と思い込んでいたからと思われます。 個人名ではなく、今でいう役職名であったと考え直すと、答えが待っていたかのように一瞬のうちに見つかったのです。

 卑弥呼すなわち「ヒミコ」とは「ヒのミコ」の「の」が漢字化されたとき省略され、「日(ヒ)の皇女(ミコ)」・「天照神におつかいする皇女」・「天照神の御杖代(みつえしろ)」のことであり、現在の神社の巫女さんにつながってることも納得できます。
 
 卑弥呼と称されるようになった元の「天照神の御杖代(みつえしろ)」という言葉について、ホツマツタヱの記述に照らし合わせると、崇神天皇(ミマキイリヒコ・イソニエ)の代に行きつきます。崇神天皇のときに国内に疫病が広がり民の半数が亡くなったという衝撃的な事態が発生したからです。
今の新型コロナ以上の事態であったと思われます。
 崇神天皇(ミマキイリヒコ・イソニエ)は神の崇(あが)め方が足りないと思い、娘のトヨスキ姫に天照神を祀らせ、ヌナギ姫に大国魂神を祀らせました
 トヨスキ姫は天照神の御杖代を103才まで務めとおし、11才になった「ヤマト姫ヨシコ」が2代目の御杖代として引き継ぎます。
 この「ヤマト姫ヨシコ」のホツマツタヱの記述内容と、魏志倭人伝の卑弥呼の記述に共通している個所があちこちに見られました。
 詳細は「卑弥呼は誰であったか」(昨年の解読資料)を参照願います。
 2 邪馬台国(ヤマタイコク)と呼ばれていた本来の意味について

 邪馬台国という漢字の持つ意味にとらわれず、ヤマタイコクという音声から意味を考えてみます。
 「ヤマ」・「タ」・「イ」・「コク」と分解してそれぞれの言葉の意味を考えてみます。
 
「ヤマ」は、「山」を表しているように見えます。日本の国土の80%は山であることからも納得できます。

 「タ」は、「たから」の「た」と見ることが出来ます。
 大黒様、大国主命が宝船にのって肩にかついでいる宝物を思い出してみると、米俵だと誰しもが思い浮かべます。
お米は「田んぼ」の「たからとれる」から「たから・宝」のことです。

 そこで「ヤマタ・山田」とは、山の宝ととらえることが出来ると思います。
山の宝とは、「金」を意味していたのだと理解できます。
邪馬台国=山の宝のある国=金のある国=黄金の国・ジパングと、当時の海外から呼ばれていたと思われます。

 よって、この「ヤマト姫ヨシコ」の居られたところが、魏志倭人伝でいうところの邪馬台国の中心であったと思われます。後の斎宮(イツキノミヤ)になります。この時、実際の政治を執られていたのは纏向遺跡・マキムキ日代の「景行天皇」になりますが、国内の乱れを糺すため、九州はじめ全国を飛び回っていました。「ヤマト姫ヨシコ」に報告されていた記述もあり、留守を預かっていたことも納得できます。

 山田という地名のある所は、日本国内のほとんど全てといって良いほど、金山・鉱山が近くに存在していたと思われます。
 日高見地方にも金が採掘されていたと思われる山田条理遺跡があり、近くには金華山もあり、ヤマトタケがエミシ征伐に行った帰りに黄金10斤を賜ったことから、以前はここが邪馬台国ではないかと思っていたことがありました。

 三重県の伊勢市にも山田という地名が存在し、宇治山田という駅名もあります。斎宮跡が近くの三重県多気郡で見つかったことからも、この付近が魏志倭人伝で述べている邪馬台国の候補の一つではないかと思います。
また、別の見方ですが、日本列島のあちこちに点在する金山を全て総括して邪馬台国・ジパングととらえていたとも
 
 ホツマツタヱの存在をご存じない方は、邪馬台国・あるいは女王国が九州にあったと考えている方がいらっしゃいます。景行天皇が九州を一周されたとき、女王国が「みね」にありという記述がホツマツタヱの中にあます。

 現在の吉野ヶ里遺跡付近に「三根」という地名が残っています。まさに女王国であったと思われます。女王は「ヤツメヒメカミ」と言い、漢字に置き換えてみると「八女姫神」となり、現在の「八女・やめ」に引き継がれていると考えられます。北九州を既に支配していたと思われます。
 景行天皇はこの場所を避けて通りぬけており、急いで瀬戸内海経由で帰国し、ホツマツタヱを編纂させています。このとき、すでに渡来勢力の流れを感じ取ったものと思われます。

 神武天皇以前のヒコホホデミの時までは、瀬戸内海経由ではなく、日本海を海流にのって、志賀の浦(福岡市志賀島・金印が発見)より、北の津(今の敦賀)に到着していました。
 当時、「おおかめ」(大亀舟)ならば、一か月以上、「かも」(鴨舟)ならば、約一月で、「おおわに」(大鰐舟)ならば、ささっと早く着くという記述があります。日本海の沿岸も渡来勢力とぶつかり合うため、瀬戸内海を通行せざるをえなくなっていたことがうかがえます。

よって、景行天皇の行動より、九州を治めていたとされる女王と、卑弥呼とは全く別人であることがはっきりします
参考資料
1. 「卑弥呼は誰であったか」(昨年の解読資料)2020/6/23追記7/10
http://hotsumatsutae.blog62.fc2.com/blog-date-202007.html
http://hotsumatsutae.blog62.fc2.com/blog-date-202008.html

2.「吉野ヶ里遺跡の古代の国名と国神がホツマツタヱで明らかになりました」2009/10/26(2014/1/9追記
https://jhonreno.exblog.jp/m2014-01-01/
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