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今のコロナ感染に恐れ慄いているように紀元前の昔にも疫病が発生していました。

こんにちは
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初期からの内容です。
「ほつまつたえ」の文字の例です
48音で出来ています


追加の目次です。
目次
魏志倭人伝の卑弥呼(ひみこ)とはいったい誰だったのでしょう?
邪馬台国はどこだったのでしょうか。
古代遺跡・ホツマツタヱ・ミカサフミから宇宙・太陽・月・地球を読み解く




今のコロナ感染に恐れ慄いているように紀元前の昔にも疫病が発生していました。
神武天皇以降「モモソ姫」の代、崇神天皇から「ヤマト姫ヨシコ」の代以降にも疫病に恐れていたことがホツマツタヱからわかります。

(30-xx)は、注釈なしはホツマツタヱ和仁估安聰釋訳本の(綾-頁)からです。

① 神武天皇の代ことです
 雨が四十日降り続き、疫病が流行る 

 みほのさみたれ
よそかふり えやみはやりて 
いねみもち きみにつぐれば 
あめたねこ くしみかたまと 
やすがわの かりやにいのり 
(30-31~32)

 三年目の五月雨(さみだれ)が四十日間降り続きました。そのため、疫病が流行り、稲は稲熱病になってしまいました。君(神武天皇)に告げ、「アメタネコ」と「クシミカタマ」の両大臣は「野洲川」(滋賀県、守山市付近)に赴き、仮宮を建ててお祈りしました。

ときえやみ なおるといねの 
いたみさる なおりのはらい 
おこなえば えやみもなおり 
いねなおる ゆえみことのり
(30-32~33)

その結果、疫病も直り、傷んでいた稲も立ち直りました。(傷みは去りました)
 「直りの祓い」(風生に祓い)を行なったところ、疫病も直り、稲も元通りに直りました。
君(神武天皇)は詔をしました。


わにひこが みおやくしひこ 
いさめいる なおきにたまう 
やまとかみ
(30-33~34)

「ワニヒコ」(クシミカタ)の先祖神の「クシヒコ」(コトシロヌシ、エビス)は勇気ある「なおき」(忠義)の「いさめ」(諌言、身を引いた)により、「ヤマト神」の名を賜わりました。

② ヤマトモモソ姫(「ヤマトフトニ」孝霊天皇の代)のときです。

ときあすゝ よもふそやとし
はつそふか あまつひつぎを 
うけつぎて  (32-1)

時はあすず歴の四百二十八年の正月十二日に天日嗣(あまつひつぎ)を受け継ぎました。(皇位継承)

 やまとふとにの
あまつきみ いむなねこひこ
(32-1~2)

「ヤマトフトニ」は天皇(孝霊天皇)になられ実名は「ネコヒコ」と申します。

なつうちめ やまとくにかが 
みつこうむ なはみなやまと 
もゝそひめ ゐさせりひこに 
わかやひめ  はゝもやまとの 
おゝみやめ
(32-5~6)

同年(くろだ・いほど宮三年)夏には「うちめ」の「ヤマトクニカ姫」が「ヤマトモモソ姫」、「ヤマトイサセリヒコ」、「ヤマトワカヤ姫」の三つ子を産みました。すべてに「ヤマト」がつきました。
母親も「ヤマと」がついて「ヤマトオオミヤ后」になりました。

この孝霊天皇の代に、雨が四十日間降り続き琵琶湖が氾濫します。
稲熱病になった稲を「かぜふの祓い」で蘇らせました。
なお、このときは、民への疫病の発生のことは触れていません。


こほのなつ あめよそかふり 
やましろだ あわうみあぶれ 
さもみもち(たもみもち) なげきつぐれば
(32-37~38)

九年の夏、雨が四十日降り続きました。山城や田に降った雨で淡海(琵琶湖)が溢れ、南(田)の稲はいもち病になってしまったことを歎き申し出ました。

みことのり みけぬしおしに 
いのらしむ あわくにみおに 
たなかかみ はれをいのりて
(32-38)

詔が発せられました。「みけぬし」勅使に祈らせました。淡国の三尾(水尾)の「たなか」神に晴れるよう祈りました。

はらひなす かぜふまつりは 
おおなむち いつもたなかの 
ためしもて みなつきそむか
まつりなす そのおしくさの
(32-39和仁估安聰写本)

風で雨雲を掃う「かぜふの祀り」を、「おおなむち」が出雲たなか神の前例に則って、六月十六日に祀りをしました。そのおし草(ごまの葉草)の祓いの(まもりによって、稲は再び蘇りました。)

かぜふなす これおおなむち
たなかのり みなつきそむか 
おこなひは みもむそうたひ
おしぐさに いたみもなおる
 (32-20小笠原長弘本)

「かぜふ」の祀りをしました。これ(「かぜふ」の祀り)は「オオナムチ」の「タナカ」の典り(教え、教典)です。六月十六日に行なわれました。三百六十回唄いました。そうしたら、おし草(ごまの葉草)で、稲の傷みも治りました。

まもりもて たにぬかづけは 
よみかえり やはりわかやぎ 
みづほあつ たみかてふえて 
にきわえば
(32-40)

おしくさ(ごまの葉草)のお祓いの守りによって、いもち病になって下に伏していた稲は元気を取り戻し再び蘇りました。 水穂(うるち米)は豊作になり、民の食糧が増えて賑わい国が裕になりました。

 おほみけぬしの
まつりおみ なつくそれより 
やましろも つくしなおりも 
いつもにも いせはなやまも 
としことに まつるかぜふぞ
(32-40~41)

「オオミケヌシ」(オオタタネコの父・祖父)は「祀りおみ」に、「祀りオミ」と名付けられました。
各地で「かぜふ」の祓いを山城も筑紫、直入も、出雲、丹裳、伊勢、花山(和歌山)も毎年祀るようになりました。

さて、崇神天皇の代に、疫病は突然発生したのではなく、「7代、ネコヒコ・ヤマトフトニ・孝霊天皇」の頃から、既に兆候があったように思われます。


③ 孝霊天皇の代の出来事です-直接の因果関係はないかも知れませんが参考までに

一つは、7代孝霊天皇の代に、政情が不安定であったのか「タマガワの文・神宝文」を、なぜか出雲に納めています。理由は不明です。
 後に10代崇神天皇が見たいと申し入れたときに、出雲で兄「ふりね」の留守を預かっていた弟「いいりね」は渡してしまいます。帰国した兄は弟が渡してしまったことに殺意をいだき、殺してしまいます。この出来事は奈良県磯城、黒田イホド宮におられる崇神天皇に伝えられ、刑の執行の詔がなされました。この時以来、出雲では誰も神祀りをしなくなってしまい出雲が乱れていきます。


もう一つは、孝霊天皇の娘の「ヤマト・モモソ姫」の記述でいくつか気になることがあります。モモソ姫に神が乗りうつり「さつさつづ歌」が登場します。

さ・つ・さ
るたみも つずにまらで ゑにみだる
(33-17~18)

去っていった民(亡くなった民)を祀ったのはその時だけで、それ以降も続けて祀らなかったので、疫病が蔓延して世の中が乱れたのです。この時代の状況を詠んでいたと思われます。

モモソ姫についていくつかの出来事を抜き出してみました。


もゝそひめ おほものぬしの
つまとなる
(34-14)

「モモソ姫」が「オオモノヌシ」の妻になりました。

 よにはきたりて
ひるみえず あけなばきみの
みすがたを みんととむれば
かみのつげ
(34-14~15)

どういうわけか、夜になると主は来て、昼間は姿を見せません。姫は明け方に君(主)のお姿を見たいと願い、お帰りになるのを留めようとしたところ神のお告げがありました。

 こといちじるし(こといとじるし)
われあした くしげにいらん
わがすがた なをどろきそと
(34-15)

願いごとは叶えられます。
我は明日、櫛笥(くしげ)に入っているので、我が姿を見ても決して驚かないでくれ。と言って消えました。


もゝそひめ こゝろあやしく
あくるあさ くしげをみれば
こへびあり ひめおどろきて
さけびなく
(34-15~16)

「モモソ姫」は不思議に思い(こころあやしく)、
明くる朝、櫛笥を開けて見ると、そこには小蛇が入っていました。「モモソ姫」は驚いて大声で叫び泣いてしまいました。


 おほがみはぢて
ひとゝなり なんぢしのびず
わがはぢと おほそらふんで
みもろやま
(34-16~17)

大神は大変恥じて、人の姿になって、汝は私の言いつけを守れず、私には取り返しのつかない恥である。と言うやいなや、大空を駆け上がり「みもろ山」(三輪山)に消え失せてしまいました。

 ひめあほぎはぢ
つきおるに はしにみほどを
つきまかる
(34-17)

従来の多くの訳は
「ももそ姫は、仰ぎ見ながら、恥をつかせてしまった。
箸で御陰(女陰・子宮)を突いて自害された。」
と取り上げていましたが、前後から背景が分かると、自分の女陰・子宮を箸で突いて自害したわけではなかったことがわかります。

「ほど」とは、火窪(ほど)と称する簡単な炉、通風火床、火処であり、炉の外側を土でたたき固めたことを保土(ほど)突とも言っていました。


当時、既に高殿(たたら)で、火窪(ほど)と称する簡単な炉で木炭と共に強熱して半融して鉄滓を追打ちしてしぼり出していた背景があります。
大物主は大陸から技術を持ち込んでおり、その時の事故で「たたら製鉄」の溶けた鉄を囲んでいる保土(壁土)を突いてしまい溶けた鉄を浴びてしまい焼け死んでしまったことを言っていると考えられます。
前後関係から「こへび」とは溶けだした鉄がちょろちょろ流れ出したことを言っています。


モモソ姫は、後に崇神天皇暗殺の計画を見抜くなど、予知能力があり、功績のあった方でした。そして、箸塚古墳に埋葬されています。

 おいちにうづむ
はしづかや
(34-17~18)

太市に埋葬したのが箸塚古墳です。

 ひるはひとでに
よはかみの おゝさかやまの
いしはこび もろあひつぎて
たごしがて
(34-18)

昼は人力で、夜は神の力で、逢坂山の石を運びました。諸人が並び継いで、次から次へと手渡し(手越し)で石を運びました。

 はかなるのうた
おほさかも つきのかおそえ
いしむらを たごしにこさば
こしがてんかも
(34-18~19)

お墓が完成した時の歌。
逢坂も継の顔を添えて(並べて)、石群(いしむら)を手越しに越さば、越(こしらえる)が、天かも。
逢坂山の石も次々と手渡しで運べばできるということだ。

ここで、初めて古墳への埋葬方法の記述が登場しました。


④卑弥呼(ヒミコ)について
崇神天皇⇒垂仁天皇⇒景行天皇の代になります。
トヨスキ姫⇒ヤマト姫ヨシコ⇒イモノ姫クスコ


卑弥呼が誕生した背景には、崇神天皇の代に疫病が流行り、国民の半数が亡くなってしまったことにあります。
 ホツマツタヱの33綾の「10代、イソニエ・ミマキイリヒコ・崇神天皇」の代に、疫病が流行り、民(国民)の半数が死滅しています。崇神天皇は、神に助けを乞うために娘の「トヨスキ姫」に「天照神」の御霊を祀らせ、「ヌナギ姫」に「大国魂」の御霊を祀らせています。

「トヨスキ姫」が「天照神」の御霊を祀り続け、高齢(103歳)になり祀り続けるのが難しく、11歳になった「ヤマト姫ヨシコ」(垂仁天皇の娘)が継ぐことになります。以後、「ヤマト姫ヨシコ」が御杖代(ミツエシロ)として、「天照神」の御霊を祀る安住な地を探し求めました。伊勢では斎宮(斎女)として、現在も引き継がれています。


この状況は、大陸にも伝えられ、魏志倭人伝に卑弥呼として書き記されました。

  魏志倭人伝の記述内容から卑弥呼をホツマツタヱに照らし合わせると、「11代、イソサチ・イクメイリヒコ・垂仁天皇」の娘、「ヤマト姫ヨシコ」であることがわかります。

 漢字の意味にとらわれずに「ヒミコ」と書いてみると、「個人名」ではなく、今で言う「役職名」で「ヒ(日)のミコ(巫女)」であることに気づきます。


 魏志倭人伝では「ヒミコ」を卑弥呼という難解な文字を使っていました。
その理由が、昨今のコロナ騒動で分かってきました。TVでも、もののけ姫などを取り上げており、身の周りに、疫病神、もののけ、怨霊が襲い掛かってこないかと恐れている。
まさに、このとき、疫病が蔓延しており不安にかられていた状況が理解できます。
 御杖代として、不安を取り除く神の使いとして、また、天体測定がされており、この地で暦を作っていたことが考えられ、「ヒのミコ」とも言われ、伝え聞いた名前を漢字で表示するとき「卑弥呼」という難しい文字になったと思い至りました。


まとめ

 ほとんどの方は、ホツマツタヱの存在、内容を知りません。後の大和政権が自分たちを正当化するために、日本書紀・古事記に記し、それ以前の不都合な出来事は全て抹消しました。
 現在でも、日本書紀古事記と記載内容の違うことは容易に受け入れられない状況です。いつの時代の政権や権力者にとっても同じことをしているように思えます。
 縄文後期の日本で、東北地方が日本の中心であったとは知る由もありません。

 終戦後、知らされていなかった戦争中の事実が表に出てきたことを最近のテレビ番組でも知るようになりました。
 現在のコロナ騒動の裏に何かあると思っても、それ以上の事実を知ろうとされない方がほとんどのようです。
「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」という言葉を最近知りました。

船瀬俊介氏や崎谷博征氏のブログや本なども参考にさせていただきました。
〇 優生思想の人が裏世界を支配していることを知りました。
〇 コロナウイルスは生物兵器であると警告を鳴らしている記載まであります。

 歴史の流れの中での自分を見つけましょう。
以上

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