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埴輪は、どんな理由でいつ生まれたかが、ホツマツタヱに記述

埴輪:

先日、土偶についての謎が解けた本を見つけ、取り上げさせていただきました。
(土偶 130年間解かれなかった縄文神話の謎 竹倉文人著 晶文社発行) 

ホツマツタエと年代的にずれがあるようですが、大きな歴史の流れの中の一つを見ることができたと思いました。
今回、土偶と同じように古代の造形物の一つ埴輪について、取り上げました。
埴輪は、どんな理由でいつ生まれたかが、ホツマツタヱに記述されているからです。
それは、垂仁天皇のときとホツマツタヱ37綾に明確に記録されています。

一方で、中国の秦の始皇帝の時に、兵馬俑という大掛かりな遺跡の情報があったかどうか、関連性があったかどうかは不明です。年代的に、すでに兵馬俑のことが伝わっていたかも知れないと思われるからです。
ここでは、ホツマツタエの記述のみに注目します。

さて、なぜ埴輪が出現したかについて、埴輪ができるまでは、亡くなった方を埋葬するとき、お付きのものが一緒に生きたまま埋葬される風習・殉死があったからです。当初は、殉死された方は自ら進んであの世でも主人にお仕えするという心意気が全てであったのが、時代とともに習慣化されてしまい義務的になっていたような空気があったのではないでしょうか。

例外かもしれませんが、オシホミミ(天照神とムカツ姫との皇子)が亡くなられたとき、お妃の「タクハタチチ姫」は、天照神にお仕えする道を選んでいます。
神武天皇が亡くなられたときには、殉死された方はなんと33人にも及んだと記されています。

ホツマツタエ19綾より
 神武天皇の「おもむろ」を埋葬、殉死者は三十三人に(31綾-41~43頁)

ながつきの そふかつみえに
「おもむろ」を 「かしお」におくる
よそほひは 「あびらつひめ」と
「わにひこ」と とはずかたりを
なしはべる 「きみ」「とみ」ともに
「ほら」にいり 「かみ」となること
あすききて おひまかるもの
「みそみ」たり

(綏靖元年)九月(菊栗月、菊な月)の十二日「つみえ」(ほつま歴 3/60後の丙寅ひのえとら)の日に、神武天皇の「おもむろ」(死骸)を「かしお」(うねび山東北白檮尾)の陵に埋葬しました。
神武天皇の葬送のその時の状況(装い)は「あびらつ姫」と「わにひこ」(くしみかたま)とが無言でかしこまってつき従い、君の亡きがらと臣は共に洞に神になりました(追い枯れ、臣は生きたまま殉死されました)。
あくる日、お二人の殉死を聞いて、待女や従者たちは次々と君の後を追って殉死したものは三十三人にもなりました。

 よにうたふうた
「あまみこ」が 「あめ」にかえれば
「みそみ」をふ 「まめ」も「みさほ」も
とほる「あめ」かな

このとき、世の人々が唄った歌です。
天皇子(あまみこ)が天(あめ)に帰れば(天国に召されたとき)
三十三(みそみ)人が後を追いました。天には、忠(まめ)も操も通じています。

後世になり、垂仁天皇は、兄の死で、殉死(追い枯れ)の残酷さを目撃し、廃止を決意することになります。37綾-2~5

殉死に置き換るもの「埴輪」を考案し作り出したのが、相撲で名声を得た「のみのすくね」ということがわかりました。

 ふそやほかんな
ゐかまかる あに「やまとひこ」
ねつきふか 「おもむろ」おくる
「つきさか」に はべるひとらを
いきながら うづめばさけび
ついにかる 「いぬ」「とり」はむを
きこしめし あわれにおぼす

たまき宮28年十月(かんな:神々が並びいる月)五日、垂仁天皇の兄の「やまとひこ」が亡くなられました。(「やまとひこ」は崇神(すじん)天皇と「めくうし姫」との間に生まれた皇子。)
十一月二日に葬儀(おもむろ:死体を送る)が行なわれました。「つきさか」(地名:柏原の北側)に埋葬されました。
死体を1ヶ月近く風化させてから埋葬したことがわかります。

天皇を埋葬する時、「はべる」(部下・従ってきた人々)を、生き埋めにして殉死させました。
苦しがって泣き叫び続けてついには死に至りました。野犬や鳥が食いついているのを見、突付くのが聞こえきて、哀れに思いました。

「みことのり」 いきをめぐまで
「からする」は いたましひかな
「ふるのり」も よからぬみちは
やむべしぞ
そこで、垂仁天皇が詔を発しました。生きたまま(息をしている、生きている人を恵んでまでして)死に至らせる(からす)のは痛ましい限りである。
古い法典であっても、悪い教えは止めるべしと申されました。

垂仁天皇の兄の「やまとひこ」が亡くなってから、2年後に 「ひはず姫」(ひはす姫)の葬儀がありました。
この時から、埴輪が始まります。

 みそふほふづき
むかまつる 「きさき」「ひはづ」の
みをくりは もろとみめして
みことのり

たまき宮三十二年七月六日、中宮の「ひはず姫」(ひはす姫)がお亡くなりになりました。
垂仁天皇は、葬儀(見送り)について、諸臣を集めて詔を申されました。

「ひはず姫」(ひはす姫):垂仁天皇の3代目正妃でニシキイリヒコ・イソギネ(兄)、ヤマトオシロワケ・タリヒコ(弟)の母親)

 さきの「をひかれ」
よからねば このおこなひは
いかにせん

垂仁天皇は、今までの追い枯れ(殉死すること)は良くないことなので、今度の葬儀は殉死に代えてどのようにしようかと相談されました。

 「のみのすくね」が
もふさくは いけるをうづむ
ためしとは あにゐからんや
はからんと 「いつも」の「はしべ」
もゝねして 「はにでこ」および
「くさくさ」の かたちつくりて
たてまつる

「のみのすくね」が申し上げるには、生きたまま埋めるという「ためし」(お手本・見本・試すこと・前例に従うこと)は絶対にやめましょう。
考えて(図らん)見ましょうと言って、出雲の土師部(はしべ)多数に、埴でこ(土人形)及びいろいろ(くさぐさ)な形のもの(馬・舟・建物など)を作ってお納めしました。(奉りました)
 いまよりのちは
「はしもの」を いけるにかえて
みさゝきに うえてためしと
なすべしや

今後は、「はしもの」(土で作ったもの・「は」は「はに」、埴)を、生きた人間に代えて陵に「はにわ」を植えて(建てて)納めることを今後の「ためし」(お手本)にいたします。

 「きみ」よろこびて
みことのり なんじがはかり
わがこゝろ よしと「はにわ」の
たてものを のちのためしと
さたまりて

君(垂仁天皇)は大層喜ばれ、詔をいたしました。
汝(のみのすくね)が計画したものは、私の思う心と同じで(良しと決定する)あるので、今後は「はにわ」で作った建物(殉死に置き換わる造形)を後世へのお手本にするよう定めまることとする。

 「のみのすくね」を
あつくほめ 「かたしところ」を
たまわりて 「はし」の「つかさ」ぞ

「のみのすくね」を大変誉めて、「かたしところ」という称号を賜りました。そして、土師部(はしべ)という役職(司:司る)に出世しました。

「かたしどころ」の解釈について、
一つは「かたづける場所」「かたす所」から推測して作業場のある土地を示しており、良い土の取れる土地を賜ったと考えられます。
もう一つの解釈としては、「のみのすくね」が「すもう」をしたことより、勝負のかたをつける場所、(後世の土俵につながる)であったのではないかと思われます。
「すもう」・「のみのすくね」については、前回の項目と一部重複しています。

垂仁天皇の代に、「はにわ」が始まった理由や経緯がこの記述でよくわかります。
神武天皇の時には、部下たちは自ら進んで殉死したが、後世になって殉死するのが風習となって義務化されていたように思えます。

いくつか、語源となった言葉が見つけられます。
かる:枯れる:当時は人間が死ぬことも枯れるという表現をしていた。
追い枯れ:殉死、折れ枯れ:事故死、早枯れ:早死
からす:死体を埋葬するまで守って風化させる、死体処理すること、忌み嫌われる鳥になる)
2023/1/26 (日付の年間違えてました) 藤田 昇

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「すもう」について35綾より抜粋

ホツマツタヱ35綾に「すもう」に関連したところがあります。抜き出してみました。
原文をのひらがな訳に、以前解読したものを追記・修正したものです。

「すもう」は、垂仁天皇(神武天皇から11代目)のときに始まりました。今の相撲とは違いますが、いくつか流れが読み取れます。

垂仁天皇は紀元前から紀元後の頃の方と思われます。「こよみ」はスズタケ(すず・竹)で暦を読んでいたようです。
ただし、スズ竹は一年に2回新芽が出るとのことで、現在の一年を二年分と計算されていたことがあったかも知れないという推論もあります。魏志倭人伝の年数と合わない一つであるかも知れません。
暦については、ホツマツタエの28綾にも記載がありますが、私自身まだ完全に理解できていないままになっています。

「すもう」について35綾より抜粋

 あるとみ「きみ」に
もふさくは 「たえまくえはや」
おゝちから ちかねをのばし
つのをさく かなゆみつくり
とこかたり
 これをふみはる
わがちから よにくらべんと
もとむれど なくてまかるや
ひたなげく 

ある臣(とみ)が君・垂仁天皇に申されるには、「たまえくえはや」という者が非常な力持ちである。
鉄(ちかね)を引き伸ばし、牛の角をへし折り、鉄の弓を作ることを、ところ構わず吹聴している。
この鉄棒を撓めて弓を張ることができる俺の力を、この世で力くらべをしたいが誰もいない。俺はこのまま誰とも力くらべしないまま死んでいくのか、とひたすら嘆いていました。

「きみ」もろにとふ
「くえはや」に くらぶるちから
あらんおや もふさく「のみの
すくね」なり 「ながおいち」して
これをめす

君・垂仁天皇は誰か「(たまえ)くえはや」と比べる力持ちはいないのかと、諸々の人に問いました。
すると、臣の一人が「のみのすくね」という者がいると進言しました。
君・垂仁天皇は、早速、「ながおいち」という臣に「のみのすくね」を呼び寄せるよう召されました。

 「のみのすくね」も
よろこびて あすくらべんと
みことのり ちからくらぶる
かみののり 「すまゐのさと」に
「はにわ」なし

「のみのすくね」もこれを聞いて喜びました。そして、明日、力くらべをやりましょうと詔が出ました。
「力くらべ」を「神ののり」を、神前(前天皇が住まわれている里)(すまいのさと)に、土俵(はにわ)を作りました。
(江戸時代までは、相撲、角力を「すまい」と言っており、また土(はに)を固めて作った事から今の土俵の元になったようです。)

 「たえま」は「き」より
「のみ」は「つ」に あいたちふめは
「のみ」つよく 「くえはや」がわき
ふみてまた こしふみころす
ときに「きみ」 「うちは」をあげて
どよませば とみもよろこび

「たえまえ(たまえくえはや)」は東(き)より、「のみ(のすくね)」は西(つ)から登場して、お互いにしこを踏んで(あい立ち)仕切りして立ち合って力を誇示しました。
「のみ(のすくね)」は強く、「(たまえ)くえはや」の脇腹を踏み倒して、更に、腰を踏んづけて殺してしまいました。
勝負あったとき、君(垂仁天皇)は「うちわ」を挙げてどよませました。(軍配の始まり)周りの臣たちもよろこびました。

「くえはや」が 「かなゆみ」および
「たえま」くに 「のみ」にたまわり
いえはつま つぎなし「のみ」は
「ゆみとり」ぞこれ

垂仁天皇は、「(くえはや)たまえくえはや」が持っていた金弓と、「たえま(たまえくえはや)」の国・領土を「のみ(のすくね)」に与えました。しかし、「たまえくえはや」の家は「たまえくえはや」の妻に残しました。
「たまえくえはや」には世継ぎの子供がいませんでした。そして、「のみ(のすくね)」には、「ゆみとり」の称号を与えました。

「ゆみとり」の称号は、「弓取り式」の原型であったようです。

相撲とは別に、37綾に「のみのすくね」の話が出てきます。

ひはず姫(ひわす姫:垂仁天皇の3代目正妃・5人姉妹の長女、イソギネ・ニシキイリヒコ、景行天皇の母親)の葬儀のときに「埴輪・はにわ」が始まります。
 垂仁天皇は、今までの追い枯れ(殉死すること)は良くないので良い方法がないものか相談されました。

「のみのすくね」は、殉死される、生きた人間に代えて陵に「はにわ」を植えて(建てて)納めることを今後の「ためし」(お手本)に提案しました。
君(垂仁天皇)は大層喜ばれ、詔をいたしました。
汝(のみのすくね)が計画したものは、私の思う心と同じで(良しと決定する)あるので、今後は「はにわ」で作った建物(殉死に置き換わる造形)を後世へのお手本にするよう定めまることとする。

 「のみのすくね」を
あつくほめ 「かたしところ」を
たまわりて 「はしのつかさ」ぞ

「のみのすくね」を大変誉めて、「かたしところ」という称号を賜りました。そして、土師部(はしべ)という役職(司:司る)に出世しました。

「かたしどころ」とは、
一つは「かたづける場所」「かたす所」から推測して作業場のある土地を示しており、良い土の取れる土地を賜ったと考えられます。
もう一つの解釈としては、「のみのすくね」がすもうをしたことより、勝負のかたをつける場所、(後世の土俵につながる)であったのではないかとも思われます。

「のみのすくね」の詳細が、風土記博物誌 三浦祐之著 岩波書店発行に記載されていました。
墓の写真のみ添付いたします。2023/1/22
のみのすくね墓

埴輪については後述予定。
2023/1/18

卑弥呼・鬼道を占う:魏志倭人伝とホツマツタエ


「ホツマツタエ」という名前は聞いたことがあっても、古代の歴史書という程度で何が書かれているのか興味ない。不明な古代の文字を読みたいとまで思わない方も。

たった48文字(48音)のカナ文字(オシデ文字)が5・7調で綴られていても、限られた情報で、何のことかわからないというのが、ふつうの方だと思います。

魏志倭人伝をまとめられた漢字文化の方から見ると、幼稚な古代人の最低限の文字、言葉の羅列の集まりとしか見ることができなかったと思われます。

「オシデ文字」と呼ばれる一種のカナ文字で書かれたようなもので、高度な内容が秘められているとは誰の目からみても思えず、子供が書いた程度の簡単な内容であったと考えるのが当時の常識であったと思われます。
膨大な漢字書物と比較すると48文字だけの表音文字を深く追及するまでもないと思っても何ら不思議ではなかったと思います。
しかし、重要な事柄については表意文字の機能も多く隠されています。

魏志倭人伝の記述でいくつか気になった言葉を取り上げて見ます。

1. 卑弥呼

魏志倭人伝に卑弥呼と言われた日本人の行動や話した事柄のギャップは信じられないものであったと思われます。
「オシデ文字」で書かれた「ホツマツタエ」と「ミカサ文」の記述を自分なりに読んできた内容と照らし合わせると、魏志倭人伝に記されている内容に重なり合わせられると思われる個所がいくつか見つかります。

「ヒミコ」は個人名と思い込みから、誰のことかまったく、わからくなっている方がほとんどの方のように見受けますが、当時の役職名であったと気が付けば一気に解読できるからです。魏志倭人伝に登場する「ヒミコ」は2代目であったことが分かります。

漢字がなかった、オシデ文字で記された元は、「ヒミコ」と解釈されていたようですが、元々は「ヒのミコ」であり、「の」は所有格のため漢字化されたとき省略されたものと思われます。多くの漢文資料でも所有格「の」は省略されています。

「ヒのミコ」の「ヒ」は、天照神を表す「日・天・太陽」を示し、「ミコ」は、皇女・巫女であり、天照神の御杖代を示していることが分かります。「ヒのミコ」と伝え聞いて「卑弥呼」という漢字を当てはめたと理解できます。
 奈良県宇陀郡御杖村(みつえむら)に、ヤマト姫ヨシコが御杖代として祀られていたことも分かります。
ホツマツタエの解読より、当時の前後関係から11代垂仁天皇の娘・ヤマト姫ヨシコが2代目「御杖代」・「ヒミコ」であったことがわかります。
初代は「トヨスキ姫」(10代崇神天皇の娘)、3代目は「イモノ姫」(12代景行天皇の娘)と確認できます。

2. 鬼道を占う

そのため、「卑」という文字や「鬼道」という言葉があえて難解な文字で記されたのは、魏志倭人伝の原稿を書いた当時の人たちが聞き取った内容を当てはめて記したことが読み取れます。

「鬼道」(キドウ)という言葉ですが、元々は「キ」・「ミチ」で、「キのミチ」・「ツキヒのミチ」で本来は、「日の道」・「月日の道」であったと思われます。
訓読みの漢字が、書かれた漢字が時代と供に音読みになっているケースと思われ、「キ」は、黄色、太陽の色から、太陽の運行、軌道から天体の動きを占うっていたと考えられます。

さらに、「ホツマツタエ」と対をなす「ミカサ文」という文献の「タカマナル綾」を、解読できた内容を天空図にしてみました。まさかと思われるような飛び出してきました。が、天体や地球・太陽・月・惑星のことを理解していないと読み取れない代物でもありました。
太陽との公転面と自転軸のずれ、北極星の向き、緯度、経度、「トメヂ」という地球規模の距離の測量、地球は球体(クニタマ)であったことを理解していたとは、にわかには信じがたいことです。
さらに、地球(クニタマ)の大きさは現在のサイズとほとんど同じであったことに驚きます。
太陽、月の大きさ、地球からの距離については違いがありますが、宇宙は胞衣の中という概念で表現をしています。記述をエクセルを使って図に展開して見ました。
20210421クニタマ図fc2用


北極星が特別であったことから、出雲大社の古代遺跡から読み取れた、北に向かって天上に建てられた社が少しでも北極星に近づこうとしていたとうかがえます。一部追記修正2023/1/14
出雲大社復元図大林組




20210421天空図ミカサfc2用


いつの時代でも、政権をとった権力者にとって、不都合なことは抹殺されてきています。
大和政権によって漢字文化が浸透し、古事記(新羅系)・日本書紀(百済系)が日本で最初の書物になり、それ以前の日本には文字がなかったと、誰もが思い込んでいます。

ある学校ではホツマツタエのことを話すと退学処分されると、聞いたことがありました。
ホツマツタエの内容を公にすることができないため、知る由もないわけです。
いつしか、ホツマツタエが教科書にも取り上げられ公認されるときがきますように!
2021/1/14
藤田 昇
以上


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