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2022年・令和4年の干支は寅です。 ホツマツタヱに、「トラガシワ」(虎柏・虎狛という名前の武将が


こんにちは
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初期からの内容です。
「ほつまつたえ」の文字の例です
48音で出来ています


追加の目次です。
目次
魏志倭人伝の卑弥呼(ひみこ)とはいったい誰だったのでしょう?
邪馬台国はどこだったのでしょうか。
古代遺跡・ホツマツタヱ・ミカサフミから宇宙・太陽・月・地球を読み解く



「トラガシワ」
2022年・令和4年の干支は寅です。
ホツマツタヱの記述の中に「トラ」・虎という動物は出てきませんが、「トラガシワ」(虎柏・虎狛という名前の武将が2か所に記載されています。
ホツマツタヱの39綾と40綾に登場します。紀元200年ごろの出来事と思われます。
一方、金達寿氏や荒竹清光氏の著書から、「トラガシワ」虎柏なる人物は高句麗からの渡来人であることがわかります。

年賀状より虎

1 相模でヤマトタケ(日本武尊・倭建命)に出会う(ホツマツタヱ39綾)
2 相模の館にて 虎柏(とらかしわ)鐙(あぶみ)を差し出す(ホツマツタヱ39綾-84~86)
3 トラガシワを祀る虎狛神社・虎柏神社
4 景行天皇とトラガシワの出会い
5 おほま(愛知田:熱田神宮)の宮に「ヤマトタケ」を熱田神と名付けました。
6 相模の小野の館(おとたちばな姫の実家、厚木市)へ立ち寄る
7 ここで、虎柏(とらがしわ)が景行天皇の前に現われます。
8 参考文献
8-1 日本の中の朝鮮文化1 金達寿
8-2 古代の日本と渡来文化 荒竹清光著 古代東国と渡来人 高句麗・新羅混血の深大寺より下記参照



1 相模でヤマトタケ(日本武尊・倭建命)に出会う(ホツマツタヱ39綾)

ヤマトタケ(日本武尊・倭建命)は、景行天皇の命を受け、エミシ征伐に向かいます。
途中、行く手を遮られ、火攻めに遭いますが、先に実家(相模の小野の城)にもどっていたオトタチバナ姫と無事再開できます。

大磯から上総湊(かずさ)へいくさぶね(大亀船)に乗って渡る途中、暴風雨にあい、オトタチバナ姫は荒れたれた海の龍を鎮めるため身を奉げました。(船から振り落とされたかもしれませんが、生贄になったと言っていると考えられます。当時は生贄という儀式は普通に行われていたようです)

日高見の竹水門で、武力によらない説得交渉を続け、最後には納得させることができました。
無事に使命を果たし、帰り道の相模の話になります。

2相模の館にて 虎柏(とらかしわ)鐙(あぶみ)を差し出す(ホツマツタヱ39綾-84~86)

こぞよりつゝき あめはれて むつきすえやか みゆきふり  
きみそりにめし ゆきいたる さかむのたちに いりませば 
 
昨年より引き続き天気は快晴でしたが、一月二十八日は大雪が降りました。
ヤマトへ帰る途中、君(「やまとたけ」(日本武尊・倭建命))はソリに召して(お乗りになって)
相模の館(厚木神社と考えられる)にお付きになりました。

のにかたあぶみ 
とらがしわ ひろいかんがえ あぶみさし いまたてまつる 
たまかざり ほめてたまわる むらのなも たまがわあぶみ 
みさしくに さがむのくにと もとひこに なつけたまわる くにつかみ 

虎柏なる武将が、野戦で失った君の片方の馬具の鐙(あぶみ)を拾って考えた末、榊の枝にさして、御霊飾(みたまかざり)として、君(「やまとたけ」(日本武尊・倭建命))の御前に奉りました(献上しました)。
君(「ヤマトタケ」(日本武尊・倭建命))は「トラガシワ」を誉めて、玉川あぶみ村(現厚木市)と名付けて褒賞として「トラガシワ」に賜りました。
戦歴の地をミサシ(献上:武蔵)国と命名しました。サガム(相模)国を「タチバナモトヒコ」に与え国造(国神)に取り立ました。

ここで、武蔵の語源が出てきます。
「ミサシ」が「ムサシ」になまり、「武蔵」という漢字に置き換えられたと思えます。


3 トラガシワを祀る虎狛神社・虎柏神社
50荒竹清光より

とらがしわ02
とらがしわ01





深大寺の近くにある、虎狛神社はこの「トラカシワ」という武将の名残と考えられます。ただ、現在地元では虎狛(コハク)神社と呼んでいます。

この虎狛神社付近の町名になっている佐須町や佐須街道はこの「ミサシ」の「サス」という語源から来ているものと考えられます。
虎柏神社は青梅にもあり、代々青梅の虎柏神社を管理されている方の名字が「さした」さんとおっしゃるそうです。
(高畠精二氏)

また、この「あぶみを拾った」という記述部分から、限られた人ではあるが、当時既に馬に乗っていたことも分かります。
「ムサシアブミ」(武蔵鐙)という言葉が残っているようです。

地図(図15)は荒竹清光著 古代の日本と渡来文化より
写真はホツマツタエ勉強会(3)の検証旅行(2007年1月)より


4景行天皇とトラガシワの出会い

ヤマトタケ(日本武尊・倭建命)は、帰路の途中、単独で伊吹山(鋳吹く)へ向かい、詳細な記述はないものの、タタラ操業をしている現場に行き、やけどを負ってしまいます。マキムキ日代の宮に着けず、途中の三重県で息絶えてしまい神上がりしてしまいます。
後日(10年ほど後)、景行天皇は息子の「コウス」・ヤマトタケ(日本武尊・倭建命)が平定(むけ)した国々を巡ります。

5おほま(愛知田:熱田神宮)の宮に「ヤマトタケ」を熱田神と名付けました。

みやずひめ いつきにくらべ かんぬしも みやづかさなみ

宮づ姫(「ヤマトタケ」の後の妻)は伊勢の「いつきの宮」(斎宮)に較べる位の立場で、神主も伊勢神宮並みの力がありました。

6 相模の小野の館(おとたちばな姫の実家、厚木市)へ立ち寄る

あづまぢえ ゆけばさがむに みあえなす ましてしおがみ
なき。いわく ひめほろぼして まみえゑす きみもなんだに

景行天皇が東路へ旅立ち、で接待を受けました。「さくらねまし」(左大臣、左近)、「ほつみてし」(右大臣、右近)は拝謁して泣きながら申し上げるには、姫(おとたちばな姫)を亡くしてしまいました。
景行天皇もこれを聞いて涙しました。


7ここで、虎柏(とらがしわ)が景行天皇の前に現われます。

とらがしは さかきみすがた たてまつる きみ。みたまえば
「やまとたけ」 いけるすがたに あふごとく ひとたびあひて
よくにたる かれはめぐろと そのさとを なつけたまわる
kami0211-01.jpg


虎柏は榊に「やまとたけ」の御姿の人形を献上しました。景行天皇が、これを見て「やまとたけ」がまるで生きているようによく出来ている。まるで再会したようだ。一回会っただけなのによく似ている。しかるが故に、この地を目黒と名付け、そしてこの土地を賜りました。

かみすがた おほやまみねに やしろなす 

「やまとたけ」の榊みすがたを大山の峰に社を作ってお祀りしました。

8参考文献
8-1日本の中の朝鮮文化1 金達寿

渡来人と渡来文化 金 達寿(キム タルス)著 河出書房 1990年発行 ¥2,500
古代朝鮮と日本文化-神々のふるさと- 講談社学術文庫 1986年発行 ¥680
金達寿本
(2006年本の会に投稿原稿より)
著者の金達寿(キムタルス)氏は在日韓国人で、帰化人と呼ばれていた差別用語を渡来人と呼びなおすように提唱された方でもあります。

渡来人と渡来文化

この著者のすごいのは、十数年にわたり日本中を隈なく歩きまわり、文献に出ている土地々々での遺跡・風土を確認されてきたことです。

そして、韓国人で古代の韓国語にも精通されていたからこそ、古代の韓国語の音が今の日本の地名のルーツになっていることを知らしめたことです。そして日本人では気がつかないような細かい違いまでも指摘されている点です。

滅びてしまった高句麗や百済、新羅の高官や多くの人が本国の戦争から逃れるために、新天地の日本の中に浸透し新たな国家を造り、朝廷の高官になっていたことがわかる。
それも何回にもわたって押し寄せてきたと指摘されています。
当時の文献やその土地に伝わっている地名や神社名から高句麗であったり、新羅であったり、古代韓国語の読みからたどりあげたという点に尽きると思います。
そして、「日本の古代国家は朝鮮から渡来した連中が作ったものである」という結論に至っている。

古代朝鮮と日本文化

本書の内容は渡来人と渡来文化の基になったものが多く、どちらにも記術されている内容ですが、一つの地名例だけ記載してみます。

武蔵・相模は高句麗系渡来人の中心地であった。 
相模 朝鮮語のサガ(寒河 さむが)からきている。朝鮮人の居場所。寒川はその氏神。
武蔵 モシシ からむし(韓のモシ)(麻の一種)からきた言葉
カムネサシ(宗城・主城)からきた言葉
古代の武蔵には新羅系渡来人の住んだ新羅郡があり、のちの新座郡(にいくら)になり新座市になっている。

最後に、人種と民族は別のもの。民族というのはその風土における歴史の積み重ねによって形成されるものである。と著者は述べており共感を得た。

日本の古代史をひも解くには、古代韓国語を避けていたら本当のことはわからないと思った一冊です。


8-2 古代の日本と渡来文化 荒竹清光著 古代東国と渡来人 高句麗・新羅混血の深大寺より下記参照

20荒竹清光

古代の日本と渡来文化 荒竹清光著 古代東国と渡来人 高句麗・新羅混血の深大寺より

 古代武蔵野の開拓に朝鮮半島渡来人の力があった事は今や常識といって良いであろう。
 しかし、今から十数年前、金達寿氏が 『日本の中の朝鮮文化』を発掘されはじめたころには、決してそうではなかったのである。その間、天皇中心史観と結びついた「帰化人」観は、確実に修正をせまられ 「渡来人」としての座を占めるに至った。その意味では、火つけ役の一人である金達寿氏と氏が係わっておられた初期の 「東アジアの古代文化を考える会」 や京都の朝鮮文化社の果たした役割はきわめて重要であり、再認識してしかるべきではないかと思う。

 その事は、私どもの係わる教育の現場にも着実に浸透しつつあり、毒され続けてきた中央中心史観             
の押しつけは、今や完全に反古にせねばならない時が来たのではないだろうか。しかし、一方では末だ、朝鮮人差別意識は根強く残っており、教育の業の深さを痛感せずにはおられないのである。

 以上の事をふまえて、あくまでも現代史との係わりの中で、古代朝鮮半島渡来人の役割を再評価すべきだと考える。とくに各地方史的発想から、今一歩の追求が必要ではないかと思う。そこで、古代関東、とくに都下調布市、狛江市一帯とこの地にある 「深大寺」周辺の歴史地理的側面から、ここが高句麗・新羅文化の融合地であった事を述べてみたい。

 深大寺周辺は、享保七年成立の 「深大寺仮名縁起」 の内容からして、その商にある「虎柏(狛)神社」や「布多天神」と合わせて、狛江市一帯として考える必要があろう。地理的には、武蔵野台地を樹枝状に開析して流れる野川と本流多摩川に狭まれた台地上に狛江市や調布市は位置する。その台地上の一角に深大寺がある。「ハケ道」で知られる野川とその分支流の谷戸に画し豊富な湧水と湿地を合わせ持つ地である。

 野川流域には、深大寺と密接な関係を持つ 「虎柏(狛)神社」・「虎柏(狛)山祇園寺」がある。野川がかつて重要な役割をになっていたであろう事は、武蔵野の面影を残す「ハケ道」をあるく事で、ある程度実感できる。

 古代、この地が文化の中心的地域であった事は、上流の国分寺や府中大国魂神社の存在を考えてみれば明らかになるであろう。さらにさかのぼる時代でも、相当の政治集団があった事が想定できる。

図示するように多摩川にそそぐ野川流域には、多くの古式古墳が分布している(図15)。 
たとえば、砧古墳群、野毛古墳群、亀塚古墳を中心とする狛江古墳群などである。これらの古墳群を経て多摩川に合する野川下流には、野毛大塚古墳をはじめ、御岳山、狐塚、八幡塚、天慶塚古墳と続いて出現し、分岐台地上に雄然と分布するのである。 
とすれば、野川を通して、これらの政治集団は何らかの関係があったとしても見当違いではないと考える。
 世田谷区埋蔵文化財調査員の対比地秀行氏によれば、田園調布古墳群中の蓬莱山古墳・亀甲山古墳がこの地ではもっとも早く、次いで、砧中七号填、野毛大塚古墳、御岳山古墳、狐塚古墳と続き、この頃、高句麗系副葬品を持った亀塚とその一群が出現するとされている。
 五世紀終末、突然野川と多摩川にはさまれた台地に出現した今はなき亀塚を含む数百基の古墳群は、この地に渡来し古代武蔵野の開拓にあたった高句麗の王者の一団であったことは間違いないとおもわれる。
 亀塚古墳は、最長48メートルの帆立貝式古填て、主体部は二個の木炭榔からなり、金銅製の馬具や装飾具、神人歌舞画像鏡が出土した事は有名である。とくに毛彫模様のある金銅製薄板金具の装着主が高句麗と密接な関係があろう事は早く原田淑人民や大場磐雄氏が認められている。金銅板の装飾意匠が、平安南道道賢里、三墓里等の高句麗古墳と関係があれば、もはやこの地の主を高句麗系として間違いないであろう。また、鋼板には絹布が付着していたと言う。私は、この金鋼板の装飾に道教的神仙世界と仏教渡来以前の呪術的姿を重ねている。 
というのは、同時に出土した神人歌舞の画像十一体が浮彫された「尚方作竟白有紀辞去不羊宜古市上有東王父西王母令君居陽□送多孫子兮」銘の鏡について、当時古代中国で広がっていた「不老不死」を願う神仙思想の臭いがするからである。

 漠の武帝が長生を願い神仙思想にこっていた事は良く知られているが、彼は、天上から降りて来た、右の銘文中にある「西王母」から仙桃七顆をもらったといわれている。桃の実や樹が、その生命力や香りから、呪物として貴重であった事は、『古事記』などでも語られているし、今日までその風俗は遺存しており、不死を願う民衆道教の一要素と係わっている事は間違いない事である。

 上田正昭氏は、高句麗古墳の実地踏査から、仏教と習合している道教の存在を指摘されている。高句麗人はかなり早い時期に神仙思想を中心とする道教を持っていたのである。とすれば、五世紀終末この地に渡来した高句麗王一族も神仙思想を持っていたのであろう。天馬や龍は神仙への使者である。そう考える事で、高麗郡設置以前、この地が「狛江」であり、神仙的鏡や毛彫金銅板を持つ「高句麗」的であった事が判明する。

 「深大寺仮名縁起」によれば、狛(柏)江の佐須という所に、狩猟を好む長者がおり、そこへ「虎」という容貌愛わしき婦人が自らすすんで妻となり長者を良導したとある。この虎女は、何を暗示しているのだろうか。現存する「虎猫(柏)神社」は彼女を祀ったとされている。虎は高句麗ではないか。

 さらに、この夫婦からは美しい女の子がうまれ、12、3という年ごろになると、どこからともなく来た「福満」なる童子が求婚するが親は許さなかったという。しかし、福浦は、日夜必死の祈りによって「水神深沙大王」の助けをかり、親のゆるしをうけて結婚したのである。この福浦もまた、虎と同じように、この地に渡来した人物像とダブルイメージである。

 福浦には一人の男子があり唐土で修行して「満功上人」として、天平五年に深大寺を創建したとある。その際、深沙大王の像を多摩川に流れてきた桑の木で作り寺の本尊としたという。もっとも注目すべき事は、この深沙大王像のモデルとなったのは、新羅から送られた画像であるという事である。
 この縁起が、すべて真実であるとは考えられないが、何らかの事実を反映しているであろう事は認められている。
 とすれば・この狛江・調布の地にいた先住民の士に「虎」を象徴とする高句麗人が渡来し、やがて、福満を象徴とする新羅人が覆って来たのではないだろうか。

 深沙大王信仰が、新羅僧によってもたらされた事はすでに指摘されている。
 いわば深大寺は、高句麗・新羅の混血文化の結晶といえるのである。さて、深大寺には謎に包まれた白鳳仏が現存するがこの仏の由来は明確でない。畿内で作られて運ばれたという説もあれば関東で作られたと言う人もある。どちらにしても新羅系の仏像である事は間違いないが深大寺の背景には歴史的謎が秘められている気がしてならない。

 深大寺が新羅人によって天平宝字年間に創設されたとする説は、稲葉博氏が発表されており、高句麗系の先住民との確執があった事はほぼ間違いないと考える。

 また、それ以前の霊亀二年(七一六)に関東一円の高句麗人を集めて、この佐須の地より北へ20キロメートル、現高麗川流域に新しい高麗郡が設置されたのである。ところが、この新しい高句麗人の居住地が不思議と新羅的要素の強い地域なのである。現比企郡、とくに東松山市を中心とする一帯は考古学的にも、新羅系渡来人の残したと思われる胴張のある横穴式石室が、金井塚良一氏によって確認されている。
 さらに『和名砂』で言う「都家」=ツゲ郷の地名ツゲが、鶏林であり新羅である事は、河内や大和のツゲの係わりで、大和岩雄氏が指摘されたところである。

 また、新羅系渡来人「壬生吉志」氏がかなり早い時期からこの北武蔵一帯に定着していた事は原島礼二氏の論証で明らかになっている。とすれば、新羅系先住者の上に、八世紀初頭、新たな高麗人が、75  高句麗・新羅混血の深大寺何らかの政治的配慮で、クサビ状に入植してきた事になる。
 この事は、入間川や高麗川一帯に、新羅人の祀った「新羅神社」と思われる「自鬚(髪)神社」が密に分布しており、高麗郡設置より以前である事が、金達寿氏などによって明らかになっている事で判明する。
 高麗神社現存系図の前書の部分は、なにか不利益なことがあって破ったのではないかと五八代目宮司高麗明津氏かのべられているが、そこに、先住新羅人と後移住高麗人の確執がかくされているとみている。
 要するに、私は、深大寺周辺では高麗人の上に七世紀代の新羅人か被い、さらに八世紀に、拠点分散的に高麗郡や新羅郡が設置されて、古代武蔵野の開発にあたったといいたいのである。統一政権の出現によって融合したのだ。彼らが自国での自然環境や政治社会環境を、古代武蔵野にも当然持ちこんでいたと考えるので、きわめて政治的色彩の強い移住や渡来だったと考えているのである。

 この高麗郡と南の狛江郷との関係は明らかに出来ないが、六世紀に栄えた自分たちの祖先の事を知らないわけはないであろうし、地域的には、山麓線に沿った同一環境とみられるので、高麗郡の設立時には、その一族は北へ拡大移住していたのてあろう。
 というのは、現青梅市根ヶ布に、調布市佐須にある「虎柏(狛)神社」と全く同名の神社があり、式内の論社となっているからである。どちらが式内の虎柏(狛)神社かわからないが、両者とも高句麗系の自然環境を有しており、佐須のそれが狛江郷にあり、青梅のそれが、高麗郡の南に接している事だけは間違いない事である。
 とすれば、やはり両者はコマ神社であり、あるいは、佐須の先住高麗人が、青梅方面へ拡大移住した証拠かもしれない。また、神奈川県大磯市の高来(麗)神社から北に直線を引いて、日高町の高麗神社に至る中間地城に、青梅市根ヶ布の虎柏神社が立地している事は、これらの地域が何らかの歴史的な糸で結合されていると思うのである。

 高麗郡の高麗神社も、相模の高来(麗)神社も、延喜式にはとりあげられていないが、多摩郡内にあると思われる「虎柏神社」だけが論じられているのは、それだけ地域的な政治経済集団の力を無視しえなかった証拠であろう。

 なお、「虎柏」とあり「虎狛」とないのは「高麗」を「高座」「高倉」に、あるいは「高来」 へと改める事や、「新羅」を「志楽木」や「白木」「白城」とする事と相通じる政治的感情的背景が存在していたのではないか。あるいは「柏」に意味があるのかもしれない。

 ともあれ、「虎柏」ではなく、「虎狛」である事は証せられているので、佐須のそれは「コマ」=「高麗」 である事は間違いない。

 ところで、この関東平野西北部一帯の古文化が、後の鎌倉武士の出現と無関係でない事は当然の事であろう。なぜなら、「武蔵鐙」 の出現は、馬文化の長い歴史と伝統を持っていたからに他ならないし、桓武平氏系、清和源氏系、丹治氏系が鎌倉以前の伝統を受け継いでいる事は間違いない。彼らが、武蔵野移住前に中央政権との係わりで、遠く朝鮮半島の高い文化を背負っている事も考えられるのである。

以上、古代の日本と渡来文化 荒竹清光著 古代東国と渡来人 高句麗・新羅混血の深大寺より
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