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やっと、銅鐸の謎が解けました。ズバリ、彼岸孔でした!

やっと、銅鐸の謎が解けました。ズバリ、彼岸孔でした!

銅鐸202305


世界各地の古代遺跡に、例えばマヤ遺跡、エジプトピラミッド、アイルランドなど、夏至だけ、冬至だけに太陽信仰とも思える太陽光線を捉える仕組みが隠されていました。銅鐸も特別の日に太陽の光りを取り込む配慮があったことに多くの方は気が付きませんでした。
古代遺跡に発見された大掛かりな仕掛けではなく、銅鐸も太陽の光線を取り込む機能を備えていたことです。気が付かれていた方々は銅鐸本体の左右・前後の4つの孔を彼岸孔と呼んでいました。春分・秋分・夏至・冬至の日の太陽を捉えていたことがわかります。

銅鐸は、山の南のふもとに銅鐸を北極星に向かって設置します。そして、日の出を山の正面に向かって銅鐸が照らせれるのを待ちます。日の出の瞬間、地平線に沿って銅鐸の右側が照らされるからです。

彼岸の日だけ、日の出は真東から、右の孔に差し込み、反対の左の孔から光が通り抜けます。日の出の光りが銅鐸の左右の孔を通り抜けたときを彼岸の日と言います。

この日の夕方、日没のときには、逆に西から東の孔に光が貫通します。その日が彼岸の日であることがわかります。銅鐸が正しく置かれていることの確認にもなります。
影になる方の孔の中に、わずかに光が通り抜け始めた日が、「彼岸の入り」で、完全に入り込んだ日が「彼岸の中日」で、光の取り抜けがついに差し込まなくなった日が「彼岸明け」と呼ばれるようになったと思われます。

銅鐸の4つの孔の対角線に太陽の光りが通り抜ける日が夏至と冬至の日を示します。
(銅鐸の孔は対角線29°と言われているようですが、昔、銅鐸展や上野の博物館やでいくつか見たとき、角度が違っているものも存在していた記憶があります。)

銅鐸で太陽の動きを日にちごとに確認し、季節の基準が決めることができるようになったからです。それまでの狩猟生活から農耕生活に移行しつつある年代と思われます。農耕生活に必要なことは、春夏秋冬、種まきから収穫まで育てるための暦が必要とされ、一年を四つに分け、さらに細かく分けていったものとなっています。

立春・雨水(うすい)啓蟄(けいちつ)春分・清明(せいめい)穀雨(こくう)
立夏・小満(しょうまん)芒種(ぼうしゅ)夏至・小暑(しょうしょ)大暑(たいしょ)
立秋・処暑(しょしょ)白露(はくろ)秋分・寒露(かんろ)霜降(そうこう)
立冬・小雪(しょうせつ)大雪(たいせつ)冬至・小寒(しょうかん)大寒(だいかん)

長い年月をかけ、夏至・冬至を示す銅鐸の孔の位置は、春分・秋分から29°の角度で確定されてました。
昔の資料(2003年、初めてのホツマツタヱ記述検証旅行)が見過ごしたままになっていた滋賀県の三尾神社の資料に目が留まりました。

その三尾神社の資料の中に猿田彦と銅鐸という二つの言葉を見つけたからです。
今まで全く無関係と思っていたものでしたが、猿田彦が銅鐸と結びついたことにより、ホツマツタヱを読み直してみると、断片的に出てくる猿田彦の行動から、銅鐸がどういうものであったか、今まで疑問だったものが氷解し、時代背景も浮かび上がってきました。

ホツマツタヱ24綾に、天孫ニニキネが八洲巡りの途中で猿田彦が80人もの馬と篭の行列の道を塞いでいた記述がでてきます。猿田彦が道を塞(ふさ)いで動かなかった、天孫ニニキネが来るのをずーっと待っていたと記述しています。
猿田彦は、そこで何をしていたのかが最初の疑問です。
猿田彦は、毎日、銅鐸に向かい合って、ここで何をしていたのか?

毎日、日の出と日の入りの時に銅鐸の孔へ太陽の光が差し込むのを見ていたと考えられます。銅鐸が動かないように、見守り続けていたからです。
毎朝、毎夕の日の出、日の入りの両方を観察していたと思われます。あるいは、日の出、日の入りのどちらか片方だけであったかも知れませんが。

今までの事例より、多くの銅鐸は、山のふもとの南側に設置されていたようです。山の頂には神がいると信じられ、多くは神社が鎮座しています。夜、南斜面の山のふもとから山頂を見上げると、北の前方に北極星(神)が輝いています。
古代の出雲大社の北の上空に神社が祀られていたようです。さらにその向こうには北の星(北極星)が鎮座していたからと感じられます。

それではなぜ、歴史の流れの中で銅鐸は消えてしまったのか?
ホツマツタヱ後半に、ヤマトタケがエミシ征伐に行ったとき「伊勢の暦」が遠く東北・ヒタカミまで届けらており争うことなく感謝されています。

伊勢でつくられた暦は、候補として、美濃の金山巨石遺跡群(岐阜県下呂市金山町の岩屋岩蔭遺跡)が考えられます。そのほかに益田船山遺跡(橿原市白橿町)や明日香村村岡の酒舟石などでも観測していたと思われます。

(「ホツマツタヱ15綾」や「ミカサ文タカマナル綾」から信じられないほど正確な地球の大きさに驚きます。緯度経度も認識されてきています。地球の大きさは現在の大きさと全く同じ寸法を表示しているにはただ驚くばかりですが。)

紀元前の日本で、ミカサ文やホツマツタエの記述から、地球をクニタマ(球体)として見ており、しかも正確な大きさで測量していたことに驚きました。

正確に測定されていた当時の背景の可能性を取り上げて見ました。
先人たちの調査内容や、遺跡から、組み合わせると浮かび上がってくるように見えたからです。
一つは景行天皇の兄の「イソギネ・ニシキイリヒコ」が司としての記述です。日置の配置から、測量をしていたことが考えられます。

西へ西へと一直線に測量したのは、いくつかの推測があります。
同緯度上に一直線になるように等間隔に日置(火の見やぐら)を設け、合図に使ったためかもしれません。

直接見通しのつく日置の距離を実測したものと、天体測定によって得られた経度の違いを測量したものを突き合せたものと考えられます。

離れた2か所の距離と天空の星の角度のずれを精密に観測したことから、経度の角度から距離が計測され、最終的に地球全体の距離も計算できていたと推測されます。

当時の地球の大きさの測定結果については、現在の大きさとほとんど変わらない事実について、当初はまさかと思っていましたが、正確な測定技術を持っていたものと感心します。

一方、出雲では、
おおなむちの行動の背景ですが、全国を廻り、稲作を確かなものにしていくことを教え説いています。
おおなむち・大国主(おおものぬし)は、狩猟生活、獣肉を食べていると栄養がつき過ぎて早や枯れ(早死)してしまう。お米を食べなさい。と説いていたことが記されています(ホツマ9 綾)。
そのためにもそれぞれの地区で稲作のために銅鐸が必要であると感じていたと思われます。

39もの銅鐸・ミカラヌシを作り上げていたことになります。

同時に、古代の出雲大社の並外れた大きな天空に届くような神社を祀ったことで、北の神(北極星)を祀ることにつながります。
出雲での並外れた大掛かりな行動が本家の存在を脅かすまでになっていました。

後に、銅鐸に頼らずとも太陽を観測されるようになり、精密な暦もでき、地方へも伝えられるようになった時代になりました。

銅鐸が歴史上で突然消えてしまったのはなぜ?
大変な思いをして銅鐸を使う必要がなくなったのはなぜ?
銅鐸を作る目的は何であったのか?
銅鐸に置き換わったものとは何?銅鐸を必要としない新しい時代の取り代わったものは
出雲の荒神谷の39体の銅鐸が何を意味していたのか?不要になったことも
出雲では神まつりせず
銅鐸を各地に配るため、大量(39体)作られたが、不要になっていた。

なぜ、大国主命が出雲を去らなければならなかったか、
「おおなむち」が津軽「つがるうもとの神」になったいきさつは、
本家を差し置いての出過ぎた行動に、くぎを刺す背景が浮かび上がってきました。そして、争いごとをせずに、あてがってもらった津軽へおとなしく身を引くことに納得できました。

 ホツマツタヱ10綾にクシキネ・オオナムチが出雲を去り津軽へ180人のお供と国替えしたことが記されており、その後、出雲での乱れ(罪)も許され、13綾で「カルキミオキナ」(津軽の君・翁)・「垂れ内」(垂れ帳の内:天照神と同等に宮中に昇殿)と呼ばれるようになっています。

後に、大国主は津軽の君として、日高見・仙台でのおしほみみ(天照神とサクナダリセオリツ姫ホノコ・ムカツ姫の子供)とタクハタチチ姫の婚礼に列席しています。

松本清張が「砂の器」に、出雲と東北に同じ方言があったことを言っています。まさに裏付けていたことがわかります。

後に、おおなむちは出雲が乱れた真の理由は、「上のものが欲に溺れると、下の者は真似して手が負えなくなる事」が、今わかったと反省している場面があります。
「すずか」の意味がわかったと反省しています。それ以降、出雲の国が乱れた罪も免じられています。
「みからぬし」という言葉がホツマツタヱに登場します。ひとりの人間として対応しているようにも見えます。

魏志倭人伝には錯綜文字(訳が分からなかった・どのようにも取れる)があったとだけ記載されています。漢字文化を背景にした人からは、48文字だけのオシデ文字に高度な情報が入っているとは到底考えられなかったと思われます。
まさか、精密な天体観測のデータなど48文字に記されているとは思いもよらないことで、卑弥呼が鬼道を占いと言う表現になったことは容易に理解できます。(卑弥呼が鬼道:ヒミコ・日・天照神の巫女・御杖代:キミチ・黄道・太陽の道)

私自身もこのミカサ文57調の歌を読み、記載内容をエクセルで図に展開し全体が読み取れて初めて納得できました。小中学校のときの天体観測や経験も役立ちました。太陽を廻る公道と地球の地軸の傾きを言っていると理解できました。

漢字文化を背景にされた方が、ホツマツタヱに記されている内容は、訳が分からないことが多く、自分たちに都合の悪いところや理解できないところは無視して、古事記・日本書紀を完成されたと思われます。自分たちの知らない高度な情報は認めるわけにいかず、日本には文字がなかったことにしたことは容易に納得できます。
いつの時代も、時の権力者は自分の不都合なことは表に出しません。
そのため、今でもホツマツタヱが抹殺されたことを知らない方がほとんどである。
2023/5/18藤田 昇
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