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こんにちは

こんにちは

2012/2/26改訂

このブログを2009年7月に立ち上げてから、この春でやっと半分の折り返し点を通過出来そうになりました。そこで、「はじめに」という内容も当初のままだったので書き直すことにしました。


                     記

「ほつまつたゑ」は、日本書紀・古事記(七~八世紀)が出来る前に既に存在していた古代日本の歴史書のひとつです。

この「ほつまつたゑ」は1綾から40綾まであります。

1綾~28綾は紀元前660年に、その後、約900年経って、景行天皇の時に、29綾~40綾に、それ以降の内容をまとめられたものです。
ですから、「ほつまつたゑ」の記述は景行天皇のときで終わりになります。


ほつまつたゑ・古事記・日本書紀 概要比較


ほつまつたゑ1~28綾 

完成時期 紀元前660年ごろ 天地開闢・天神7代・地神5代
編者:わにひこ・くしみかたま右大臣
編纂時の天皇:神武天皇のお父さんにあたる「うがやふきあわせず」神です。(訂正2012.9.7)

ほつまつたゑ29~40綾完 

完成時期 紀元241年 人皇1~12代
編者:大田田根子右大臣
編纂時の天皇:景行天皇人皇12代

古事記

完成時期 712年和銅5年
編者:太安万侶
編纂時の天皇:天武天皇

日本書記

完成時期 720年養老4年
編纂時の天皇:持統天皇





「ほつまつたゑ」にしるされている文字は「おしで文字」と言い、コンセプトは現在の韓国のハングル文字に似ています。
表音文字で、母音部分と子音部分の組み合わせから成り立っています。
但し、ハングルよりずーっと古く、パッチムのような複合文字はありませんが、表意文字(今風の絵文字)もあり、読むとき多少分かり易くなっています
「ほつまつたゑ」にどういうことが書かれているのか、誰もが簡単に読めるようひらがなに書き直し、自分なりの解読内容を付けることにしました。
「ほつまつたゑ」は五七調で延々と続き、何処で区切って良いのやら迷う所です。区切った場所によっては意味が全く違ったりもします。
私なりに区切って、分かり易く小目次を付けて行きました。ですから、ここにある小目次は、オリジナルの写本にはありません。
全く別の解釈もあり得えます。一つの解読例として捉えていただけたらと思います

個々の解釈について、「ほつまつたゑ」を発見された松本善之助氏の門下生であった高畠精二氏の解釈を参考にさせていただいています。さらに自分なりの解釈に発展させることが出来ました。

高畠精二氏の解釈は下記URLを参照ください。


http://www.hotsuma.gr.jp/



なお、このひらがな訳の原本は

和仁估安聰繹述 「ほつまつたゑ」 秀真政傳紀 
原典著者 大田田根子命 漢訳筆録 和仁估安聰
復刻監修 松本善之助  発行人  高畠精二
発行  日本翻訳センター です。

さらに、覆刻版 「ほつまつたゑ」
原本筆録 小笠原長弘  復刻監修 松本善之助
発行人 高畠精二  発行 日本翻訳センター
と照らし合わせてみました。

本文の下の(数字)は、和仁估安聰釋述の「ほつまつたゑ」の中の頁番号です。また、小笠原長弘筆録版と記載内容が違っているところは併記してあります。

疑問に思われた時は必ず、前述のオリジナルの写本でご確認願います。表音文字だけでなく、数字とか特別な意味を持つ文字があっても、本ひらがな訳にはそれらの区別を表示しておりません。写本によっても特別な意味を持つ字であったり、普通の文字であったりまちまちだからです。

大きく食い違いが気になるところは「(  )小笠原写本」と本文下に二重表記しました。
特に小笠原長弘編本には句読点はありません。

 ホツマツタエを読み始めて、色々な発見もありました。

例えば、吉野ヶ里遺跡が当時の国の名前や治めていた女王の名前も、さり気なく記述されていました。38綾に景行天皇が九州へ熊襲征伐を無事成し遂げた帰りの記述の中に隠れていました。
 当時は「みね」国と言い、「やつめひめかみ」と呼ばれていたことが分かりました。
 漢字が渡来した時「やつめ」が「八女」と置き換えられ、いつしか漢字の文字が一人歩きして「やめ」と呼ばれるようになったと考えられます。
今の「八女」地方と言われていることからも納得がいきます。

 その他、何故、日本書記、古事記以前には日本には文字が無かったと言わざるを得なかったか。途中までの解読ですが、何故か感じとれるようになりました。

 その理由として
特に、日本書記は当時の日本という国を代表する国書として、大陸に日本は文明国であることを認めてもらうために、編纂されたものと理解しています。遣唐使によって渡されたようです。
 記紀の編纂者は当時既に日本に伝えられていた儒教の教えを受けた方々でした。
そして、その儒教の教えでは近親婚は野蛮人のすることでありました。

 しかし、ホツマツタエを読んでみると彼方此方に近親婚がでてきます。家系をたどって見ると従兄妹婚は普通に行なわれていたようです。
 たとえば、記紀で欠史8代と言われているところでは、やむを得ないことであったようで、姪っ子をお妃にせざるを得なかったこともわかりました。
 決して、編纂者の目から見て公けに出来る内容ではなかったことと思われます。
その個所は削除せざるを得なかったからでしょう。

 さらに、身内同士の殺し合い等もところどころに出てきます。

 これらの内容を、当時の世界共通語の漢字に翻訳して書き写すことは、当時、世界の中心にあった大国・唐に対して、日本は文明国ではなく、野蛮人というレッテルが貼られてしまう恐れがあり、隠す必要があったからだと考えます。

 ホツマツタエの中でも、あまりにも惨いところは「おろち」が噛み殺すという表現にしています。当然そういう内容は省かざるを得ないと判断されたものと思います。
 そのため、日本の国史として記紀が完成した以降、当時の最先端であった儒教精神で野蛮と判断される記述を含んだホツマツタエの存在を許すことは出来なくなります。

 あまりにも、ホツマツタエは多くのことを伝え過ぎていたのです。
 
 いつしか、日本には文字は存在しなくて、記紀が日本で最初の書物ということに決められてしまい、今もそれをほとんどの日本人が信じているのです。

 まだ、全ての綾を読み終えているのではないので、今の時点で結論を言うには早いですが、卑弥呼が誰のことを言っていたのか、邪馬台国が何処を示していたのか、まるであぶり出しのように全体像が浮かび上がって来るようです。解読を続けることは楽しいものです。

一日も早く、このホツマツタエが日本国中で、日の目を見られるようになって欲しいものです。

以上
ジョンレノ・ホツマ

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