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「すもう」について35綾より抜粋

ホツマツタヱ35綾に「すもう」に関連したところがあります。抜き出してみました。
原文をのひらがな訳に、以前解読したものを追記・修正したものです。

「すもう」は、垂仁天皇(神武天皇から11代目)のときに始まりました。今の相撲とは違いますが、いくつか流れが読み取れます。

垂仁天皇は紀元前から紀元後の頃の方と思われます。「こよみ」はスズタケ(すず・竹)で暦を読んでいたようです。
ただし、スズ竹は一年に2回新芽が出るとのことで、現在の一年を二年分と計算されていたことがあったかも知れないという推論もあります。魏志倭人伝の年数と合わない一つであるかも知れません。
暦については、ホツマツタエの28綾にも記載がありますが、私自身まだ完全に理解できていないままになっています。

「すもう」について35綾より抜粋

 あるとみ「きみ」に
もふさくは 「たえまくえはや」
おゝちから ちかねをのばし
つのをさく かなゆみつくり
とこかたり
 これをふみはる
わがちから よにくらべんと
もとむれど なくてまかるや
ひたなげく 

ある臣(とみ)が君・垂仁天皇に申されるには、「たまえくえはや」という者が非常な力持ちである。
鉄(ちかね)を引き伸ばし、牛の角をへし折り、鉄の弓を作ることを、ところ構わず吹聴している。
この鉄棒を撓めて弓を張ることができる俺の力を、この世で力くらべをしたいが誰もいない。俺はこのまま誰とも力くらべしないまま死んでいくのか、とひたすら嘆いていました。

「きみ」もろにとふ
「くえはや」に くらぶるちから
あらんおや もふさく「のみの
すくね」なり 「ながおいち」して
これをめす

君・垂仁天皇は誰か「(たまえ)くえはや」と比べる力持ちはいないのかと、諸々の人に問いました。
すると、臣の一人が「のみのすくね」という者がいると進言しました。
君・垂仁天皇は、早速、「ながおいち」という臣に「のみのすくね」を呼び寄せるよう召されました。

 「のみのすくね」も
よろこびて あすくらべんと
みことのり ちからくらぶる
かみののり 「すまゐのさと」に
「はにわ」なし

「のみのすくね」もこれを聞いて喜びました。そして、明日、力くらべをやりましょうと詔が出ました。
「力くらべ」を「神ののり」を、神前(前天皇が住まわれている里)(すまいのさと)に、土俵(はにわ)を作りました。
(江戸時代までは、相撲、角力を「すまい」と言っており、また土(はに)を固めて作った事から今の土俵の元になったようです。)

 「たえま」は「き」より
「のみ」は「つ」に あいたちふめは
「のみ」つよく 「くえはや」がわき
ふみてまた こしふみころす
ときに「きみ」 「うちは」をあげて
どよませば とみもよろこび

「たえまえ(たまえくえはや)」は東(き)より、「のみ(のすくね)」は西(つ)から登場して、お互いにしこを踏んで(あい立ち)仕切りして立ち合って力を誇示しました。
「のみ(のすくね)」は強く、「(たまえ)くえはや」の脇腹を踏み倒して、更に、腰を踏んづけて殺してしまいました。
勝負あったとき、君(垂仁天皇)は「うちわ」を挙げてどよませました。(軍配の始まり)周りの臣たちもよろこびました。

「くえはや」が 「かなゆみ」および
「たえま」くに 「のみ」にたまわり
いえはつま つぎなし「のみ」は
「ゆみとり」ぞこれ

垂仁天皇は、「(くえはや)たまえくえはや」が持っていた金弓と、「たえま(たまえくえはや)」の国・領土を「のみ(のすくね)」に与えました。しかし、「たまえくえはや」の家は「たまえくえはや」の妻に残しました。
「たまえくえはや」には世継ぎの子供がいませんでした。そして、「のみ(のすくね)」には、「ゆみとり」の称号を与えました。

「ゆみとり」の称号は、「弓取り式」の原型であったようです。

相撲とは別に、37綾に「のみのすくね」の話が出てきます。

ひはず姫(ひわす姫:垂仁天皇の3代目正妃・5人姉妹の長女、イソギネ・ニシキイリヒコ、景行天皇の母親)の葬儀のときに「埴輪・はにわ」が始まります。
 垂仁天皇は、今までの追い枯れ(殉死すること)は良くないので良い方法がないものか相談されました。

「のみのすくね」は、殉死される、生きた人間に代えて陵に「はにわ」を植えて(建てて)納めることを今後の「ためし」(お手本)に提案しました。
君(垂仁天皇)は大層喜ばれ、詔をいたしました。
汝(のみのすくね)が計画したものは、私の思う心と同じで(良しと決定する)あるので、今後は「はにわ」で作った建物(殉死に置き換わる造形)を後世へのお手本にするよう定めまることとする。

 「のみのすくね」を
あつくほめ 「かたしところ」を
たまわりて 「はしのつかさ」ぞ

「のみのすくね」を大変誉めて、「かたしところ」という称号を賜りました。そして、土師部(はしべ)という役職(司:司る)に出世しました。

「かたしどころ」とは、
一つは「かたづける場所」「かたす所」から推測して作業場のある土地を示しており、良い土の取れる土地を賜ったと考えられます。
もう一つの解釈としては、「のみのすくね」がすもうをしたことより、勝負のかたをつける場所、(後世の土俵につながる)であったのではないかとも思われます。

「のみのすくね」の詳細が、風土記博物誌 三浦祐之著 岩波書店発行に記載されていました。
墓の写真のみ添付いたします。2023/1/22
のみのすくね墓

埴輪については後述予定。
2023/1/18

卑弥呼・鬼道を占う:魏志倭人伝とホツマツタエ


「ホツマツタエ」という名前は聞いたことがあっても、古代の歴史書という程度で何が書かれているのか興味ない。不明な古代の文字を読みたいとまで思わない方も。

たった48文字(48音)のカナ文字(オシデ文字)が5・7調で綴られていても、限られた情報で、何のことかわからないというのが、ふつうの方だと思います。

魏志倭人伝をまとめられた漢字文化の方から見ると、幼稚な古代人の最低限の文字、言葉の羅列の集まりとしか見ることができなかったと思われます。

「オシデ文字」と呼ばれる一種のカナ文字で書かれたようなもので、高度な内容が秘められているとは誰の目からみても思えず、子供が書いた程度の簡単な内容であったと考えるのが当時の常識であったと思われます。
膨大な漢字書物と比較すると48文字だけの表音文字を深く追及するまでもないと思っても何ら不思議ではなかったと思います。
しかし、重要な事柄については表意文字の機能も多く隠されています。

魏志倭人伝の記述でいくつか気になった言葉を取り上げて見ます。

1. 卑弥呼

魏志倭人伝に卑弥呼と言われた日本人の行動や話した事柄のギャップは信じられないものであったと思われます。
「オシデ文字」で書かれた「ホツマツタエ」と「ミカサ文」の記述を自分なりに読んできた内容と照らし合わせると、魏志倭人伝に記されている内容に重なり合わせられると思われる個所がいくつか見つかります。

「ヒミコ」は個人名と思い込みから、誰のことかまったく、わからくなっている方がほとんどの方のように見受けますが、当時の役職名であったと気が付けば一気に解読できるからです。魏志倭人伝に登場する「ヒミコ」は2代目であったことが分かります。

漢字がなかった、オシデ文字で記された元は、「ヒミコ」と解釈されていたようですが、元々は「ヒのミコ」であり、「の」は所有格のため漢字化されたとき省略されたものと思われます。多くの漢文資料でも所有格「の」は省略されています。

「ヒのミコ」の「ヒ」は、天照神を表す「日・天・太陽」を示し、「ミコ」は、皇女・巫女であり、天照神の御杖代を示していることが分かります。「ヒのミコ」と伝え聞いて「卑弥呼」という漢字を当てはめたと理解できます。
 奈良県宇陀郡御杖村(みつえむら)に、ヤマト姫ヨシコが御杖代として祀られていたことも分かります。
ホツマツタエの解読より、当時の前後関係から11代垂仁天皇の娘・ヤマト姫ヨシコが2代目「御杖代」・「ヒミコ」であったことがわかります。
初代は「トヨスキ姫」(10代崇神天皇の娘)、3代目は「イモノ姫」(12代景行天皇の娘)と確認できます。

2. 鬼道を占う

そのため、「卑」という文字や「鬼道」という言葉があえて難解な文字で記されたのは、魏志倭人伝の原稿を書いた当時の人たちが聞き取った内容を当てはめて記したことが読み取れます。

「鬼道」(キドウ)という言葉ですが、元々は「キ」・「ミチ」で、「キのミチ」・「ツキヒのミチ」で本来は、「日の道」・「月日の道」であったと思われます。
訓読みの漢字が、書かれた漢字が時代と供に音読みになっているケースと思われ、「キ」は、黄色、太陽の色から、太陽の運行、軌道から天体の動きを占うっていたと考えられます。

さらに、「ホツマツタエ」と対をなす「ミカサ文」という文献の「タカマナル綾」を、解読できた内容を天空図にしてみました。まさかと思われるような飛び出してきました。が、天体や地球・太陽・月・惑星のことを理解していないと読み取れない代物でもありました。
太陽との公転面と自転軸のずれ、北極星の向き、緯度、経度、「トメヂ」という地球規模の距離の測量、地球は球体(クニタマ)であったことを理解していたとは、にわかには信じがたいことです。
さらに、地球(クニタマ)の大きさは現在のサイズとほとんど同じであったことに驚きます。
太陽、月の大きさ、地球からの距離については違いがありますが、宇宙は胞衣の中という概念で表現をしています。記述をエクセルを使って図に展開して見ました。
20210421クニタマ図fc2用


北極星が特別であったことから、出雲大社の古代遺跡から読み取れた、北に向かって天上に建てられた社が少しでも北極星に近づこうとしていたとうかがえます。一部追記修正2023/1/14
出雲大社復元図大林組




20210421天空図ミカサfc2用


いつの時代でも、政権をとった権力者にとって、不都合なことは抹殺されてきています。
大和政権によって漢字文化が浸透し、古事記(新羅系)・日本書紀(百済系)が日本で最初の書物になり、それ以前の日本には文字がなかったと、誰もが思い込んでいます。

ある学校ではホツマツタエのことを話すと退学処分されると、聞いたことがありました。
ホツマツタエの内容を公にすることができないため、知る由もないわけです。
いつしか、ホツマツタエが教科書にも取り上げられ公認されるときがきますように!
2021/1/14
藤田 昇
以上


書感 「土偶を読む」

書感 「土偶を読む」
130年間解かれなかった縄文神話の謎
 竹倉文人著 晶文社 2021年 1700+αIMG_20221013_0001.jpg



 今まで、土偶は、人間を形どっていたと思い込んでいましたが、本書により、全く新しく土偶の原点を知りました。当時の人々の命をつなぐ食べ物に感謝していたのが基になっていたことを知ったからです。

謎に包まれたままであったこともはっきりしました。
当時、食べていくのに必要な栗、木の実などの食べものを表していたことが明らかになった。と著者は記しています。
以前、他の文献から、縄文時代、東北地方で栗が栽培されていたという記事もありました。つながりを感じました。

本書の冒頭から、土偶について、いくつかひろってみると、

土偶の存在は、かの邪馬台国論争と並び日本考古学史上最大の謎と言ってよいだろう。
土偶は縄文人の姿をかたどっているものでも妊娠女性でも他母神でもない。
「植物」の姿をかたどっている。
縄文人の生命を育んでいた主要な食用植物たちが土偶のモチーフに選ばれている。
土偶の造形はきわめて具体的で写実性に富むもの。
土偶の正体はまったく隠されておらず、常にわれわれの目の前にあった。

なぜ正体がわからなかったのか?
その植物に手と足が付いていたからである。

これは、「植物の人体化」と呼ばれる事象で、ギリシャ語で人間・形態を意味する。土偶に限らず、古代に制作されたフィギアを理解するうえで極めて重要な概念である。

土偶は読むことができる。文字のなかった縄文時代における神話表現の一様式なのである。
と、解説されています。

栗、ハマグリ、柿、トチノミ、稲、ヒエなど。当時、食料としていたものを大切にしていたことがうかがえます。


そして里芋が遮光器土偶として見られていたその理由も明確になりました。
里芋の全て、根、葉っぱが土偶にしるされていたことが分かりました。遮光土器サトイモ50



添付写真は、著者の引用した遮光土器の写真に解読内容を追加して見ました。
サトイモの精霊の身体を想像している。サトイモは地下で成長し、植え付けられた種イモから、親イモ、子イモ、孫イモと続き増殖している様子を見事に土偶に反映している。
この背景に、気づかなかったから、光線除けの眼鏡をかけていると勘違いされてきたことが分かります。

遮光土器土偶は頭部に親イモ、手足の子イモが配置、頭頂部に葉がスペード状の造形、子だねの芽、子イモを外した跡が大きな目のようになっていることが分かります。

この遮光器土偶はなぜ東北地方に多く発見されたか、サトイモを常食していた地域にかかわっていたことも理解できます。
さらに、土偶の年代とともに、サトイモに代わり稲(イネ)、稗(ヒエ)に置き換わってきたことも推察されています。


藤田 昇
2022/10/23

ほつま図表 天照神から神武天皇まで

ほつま図表 天照神から神武天皇まで
今回、地神5代と呼ばれている、ワカヒト・天照神―オシヒト・箱根神―ニニキネ・別雷神―ウツキネ・気比神―カモヒト・御祖天神―タケヒト・神武天皇の流れに絞って図表にしてみました。


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「ほつまつたえ」の文字の例です
48音で出来ています


追加の目次です。
目次
魏志倭人伝の卑弥呼(ひみこ)とはいったい誰だったのでしょう?
邪馬台国はどこだったのでしょうか。
古代遺跡・ホツマツタヱ・ミカサフミから宇宙・太陽・月・地球を読み解く


地神5代


「ホツマ」と「ヒミコ」と「コロナ」 秀真伝と魏志倭人伝と現代の闇

ホツマエッセイ  
「ホツマ」と「ヒミコ」と「コロナ」 秀真伝と魏志倭人伝と現代の闇


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目次
魏志倭人伝の卑弥呼(ひみこ)とはいったい誰だったのでしょう?
邪馬台国はどこだったのでしょうか。
古代遺跡・ホツマツタヱ・ミカサフミから宇宙・太陽・月・地球を読み解く



1.「ホツマ」とはホツマツタヱのこと
2. ホツマツタヱと魏志倭人伝
3.「ヒミコ」魏志倭人伝の卑弥呼という人物
3-1 魏志倭人伝に記載されている卑弥呼は
3-2 卑弥呼が登場した経緯
4 魏志倭人伝の倭国の乱れについて
4-1筑紫の乱れ
4-2 エミシ成敗
5 魏志倭人伝にある鬼道を占うについて
6. 倭国の文字について
7 卑弥呼亡き後について
8 コロナ禍


1. 「ホツマ」とはホツマツタヱのことで、正式な歴史書から葬られてしまっています。
ホツマツタヱとは、古事記・日本書紀以前にあった日本の最初の書物で、前半と後半に分かれています。
前半は、紀元前600年ごろ、神武天皇がクシミカタマ・ワニヒコにまとめさせたものです。
後半は、紀元後124年ごろ、景行天皇がミワノトミオオタタネコ・スエトシにまとめさせたものになります。

景行天皇が九州で背いたものを治めるため、6年間の歳月をかけて九州を一周して戻ってきたとき、大陸からの渡来勢力が浸透し始めていることを実感し、記録に残しておきたいと願い、帰朝次第まとめたものが、ホツマツタヱの後半部分になります。
途中、ヤツメ姫神の三根国・ミネコク(吉野ケ里)付近を足早に素通りしたことにも伺えます。
後の八女(ヤメ)地方になります。

2. ホツマツタヱと魏志倭人伝

魏志倭人伝に古代日本のことが書かれていることを多くの人は知っています。しかし、ホツマツタヱについては名前も知らず内容も知らず存在も知らない人が多いようです。魏志倭人伝の解読を困難にしているのは、古事記日本書紀以外には十分な照らし合わせが出来なかったからです。
魏志倭人伝をホツマツタヱの記述と照らし合わせてみると明確になってくることがわかってきました。

3. 「ヒミコ」魏志倭人伝の卑弥呼という人物

卑弥呼が誰のことか謎になっていましたが、個人名という思い込みを取り除き、今でいう肩書・役職名であったと見直したところ、疑いもなく一気に解明できました。
そのために、一旦、卑弥呼という難解な漢字を、カナ文字に書き直して見ます。

「卑弥呼」―「ヒミコ」―「ヒ」・「ミコ」―「ヒのミコ」であることが向こうから呼びかけています。漢文で所有格の「の」は表示していないからです。
「ヒ」とは、「日」であり「天照神」を示していることが分かります。「ミコ」とは、皇女・巫女につながります。「天照神の御霊をお守りする」ということを示しています。

3-1 魏志倭人伝に記載されている卑弥呼は

  ホツマツタヱと照らし合わせると、景行天皇の義理のお姉さんにあたるヤマト姫ヨシコであることが分かります。ヤマト姫ヨシコは御杖代(ミツエシロ)という名前も持ち合わせています。

3-2 卑弥呼が登場した経緯

  景行天皇の2代前の崇神天皇のときに、疫病がまん延して国民の半数が亡くなるという悲惨な出来事がありました。崇神天皇は神への崇(あが)め方が足りないと、娘のトヨスキ姫に天照神の御霊を笠縫に祀らせ、ヌナギ姫には大国玉の御霊を山辺の里に祀らせました。

天照神の御霊を祀っていたトヨスキ姫が103歳になったとき、11歳になったヤマト姫ヨシコが2代目の御杖代に引き継ぎます。魏志倭人伝で取り上げた卑弥呼になります。

4 魏志倭人伝の倭国の乱れについて
 
4-1筑紫の乱れ

 景行天皇が九州・筑紫(つくし)のクマソ(熊襲)が背いて、貢物せず、御狩りを乞で背いたものを治めるため、九州一周し、6年以上かけました。この間、留守を守っていた人がいます。ホツマツタヱには記載はないが、兄のイソギネ・ニシキイリヒコであり、ヤマト姫ヨシコであったかも知れません。

更に、帰国後、再びクマソが乱れ、息子のコウス皇子を派遣します。クマソタケルを討ち取り、タケルの名前を引き継ぐよう願われ、以後、コウス皇子はヤマトタケと名乗ることになります。

4-2 エミシ成敗

落ち着く間もなく、今度は酒折(山梨)のタケヒテルがエミシが荒らして困るのでと助けを求めに来ました。
コウス皇子(ヤマトタケ)は、筑紫から帰り、落ち着く間もなく、エミシ成敗に向かいます。
このとき、ヤマト姫ヨシコの元へ立ち寄り、神器を受け取り、ムラクモ剣を受け取りエミシ成敗に向かいます。
 これらの出来事を、魏志倭人伝で「倭国乱れ」という表現をしています。

5 魏志倭人伝にある鬼道を占うについて

鬼道を「キドウ」と音読みするのが、一般的ですが、当時、漢字のなかった日本では「キミチ」と訓読みされていたものを、「鬼道」という鬼という文字を当てはめていたものと考えられます。

黄道(太陽の運行の道)が、元の意味であったものと取れます。当時、太陽の運行や、天体の動きを計測していたことが、ホツマツタヱと対をなしているミカサフミの中のタカマル綾からも分かります。

景行天皇のお兄さんのイソギネ・ニシキイリヒコが日置の測量(北緯34度32分を一直線に)により、天体観測から地球の大きさを測定していたと思われます。想像を絶する正確さに驚きます。これらの宇宙観を正しく評価できなかったのではと思います。
奈良県橿原市益田山船山遺跡などでも計測していたことが分かります。

6. 倭国の文字について

 魏志倭人伝に「差錯」(ささく)という文字があると読めます。ホツマツタヱに使用していた48音の「オシデ文字」であると思われます。
漢字と違い表音文字でしたから、漢字文化から見ると発音記号のように見なしていたと推測されます。発音できても、意味が分からず、自分たちが判断した漢字を当てはめたと考えられます。
後に、渡来してきたとき漢字以外は読めずに、この「オシデ文字」に取り組まずに、自分たちの漢字を押し広めたものと考えられます。

7 卑弥呼亡き後について

卑弥呼、ヤマト姫ヨシコが108歳になったとき、14歳になったイモノメクスコに引き継ぎ、自らは引退しました。
魏志倭人伝では13歳の壱与(イヨ)を立てたとある。
後のイツキノミヤ(斎宮)というところになります。

8 コロナ禍

いつの世も、歴史は勝者の歴史です。後の権力者にとって、不都合なことが含まれていたホツマツタヱはすべて抹殺されました。

大陸から、仏教とともに渡来し、漢字文化が広がり、古事記(新羅系高官)日本書紀(百済系高官)を完成し、日本最古の文字書物になりました。ホツマツタヱの記述を抜粋し、都合の悪いところを神話化したのは、聖徳太子の時代のことと考えられ、今でも多くの人は、それ以前の昔の日本に文字はなかったと信じられています。

ホツマツタエも2千年後に、発見解読され、閉ざされていた世界が今現在、開かれています。

コロナ禍の現在、情報を受けるだけに終わってしまうと、ウラの世界の陰謀・闇の世界で行われていることは知らされず、知らないままになります。知ろうともしない人も見受けられます。

本当に知らなければならないことを、TV・新聞などのマスコミは取り上げていない。取り上げられないと思われるからです。気が付いた人が情報発信しても、消されていることも見受けられているようです。

家畜化されることの無いように気を付けていきましょう!

新しい世界が生まれ、本当のことが表に出てくる時が来るときまで!

上記は2022/4/25 ブログネーム・ジョンレノ・ホツマが、ノホホンの会に投稿しものです。
以上
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